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アメリカ大統領選
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ツイッターを本格的に使うようになってから1年ちょっと過ぎたが、次第に意義の感じ方が変わってきた。 去年の前半ぐらいまでは、大手のメディアに流通しない・大きく取り上げられないような情報を、さまざまな人の解釈とともに知ることができるのが、最大のメリットだと思っていた。さらに、その速報性、驚異的なスピードでの伝播力、いずれも、情報独占のヒエラルキーを崩す破壊力であり、その点にも魅せられていた。 だが、昨年の秋あたりから、情報発信の独占というヒエラルキーが崩されていることに気づき始めた。 ちょうど1年前(1月12日)、ハイチで大地震が起こった。ツイッターを通じて、報道陣に限らず、一般の人たちから次々に世界中へ情報が流され、ハイチ出身の著名人らが募金を呼びかけ、たくさんの支援があったことは、記憶に新しい(かな?)。ツイッター上では、クリックすると1円寄付されるというサイトが、このときに登場した(よう
権力は、金・暴力・人事という形で現れる。 暴力を管理しているのは国家(のみ)で、例えば会社の中などでは暴力による支配は一応、成り立たないことになっている。けれど、家庭内など小さな共同体では、それが大きな権力の源泉となったりする。DVや幼児虐待など、アビューズがそれである。 会社など、公共の組織の場合は、金と人事が権力を作る。予算配分を決める権限と、人事を決める権利である。人事については、人間関係の事情通であることも、権力を生む。 日本社会の特徴は、この「人事」による権力が異常に肥大していることである。昨今の既存のメディア報道を見ていると、ほとんど人事の話ばかりだという気がしてくる。自民党政治は基本的に人事政治だったが(派閥だとか族議員だとか)、適材適所を掲げ、政策の側に重心を傾けるはずだった民主党も、今や完全に人事政治にハマっている。小沢問題がその大きなきっかけだった。だが、民主党の政治が
尖閣諸島事件のビデオを何者かが流出させた件について、政治家を始め、ちまたの人々からも「よくやった」という評価がかなりの程度見受けられるさまを見ていると、これは昭和初期の「白色テロ」だなあ、と感じる。政党政治への不信から、法を無視して、実力行使で政治経済の権力を自分たちの手に奪い返そうとする行為である。 政党政治は建前上は、多様な主義主張を、議会という話し合いの場で調整しましょう、という制度だから、その否定とは、「多様な主義主張は認めない」、あるいは「多様な主義主張を暴力で決着つけましょう」となる。全体主義か独裁である。 政党政治が信じるに足る存在ではないのは、私も含め、誰もが感じていることだろう。もう終わっている自民党には退場してほしいが、烏合の衆に過ぎない民主党も、有権者の期待にほとんど応えられないでいる中、ではどの政治家を選べばよいのか、選択肢のなさを痛感している。 まともな政治家がい
拙著『俺俺』の中で、【以下、ネタバレあり】「俺」化しない人たちが出てくる。「外国人」である。曖昧に「外国人」としか書いていないので、「外国籍」なのか、「外国育ち」なのか、「外国籍の親を持つ」なのか、わからない。要するに、日本社会の中で「異質」と見なされるがゆえに、「俺」社会からハズレることを恐れて「俺」化していく、という過程からも自由である立場の人たちである。もちろん、「外国人」でない人でも、そのような人はたくさんいる。が、小説では、あえて「外国人」に限った。なぜなら、視点人物が「俺」だからだ。「俺」には、そのような立場の人間が「外国人」として見える、というわけだ。 『俺俺』を読んでくださった方で、自分は「外国人」の側にシンパシーを感じる、という感想もいくつかあった。じつは、これまで私は基本的に、『俺俺』で言う「外国人」の側から小説を書こうとしてきた。かくかくしかじかのマイナーな存在は、現
湯崎広島県知事が育休を取ると宣言したこと(すでに子どもは産まれ、湯崎知事は早速時限的に育休を取っている)に対し、橋下・大阪府知事が「世間では育休を取りたくても取れない人がいるのに、世間知らずだ。首長はみんなが育休を取れるような環境を作ってから取るべきだ」という趣旨の発言したことに対し、何とも言えぬ違和感を感じる。 私が就職した二十数年前、一般的に会社には、その職場でみんなが残業していると一人だけ仕事が終わったからといってすぐには帰りにくい、という風土があった。特に、上司がいると、先に帰るなんてことはほぼ不可能であった。このため、何となく会社に残り、その結果会社にいる時間がやけに長く、家庭で費やす時間が少ないのが、日本の平均的なサラリーマン生活だった。そしてそれは、日本社会のメンタリティでもある。 時短が言われた90年代になって、長時間労働を減少すべく、とにかく上司が率先して仕事を切り上げて
ツイッターを本格的に使うようになって、ほぼ1年が過ぎた。ツイッターにしてからブログの更新が滞っているのは、世の大方の人と同様なのだが、どうも自分の脳が硬直していっているように感じるのは、気のせいではあるまい。長い文章を書かなくなると、脳が劣化していくように感じるのだ。ただひたすら反射神経ばかりが鍛えられるだけで。 それでブログをメインに戻そうと思うのだけど(書きたいこともたくさんあるし)、時間がない。ツイッター以前には、ブログを書くための時間を作っていたが、その時間が、ツイッターを読んだり書いたりやりとりをする時間に費やされ、消えるのである。 人にもよるのだろうけれど、私はプロの文章の書き手として、自分が体半分ぐらいツイッターに浸っているこの日常が、自分の仕事にとってあまりよくない影響を与えているように思う。明らかに、以前よりも、ものを考えたり書いたりする際の集中力が落ちた。ゆるく短い文章
※この試みはすでに終了しました。 昨年の秋から考え続けていた、「ツイッター小説」を思いきって始めてみることにしました。http://twitter.com/orex2 で展開中です。 私も書きますが、読んでいる皆さんにも書いてもらう、というのが、その核心です。 まずは私がツイッター上で導火線となる小説を書き始めます。私の新著『俺俺』の外伝という形をとっていますが、『俺俺』を読んでいなくても、わかる独立した小説です。(ちなみに、『俺俺』の冒頭5ページはこんな感じです。サイト内の「立ち読み」をクリックしてください)。 皆さんには、適当なところで乱入して、小説を枝分かれさせていただきたいのです。つまり、私の文章の合間から、それぞれ小説を書いてみてほしいのです。 枝分かれのさせ方は、思いつく限り、どんなやり方でも構いません。 例えば、 ・ちらっと出てきた通行人に焦点を当てて、その人の物語を書き始め
『俺俺』 収録外のまえがき その3「わかりやすさ、について」 21世紀に入ったころから、文学にはいくつかのプレッシャーがかかるようになっています。その一つは、「わかりやすくしろ」「読みやすくしろ」。 いたずらに難解だったり、これがわかるわれわれ、みたいな特権意識を持つ読者のための作品であったりすることには、私もうんざりです。けれど、読み手のほうは歩み寄ろうともせず、「自分たちにわかるように書いてくれ」という傾向には、唖然とするほかありません。基本的に文学とは、いや文学に限りません、芸術作品というのは、わからないから作る(書く、演じる)のであり、わからないから読む(見る、聴く、触る)のです。わかっていることを確認したり、自分の常識を疑わずに、自分に合わせて書かれた作品で納得するのであれば、それは引き籠もりです。スペインを旅行したいけれど、あの国のことはわからないから、スペインのほうからこっち
先日、必要があって大岡昇平の「野火」(新潮文庫)を20年ぶりぐらいに読み返した。やはり、私の小説観は、こういった小説によって形作られているなあと感じる。呪いの言葉を知ってしまったようなこの胸騒ぎこそが、小説だと感じるのだ。 で、文庫の解説は、吉田健一が昭和29年に書いたものだった。吉田健一は、「大岡昇平氏の作品を読めば読む程、日本の現代文学に始めて小説と呼ぶに足るものが現れたという感じがする」と書き出している。あれ、俺が思っているのと同じようなことを言っているな、どういうことだ? と思って読み進めると、要するに私小説批判なのだった。日本のとある小説がアメリカで紹介されたら「すぐれたエッセイだ」と褒められた逸話を紹介し、「例えば島崎藤村が書いたようなものが小説で通るならば、あまり理屈っぽいことを言いさえしなければ大概何でも小説であっていい訳で」と手厳しい。 我ながら驚いたことに、ほんの20年
少し前の話題だが、今年の野間文芸新人賞(受賞は村田沙耶香さん『ギンイロノウタ』)の選評で、角田光代さんがこう書いていた。 「気になったのは、(候補作のうち)多くの小説が、既にある「今とここ」を前提に書かれているように思えることだ。今とこことはつまり、現在であり、日本の都市である。書き手は、読み手もまたその「今とここ」を共有していることを疑っていないのではないか。多くの小説が、「今とここ」という前提を無意識に引き受けて書かれたものに思えた。」 これに対し、村田さんの小説は、「慎重に「今」を排している。つまりいつの時代でも、どこの場所でも、共有されうる強さが小説の芯としてある」として、角田さんは推している。 同じような指摘を、選考委員の多和田葉子さん、松浦理英子さんも、表現を変えて行っているように、私には読めた。多和田さん松浦さんはまた、先行する小説をあまり読んでいないがゆえに、狂気を定型的に
平成天皇が即位して20年ということで、昨日、記者会見が行われたのだが、次のような言葉を述べていて、驚いた。 「私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。昭和の時代は非常に厳しい状況の下で始まりました。昭和3年、1928年、昭和天皇の即位の礼が行われる前に起こったのが、張作霖爆殺事件でしたし、3年後には満州事変が起こり、先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。 第一次世界大戦のベルダンの古戦場を訪れ、戦場の悲惨な光景に接して、平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって、誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております。 昭和の六十有余年は、私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って、未来に備えることが大切と思います。」 政治的な言動を一切してはならない天皇が、ぎりぎりのレトリックを駆使して、表現をしている。 なぜ、昭和天
雑誌『考える人』2008年春号(新潮社)で、「海外の長編小説ベスト100」という企画があったのだが、そこで個人的なベスト10のアンケートを受けた。私は、空想性の強い作品という観点から、以下の10作品を挙げた。 1 フアン・ルルフォ「ペドロ・パラモ」(杉山晃・増田義郎訳 岩波文庫) 2 セルバンテス「ドン・キホーテ」(牛島信明訳 岩波文庫) 3 レイナルド・アレナス「めくるめく世界」(鼓直・杉山晃訳 国書刊行会) 4 ガルシア=マルケス「百年の孤独」(鼓直訳 新潮社) 5 オーウェル「1984年」(新庄哲夫訳 ハヤカワ文庫) 6 エレナ・ガーロ「未来の記憶」(冨士祥子・松本楚子訳 現代企画室) 7 マリーズ・コンデ「私はティチューバ」(風呂本惇子・西井のぶ子訳 新水社) 8 カフカ「城」(池内紀訳 白水社Uブックス) 9 フィリップ・K・ディック「ユービック」(朝倉久志訳 ハヤカワ文庫) 1
中央大学の殺人事件。一部の新聞や週刊誌の報道で、家庭環境のことが報じられ始めている。親に(特に母親に)溺愛され、過干渉だったらしいという件である。これがどこまで正確な事実かはわからないけれど、まったくの誤報ではないとしたら、何となく腑に落ちるような気がする。 自分が大学教員をした経験でも、また教員をしている友人知人の話を聞いても、学校生活に適応できずに脱落したり心の病に陥ってしまったりする学生は、親の過干渉か無関心にさらされているケースがものすごく多い。それらの学生は、入学してかなり早い段階から大学社会での人間関係に入り込めず、誰の視界にも入らずにひっそりと孤立し、大学に行きたくても行かれない精神状態になったり、行っても精神疾患を発症して授業を受けることに差し支えたりしている。 私が早稲田大学で教え始めたとき驚いたのは、年に1、2回の父母会を開いているということだ。大学で父母会! 学生数が
「あ、先輩。奇遇ですね。こんなところで何してるんですか?」 「俺はアキバ、大好きなんだよ。漫画も詳しいしな。で、おまえはどうした? 景気の悪い顔してよ。モテないぞ」 「景気、悪いんですよ。だから仕事ないんです」 「あ、そうか。じゃあ飲み行くか」 「先輩はどうせ高いバーとかでしょ。そんな気分じゃないすよ」 「北の家族、なんてどうだ? ほっけの煮付けなんか、うまいぞう」 「ほっけは煮付けにはしませんよ」 「あ、そうか。俺は九州の出だからな」 …… 「な、案外、うまいだろう?」 「俺にはいつもの味ですけどね」 「しかし、おまえの同期みんな、そんな困ってるのか。こりゃ、みぞうゆうの不景気だな」 「先輩、それ、みぞう、じゃないすか?」 「あ、そうか」 「先輩って、いくら揚げ足取っても怒らないですよね。人間できてるなあ」 「俺は前向きな人間だからな。よし、一肌脱いでやるか。……とりあえず、この金を……
◆アメリカをやめる◆ アメリカ大統領選まであと数日。一国家の首長選挙とはいえ、世界中にこれほどのダメージを与えてきたのだから、アメリカ国民じゃないけれど投票させろ、と言いたい人は各地にたくさんいることだろう。 逆に、私のアメリカ人の友人Aのように、その権利を放棄する者もいる。アナーキストを公言するAは、アメリカ北中部の大学で教鞭を取っていた。しかし、言葉では常にリベラルな意見を述べるのに、実際の態度では身近な貧困や差別に目をつむる優雅な知識人たちに、嫌悪を募らせていく。だから彼女の目から見れば、マケイン候補はむろん、そのような知識人たちに支持されているオバマ候補もうさんくさい人間となる。そして今年の夏、カナダに新たな職を得て移住してしまった。「アメリカをやめることにした」と宣言して。 この、「アメリカをやめる」という言い回しは、アフリカ系アメリカ人のランドール・ロビンソンという人権活動家が
「逮捕」について考える。 今日は、捕鯨肉を盗んだとしてグリーンピースのメンバーが逮捕された。 宅配便の配送所に忍び込み、他人の宅配物を持ち去る、という行為が、「証拠品として確保した」という理由で正当化されるのかどうかは、私もわからない。これが成り立つとなると、告発さえすれば郵便物を無断で抜き取ることは罪に問われなくなったりするかもしれない。これを権力を持つ人間に濫用されると怖ろしいことになる。グリーンピースのやり方は微妙な問題を含んでいるとは思う。 ただ、私が違和感を覚えたのは、逮捕して身柄を拘束する必要があったのかどうか、という点だ。どうも、この「逮捕して身柄を拘束し、家宅捜索をする」というパフォーマンスのほうに重点があったように感じられもするからだ。つまり、警察の威力をこれ見よがしに見せつけたわけだ。 最近、この手の逮捕が増えている気がするのである。先ごろ有罪が確定した、立川の自衛隊官
連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤の死刑が執行される。新聞記者時代にわずかでもあの事件を取材した私にとって、とても虚しい死刑執行だった。死刑を執行しなければ何かが解明できたのか、と問われれば、たぶん現状と変わらなかっただろうと思う。それでも、これでこの事件が過去のものとして終わる、少なくとも世間ではそのように整理されてしまうと思うと、「いったい何だったのだ」と虚脱したくなる。あれほどの残虐さと非現実性に、私たちは背筋を凍らせ戦慄し、本当におぞましいと感じ、二度と起こってほしくないと強く願ったはずではなかったのか。それなのに、私たちは宮崎勤を「あちら側」へと追いやることで、事件を生みだした要素も見ないようにし、歯止めを掛けることに失敗した。 あの事件以降、20年の日本をつぶさに見つめれば、宮崎勤のような人間が育ち、あのような犯行に及んだ原因は、間違いなく私たちが作っている社会にあることが、いやでも
今、私たちは二種類の恐怖に襲われています。一つは、ご承知のとおり、いつ誰に突然殺されるか、という恐怖。もう一つは、いつ、自分が他人を殺してしまうか、殺したくなるのか、あるいは気づかないままに死なせてしまうのではないか、という不安です。私には断言するだけの自信がありません、自分が絶対、殺す側に回らないとは。 理由が何であれ、私は殺されるのはいやです。しかし、それを防ぎきれる自信はない。防ぐ自信がないから、いつでも襲われる覚悟を決めておこう、と、いつもいつも二十四時間、襲われたケースを先取りして考えてしまいます。そして、どう覚悟し対策を考えようとも、殺されるときは殺されるのだ、と思うと、死んでしまっても仕方ないかもしれない、と諦めてくるのです。まるで私はもう死ぬ運命にあるかのようです。私だけではない、みんながそうでしょう。人間いつかは死ぬ、といった寿命の話は別にして。 死ぬ運命が決まっている人
このところの報道で耐えがたいと感じるのは、硫化水素自殺である。この問題がクローズアップされてから、硫化水素で自殺をすると報道されるため、新聞紙面には自殺の記事が急増した。 日本では自殺者が年間3万人を越し、それがすでに10年も続いている。年間3万人とは、単純計算で1日80人である。40人のクラス2つぶんの人が、毎日自ら死んでいく。けれど、何か目立つ事由(いじめだとか著名人だとか)でないかぎり、自殺は報道されない。だから、身近な人が自死しないかぎり、毎日80人もが死んでいくという実感を得ることもない。 それが、この「硫化水素」問題により、逐一報道されるようになった。そのとたん、新聞の社会面は自殺に覆われることとなったのだ。 私はこの、無関係な人たちが何人も同じ1日に自死していく、という実感に打ちのめされている。現実には、硫化水素以外で死ぬ人がさらに何倍もいるのである。そのすべてが報道され、紙
光市の母子殺人事件の判決、何だかとても後味が悪い。「死刑」が「私刑」に見えてくる。普通に裁判が行われた結果、極刑となるのであれば、それは尊重すべきだと思う。けれど、この判決は、「普通に裁判が行われた結果」なのだろうか? 弁護団のやり方にも非常に納得がいかないが、事実を明らかにすることよりも被告を葬り去ることに熱狂した世論にも、嫌悪を覚える。少なくとも、この事件の審理は、高裁での再審が始まるまではこんなふうじゃなかった。 事件の内容を思えば、被告に極刑はありえるだろう。けれど、まるで何かの憂さを晴らすかのように、やみくもに焼き討ちするかのように、当事者ではない者たちが被告を死刑にしろと要求したさまは、とても法治国家の姿とは思えなかった。今、この社会で陰に日向に日々繰り返されているさまざまなバッシングやいじめのひとつにしか見えなかった。 私はこれまで、死刑の存在を否定しきれないでいた。必要悪だ
企業が、総会屋に株主総会を荒らされるのを恐れてカネを払ったり、暴力団関係者を接待したり治安維持費を払ったり、右翼の発行する業界誌を法外な額で講読したりすれば、企業のモラルが問われるだろう。住民を脅かす暴力に結果的に荷担したことになるからだ。また、かつてTBSが、オウム真理教を取材したビデオテープを、オウム真理教の要求により放送前に手渡して見せるという事件もあった。このときも、企業そして公共のメディアとしてのモラルが大いに問われた。 ドキュメンタリー映画『靖国YASUKUNI』に関して起こっているのは、それと同じようなことだ。国会議員には強大な権力が与えられており、それは法的には暴力団の力をしのぐ。そして、権力とは究極的には暴力である。そのような力を持つ国会議員が、自由に作られたはずの映画を公開前に見せるよう要求し、特権的にコメントする。これは、暴力団員が威嚇的に企業を訪ねたり、オウム真理教
チベットでの抗議暴動と中国政府の弾圧で私が思い起こしたのは、1968年にメキシコで起きた抗議行動と大虐殺である。抗議の内容はだいぶ違うけれど、共通するのはオリンピック開催を前に、経済的な急発展を遂げている最中の政府が暴動そのものを根こそぎにしようとしたことである。 メキシコで起きたのは、その年の10月に予定されていたメキシコ五輪について、オリンピック開催に反対する学生たちのデモ集会だった。当然それは1968年に世界を席巻していた学生運動の一環であり、それがメキシコ・バージョンとなって、貧富の差が凄まじいメキシコ社会で富者の祭典たるオリンピックよりも先にすべきことが他にあるだろうという主張として展開された。オリンピックの最中にそのような抗議行動が起こり、メキシコが不安定な国家であると世界から認知されることを恐れた政府は軍を派遣し、広場で大集会を開いていた学生らを完全に包囲し、外からは見えない
ミャンマーでフリージャーナリストの長井健司さんが治安部隊に射殺された事件。なぜ福田内閣は、「勝手にそんな地域に行かれると困るんですけどね」というようなことを言わないのだろうか? ネット上ではどのように言われているのかわからないが、少なくともメディアを見る限り、「自己責任だ、死んで当然だ」という言葉はどこにもない。 いったい、3年前のイラク人質事件と何が違うというのだろう? フリージャーナリストの橋田さんがイラクで殺されたときと同様、殺されたら痛ましく偉く、人質として生きていたら迷惑な連中ということか? あのときとの違いを考えてみる。 ミャンマーでは、情報をコントロールしたがっているのは、ミャンマー政府である。国内外において、このデモを小さく見せ、自分たちの武力弾圧を正当化したいからだ。そのために一切の報道陣を締め出そうとしている。 イラクで報道陣をシャットアウトしたがっていたのは、アメリカ
松岡農水大臣が自殺。ご遺族や関係者が悲痛な思いをされているだろうことを推し量りつつも、大人として最低の行為だ、と言わずにいられない。 なぜ、この国の成人男性はこれほどまでに、責任を引き受けるか明確にせねばならない場面で、自殺を選びたがるのだろう。高校の履修漏れ問題やいじめ自殺が相次いだ時期にも、自殺をする校長や教員が何人かいた。その場面で自死したら子どもの倫理がいかに破壊されるかという場面で、死んだ。同じことを、この大臣の自殺にも感じる。 権力を持つ大人がそのような無責任の極致のような行動を取る社会で、殺人を犯す子どもたちの内面を「心の闇」などと理解不能なもののように言うのをみていると、笑いたくなる。その理解不能な怪物がどこにいるのか、鏡を見ろと。 これが、教育再生で道徳の必修を声高に叫ぶ安倍内閣の現実である。安倍首相は、このように倫理を欠いた無責任な人材を、かばい続けた。法的には問題ない
高校野球の特待生問題について、伊吹文科大臣のコメントを見て、何だこの偽善はと感じる。強豪校がカネを出して強い選手を掻き集めていることなんて、賛否はともかく、誰もがそれを前提に甲子園を見てきたのではなかったか? 北日本の高校生があれだけ関西弁をしゃべりながら、今まで暗黙の了解だったことを今さら問題視して罰するなんて、罰する側のほうが卑怯に見える。 高校野球や「巨人軍」に象徴されるプロ野球守旧派には、この手のいい子ブリッコと裏でのやりたい放題とのギャップが日常的に見られるが、私にはそれが野球文化崩壊(日本社会とも言い換えられる)の一因に思える。これはタテマエとホンネといった使い分け文化とは似て非なる、階級の問題である。 「品行方正」を過剰に課すのは、課している側が権威主義を信奉しているからである。そして権威主義とは、既得権が維持できないという危機にさらされたときに、強く打ち出される。権力の維持
統一地方選前半の投開票が行われ、結果が出る。 コメントすることは特にない。きのう書いたことと同じ。 アイデンティティ(自分は何者であるかという自認)は、自分で作り上げる部分と、他人(社会環境)が作り上げる部分とがブレンドされてできあがっている。他人(社会環境)が作り上げる部分は、単に他の人が自分をどう見なしているか、といったことだけでなく、その社会の根本的な価値観や政治的経済的構造が決める性格も含む。例えば、北朝鮮に生まれれば、偉大なる人のために自己を捧げることが自分自身の最高の充実として感じられる、つまりそれが自分の生きる意味だと本気で見なせる、といったように。 全体主義を捨て、主権在民となった戦後の日本社会は、アイデンティティのうち、他人(社会環境)が決める部分よりも、自分で作り上げる部分のほうを増やしていった。それぞれが自分に合ったアイデンティティを作ることが、次第に可能になっていっ
最近、「ワーキングプア」について考える機会が多い。この問題自体は、就職氷河期が始まりフリーターが急増した十年ちょっと前から存在しているわけだけど、「ワーキングプア」「プレカリアート」といった言葉でその存在が社会の構造的な産物であることが一般に認知されるようになったのは、比較的最近のことだろう。 これまで私は、この問題には反応が鈍かった。大学の教員もして、いたたまれなくなるような実例にもそれなりに触れているにもかかわらず、視野の中心に入ってくることがなかった。どうしてなのだろうかと考えると、構造的な産物と考える以前に、そのような構造を作ろうとする政権を選んできた有権者の責任に、思いが行ってしまうのだ。こうなる前に、選挙を通じて阻止することはできなかったのか、と。 実際に他の政党なりが政権を担っていれば、今のような経済構造にはならなかったのかと考えると、おそらくそうとは言えないと思う。しかし、
バブル崩壊期、野村證券が大手企業に損失補填を行っていたことが明らかになったとき、ちまたの怒りは「なぜ大企業ばかり優遇される」というものだった。ただ貯金をしているなんてバカだ、運用しない人間は愚かだ、という風潮に乗り、周囲の友人知人も私に財テクを説いてきたバブル経済期を、苦々しい気持ちで生きていた私は、損失補填発覚時の世間の反応に非常に違和感を覚えた。バブルを支えてきた自分たちの責任は吹き飛んで、被害者意識だけが前面に出ていたからだ。 つまるところ、他人がやっているから自分もやらないと損、という考え方がすべてなのだ。あの当時から今に至るまで、日本社会のこのメンタリティは変わっていない。納豆ダイエットで納豆を買いに走ったあとで番組捏造が発覚すると被害者の顔をして苦情を言う現象から、次々と核武装する世界で日本も核を持たないでいると損だ、遅れてしまう、という考え方に至るまで。東京都のオリンピック招
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