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ドラクエ3
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いまから30年前、ハインリヒ・フォン・クライストの生誕200年を記念して、アメリカ、ドイツ、中南米、アジアの製作チームがそれぞれ『ミヒャエル・コールハースの運命』を映画化する企画があった。アメリカ版はすでに完成している。ドイツ版は、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーを中心に撮影に入っている。中南米版はメキシコで作る。アジア版は、金芝河を中心に製作する予定だったが、韓国政府による例の逮捕・投獄事件があったために、日本で作ることになった。それには有名な国際派女優が出演し、『万延元年のフットボール』の作者も、シナリオ作りに参加していたらしい…… 臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ作者: 大江健三郎出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2007/11メディア: 単行本購入: 4人 クリック: 32回この商品を含むブログ (54件) を見るというのは、大江健三郎の最新小説で中心的出来事となっ
シノドス > メールマガジン「αシノドス」以前に予告(http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20080510/p1)していましたが、熊野大学に行ってきました。そのレポートを「αシノドス」vol.10に書いたので、こちらにも転載します。 熊野大学(http://www.kumanodaigaku.net/index.html)とは、作家・中上健次(1946-1992)が、出身地の和歌山県新宮市に1990年創設した文化組織。大学といっても、校舎を構えた通常の大学ではなく、「だれでもいつでも入学でき、卒業は死ぬとき」。中上の早すぎた死後も志は受け継がれ、毎年、命日(8月12日)の前後に、中上健次とその作品を中心に語りあう合宿型のセミナーが開かれている。初期の記録は『中上健次と熊野』(大田出版)に収められた。2008年の今年は、中上の十七回忌にあたり、定員の60名を大幅
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays13.htmhttp://kamapat.seesaa.net/article/100520737.htmlhttp://kamapat.seesaa.net/article/100589547.html生田武志さんのサイトや釜パト活動日誌で、今度の釜ヶ崎暴動の詳細が報告されている。ことの発端は、次のような経緯だったという。 抗議活動を呼びかけた「釜ヶ崎地域合同労働組合・釜ヶ崎炊き出しの会」のビラによると、鶴見橋商店街のお好み焼き屋に行った労働者(生活保護受給ということなので、元労働者と言うべきか)が、店員の態度に苦情を言ったところ、店員は「営業妨害だ」と言って警察に電話した。労働者はパトカーの署員にいきさつを話したが、そのまま西成警察に連れて行かれた。パトカーに乗せられた労働者は西成警察署の個室に連れて行か
シノドス > メールマガジン「αシノドス」「αシノドス vol.4」配信 - 荻上式BLOG 「訳者解説」からの転載です。これはChantal Mouffeのインタビュー記事"Articulated Power Relations -Markus Miessen in conversation with Chantal Mouffe"の翻訳です。オリジナルは"Roundtable: Research Architecture"(http://roundtable.kein.org/)というサイトに掲載された記事で、著作権者のMarkus Miessenに許可を得て訳出しています。 シャンタル・ムフはベルギー出身、現在はウェストミンスター大学教授の政治学者。ラディカル・デモクラシー(根源的民主主義)論の代表的人物です。 民主主義とは何か。古代ギリシア以来、幾多の議論と実践が積み重ねられてきて
編集部の許可を得て、『αシノドス』vol.02に寄稿したマーサ・ヌスバウムのインタビュー記事「哲学と公共生活」(聞き手:ステリオス・ヴィルヴィダーキス)を転載します。訳者解説はこちらをご覧ください。『αシノドス』vol.2にヌスバウムの翻訳を寄稿しました - スマイル・トレーニング・センター ステリオス・ヴィルヴィダーキス: 哲学が、公共生活、教育、応用倫理学などでもっとアクティブな役割を演じる可能性について、どうお考えですか? マーサ・ヌスバウム: 多くの可能性があります。国によって本当に様々ですね。合衆国というのは、ある点では、哲学が公的な役割を演じるのにもっとも困難な場所です。なぜかというと、メディアが非常に扇情的で反知性的だからです。わたしがヨーロッパの国に行くと、大半が、合衆国よりもずっと新聞に記事を出しやすいんですね。『ニューヨーク・タイムズ』のオプエド欄*1はひどく程度が低く
現在、新書館が準備中の『ルイス・キャロル全集』に一訳者として参加することになりました。いまのところ未邦訳3作品の依頼を受けています。 内容としては、「作品全集」であることにとどまらず、別巻として、重要な手紙や日記なども収録する予定だそうです。ただ、必ずしも研究者向けといったものではなく、「読める全集」にするとのこと。キャロルの手紙は楽しいものが多いですからね〜。一読者としても刊行が楽しみです。 ただ、全集編纂は文化史的に重要な事業ですが、実際の作業は、大変なわりに日のあたりにくいものも多分に含まれるし(笑)、なかなか難しいところもあるようです。アリスものは誰もが知っている古典中の古典でしかもきわめてアクチュアルですが、他はそれほど有名ではありませんし……。もっともキャロルとアリス関連で、ティム・バートンとかスピルバーグとかマリリンマンソンの企画が現在進行中のようで、うまくいけば良いタイミン
シノドス > メールマガジン「αシノドス」「αシノドス」配信開始&トラックバックキャンペーン受付中! - 荻上式BLOG こちらの『αシノドス』創刊号に、リチャード・ローティによる「民主と哲学」の翻訳、訳注、訳者解説、関連サイト集を寄稿しました。記事の特長を説明した「訳者解説」の部分を転載します。 "Eurozine"(http://www.eurozine.com/)に掲載されているRichard Rortyによる'Democracy and philosophy'(http://www.eurozine.com/articles/2007-06-11-rorty-en.html)という記事の翻訳です。"Eurozine"というのは、ウィーンに拠点を持つヨーロッパ横断的な文化系の雑誌で、70からなる雑誌のEU的な連合とイメージすれば良いでしょう。この「民主と哲学」も、元は"Kritika
昨年物故したアメリカの哲学者リチャード・ローティが、1994年『ニューヨーク・タイムズ』に発表した「非愛国的なアカデミー」を、ざっとですが訳してみました。原文はネットで全文読めます。 The Unpatriotic Academy - New York Times 非愛国的なアカデミー 大半の人は、政府の臆病さや堕落ぶりに憤りを感じるであろうにも関わらず、また、もっとも弱きもの貧しきものに対して現になされつつあることに対する絶望感にも関わらず、それでも、自分達の国に一体感を持っている。自分達で創り出し、自分達で改良し、長く持続している立憲民主政治の市民であることに、誇りを持っている。アメリカ合衆国は、輝ける──たとえ色あせつつあるにしても──国民的伝統をもっているのだ、と思っている。 こういった原則に対する例外の多くは、大学でみられる。大学の中の学科は、左翼の政治的見地にとって、聖域とな
パラマウント製作"Alice in Wonderland"(1933)は、数多いアリスもの映画の中でも、最も出来の良い作品の一つ。アリス役は、シャーロット・ヘンリー。白のナイト役はゲイリー・クーパー、mock turtle役はケイリー・グラント、ハンプティ・ダンプティ役はW.C.フィールズ、そして「セイウチと大工」のアニメシーンはフライシャー・スタジオが手がける、といった具合に、当時のオールスターキャストで作られたもの。しかしどういうわけか、現在に至るも、DVDはおろかVHSでも出ていない。海外版すらない。YouTubeで断片がみられる程度、というのが現状だった*1。 ところが、そんな作品がなんとDailymotionで全編見られます!http://www.dailymotion.com/video/xu99h_alice-in-wonderland-1933-1_funhttp://ww
出版予定だった私のアリス新訳ですが、版元の夏目書房が倒産というか業務停止になってしまいました。まだ原稿は向こうにあずけたままです。いまはがっかりでちょっと気力が湧かないので、また落ち着いてから、善後策を考えたいと思います…… 追記:同じ夏目書房から少し前に出版された海月一彦さんからトラバいただきました!http://d.hatena.ne.jp/u_kazuhiko/20071129/1196334956ありがとうございます。海月さんも未だに公式の連絡はなく、また、売り上げ分の印税も支払われていないようです……。 私としては、今後のためにも、まず二校の段階で修正の入った原稿を受け取りたい。ただ、夏目さんには、無名の私の原稿で商業出版を約束いただいた感謝の思いもあるので複雑な心境です。いまは大変な時期でしょうし……
Wikipedia大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判 - Wikipedia裁判の模様はlovelovedogさんによる、こちらのまとめをご覧いただくのが良いかと。「沖縄集団自決訴訟」は、『沖縄ノート』の誤読に基づく、という説(罪の巨塊) - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記 2007年11月20日『朝日新聞』朝刊に、大江健三郎のエッセイ「定義集」が掲載された。「【人間をおとしめることについて】 「罪の巨塊」に込めた思い」、という見出し。lovelovedogさんのエントリを見てもわかる通り、「罪の巨塊」という語をめぐる解釈は、この裁判の大きな争点の一つとなっている。著者である大江がどのような意図で書いたのか、このエッセイに詳しい説明があったので引用する。 曽野氏の『ある神話の背景──沖縄・渡嘉敷島の集団自決』から直接写すと、こう書かれているのです。《大江健三郎氏は「沖縄ノート」の中で次
カネと暴力の系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)作者: 萱野稔人出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2006/11/16メディア: 単行本(ソフトカバー)最近、萱野稔人という人を知ったので(http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20070925/p1)、『カネと暴力の系譜学』を入手して読んでみたのですが、いやあ、ほんと驚いた。この手の本を読んで、久々に[これはすごい]と思った。文章が良い。明晰で、歯切れが良くて、力強い。なにより志が高い。今日日こんな真正面から国家論をやっている人がいるとは。暴力と国家といった議論自体は昔も今もあるけれども、ここまで根本的に考え構造的に書いてあるものを読むのは初めて。まったく考えたこともないような視座から思考が飛んでくる。『仁義なき戦い』や『ゴッドファーザー』を観ていて、単なるチンピラのお話以上の崇高な何かを感じる理由が、哲学的
まなめはうす★はてな村には寛容な人が多いのに ><http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20071010/p1(情報元:アルファブックマーカーの注目するエントリー) こういう話を聞くたびに、西尾維新のきみぼくを思い出す。個々は良いのに全体が悪くなる問題。例えば、奥さんの看病で会社を休んだために、仕事が失敗し会社が傾き顧客も損をし、顧客が海外だったりしたら国の信頼問題にまで発展するかもしれない。さて、悪かったのは何でしょう。 以前、まなめはうすさんから上のような言及があって、おもしろそうだから読んでみました。 で。いやあ、すごく面白かったですね。2003年の時点でこれを書いてたのかと。ライトノベルでこれほど感銘を受けたことはかつてありません。文章のリズムや引用・言及される作品もしっくりくるし。他の西尾作品も読んでみようかな。以下、読んで考えたことを少し書きますが、
id:idiotapeさんのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/idiotape/20071020/1192873365)を拝見して、自分もやってみたくなりました。 セルバンテス『ドン・キホーテ』スウィフト『ガリバー旅行記』ポー『モルグ街の殺人』キャロル『不思議の国のアリス』ナボコフ『ロリータ』フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』デュラス『モデラート・カンタービレ』モラヴィア『無関心な人びと』レム『ソラリスの陽のもとに』大江健三郎『万延元年のフットボール』 数年前ならドストエフスキー、トーマス・マン、カフカ、スタンダール、チェーホフなんかを入れたと思うんですが、どういうわけか今はちょっと気分が違う。特に、ポー、キャロル、ナボコフ、あとジョイスのラインが関心の中心になっていて。ただ『ユリシーズ』はまだ読みかけなので今回は外しました。また数年後には変わってるかもしれませ
何が良い音楽かをめぐって合意を得るのは難しい。しかし不快な音や騒音に対する賛同はずっと得やすい。何が美味かをめぐって合意を得るのは難しい。しかし牛肉が食べられなかったり、賞味期限が切れていたり、肉まんに段ボールが入っていたりいなかったりやっぱり入っていたりするかもしれない大変さについては、ずっと賛同を得やすい。新聞の一面を飾るのは、楽しいものより、[これはひどい]もの。 社会的に、ある程度の物質的豊かさが達成されると、価値観はぐっと多様化し、何が良いか幸せかは人それぞれになる。だから、貧・老・病・死、それから環境破壊といった、わかりやすくネガティブなものの方が、ずっと賛同を得やすい。「最大多数の最大幸福」より「最大多数の最小不幸」の方が、政治的メッセージとして力を得やすくなってきている。梅田望夫がいくらポジティブの呪文を唱えようと、この構図はそう簡単には変わらないだろう。ポジティブなはずの
前から「セカイ系」という話がぴんとこなくてこういうエントリ(碇シンジ=ハムレット説 - スマイル・トレーニング・センター)を書いたこともあったんですが、今回はもうちょっと考えてみようかと。「セカイ系」とされている特徴は次のような点だろう。 1. 世界の危機が描かれる。2. 個人的な悩みなり葛藤なりが丹念に描かれる。3. しかし両者をつなぐ中間項となるはずの社会があまり描かれない4. 卑小なもの(個人的な葛藤)と大いなるもの(世界の危機)が無媒介的に直結する想像力 このうち、1は「セカイ系」というくらいだから前提条件であって、特徴的なのは2〜4あたりになるのだろう。これが面白がられたりキモがられたりもう古いとか言われたりしていると。ただ、こういったのは、ある時代のオタク作品特有のものなんかじゃなくて、実は、日本近代文学の由緒正しき想像力につらなるものじゃないか。最近、ひっぱたかれたり何だりで
ナショナリズムは、排外的な時ほど高揚する。はてなの村意識にも、これに似たようなものがあるんじゃないかなあ。特に「はてなブックマーク」が批判される場合の論争なんかを見ていて、ときどきそう思っていました。 ただ、こう自分で書いておいてなんですが、いま改めて思うに、はてな村の方々は、個人個人ではそんなに排他的ではないんじゃないか、と。むしろその逆で、何かにつけ、多様な価値観を認める寛容な人が多い。特に声の大きいコメンテーターは。やあやあ、我こそがもっとも寛容なるブロガーであるぞ、お前は狭量だな、と競い合っているように見えることさえ。そういう印象が私にはあります。それなのに村だ村だと言ったり言われたり、魔女狩りだなんだと排外的な風に思ったり思われたりもする。これはなぜなんだろう、と。 最近、ブクマ論や無断リンク禁止関連のエントリのために、閉鎖したり更新停止になったりするはてなダイアリーをいくつか立
最近、雨宮処凛の作品をまとめて見ている。特に映画『新しい神様』はおもしろかったなあ。いや、作品として、というかドキュメンタリーとしては個人的にあまり評価できないし、好きでもないのだけど、片時も目が離せない力が画面にみなぎっているというか。新しい神様出版社/メーカー: アップリンク発売日: 2001/04/27メディア: DVDこの人は「属人論法」などという言葉が生ぬるく思えるくらい、あらゆる事象、特に社会問題を、個人の内面と関連付けて論じる。関連付けるというか、本当に直結している。そういうと、自分語りのオレオレというかワタクシな感じの人に思えるかもしれないが、実態はその真逆で、極度の自己評価の低さからくる、空虚な自己を埋めるための、社会への過剰なコミットメントというか……。そこにこの作家の魅力と危うさがある。 『新しい神様』を観ていておもしろいのは、もう10年くらい前から、「平和」を呪詛す
前から、『エヴァンゲリオン』が「セカイ系」だという話がぴんとこない。だってそれなりに「社会」も描いてるような。「社会」というか、「シャカイ」なんだろうけど。 エヴァンゲリオンが「セカイ系」とされる理由は、社会の描きこみが不足しているという点よりも、個人的・内面的なものが、世界の危機・この世の終わり的なものと直結する、という点なのだろう。「セカイ系」とは、そういう作品構造のことである、という話ならまあわかる。 しかし、そのような作品構造はそれほど特殊なものだろうか?いや、あれがあるじゃないですか、『ハムレット』が。碇シンジはハムレットなんじゃないかと。キャラクターやいろんなモチーフはけっこう重なるところがあると思う。あの優柔不断ぶり。オフィーリアとのわかりにくい関係。やりたくもない復讐をやらなくちゃならない。父・母への屈折しまくった思い……シンジ君のキャラは、嫌いな人には相当嫌われますが、ハ
「「丸山眞男」をひっぱたきたい」についての覚え書き - 吐息の日々〜労働日誌〜こちらのエントリを読んで、私はこういうブックマークコメントを書きました。 官僚答弁をきいたような気分になる(笑)。ただ、確かに改善されてきている面がないわけではない、という点は重要か。それでも厳しい現状は残っているし、20代の失われた10年がかえってくるわけではないのだが…… 確かに景気回復に伴い、フリーターにとっても、以前よりは状況がましになっている部分はあるのだろう(あまり身近で実感はないけど。)。その部分は大いに歓迎できるし、どんどん良くなってほしい。ほんとに(でもこれって持続するんですかね?)。 けれど、厳しい現状も残っている。新卒の人と同じ土俵で競わなければならないというような不条理感もある。新卒の奴らはずいぶんと恵まれていて良いですね、という怨恨も起こりうる。赤木論文的「年長フリーター」は、年はとって
集団、特にある種の社会運動が先鋭化すること*1、今風に言うと「集団分極化」、昔風に言うと「セクト主義」の問題を、寛容と非寛容の観点から考えてみる。先鋭化する集団は、非寛容な精神の持ち主が多いのか?結果だけを外から見ると、そういうことになる。しかしその集団に属する個人個人を見ると、往々にして、自分を寛容なタイプだと規定している。そもそもは、民主的で、開かれた対話を、といったような理念を掲げ、重視していたりする。にもかかわらず、結果として、先鋭化するのはなぜだろう? それは、寛容は非寛容に対して寛容であるべきか、という例のアポリアではないか。寛容を誇る人間の多くが、対話の相手にも同じような寛容を要求し、そのレベルの寛容を有しない非寛容な人間を受け入れることができない。寛容な人間は一面において頭が良かったりするから、非寛容な人間を馬鹿だとみなし、寛容に受け入れることができない。それによって、気の
赤木さんの本を出す理由 - 希望は、戦争?blog 〜「丸山眞男」をひっぱたきたい Returns〜双風舎谷川茂氏による「赤木さんの本を出す理由」というエントリですが、私も、赤木論文を一過性の雑誌掲載だけにとどめず、書籍化する意義は大きいと思います。出版されたら買うつもりです。 ただ、谷川氏のエントリを読んでいて気になる点があります。それは、やたらと「学者先生や院生さん」「マスコミ」の話ばかりが出てくることです。他の谷川氏のエントリやコメントもそうです。 しかし赤木論文を書籍化する一番の価値は、「学者先生や院生さん」よりも、普段『論座』なんか手に取らないであろう、フリーター、非正規雇用層に広く読まれる可能性ではないか。谷川氏自身、最初のエントリで、読者層をこう想定しています。 読者層 : 高校生以上の一般読者。とくに、20-40歳の非正規雇用層。論壇に関心のある一般読者と研究者など。赤木さ
■「真に有用な活動」とは何か? ──自己責任論をめぐって 現在、「自己責任」はいろいろな領域で議論される。 妥当なもの、不当なもの、いろいろあるだろう。 ここでは「自己責任論」が大きく注目を集めたイラク日本人人質事件(2004年)を振り返りたい。 あれが、現在の自己責任論の発祥だったからだ。 朝日新聞 Be 連載 あの時、「自己責任論」の一方の旗振り役をつとめたのは山形浩生だった。 上は朝日新聞に掲載された記事。 いま改めて読むと、いろいろな感慨がわいてくる。 まず基本。当然の話だけど、ほぼあらゆる活動には公私の役割分担がある。自分でできる部分は自分でやり、それを越える部分は社会全体でプールしたリソースで対応。それが多くの場面での社会の仕組みだ。公私の境界については諸説ある。でも個人が負担する責任があることは絶対否定できないんだよ。国民の多くはそれを知っている。ぼくたちパンピーは、現に自分
今は昔、『左翼がサヨクになるとき』(磯田光一,1986)という本があったとさ。島田雅彦のデビュー作『優しいサヨクのための嬉遊曲』に刺激をうけて書かれた面白い評論。この時は、「左翼」が「サヨク」と表記されることに批評的意味があった。左翼が時流からずれ、従来もっていたアウラを失い、滑稽にすらなってきた様をあらわすのに、適切なレッテルの張り替えだったのだ。 その後、特に小林よしのりがこの「サヨク」表記を好んで多用し、一般にもひろく定着した。ネット時代になり、「右翼」も「ウヨク」になった。 ネットがいっそう普及して、レッテルの張り替えは加速する。「サヨク」は、「サヨ」になり、「ネットサヨク」になり、「ブサヨ」にもなった。「ウヨク」は、「ウヨ」になり、「ネットウヨ」になり、「特定ウヨク」にもなった。ついでに「保守」も、「ホシュ」になったりした。例えば、小林よしのりと渡部昇一の『愛国対論』(2002)
ネット時代の煽動技法 - レジデント初期研修用資料 北村弁護士やマイク・グラベルの演説を分析した上のエントリが刺激的だった。medtoolz氏は、次の4つを歴代と違う「ネット時代の煽動技法」としてあげる。 北村弁護士とマイク・グラベル候補。2人の優れた煽動者が、歴代と異なっているのは以下の部分。 ・負けるのが前提の議論を展開していること ・自らの立ち位置を明らかにすること ・自らの履歴を矛盾なく説明できること ・伝わりやすい議論でなく、分かりやすい議論を行ったこと ネット時代の煽動技法 - レジデント初期研修用資料 ただ、ここであげられた4つそれぞれは、従来からある技法だとも思う。単独でとりあげるとちょっともとの文脈からずれるところもあるけれど、自分の関心に引き付けて、それぞれ見ていきます。 1. 負けるのが前提の議論を展開していること これは「負けるが勝ち」とか、「敗北主義」と呼ばれるも
ついに加藤一二三九段が千敗しましたね!なんと『朝日新聞』2007年8月24日(金)朝刊の「ひと」欄にもとりあげられていました。負けてこの欄に出る人はなかなかいないでしょう。 将棋の公式戦で1000敗を記録した元名人加藤一二三さん(67) 21歳の新鋭戸辺誠四段を相手に、現役生活54年目の元名人は闘志満々だった。22日の東京・将棋会館。中腰で全体重を乗せて「パチン」と駒を打ち下ろす。紅潮した顔は最善手を探し求める苦しさでゆがむ。敗れはしたが、この日記録した将棋・囲碁界初の千敗は半世紀以上の間第一線で活躍してきた証しだ。対局後「長年続けてこられたのは家族のお陰」と、別人のような愛敬ある笑顔を浮かべた。「将棋は芸術」が持論。「モーツァルトの曲のように、将棋もしっかりした解説があれば感動を与えられる」負けが込めば引退、の世界で対局数2262局は、故大山康晴十五世名人を上回る歴代最多。自身が選んだ「
どういうわけか、赤木論文を読むといろいろな思いが噴き出してくる。完成度が高いわけではない。論理的にも、現実的にも、おかしなところがある。学術的に、特別な新知見があるわけでもない。それでも、いろいろな思いや考えが噴き出してくる。というわけでも、今日も関連エントリを一つ。 MouRa|萱野稔人、国家|萱野稔人「交差する領域?<政事>の思考?」MouRa|萱野稔人、国家|萱野稔人「交差する領域?<政事>の思考?」最近知ったのですが、この萱野稔人というとびきりのイケメン学者さんは、自分の立場から、赤木論文と真摯に向き合っている。ここで私が注目したいのは、『論座』4月号に掲載された若松孝二の応答と、赤木論文(http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama2.html)の間でも言及され、萱野も取り上げている、2005-2006年にフランスでおこった「暴動」と「運動
90年代後半、宮台真司の言葉は女子高生に届いていたのか、それに対して小林よしのりの言葉は誰に届いていたのか、というのは再検討に値するテーマだと思う。学者先生や院生さん - スマイル・トレーニング・センター 前回こう書きましたが、これはけっこう重要な問題と思っていて、このエントリでは90年代後半の宮台真司のことを思い出してみる。 荻上:95年に神戸の地震、オウム、エヴァンゲリオンブームなどもありましたが、やはり「95年以降」で雰囲気が変わったというイメージですか? 宮台:そう。でも、そう思うようになったのは時間が経ってからだよ。95年当時は、『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル』(筑摩書房、1995)で書いたように、「オウム的なもの=男の子的なもの」を「ブルセラ的なもの=女の子的なもの」がほどなく凌駕すると予想していた。「オウム死してブルセラ残れり」が僕のイメージだった。時代は
希望は、戦争?blog 〜「丸山眞男」をひっぱたきたい Returns〜「丸山眞男」をひっぱたきたいけっきょく、「自己責任」 ですか赤木智弘氏新刊本のキャンペーンブログがはじまったようですね。『論座』に掲載された論考は、話題になっていたので大体の論旨は知っていたのですが、現物は今回初めて読みました。そして現物は、私が想像していたよりもずっと真摯で、刺激的な論考と思いました。同じ世代の人間として、特に旧態依然とした左翼批判を中心に、大いに共感する部分もありました。 ただ、しっくりこない部分もあります。 中で、一般に最も誤解を受けているのは「希望は、戦争。」というフレーズでしょう。しかし普通に読めば、赤木氏が、戦闘機大好きな軍事マニアだったり、人が苦しむのを見るのが好きな鬼畜野郎なんかでないことは明白です。むしろ真逆のタイプの方でしょう。「戦争」といっても、空想的な北朝鮮との核戦争とか、太平洋
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