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可逆性 ものごとが可逆(reversible)であるとは、それが「逆に戻りうること。もとの状態に戻りうること※1」である。しかし、二項演算としての加減乗除の計算は、一般に可逆ではない。例えば、 \(4 + 3 = 7\) であるが、足して\(7\)になる2つの数の組み合わせは、整数だけに限っても \(7 = 7 + 0\) \(7 = 6 + 1\) \(7 = 5 + 2\) \(7 = 4 + 3\) \(\vdots\) \(7 = -1 + 8\) \(\vdots\) のように無数にある。だから二項演算は不可逆、つまり計算の答えから元の数を一意に導くことができない。 可逆計算 可逆計算(Reversible Computation)とは、過去に遡ることができる計算のことである※2。例えば、ここで「\(\pm\)」という演算を定義してみる。この演算は、2つの数の入力に対して、その和
はじめに 本稿は3部構成である。第1部「書体の歴史と分類」では前半でゴシックという言葉の由来や発生展開の概要をまとめ、後半ではブラックレターの分類を基に特徴を眺めてみる。第2部「ブラックレターとローマン体」ではブラックレターが選択使用された様子をローマン体と比較し、さらに工芸としての文字の視点からも眺め、第3部「近代ドイツ社会でのブラックレター」では近代ドイツに絞ってブラックレターの特異な扱われ方の様子とその背景にあるものを探りつつ、主要参考文献からの引用を案内として紹介する。 専門家の言葉から ブラックレターという活字書体についての本格的な記述は、タイポグラフィ上の他のテーマと比べて格段に少ない。雑誌や書籍でもブラックレターをテーマにした発行物はあまり見かけない。以下はタイポグラフィについての専門家たちからのブラックレターについての数少ない言葉である。 神聖なる目的を持った勤勉さを証明す
運動共感の撓(たわ)み 三好: ぼくはデザインにおける運動共感を研究してきたのですが、平井さんの『世界は時間でできている※1』のなかにも運動共感について書かれていると感じる部分がありました。実際にぼくが展開したような動きとデザインの話が、平井さんの理論の中でどういう位置づけになるのか、とても興味があります。またその話を踏まえて、自分のこれまでの研究が、デザイン哲学や方法論として、今後どのように展開し得るかというのは、楽しみなところです。 ぼくは最初、フランスの美学者であるフランク・ポッパーの『Origins and Development of Kinetic Art※2』を読んで、ベルクソンを知りました。これはぼくがキネティックアートを勉強した本で、文献の輪を広げるきっかけにもなったものです。たとえばこの本をハブにして辿り着いたポール・スリオは、おそらく動きの描写的な美学を探求した最初の
オブジェクト指向の哲学とデザイン 清水高志: 最近僕は概念を造形的に考えることが多くて、それが哲学とデザインに共通する話につながってくるんじゃないかと思っています。 ドゥルーズは『ベルクソニズム※1』などの書物で、概念は最初から複数の概念対が複合したものとしてあると語っています。たとえばプラトンは『パルメニデス※2』で、「一」とか「多」とかいうバイナリーな概念の対を単独で語るのではなく、それを別の概念の対と結びつけてより具体的に語っています。つまり、「一」というのは「ある」とか「ない」という概念の対と結びついて、「一」が「ある」とはどういうことか、また逆に「多」が「ある」とはどういうことかを考える。最初から哲学はこうした操作としてあって、その中で似たような概念対同士の違いも明らかになってくるわけです。 これは哲学の概念の話ですが、最近僕はどうも人間が世界を認知する局面でも、すでに似たような
このテキストは、東京都写真美術館で2022年8月9日〜10月10日まで開催される「イメージ・メイキングを分解する」展で展示され、図録にも所収されています。 「秩序」という言葉を聞くと、どうしても最短距離でたどり着ける有益で近代的な秩序が思い出される。それと同時に、それ以外の役に立たない「無秩序」も想像されるかもしれない。しかし、宇宙が成り立っている以上、ずっと「秩序」はあったわけで、それは限りなく広い「野生の秩序」と言える。近代的な意味での秩序が、ゲージで飼われたペットだとすると、野生の秩序は動物の種全体のようなものかもしれない。だから、人間には飼い慣らせないし、簡単に手も出せない。だがしかし、それはたしかに「在る」のだ。 私はこの「野生の秩序」の端を、数学で覗き見たのかもしれない。それは高度で専門的な数学でなく、その入り口にあった※1。 「これは詩なんだ」と思って読んだ。詩だから何かに役
アンクリエイティブ・コーディングとは、デザイナーが自由にコーディングできる権利のこと。「アンクリエイティブ・コーディング権」は、クリエイティブ・コモンズで保護されている。 イライザペンシル※1 UbuWebを立ち上げたアメリカの詩人ケネス・ゴールドスミスは、2011年の著書『Uncreative Writing – Managing Language in the Digital Age※2』のイントロダクションを、このような問いかけから始める。 In 1969 the conceptual artist Douglas Huebler wrote, “The world is full of objects, more or less interesting; I do not wish to add any more.” I’ve come to embrace Huebler’s i
森田真生『計算する生命』(2021) § ——— まず『計算する生命※1』の第一章「「わかる」と「操る」」に書かれているのは、前著の『数学する身体※2』から引き継がれた内容です。計算という他律的なプロセスに身を委ねることによって、自分が直観的にわからないものにアプローチできるというのが、いろんな事例を踏まえて書かれています。つまり、操作しながらある対象にアプローチし続けていると、事後的にわかるというフェーズがやってくると。それは自然にやってくるのではなくて、何かしらの操作に対するイメージを誰かが創造していくような段取りであり、そのようにしながら数学が進化してきたということが書かれていると思います。 この「操る」という部分はよくわかるんですが、なぜ操っているうちに「わかる」というフェーズが出てくるのか。その創造性について、森田さんはどのようにお考えになっているんでしょうか。 森田: その部分
ノスタルジーではないアナログ回帰 ピークだった1976年の「2億」から、2009年に「10万」まで落ち込んでいたものが、2017年には急に「100万」まで回復。一体何の数字かと思うだろうが、これはどこかの会社の株価総額の乱高下ではなく、国内のレコードの年間生産枚数だ。 ピークと底値が2000倍も違うとは極端な話だが、CDからネット配信に移った音楽業界で市場規模は小さいものの、ここ10年で10倍も伸びた商品もそうはないだろう。タワーレコードのようにレコード専門フロアを新設する店も現れ、ブックオフなどでも扱う店舗数が激増し、人気のアーティストが新曲のリリースにレコードを加えるようになり、昨年からのコロナ禍の間にアメリカではCDの売り上げを抜いたことがニュースになった。 1970年代末までは音楽消費はアナログ方式のレコードやカセットテープが主流だったが、1980年代に入ってCDが登場し、デジタル
伊藤亜紗『手の倫理』(2020) ——— 今回は、伊藤亜紗さんの『手の倫理※1』という著書を解題しながら、インタビューを進めていきたいと思います。 わたしたちが生きていく場面で意思決定をしないといけないときに、最近は社会通念にならって動けば間違いないということが通用しない状況になっていて、もっと創造性が重要視されているのを感じるようになりました。これまでの解題インタビュー※2の反応を見ると、通り一遍にことを済ませていくのではなくて、自分自身で状況を打開していきたいと考えるような方たちが読んでくださっているようです。今回の伊藤さんの著書は、まさにそうした方に響くのではないかと思い、もっとくわしく話をうかがってみたかったという経緯がありました。 わたしが伊藤さんのことを知ったのは、『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖※3配ったりしたんです。それ以降のお仕事も一貫して、主体でも客体でもない
2019年11月のブラックマウンテン訪問から、もう1年も経ってしまった。これを書いているのは2020年の11月半ばである。本来であれば今ごろ4度目のアッシュビルから戻り、第6回の執筆にかかっているところだが、コロナ禍でそれも叶わなかった。 前回訪問の目的は、主に1948年から52年にかけての夏期美術講座について調べることにあった。ジョン・ケージとマース・カニンガムが初めてBMCを訪れた48年から、ハプニングのはじまりとして名高い「シアターピース No.1」が行なわれた52年までのことだ。その間、バックミンスター・フラーのドーム建設があり、ルース・アサワやアーサー・ペン、ロバート・ラウシェンバーグ、サイ・トゥオンブリー※1らが入学し、デ・クーニング夫妻やM.C.リチャーズ、ビューモント・ニューホル、ベン・シャーン※2らが教鞭をとった。美術史的にはもっとも実りの多い、その5年間を重点的に調べた
——— 上野さんが出版された本『オブジェクト指向UIデザイン※1』は、体裁が実用書という形で、副題には「使いやすいソフトウェアの原理」とあって、そしてユーザーインターフェース(UI)の「操作性と開発効率の劇的な向上」と書かれています。なので、基本的にはUIデザイナーの人たちに向けた実用マニュアルみたいなもので、そこをメインターゲットとして想定しているんでしょうか。 上野: これは技術評論社という出版社の一連のシリーズなんです。もともとコンピューター関係の技術本を出してるので、想定読者としてはコンピューター技術者ですね。たぶんこのシリーズで初めてのデザインに関する本なんですが、技術者向けの枠組みでデザインについて書いています。担当編集者の方には、前から雑誌記事でお世話になっていて、僕がどういうことを書くのかよくわかっていたので、かなり好きなことを書かせてもらいました。 § ——— ただこの「
はじめに 本稿は、拙著『タイポグラフィの領域※1』(以下、『領域』)について、その結論部を補足する試みである。 『領域』を執筆した動機は、タイポグラフィという言葉の定義化の必要を痛感したからである。まずこの国では、本来の意味と齟齬をきたす使われ方がなされていると見えたからであり、次に本質的な概念の抽出が、その語を口にする者にとっては必要だろうと考えたことにある。そのためには時代の技術変化に支配される環境下においても一定不変である概念を引き出す努力が不可欠であり、その定義化という作業では歴史を遡らざるを得ないことから、可能な限りの広い渉猟と慎重さが要求される。それに応えられたかはかなり心もとないが、幸運にも発表の機会を得て、ここに四半世紀を迎えようとしている。 『領域』の結論では、「タイポグラフィとは活字書体による言葉の再現・描写である」と示し※2、定義の一例として提案した。 タイポグラフィ
仏教哲学の真源を再構築する ― ナーガールジュナと道元が観たもの More-Than-Human Vol.3 清水高志 インタビュー(聞き手:師茂樹) 師茂樹: 最初に、清水さんがしばしば東洋の古典、特に仏教などを使いながらご自身の哲学を展開されているのには、どういった背景があるのかということから、お話を聞かせいただければと思います。 清水高志: そうですね。子どもの頃からインドの古典に親しんでいたというのもあるんですが、そもそも欧米の現代思想じたいが、だんだん今世紀になって東洋的ロジックを再びなぞり始めているところがあるように僕は感じているんです。主客二元論とか、二元論的思考を超克するというようなことは、これまで20世紀までの思想でも主張されてきたし、もちろんドイツ観念論にもそうした考え方はあるわけですけど、主体と対象のように相反する二極があると、その両者の拮抗した境界を曖昧にし、間を取
Oddly Satisfying Videoとは何か ここ数年、ネットで密かに増殖をし続けているOddly Satisfying Video(あるいはSatisfying Video)と呼ばれる映像群をご存知だろうか。この名前に聞き馴染みがなくても、Oddly Satisfyingな映像は度々目にしたことがあるかもしれない。Oddly Satisfying Videoとは、オンラインビデオのジャンル名のようなもので、「視聴者が心地よいと感じる出来事や特定のアクション」をドキュメントしたスタイルのもの。Wikipediaによれば、典型的な例として「木や泡、スライムといった素材を削ったり、溶かしたり、塗り付けたりするもの」「ドミノ倒し/Rube Goldberg Machine(いわゆるピタゴラ装置)」「手品/隠し芸的なもの」などがあげられている。「なぜかうっとり眺めてしまう動画」あるいは「不
1948年6月、ドイツの米英仏占領区域でドイツマルクが導入され、ソ連によるベルリン封鎖が始まった。いわゆる冷戦の始まりである。アメリカでは1940年以来の平時徴兵が復活する一方、トルーマン大統領が軍における人種差別禁止の大統領令に署名した。7月29日、第二次大戦で繰り延べになっていたロンドンオリンピックが開幕、敗戦国の日本は参加を認められなかった。同31日にニューヨーク国際空港(のちのJFK空港)開港。8月には大韓民国(韓国)が、9月には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が相次いで成立した。日本では5月に美空ひばりがデビューし、7月に風営法公布、8月には渋谷ハチ公銅像再建除幕式が行なわれた。第二次世界大戦が終結して3年目の夏に、ブラックマウンテンで起こったことをお話ししたい。 2つのインタビュー 「私がブラックマウンテンに着いたのは1948年の夏だった」バックミンスター・フラー※1はインタビ
タイポグラフィ、すなわち活字版印刷術は、金属活字(鋳造活字、メタル・タイプ)であれ、写植活字(写真植字用活字、フォト・タイプ)であれ、また電子活字(デジタル・タイプ、フォント)であっても、活字版印刷術創始以来550年以上にわたって「活字」を用いて言語を組み、配置・印刷し、テキストを描写・再現させる技芸であり続けている。 金属活字は鉛・アンチモン・錫などによる合金を文字の「型」に流し込んで作られる。写植活字は被写体である文字のネガ画像に光学技術を用いて印画紙に露光・現像して刷版用の版下となる。電子活字は文字形状に関する電子情報がコンピューター支援によって呼び出され生成される。 いずれにせよ「活字」は、文字の複製原形、つまり規格化された文字の「型(タイプ)」をもとに、繰り返し同じ形象で再生されることを前提とする公的文字のことを指す。 活字と活字組版は規格化されていることによって制御され形成され
タイポグラフィとしてのスタイルシート タイポグラフィでは、文字や単語は機械的な手法で生み出されます。……(サイズや位置などの)情報は他の人に渡すことができ、別の機会にまったく同じものを再現することもできます。 フレット・スメイヤーズ『カウンターパンチ※1』 タイポグラフィとは、人の手によって直接描かれるものではなく、機械的な手法によって生成されるものです。そして、その書体や文字サイズや行間といったものをデータとして定義でき、そのデータをもとにまったく同じものを再現できるものでもあります。 ここに示したのはウェブサイトやモバイルアプリケーションなどの表示スタイルを記述する言語であるCSS(カスケーディング・スタイル・シート)のコードです。これによって書体や文字サイズ、行間、そして文字サイズを基準にしたスペーシングなどが定義されます。このコードをもとにして、ウェブブラウザなどユーザーエージェン
1行のコード ソフトウェアと、それを記述するコンピュータ・プログラムは、今日もっとも身の回りに溢れ、私たちの生活の中に偏在するメディアとなった。コンピュータはプログラムに書かれたコードを翻訳、解釈、実行することで、大量のデータを処理し、その結果を表示したり、コンピュータ同士でやりとりする。人々は、コンピュータのプログラムを作成するだけでなく、ソフトウェアを日常的に使用することで、ものごとの見方や考え方を形作っていく。私たちは、プログラム・コードをつくるだけでなく、プログラムによってつくられている。 プログラムは、コンピュータと人間の双方が理解可能な、人工言語によって記述されている。プログラムはコンピュータと人間のコミュニケーションの記述であり、より一般的には(分析や解釈の対象となる)「テクスト」である。そこには、アルゴリズムだけでなく、プログラム制作の前提、目的、過程、改良の過程が埋め込ま
はじめに 本稿では、イギリスのタイポグラフィ専門雑誌『フラーロン(The Fleuron)』誌を探ってみる。その活動期間は、1923年に発行開始し1930年までと短く、ほぼ1年に1号発刊という計画で、7号目で幕を下ろした。その発刊の経緯と編集方針、同時代へのタイポグラフィを巡る視点を調べ、その後の雑誌類への影響を比較し、現代に残したその意義を考えてみる。 なお、本稿をまとめる前に、筆者はこの雑誌の体裁上の解剖を試みた。つまり、印刷部数、判型、本文組版、扉と目次、ノンブルと柱、内容構成、執筆者とその特徴、広告主、資金調達、定価設定、編集者による執筆者の選択、内容構成上の差異などを調べたが※1、ここではそれを踏まえている。 日本でいえば大正12年から昭和5年までの間に、ロンドンで発行された『フラーロン』は注目されることが少ない。この雑誌に掲載された論文内容と発行を支えた人物の行動は専門的かつ地
リル・チージーな夏の終わりのイグジット⛵ Don’t call it a come back! ウチら全部忘れるために刻んでるだけ。忘れたくないだけ。暑すぎてどうかしてんの? マブい生命線が導火線?空がタイダイ色だね、ユノウセイン? ハリウッドドリーミンっていうかGames? 3人でクロムハーツするSTAY PINK。ウチらSo Highな国民だからHIコクミンだぜナァミーン? ってコクミンドラァグでセミ鳴いてくミーンミーン。そのあと止まってシーンとする。 ウチらαネオいサマーヌードで夏だけプリ(ズム/ミティヴ)っちゃってるちゃってってるたったひとつのチャネル。勝手に掘ってるトンネル。スラッシュで区切るプロフィールよりもクラックよりもクラッシュする今(する今)。キチン質のきちんとしたキッチンにいるクソスニッチに特攻(ぶっこ)む。まだ夏を終わらせない。 と寝たふりでネタ振り。Netflix
2018年の夏、アッシュビル滞在中は毎日雨だった。「雨が続くね」とアーカイヴセンターの司書に話しかけたら、「夏は毎年よ。それを理由に夫は9月までペンキの塗りかえをしないの」彼女はたしかにそう言った。 なのにBMCのサマーインスティテュート(以下、夏期講座)が続いたのはどうしてだろう。雨期なら避けるはずだが、夏期講座の写真を見ても雨の気配はない。 不思議に思って調べてみた。2018年の7月と8月をみると、晴天は少なく曇りがちで、にわか雨も数えれば二日に一度程度の降雨。一日中降っている日は1ヶ月通して7〜8日ほどだった。東京の梅雨と比べてすこし少ないぐらいだろうか。毎日が曇天でいつ雨が降ってもおかしくないような天候だったが、実際に降っている時間は短かったのかもしれない。 気温は15度を下ることはなく、30度を超えることもない。湿度は50%程度で過ごしやすい。そういえば、エデン湖キャンパスはもと
『空間へ※1』は、磯崎新の膨大な著作の数々の中で最初に刊行されたものであり、全体で82冊※2という膨大な著作の数を誇る氏の著述のキャリアの中で、その輝かしい思考の経緯の出発の地点をなまなましく記録したドキュメントである。磯崎新という稀代の建築家が世の中でデビューを果たし、その長いキャリアを通じて世界的な建築家として活動を繰り広げるきっかけとなった、すべての思考の原点がいわば無数の宝石の原石の如く散りばめられ、その精緻な議論と視点の斬新さ、議論の射程の巨大さ、学問領域としてカヴァーする範囲の広大さに、『空間へ』に触れた人間は誰でも驚愕することであろう。 磯崎新の活動の全容とその日本の建築界、そして世界の建築界への影響力について今ここで改めて振り返る必要はないだろう。丹下健三の弟子としてのキャリアを開始し、メタボリズムの建築運動の最中に彼が発表した数々の都市計画案は世界の若い建築家達を即座に魅
はじめに このテキストは上妻世海の『制作へ』で提示された概念を手がかりに、詩という言語表現一般の制作をめぐるものです。制作するという行為そのものについての思考が書かれた本書を、実際の制作者や制作を志す人間が引き受ける際に重要となるのは、そこで提示される制作概念はどのように個々の表現ジャンルへと展開できるのかという問いであるとおもいます。執筆者自身は言語表現、とりわけ詩というジャンルの表現に携わる人間なので、『制作へ』を詩論として読みました。 さて、詩という言語表現はなぜここに書かれてあるテキストが詩なのか、つまり詩「以外」でないのかを説明することが非常に困難です。萩原朔太郎という近代詩人は、詩は言葉というよりもむしろ言葉を読んで喚起される感覚こそがその本質であると考えましたが、この指摘はなかなか的を得ています。なぜなら、たとえば「絵画的」「映画的」という形容は絵画や映画を担う媒体の固有性に
1. 人間的なるものを超えて 気がつくと、人類学はその名前が示すとおり、人間のことだけを探究する学問になっていたと言ったら、奇妙に響くだろうか。 人類学は長らく、人間が生み出し、営んでいる制度や慣習などを「文化」と呼び、その記述を「民族誌」と称して、人間の文化の記述と考察に浸った末に、記述のしかたや学問を成り立たせている仕組み、その権力配分にまで気を配りながら、どうしたらそのような再帰的な課題を乗り越えて正統な学問たり得るのかを考えるのに頭を悩ませてきた。 そのことは、形質人類学、考古学、言語人類学、文化人類学という4部門から成る総合学を目指した、20世紀初頭のボアズ流のアメリカの人類学の「後退」であり、フィールドワークを学問の中心に位置づけ、民族誌を制度化した、マリノフスキー由来のイギリスの人類学の「前進」の結果だった。世界に広がった、民族誌を重要視するイギリス流の人類学は、アメリカで巻
苦しみを堪え忍ぶことに誇りをもてるような、労働の必然性に結びついた苦しみではない。 そうではなく、無意味な苦しみである。 この種の苦しみは、魂を傷つける。 なぜなら、概して、この種の苦しみの不平を言おうとすら思わないからである。 シモーヌ・ヴェイユ『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』 プロローグ:r/place的主体? まず、全体を象徴するイメージから始めてみます。分散化と多様性、そして善意と悪意に対するイメージです。 社会のなかで(少なくとも主観として)善意を持つ人は少なくありません。しかし、その善意の発露としての抗議運動は、なかなか成果をもたらさないという当たり前の現実があります。たとえば、ウォールストリートや国会議事堂の前に人が集まったという事実は、何かを変えたと言えるでしょうか。最近ではFacebookの情報漏洩に関連した対抗運動(後で説明するESG投資の一種)で、同社の株価が多少
2018年11月3日朝、ぼくは再びシャーロット空港に降り立った。夜に着いて夕食を食べ損ねた前回の反省から、今度は早朝に着くナイトフライト便を選んだのだ。雨期の夏から3ヶ月、どうしても秋のブラックマウンテンを見たかった。ジョセフ・アルバースが世界一美しいと言ったあの紅葉の季節である。 新BMCミュージアムの開館展 前回と同じアッシュビルのダウンタウンの端っこにあるモーテルに宿を取っていたが、チェックインまで時間があるのでフロントに荷物を預けて街に出た。目指すは開館25周年を記念して新しくなったBMCミュージアム※1。Google Mapsをたどりながら街を歩く。地図が不要なぐらいわかりやすい場所に新しいミュージアムはあった。なかに入って全体を見る。展示室は広くなり、階下に図書室兼資料庫ができていた。 まずは、前回いろいろ教えてもらった学芸員のアリスにお礼を言わなければならない。すべては彼女か
このテクストは、2018年11月3日にNADiff a/p/a/r/tで行われた「上妻世海『制作へ』刊行記念トークイベント」での発表をまとめたものです。上妻世海『制作へ』の表題論考「制作へ」を、主に言語の問題に焦点をあてて整理した上で、その背景にあるだろう史的文脈や、密に関連すると思われる議論群を記述していくことで、上妻的〈制作〉論をさらに多角的かつ厚みあるものとして使用可能にすることを目指しています。 目次 Abstract 1.「制作へ」における言語 A. 三種の「よって」 B. 言語 C. 「感覚的で身体的な現象」としての言語 D. テクストの制作と私・身体・五感の組み換え 2. 非人称的空間 —— 宮川淳 A.〈鏡≒本の空間〉 B. 史的背景 〈反芸術〉 鏡と影 空白な空間を満たさずにはいられないわれわれの営為 C.〈非人称的空間〉の作家 無名の眼 素材としての〈非人称的空間〉 D
ブラックマウンテンカレッジのことを書いてみようと思い立ったのは、縁あってジョセフ・アルバースの“Interaction of Color”の監訳作業※1をしていた2016年春のことだ。それから2年たった今、ようやく手をつけることができた。 ブラックマウンテンカレッジ(以下、BMC)は、1933年から1957年の25年間、アメリカ東南部ノースキャロライナ州ブラックマウンテンにあったリベラルアーツスクールだ。芸術教育が目立ったがためにアートスクールと思われていることが多いが、それは大いなる誤解である。 BMCの芸術教育を先導したのはジョセフ・アルバース※2で、バックミンスター・フラー※3がドーム建築を試み、ジョン・ケージ※4が最初のイベント「シアター・ピース#1」を実行し、マース・カニンガム※5が舞踏団を結成、そして後期にはチャールズ・オルソン※6の下、ブラックマウンテン派と呼ばれる詩人たちが
——— 『制作へ』に収められた上妻世海の「制作論」には、以前から実存主義的な意味合いを感じていました。批評や美術史の文脈として成立してるんだけど、クローズドサーキットのなかで自己言及するようなものではなくて、むしろクローズドサーキットな構造に組み込まれていない人間の方を魅惑してる。だから、その魅惑がどう発生しているのかを明確にしていきたいと思っています。 その手始めとして、まずこの「制作論」が誰にどうインパクトを与えるのかというところから考えてみたいと思います。エリー・デューリングがプロトタイプ論で「なぜ作品にする必要があるんだ」と言ってたように、「なぜ上妻世海は制作論という形で書かなきゃいけないのか」ということを。 補足すると、この「制作論」はクローズドサーキットのなかで「批評を活性化するための論」ではなく、「クリエイティビティにコラボレートしていく機能を持つ論」だと考えているんです。む
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