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アメリカ大統領選
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Twitterを始めました。https://twitter.com/huckleberry2008これまでTwitterの悪口をさんざん書いてきたけれど、Twitterからはうんともすんとも反応がなかったので、とりあえず自分で始めてみてTwitterの感触を確かめることにしました。そのために半年間ROMしました。といっても、Twitterを始めたのは村上隆さんの『芸術闘争論』を読んだからだ。ぼくはこれにかなりインスパイアされた。例えばこの本にはこういう言葉がある。自分の手に持っている職で金を儲けるには種も仕掛けもない。自分の持つ正義への忠誠心に忠実に生き、こつこつとモノを創造し、社会に問い、そしてその問いかけに対しての評価が下る。良い時も悪い時も、自分の正義に忠実であってそれが社会から信用を勝ち得た瞬間しか儲けを手に入れることはできません。あるいはこんな言葉も。 芸術家の勝ちは死後、作品に
『ダークナイト ライジング』を見てきた。このエントリーはそのネタバレを若干含んだ批評です。 まだ一回しか見ていないが、一回見て(あるいは見ている最中から)思ったのは「情報量が多い」ということだ。これは、ここ数年のコンテンツ業界の全体的な潮流でもある。今は情報量が多くないとなかなか売れない。なぜなら、消費の敷居が下がった(映画は、一旦パッケージ化されるといつでもどこでも何度でも見ることができる)ので、情報量が少ないとすぐ飽きられてしまうのだ。だから、飽きられないように情報量をどんどん増やしていく必要が生じた。同じような事例を挙げると、AKB48とか『めだかボックス』などもそうなっている。『ダークナイト ライジング』のような情報量の多いコンテンツは、「一回じゃよく分からなかったからもう一回見てみよう」というリピーターを生み出す。そういう忠誠度の高い客をどれだけ作れるかが、現代のコンテンツ産業の
この記事には映画『おおかみこどもの雨と雪』についてのネタバレが含まれます。 先日、『おおかみこどもの雨と雪』を見て、その批評をブログに書いた。すると、概ね好評を得たのだけれど、一部からは強い反発も受けた。そこで、反発をしてきた人々を子細に観察してみると、そこにある共通項が浮かび上がってきた。それは、映画の中に描かれているある重要な「問いかけ」を、すっぽりと見逃しているということだ。その重要な問いかけとは、「おおかみこどもは人間ではないのか?」というものだ。それが、すっぽりと欠落しているのである。ぼくの批評に反発をした人々は、おおかみこどもを初めから「人間ではない」と見ていた。そしてそのことを、ファンタジー(SF)の一つのお約束であるかのように捉えていた。それは、例えば以下のような文面に表れる。 不自然なのはおおかみこどもという設定だけで、しかしその設定を公理として受け入れたら、あとはものご
先日、『おおかみこどもの雨と雪』の批評を書いたら、一部の人々から「またデタラメなこと書きやがって!」とブコメやTwitterで非難された。その人たちにはいくつかの共通項があって、「1.アニメ好き」「2.ハックルが嫌い」「3.20代から30代の男性」「4.『おおかみこどもの雨と雪』を見てとてもとても感動した!」ということなのだけれど、一夜明けて女性のアニメ好きの人たちから『おおかみこどもの雨と雪』はあまり面白くなかったという評価がぽつぽつ聞こえるようになると、とたんに気勢をそがれて元気がなくなっているのが面白かった。それで、その人たちが慌てて自分の周囲を見回して、ハックルを非難している人たちの属性をあらためて確認してみると、そこにもう一つ「非モテ」という属性が加えられていることを知り、さらに意気消沈して非常にがっかりしていた。特にTwitterでは、月曜日にはあれほど元気だったのがみるみる萎
このエントリーは映画『おおかみこどもの雨と雪』のネタバレで構成されています。 Rootport氏が『おおかみこどもの雨と雪』についての「感想」を書いていたので、それについての意見を書きます。映画『おおかみこどもの雨と雪』の母性信仰/子育ては1人では出来ません - デマこいてんじゃねえ! 女は生まれながらに母性を発揮し、子供ができたら自動的に母親になる――この映画の根底に流れているのは、そういう母性信仰だ。これは単純に違うと思う。なぜなら、この映画で母親は最後、子供たちに懲らしめられる(詳しくは「昨日の記事」参照)。だから、「生まれながらに母性を発揮し、子供ができたら自動的に母親になる」ようなことを「信仰」していない。むしろ「批判」しているのだ。 たとえば、この映画では「産む決断」が描かれていない。「つわりのシーン → 病院の前で立ちすくむヒロイン → 図書館で出産・育児の本を集めるヒロイン
このエントリーはほぼネタバレで構成されています。 映画のどこをどう読むか (ジブリLibrary―映画理解学入門)作者: ドナルドリチー,Donald Richie,三木宮彦,司馬叡三出版社/メーカー: スタジオジブリ発売日: 2006/01メディア: 単行本クリック: 3回この商品を含むブログ (3件) を見る映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで (映画秘宝COLLECTION)作者: 町山智浩出版社/メーカー: 洋泉社発売日: 2002/08メディア: 単行本購入: 194人 クリック: 6,106回この商品を含むブログ (169件) を見る 見終わって最初に思ったのは、「消化不良の映画だ」ということだ。とらえにくい。もやもやが残る。なぜもやもやが残るかというと、カタルシスがないからだ。映画を見終わった後、なんとも言えない胃のもたれが残る。小骨がいつまで
清水さんが、自身のブログでiPhoneのデザインの美点について説明しようとしているけど、結局のところ彼は、「これは説明できないもの」という結論ありきで論を進めているので、惜しいかないいところまでは肉薄しているけど(そのための努力を相当払っているというのは初めて知った)、しかし最後の壁が乗り越えられないでいる。最後の壁を乗り越えた人にとっては、iPhoneの良さは自明であり、それは言わずもがなだから思わず「説明するまでもない」とも思っちゃうんだけれども、しかしこれはけっして説明不可能なことではない。理解できる人は、その人の中でも、ちゃんと論理的に価値の解釈や処理が行われているのだ。デザイン、ファーストクラス、クオリア、ゲーテ - UEI/ARC shi3zの日記 そこでここでは、iPhoneのデザインの素晴らしさを論理的に、なるべく端的に説明することにトライしてみる。想定読者は清水さんだ。清
まずサイゾーが、「同性愛は6兆円市場?IBMも積極的にホモ採用のワケ(1/4) - 日刊サイゾー」という記事を書いた。それに対し、とある人がこういう記事を書いた。「株式会社サイゾーに抗議します!「ホモ採用」 「ホモ」とは何でしょうか、「ホモ」とは? « あの女(ひと)の器」。するとやまもといちろう氏が、「ホモというのは別に差別ではないのでは?」と自身のブログ記事「ホモがサイゾーに抗議している件で(追記あり)(さらに追記あり): やまもといちろうBLOG(ブログ)」で疑問を呈した。それに対して、サイゾーへの抗議記事を書いた人から、そもそもホモという言葉自体に揶揄するような意味合いもあるのだが、サイゾーはそれを殊更に取り上げることで差別的な意味合いをそこに含ませたという趣旨の指摘をした。それを受けて、やまもといちろう氏は記事の追記で、そういう意味合いがあるとは知らなかったと述べている。 これを
今度、ゲームの開発者のカンファランスで講演をすることになった。するとTwitterで実名で「岩崎夏海には来てほしくない」と呟く人が何人かいて、ゲーム業界はそういうことを平気でする人が生息しているところなのかとちょっとギョッとしたけれども、まあ現代ではそういうこともあるかと気を取り直して何を話そうかと考えて、とりあえず「ゲームとは何か?」を考えてみた。「○○とは何か?」と考える時に、ぼくだけではなく多くの人がよく取る手法はまずその起源を辿るということなのだけれど、ゲームの起源を辿っていくとだいたい最終的に辿り着くのがバックギャモンである。バックギャモンは、2000年前にカエサルも遊んでいたとされ、よく「世界最古」のゲームといわれたりする。そこで、今度は「バックギャモンとはどういうゲームか?」と考えると、これは一言でいうなら「陣取りゲーム」だ。と、ここまで考えてハッと思いついたのだけれど、「ゲ
ぼくはブログを書いていると時々本当に読んでいる身近な方から「なぜブログを書くのですか? ハックルさんは作家だからそれは商品をただで提供することにはならないのですか?」と問われるけど、ぼくのブログは割と本気で全然誰も読んでいないので、何を書こうと自由なのです。誤字脱字も自由。それでぼくの作家としての評価が毀損されるということは丸出梨世で、その代わり評価が高まるということもまたないので、本当に気が楽なのです。特にぼくのブログは宣伝効果がほぼないということが割とはっきりしてきたので、宣伝を入れるとますます書くことが自由になる。その昔、自殺しようとした時に今生の思い出にと多摩クリスタルに行った話も勇気を振り絞って書いてみたけれど、割とスルーされたのでした。その分、話題になるのは子育ての考え方について疑義を唱えたりネット民の既得権益について何か抵触するようなことを書いた時だけ一瞬夏の夜の花火のように
放送作家という職業で今起こっていることは、なかなかに興味深い。ぼくの妻はお笑いの卵をやっていて、友人に何人か放送作家の卵がいて、一緒にライブをやったり動画を放送したりしているのだけれど、しかしなかなかビジネスに結びつかなくて貧乏から脱せられていないらしい。アニメの業界でも見た目の華やかさとは逆に内実はお金がないので大変だという記事があったけれど、それを読んだら放送作家業界も似たようなものだというのを思い出した。アニメ制作会社を辞めました放送作家という職業で今起こっていることは、格差社会の進行だ。番組の予算が少なくなって、放送作家に支払われるギャラも比例して少なくなっているのだけれど、そうなると放送作家全員が一律で低くなるというわけではなくて、雇われる人数が絞られることになる。それまでは10人雇っていた放送作家を、いきなり7人回顧して3人にまで減らすとか、そういう規模で淘汰が行われている。そ
今夜8時、NHK教育テレビの番組「ハートネットTV」に出演するのだけれど、収録では時間がなくて言えなかったことを、ここに書こうと思う。NHK福祉ポータル ハートネット VTRに登場した有馬圭太朗くんは、なかなか面白い子だった。何が面白いかというと、一つには詩がとても上手だということ。もう一つは、公共心があるということだ。圭太朗くんは、明るく気さくな少年で、周囲の人と仲良くするのがとても得意だった。それだけではない。場にとけ込むのがとても上手いのだ。例えば、圭太朗くんはよく両親が経営する美容院に遊びいくらしいのだが、そこへ行った際には、自ら掃除を買って出ていた。また、それが終わるとくだけた調子で「まだ何か他に手伝うことはないの?」と聞いている。そういうふうに、仕事を買って出ることで自分の居場所を上手い具合に作り出しているのである。そのうえで、圭太朗くんは店員さんやお客さんに気さくに話しかけて
NHKが主催しているハート展というイベントに絵を出展させて頂きました。「NHKハート展」は、詩とアートを組み合わせた展覧会です。この展覧会は、障害のある方もない方も、互いに理解しあい「ともに生きる社会」の実現を目指し、NHK福祉キャンペーン「NHKハートプロジェクト」の一環として実施します。17回目を迎える今回は、5,680編もの詩の応募をいただきました。どの詩にも喜びや悲しみ、あるいは障害をまっすぐに見つめた気持ちがつづられ、味わうほどに「やさしく」「せつなく」「あたたかく」心に語り響きます。ひたむきな思いが込められたひとつひとつの詩と真摯に向き合い選考した結果、ここに50編の詩をご紹介することになりました。これらの詩に託された思いを、ボランティアでご参加いただいた各界の著名人やアーティストの方々が、ハートをモチーフに大切に表現してくださいました。50の詩と50のアートが響きあって美しい
神話学者のジョゼフ・キャンベルは、世界中の神話を収集して、その中の共通の構造や結構(起承転結)を見出し、いわゆる一つの神話元型をえぐり出した。ジョージ・ルーカスは、そのキャンベルの本を読んで、『スター・ウォーズ』を編み出したとされる。ぼくは、その『スター・ウォーズ』のエピソード4を見て、強烈なインスパイアを受けた。「ぼくの作りたい物語はこれだ!」それで、エピソード4の何が素晴らしいかを考え始めた。それを見出し、作中に取り入れることができれば、ぼくもエピソード4みたいな物語が作れるのではないかと考えたからだ。すると、以下の3つの要素が考えられた。 1.長大な物語の一部となっていることエピソード4は、何しろエピソード「4」である。その前にも「1」「2」「3」という物語はある(ことが暗示されているし)、その後に「6」「7」という物語が続くということも、映画を見終わった後に予感される。その肝となる
ぼくが放送作家に成り立ての頃、聞けばなんでも教えてくれる先輩がいた。仕事のやり方、営業の仕方、業界のしきたり、テレビマンという職業の習性、求められるキャラクター、さらには、女の子との仲良くなり方まで。あるいは、ネタの作り方や企画の出し方なんかも教えてくれた。「若手はとにかく根性を見せないといけないから、ネタ出せと言われたらすぐ出さなきゃいけないんだけど、あまり早すぎてもなめられるんで、翌日の朝4時にファックスしろ。なぜ4時かというと、その時間に仕事を頑張っているというのは印象が良い。てっぺん付近(午前零時頃)は、仕事か遊びで忙しくしているイメージを作るために、あえて連絡の取れない場所にいろ」とか。後は、「遊びの金は惜しむな」とか。企画会議でネタを提案した時、「近頃○○という店が流行っているらしいんですけど——」と言うのと、「近頃○○という店に行ってきたんですけど——」だったら、絶対に後者の
最近、ブロゴスに転載されるかされないかの基準が、ちょっとだけ分かった。それは、記事で宣伝をしているかどうかだ。宣伝をすると転載されないが、宣伝をしないと転載される。なので、転載されたくない記事については、これから積極的に記事中で宣伝をしていこうと思う。この記事については、ブロゴスには転載されたくないので後で広告が出てきます。 ところで、先日「面白さを決めるのは読者ではない」という記事を書いたら、読んだ人の評価が真っ二つに分かれていて面白かった。ぼくの意見に賛同してくれた人もいれば、真っ向から反対であったり、「何を言っているか全く分からない」という人もいたようだ。反対の人の代表的な意見というのは、ブロゴスに書き込まれた以下のコメントに集約されていると思う。 面白さ、というのは主観的な作用なのだから、情報の受け手しか判断できない。逆にいえば、絶対的に面白いもの、なぞ世の中に存在しない。みんなが
「週刊アスキー」の読者がTwitter上でこの雑誌は面白くないとつぶやいたら、同雑誌の編集者の人が「面白いか面白くないか決めるのはアナタではありません」と反論した。すると、その当の読者やそれを見ていた第三者の間から、「面白いか面白くないのを決めるのは読者だ!」ということを言い出す人がたくさん現れて、話題になっている。 週刊アスキーの人に本の面白さを決めるのはお前じゃないと言われちゃった - Togetter ここで一つはっきりさせておきたいのは、「面白さを決めるのは読者ではない」ということだ。これはもう、反論どころか議論の余地さえない既成事実である。では、「面白さを決めるのは作者か?」というと、それも違う。実は、そのどちらでもないのである。それ(面白さ)は、この世にすでにもともと存在している、先天的なものなのだ。この世には、ピタゴラスの定理みたいに「面白さの公式」というのがあらかじめ在って
最近、子育てに「しんどさ」を感じる人がいて、いろいろ問題になっているようだ。参考:しんどいよな|くわばたりえオフィシャルブログ「やせる思い」 by Ameba ところで、子育てに「しんどさ」を感じる人に対してぼくが言えることがあるとすれば、それは「自分の感覚を疑ってみよう」ということだ。「しんどく思う自分自身に、何か問題があるのではないか?」という問い立てをしてみよう――ということだ。こう書くと、とたんに「そういう言説が母親を追い込むんだ!」などと口角泡を飛ばして反論する人がいるけれども、ぼくが言いたいのはそういうことではない。つまり、子育てをしんどく思うことを道徳的にとか常識的に云々したいわけではなくて、まず、しんどく思うその心のメカニズムを考えてみましょうよ、ということなのである。 ここで、しんどく思う心のメカニズムを考えてみる。人間がしんどく思う時って、一体どういう時だろう? 結論か
今週の『FRIDAY』の報道(「宇宙飛行士・星出《彰彦》と『もしドラ』岩崎《夏海》は「同級生」)におけるぼくの発言は、確かにぼくが口外あるいは事実確認したものではあるかもしれませんが、その場限りのリップサービスを含んだ、数多くの誇張がなされた発言であることをお含み置きください。けっして、茗渓学園や同級生に対する悪意や恨みはみじんもありません。 http://www.bitway.ne.jp/kodansha/friday/scoopengine/ FRIDAY フライデー 2012年7月13日号作者: 講談社発売日: 2012メディア: 雑誌この商品を含むブログ (1件) を見る 尚、当人の公式発表は7月7日発売予定の『宇宙って面白いの?』に掲載されており、発売日以降、書店にてご確認いただけます。宇宙って面白いの?作者: 岩崎夏海,星出彰彦出版社/メーカー: 講談社発売日: 2012/07
日経新聞が、電子版の記事で「ソニー、アップルに楽曲配信」と報じているが、これは本文を読んでみると、iTunesストアの販売ではなく専用アプリでのダウンロードを開始しただけ、というのが分かる。長い間の懸案となっている「iTunesストアへの無配信」が解消されたわけではないのだ。ソニー、アップルに楽曲配信 販売増へ戦略転換 :日本経済新聞日経の釣り記事「ソニー、アップルに楽曲配信 販売増へ戦略転換」まとめ - Togetterつまり、いわゆる一つの釣り記事なのだが、日経新聞はここのところ、こうした釣り記事を連発して評判となっている。特に、任天堂についての記事では、任天堂の社長や広報から何度も名指しでデタラメだと指摘されるなど、問題視されていた。ニュースリリース : 2012年6月5日Twitter / Nintendo: [岩田]ところで、月ところで、なぜ日経新聞がこのような釣り記事を書くよ
ぼくは、作家としてデビューする前にまずネットの世界で有名になった。まだ本が出る前のこと、たまたま株式会社はてなとは比べものにならないくらい大きくて有名な、某ネット企業の社員の方々と食事をする機会があったのだけれど、そこで先方にいたく感激されたことがあった。「あの有名なハックルさんに会えるなんて光栄です」と。それで、「ぼくのことなんて知ってるんですか?」と聞くと、「ネットの会社に勤めてて知らない人はいないんじゃないですかね」と返されて、そういうものかと思った。ところで、当たり前の話だけれど、だからといってぼくが一般的にも有名人だったというわけでは全然ない。ぼくのブログを読んだことのある人は、リアルでは滅多に会う機会がなかった。100人会って1人いればいい方だった。みんな、ぼくのブログを読んだことはもちろんハックルという名前すら聞いたことがなかった。ネット以外のIT企業に勤めている人すらほとん
こちらのブログ記事を読みました。佐藤秀峰 日記 | 漫画 on Webマンガ家佐藤秀峰さんの友だちが、原稿料を7千円に減らされて、食べていくのもかつかつの状況になり、「このままではもうマンガ家という職業は成り立たないのでは?」という問題に直面しました。そこで佐藤秀峰さんは、マンガ家という職業を存続させるために、7千円の原稿料でも食べていけるよう、「制作費のコストカットは如何にすれば実現できるか」ということを考えています。しかし、これは率直に申しあげてあまり良い考え方ではありません。経営者は、利益を確保しようとするとすぐ「コストをいかに減らすか」という方向に議論を展開しがちなのですが、コストカットや価格競争は負のスパイラルに陥ってしまって、最後は必ず衰退の憂き目を見るのでいいことはありません。だから、もしこの先もマンガ家という職業を継続していこうとするのならば、「いかに制作費を減らすか?」で
昔、今村昌平監督の撮った映画『楢山節考』を見た時、意味がよく分からなかった。「なぜお年寄りは自分で死を選ぶのか?」ぼくなら単純に抵抗するのにと思った。石にかじりついてでも、あるいは村から逃げてでも生きるのにと思った。その時は、自ら捨てられることを選択する老婆の気持ちが分からなかった。映画の見方が浅かったのかもしれない。今なら分かる。今なら、老婆が自ら死を選ぶ気持ちはよく分かる。では、なぜ彼女は死を選ぶか? それは、生きているのがつらいからだ。何がつらいか? 社会の善意が苦しいのである。人々の善意が、彼女を殺すのだ。 これは伝聞であることをあらかじめお断りしておくが、福島原発付近の避難区域に住んでいた人たちは、避難所の仮設住宅に暮らしながら、生活費は国や東電の支給するお金でまかなっているらしい。彼らに対して、月々定期的にお金が支給されているのである。それはそれで、もちろん何の問題もないのだが
『チャボとウサギの事件』について、A-kiyamaさんがTwitter上で言及してくれているので、ご返答したいと思います。本屋にハックルさんの新作買いにきたらハックルさんの名前が思い出せない2012年6月25日 - 12:46https://twitter.com/A_kiyama/status/217101502127411200岩崎夏海です。 あったあった、文芸のコーナーにないと思ったらエンタメのところにあって、ハードカバーで探してたらペーパーバックだった2012年6月25日 - 12:51https://twitter.com/A_kiyama/status/217102611961221120プロダクトとしてのケレン味を追求したら、ペーパーバックになりました。イメージとして模したのは、もちろん海外の小説ですが、日本だと、暮しの手帖社から出ている『アラバマ物語』を意識しました。これが
片岡Kさんという方が、コラージュして作られた女子高生のパンチラ画像をTwitterで多くの人々に流布させた(あるいは閲覧を促した)。そると、それに対して、それはコラージュ画像(コラ)で、当該女子高生を不当に貶め、また辱めているものだから、ネットで流布させてはいけませんよ、とクレームをつける人が現れた。すると片岡Kさんは、これがコラかどうかは見た人が判断するべき問題で、コラだと気づけなかった人は単にリテラシーが低いだけでその人の責任だと言い、またそういうクレームをつけた人に対しては、おれがこの画像をコラージュしたわけじゃないからおれに非はない。非のない人に文句をつけるのはルサンチマンだと言い返して、ちょっとした炎上状態になっている。直近のツイートでは、Twitterで文句を言われるのにちょっと疲れてしまったので、小休止するという旨の宣言されているが、反省や謝罪の弁はまだない。詳細はこちら。「
音楽業界はなぜ縮小したか? を文系的に考察する。 「生活必需品としての価値の下落」音楽業界が産業として最も大きくなったのは(最も売上が高かったのは)1990年代半ばから後半にかけてとのことで、その当時ぼくは20代の若者だった。その頃のぼくの気分というものを振り返ると、CDを買って聞いていないと、ちょっと人間関係的にヤバいなぁみたいな雰囲気があった。というのも、一つには「つき合いのカラオケ」というのがあった。ぼくは特段カラオケが好きというわけではなかったが、仕事のつき合いでも、あるいはプライベートの合コンなどでも、カラオケに行く機会はよくあった。だから、そこで歌うための歌を仕込んでおく必要があった。そしてそれは、できれば流行りの歌が良かった。最新ヒットチャートを賑わしている歌を歌えば、周囲の評価が高かったからだ。だから、カラオケで歌うためのヒット曲のCDをよく買った。その頃に買ったのは、猿岩
昨日、『チャボとウサギの事件』は結局認められないだろうという悲観的なエントリーを書いたら、早速、それを証明するかのようなエントリーがあがった。 “現代の神話”だって…とほほ - 硬骨魚のダイアリー「硬骨ブログ」 ここで、評者のkotiqsai氏は、いわゆる純文学ファンの立場から、ぼくの書いた小説『チャボとウサギの事件』を評してこう書いている。なにが悪いかをいちいち羅列し咎めてみてもはじまらないのだが、いずれにせよこんなの小学生の日常でも生活意識でもない。 上記の文言は、簡単に言うと「主人公の小学生に起こるエピソードやその考え方にリアリティがない」というような意味である。しかしこれこそが、ぼくがまさに昨日のエントリーで指摘した、「セザンヌの絵を指さして『遠近法ができていない』とあざ笑うこと」のような行為なのである。無粋を承知で言うのだが、ぼくだって遠近法くらい描ける――つまり、kotiqsa
ぼくには、いつだって「世間からは認められないだろう」という思いがある。それは今だってある。ドラッカーは「顧客からスタートしろ」と言った。それは分かる。芸術でも何でも、他者に認められて初めて価値がある。しかしながら、こと芸術に限っていえば、そこに一つだけ問題がある。というのは、すぐれた芸術――後世に残るような芸術というのは、えてして「同時代人には認められない」という現象があるのだ。 その例には枚挙にいとまがない。ソクラテス、ゴッホ、カフカ、宮沢賢治。中でも、最も象徴的な例として、セザンヌを挙げることができる。セザンヌは、絵画というものを突き詰めていく中で、やがて「絵の面白さとは写実性にではなく、ある種の心象風景のように、ちょっと歪んだものの中にこそ宿る」と考え、あえて遠近法に則らない描き方で絵を描いた。遠くのものを大きく描き、手前のものを小さく描いたのだ。すると、その評価は散々なものだった。
今日、ぼくの書いた新しい小説、『チャボとウサギの事件』が文藝春秋社から発売されました。そのインタビューが、文藝春秋社のサイト『本の話WEB』に掲載されているので、よければ読んでみてください。『チャボとウサギの事件』 (岩崎夏海 著) | 著者インタビュー 小説を読まない人に伝えたい「物語の力」 - 本の話WEB そこで今日は、この本の表紙絵のお話しをしたいと思います。表紙の絵は、イラストレーターの影山徹さんに、ぼくの希望で描いて頂きました。というのは、ぼくは影山さんの描く本の表紙絵が大好きだからです。中でも取り分け、『十五少年漂流記』の表紙が大好きなのです。十五少年漂流記 (新潮文庫)作者: ジュール・ヴェルヌ,波多野完治出版社/メーカー: 新潮社発売日: 1951/11メディア: 文庫購入: 6人 クリック: 66回この商品を含むブログ (38件) を見る 10年くらい前でしょうか、ぼく
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