サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ドラクエ3
kscykscy.exblog.jp
記事によれば、かつてアジア女性基金の資料委員会は、米軍による朝鮮人捕虜の尋問記録のうち、捕虜の「回答」のみを発見した。これはその後「所在不明」となっていたが、2016年に入って「見つか」ったという。また今年3月、浅野氏と毎日新聞は新たに米軍がいかなる「質問」をしたのかを示す資料を「発見」したという。つまり、この記事は【資料1】捕虜の回答と【資料2】米軍の質問という二つの資料を扱っており、後者がこの度「発見」されたものということになる。 記事に掲載された浅野・秦・木宮・熊谷各氏の資料解釈もただちには納得しかねる部分があるが、それ以前の問題として、この『毎日』報道に対しては、韓国の研究者から「研究倫理」と「報道倫理」を問う批判が示されている。すなわち、浅野氏及び毎日新聞が「発見」したとする【資料2】はすでに公表されており、今回の「発見」報道は妥当性を欠くというのである。重要な指摘と思われるので
以前に若干触れたが、去る3月28日、東京大学駒場キャンパスで研究集会「「慰安婦問題」にどう向き合うか 朴裕河氏の論著とその評価を素材に」が非公開で開かれた。以下では、参加した一報告者としての視点から、簡単な感想を記しておきたい。 まず経緯を整理しておこう。この集会は東京大学の外村大氏の呼びかけにより実現した。擁護(主として在宅起訴反対声明の賛同人たち。当日はA側との呼称が用いられた)・批判(『帝国の慰安婦』批判を執筆したことがあるか、その意思があると思われる者たち。B側)双方の立場から、この問題に関心があると思われる人々に参加が呼びかけられ、実行委員会が組織された(私は実行委員にはなっていない)。 当日は蘭信三、板垣竜太両氏の司会のもと、報告を西成彦(A)、岩崎稔(A)、鄭栄桓(B)、浅野豊美(A)、小野沢あかね(B)、梁澄子(B)の6人が、コメントを木宮正史(A)、吉見義明(B)、太田昌
昨3月28日、東京大学駒場キャンパスにて『帝国の慰安婦』の評価をめぐる討論会が開かれ、私も報告者として登壇した(追記参照)。討論会では色々な意味で興味深い発言に接したが、それについては日を改めて記すことにする。
この一年半にわたりブログや論文で書いてきた『帝国の慰安婦』批判の論考を大幅に加筆・修正したものですが、半分以上は新たに書き下ろしました。 この本では、『帝国の慰安婦』と礼賛論の主張をそれぞれ検証し、本書には日本軍「慰安婦」制度についての日本軍の責任の矮小化、被害者たちの「声」の恣意的な利用、日本の「戦後補償」への誤った根拠に基づく高い評価などの致命的な問題があることを指摘しました(詳しくは末尾に目次を添付しますので参照してください)。著者の朴裕河氏や擁護者たちは『帝国の慰安婦』への批判はいずれも誤読によるものであると反論していますが、こうした主張こそが本書を「誤読」しており、被害者たちの怒りには相応の根拠があるというのが私の結論です。 むしろ問われねばならないのは、これほどまでに問題の多い本書を「良心的」な本としてもてはやした、日本の言論界の知的頽廃です。なぜほとんどの日本のメディアは、日
日本軍「慰安婦」問題に関する日本の責任追及をいかになすべきか。現時点であえて分けるならば、昨年12月28日の日韓外相三項目「合意」をうけて大きく二つの路線があらわれているといえる。第一は「合意」を前提に、「責任」の具体化を日本政府に求める路線、第二は、「合意」を前提とせず、この破棄・無効化も視野に日本政府に法的責任の承認を求める路線である。第一の路線は主として日本の言論人や被害者支援団体にみられ、第二の路線は被害当事者たちや挺対協の示したものといえる。 「日本政府が謝罪の意味を込めて10億円の公金を支出し、財団が作られることは前進と言える。問題は、日本の謝罪が元慰安婦たちの心に届き、納得して受け取ってもらえるかどうかだ。私は1990年代から問題解決に当たってきたが、元慰安婦の約3分の2が償い金の受け取りを拒んだ。元慰安婦たちは今回の岸田外相の記者会見では、日本側の謝罪のトーンをくみ取ること
「嘘のように、慰安婦問題が妥結された。政府同士も始まる前から喧しかったため、まさかと予想もできなかった。 ただ社会的合意という意味での「解決」へと行くまでは、もう少し時間がかかりそうだ。すでに支援団体と当事者間の異見すらみえる。あまりに急いだ感がある。 こういうことがないよう、私は対立する者たちが一箇所に集まる協議体を作り、いくつかの論点について討論し、その論議を言論と関係者らに公開して当事者と両国国民が「認識における合意」を見つけ出せることを願った。その結果に基づき解決策を探れるように。
明日12月28日、日韓外相会談が開かれる。詳述する余裕はないが、会談をめぐる報道は改めて日本社会の「慰安婦」問題認識の歪みを曝け出している。当事者たちを無視した水面下の交渉が是とされ、さらには「蒸し返し」を禁じることが獲得すべき外交的目標であるかのように語られる。恥ずかしげもなく「口封じ」を「解決」とみなす主張が横行している。結局のところ、1965年以来、この社会は何ら本質的には変化していないのである。 ただ1965年よりも悪いといえるかもしれない。歪んだ「和解」観は日本政府が独力でつくりあげたわけではない。日本政府はこれまで度々日本軍「慰安婦」問題についての日本の責任を否定する発言を繰り返してきた。明らかに、問題を「蒸し返し」続けてきたのは日本政府である。にもかかわらず、日本式の問題解決案(国民基金)を受け容れなかったこと、少女像を設置し抗議したことがあたかも問題「解決」の障害であるかの
「韓国で私を告訴している形になっているが、その後ろには在日の知識人がいるし、告訴の後も日本の研究者の研究を基に私の本は「うそ」だと原告側が言い続けたという点では、日本ともつながっている。」 今回の告訴の「後ろには在日の知識人がいる」とはどういうことか。これは一体、誰のことを指すのか。断っておくが私は「ナヌムの家」の女性たちの行った告訴には何ら関係していない。女性たちや「ナヌムの家」関係者と面識もない(そもそも私は韓国に入国できない)。それとも別の誰かを指しているのか。何を根拠にこんなでまかせを朴裕河は言うのか。朴裕河は、いい加減「ナヌムの家」の女性たちが誰かに操られているかのような印象操作をするのはやめるべきだ。 度々指摘したことだが、朴裕河は「反論」する際、批判に答えるのではなく、批判者の属性や悪意(「誤読」「歪曲」)を問題にする悪癖がある。「後ろには在日の知識人がいる」という根拠なき決
朴裕河が12月2日、ソウルプレスセンターで在宅起訴に反論する記者会見を開いた。在宅起訴自体に抗議するのは、一方の当事者であるから理解はできる。それを論評するつもりはない。だが、そこでの『帝国の慰安婦』の内容に関連する「反論」はあまりに問題だらけの内容であった。以下に具体的にその問題点をするが、それに先立ち一つだけ今回の事件について記しておきたい。 もし刑事裁判で決着をつける以外にこの問題の「解決」への道があるとすれば、朴裕河が民事裁判後の刑事調停で女性たちが求めた条件を容れて謝罪し、34ヶ所伏せ字版の修正と日本語版の当該箇所を削除することで赦しを乞い、女性たちに告訴取り下げを求める以外の方法はないと思う。「ナヌムの家」の発表をみても、刑事調停が成立すれば、女性たちは民事も含めたあらゆる訴えを取り下げるつもりだったという。女性たちにしても刑事罰を課すことが目的ではないのだ。民事裁判の資料を見
先月18日、ソウル東部地方検察庁刑事第1部は、名誉毀損の罪で朴裕河を在宅起訴したと発表した。この事件を朝日・読売・毎日・産経など在京の全国紙はこぞって社説でとりあげ、韓国の検察による言論弾圧だとして批判した(朴裕河は全国紙を「和解」させた)。11月26日には日米の学者ら54人(*1)が「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」を発表し「検察庁という公権力が特定の歴史観をもとに学問や言論の自由を封圧する挙」に出たことに抗議した。さらに、12月2日、韓国の学者ら191人が起訴に反対する声明を出した。朴裕河が「言論弾圧の被害者」であるとの主張で、日韓のマスコミが塗りつぶされている。 だが私は問題をそのように捉えるべきではないと考える。具体的には韓国の日刊紙『ハンギョレ』のインタビューで説明したので参照していただきたいが、事件に直接関係する主張を要約すれば、(1)日本の「学者」声明は「言論弾圧」のフレーム
朴裕河『帝国の慰安婦』が「第27回アジア・太平洋賞」特別賞を受賞した。朴は自身のfacebookで「(授賞)を辞退しない理由」と題して、「指折りの進歩新聞」である毎日新聞社から賞を与えられた喜びを綴っているが、そのなかに以下のような一節があった(強調は引用者)。 「毎日新聞社で「アジア・太平洋賞特別賞」受賞者に内定したとの知らせを興奮した声で電話で知らせてくれたのも彼女[朝日新聞出版の担当編集者]だった。私はその知らせを地下鉄のホームで受けた。はじめに頭をかすめたのは、このことをもってまた歪曲し非難する者たちがいるだろうという考えだったから、喜びよりも複雑な心境だったが、いずれにしろ高い評価を受けたのは彼女の苦労のおかげであると考えて、私は真心を込めて彼女にありがとうと言った。在日僑胞学者の執拗な批判が影響を及ぼすのではないかと編集者は心配したが、大賞ではない理由がそこにあるのかどうかはま
和田春樹『慰安婦問題の解決のために アジア女性基金の経験から』(平凡社新書、2015年)と大沼保昭『「歴史認識」とは何か』(中公新書、2015年)を読んで印象的だったのは、この二人がそろって朴裕河『帝国の慰安婦』を正面から論じることを避け、奇妙な触れ方をしていることだ。果たしてこれは偶然だろうか。そうでないならばその政治的意味はどのあたりにあるのだろうか。この問題は朴裕河『帝国の慰安婦』の論じ方に関わる極めて重要な論点を含んでいると思われるので、ここでいくつかの可能性について考えてみたい。 「韓国はどうか。二十一世紀になって韓国は慰安婦問題についてますます強硬になっている印象ですが、別に全国民一丸となって強硬姿勢を取っているわけではありません。たとえば世宗大学の朴裕河教授。朴さんは『和解のために』と『帝国の慰安婦』という本を公にして、アジア女性基金による償いを高く評価し、韓国の側における冷
「国際政治学者や歴史学者ら74人」(代表・大沼保昭、三谷太一郎)が7月17日、声明「戦後70年総理談話について」を発表した(『朝日新聞』2015年7月17日付web版)。8月に出されるであろう安倍首相の「戦後70年談話」について、「学者」らが所見を明らかにしたものであるが、率直にいって私としては、この線で安倍談話が出されることに断固として反対しなければならないと考える。その理由を以下に記しておきたい。 いま巷間には「戦後日本=平和国家」という像を立脚点に、そこからの逸脱として安倍政権=安保法案を捉え、これに対抗しようとする言説があふれている。だがこれは言うまでもなく虚像であり、歴史認識として誤っている。日本は憲法九条を遵守してこず、むしろ「戦後史」は解釈改憲史にほかならなかった。日米安保条約及び国連軍地位協定体制のもと自衛隊と米軍は一貫して日本・沖縄に駐留しており、常にこれらの軍隊と基地は
あの頃、「良心」ある人々はこう言っていた。確かに日本軍「慰安婦」制度が戦争犯罪であることを認め法的責任をとるのが最善だ、だけど日本は右派が強すぎる、村山政権の限界は国民基金なんだ、と。「良心」ある人々にはまだ、いまの日本が右翼と歴史修正主義者の楽園であるということを感じることができる程度の「心」は残っていた。 もちろん、「心」ある人だということを元「慰安婦」の人々や支援者たちが知らないわけではなかったが、泣き落としは受け容れられなかった。無理な相談である。加害側の事情に合わせて原則を曲げよなどという提案を認められるはずなどなかった。 すると「良心」ある人々は機嫌を損ねた。泣き落としをやめ、日本で国民基金にこぎつけるのがどれだけ大変だかわかっているのか、と恫喝しはじめた。「法的責任」なんて考えは古い「道義的責任」の方が崇高だ、受け容れない奴らはわかってない、と居直りもした。そもそも「償い金」
朴裕河の日本軍「慰安婦」をめぐる主張については、前著の朴裕河(佐藤久訳)『和解のために 教科書・慰安婦・靖国・独島』(平凡社、2006年、後に平凡社ライブラリー、2011年、以下、『和解』)が刊行された際にいくつかの決定的な批判がなされた。もちろん、朴は批判を一切無視したわけではなく何度かにわたり『和解』批判への「反論」を試みたが、それらはいずれも説得力を欠く弁明に終始した。このため『帝国の慰安婦』はこの際に指摘された問題をほぼすべて継承することになる。おそらく今後なされるであろう『帝国の慰安婦』批判に対しても、朴は同様の弁明を反復するものと思われる。不毛なやりとりの反復を極力回避するためにも、この機会に『和解』をめぐる「論争」について整理し、コメントを付しておきたい。 検討に先立ち、『和解のために』刊行の当時に発表された批判を紹介しておこう(煩瑣なため初出は省略した)。幸いいくつかはwe
朴裕河氏(以下敬称略)が私の批判についてfacebookに「反論」を投稿していることを知った。タイトルは「私の”方法”」、原文は朝鮮語である。下記に翻訳して紹介する。 「鄭栄桓教授[韓国には職位に関係なく専任職の大学教員を「教授」と呼ぶ慣習がある:引用者注]は私の文章を書く方法が日本に迎合し彼らの責任を無化させる方向へと向かっていると書くに留まらず、「だれが私を支持するかをみよう」とまで書いた。もちろん、彼と彼の周辺人物たちが取る「方法」は、自らと異なる方式を採る進歩[的立場の人物:引用者注]を絶え間なく「右翼に親和的」であるとか、「右翼」という言葉で指差し、糾弾することである。 今日の朝もある人物が厳しい叱責とともに彼の文章--「帝国の慰安婦の方法」を送ってきた。鄭教授の誹謗は確実に効果をあげているが、私を誹謗する時間があるならば、日本政府や右翼を説得することに時間をさらに使ってくれれば
ただ、ここに岩波書店の就業規則改悪問題を取り上げるのは、問題が岩波書店の労働問題並びに日本の言論の自由に対する悪影響に留まらず在日朝鮮人の言論活動への弾圧としての側面を有しているからである。今般の岩波書店の就業規則改悪はこの間の金光翔氏の言論活動への封殺を意図したものと考えられる。上記の記事でも言及されているように、金氏はこの間、論文「<佐藤優現象>批判」(『インパクション』第160号、2007年11月)を皮切りに、右翼・国家主義者であり在日朝鮮人への弾圧を煽る佐藤優を他でもない岩波書店が積極的に起用することを批判し続けてきた。極めて重要な批判であり、私も多くを学んできた。 だがこの結果、金氏は佐藤優や『週刊新潮』等の右派メディアからのみならず社内においても攻撃にさらされるに至った(末尾の共同声明及び金氏のブログを参照されたい)。岩波書店の「著者および関係取引先」への「誹謗」「中傷」を「諭
「訴訟者たち[憲法審判の請求人:引用者注]は、慰安婦は売春が禁止されていた当時の法規に違反していたので、慰安所運営が不法行為だと主張する。しかし国際法の専門家である藍谷邦雄弁護士はこの問題について次のように述べている。[中略] つまり、たとえ慰安婦制度に問題があったとしても、それが損害賠償の根拠に直結せず、未支払い「(強制)労働」があったのならば、それに対しての補償は可能としている。たとえ人身売買を日本国家主導でやったとしても、それに対する損害賠償を求めるのは不可能だということになる。
日韓請求権協定による「経済協力」は実質的な補償・賠償であった、日本軍「慰安婦」の請求権は韓国政府により放棄されたため、元「慰安婦」女性たちに日本政府に損害賠償を求める請求権はない。本書『帝国の慰安婦』において、朴がこう主張することはこれまで見たとおりである。 ここで一つの疑問が生じる。朴の理解に従えば、「慰安婦問題」はとうに「解決」したことになりはしないか、という疑問である。だが、これに対する本書の答えは否である。朴は繰返し「慰安婦問題」を「解決」しなければいけない、と主張する。そして日本政府に何らかの行動を「期待」している。それは一体何か。「第五章 ふたたび、日本政府に期待する」の「一九六五年の日韓協定の限界」について、朝鮮語版の記述も参照しつつ引き続き読み進めてみよう。 その前に、本書を「読む」上で、筆者の主張の再構成や矛盾の指摘、そして日本語版と朝鮮語版を比較対照することがいかに重要
前回、本書『帝国の慰安婦』の、元「慰安婦」女性たちの請求権は日韓会談で韓国政府によって放棄されたという「新説」が、先行研究の歪曲により彫琢されたものであることを指摘した。だが出典とされた文献の恣意的な解釈や引用による「新説」の創出は、先の個人請求権に関する箇所に留まらない。日韓協定に基く「経済協力」についても、朴は本書で驚くべき新解釈を提示している。以下ではこの問題を本格的に論じた第三章「ふたたび、日本政府に期待する」の「1,一九六五年の日韓協定の限界」の叙述に即して、朴の主張を検討してみよう。 「日韓両国は国交を正常化するにあたり、過去のことについて話しあい、その結果として日本は韓国に合計一一億[ママ]ドルの無償・有償金[ママ]や人的支援[ママ]をした。しかしその提供は、「独立祝賀金」と「開発途上国に対する経済協力金」との名目でなされたものだった。つまり、日本政府は、莫大な賠償をしながら
遅ればせながら『朝日新聞』(2014年12月7日付朝刊)に掲載された政治学者・杉田敦による『帝国の慰安婦』の書評を知った。杉田は本書『帝国の慰安婦』を次のように評価する(強調は引用者)。 「本書で著者は、政治的な争いの中で、肝心の当事者である女性たちが置き去りにされがちなことを問題とし、韓国の運動団体側の資料からも引用しつつ、女性たちの生の声に耳を傾けようとする。[中略]戦地への移動手段等を提供した日本政府に構造的な責任があることは決して否定できないが、募集や運営を直接手がけた、朝鮮人を含む業者の責任も問うべきだという。 こうした内容を含む本書の韓国語版は運動団体から告訴され、著者は韓国で攻撃の的となっている。ナチス高官の弁明をも受けとめ、一部のユダヤ人によるナチス協力にさえ言及したハンナ・アーレントが、ユダヤ人社会で孤立した経緯が思い出される。 そもそも日本の植民地支配がなければ女性たち
元日本軍「慰安婦」9人が『帝国の慰安婦』の著者・朴裕河氏を名誉毀損で告訴したという。かつて触れた日本軍と「慰安婦」の「同志的な関係」という記述が、問題となっているとのことである。まだ断片的な情報しか伝わっていないため訴訟についての判断をできる段階にはない。ただ私自身、この本の内容には看過し得ない問題があると考えていたこともあり、以前の記事では部分的に触れるに留まった『帝国の慰安婦』の問題点について、以下に若干のコメントをしておきたい。 率直にいってこの本は決して読みやすい本ではない。ただこれは分析が細部にわたっているとか、複雑に入り組んだ論理展開をしているからというわけではなく、検討の対象が曖昧なうえ、用いられる概念が理解可能なかたちで定義されていないためである(例えば「国民動員」という語の特殊な使用)。この本で朴は、朝鮮人日本軍「慰安婦」の置かれた状況は多様であったと繰返し説く一方で、自
本書『帝国の慰安婦』が、日本軍の「責任」について極めて限定的にしか認めず、それに対してすらも「法的責任」を認めない立場であることを前回みた。それでは軍の責任と密接な関係にある、元「慰安婦」女性たちの権利、なかでも「個人の請求権」についてはいかなる認識を示しているのだろうか。本書の「請求権」認識は以下の通りである。
日本軍「慰安婦」制度に関する日本政府や軍の責任について、『帝国の慰安婦』で朴はいかなる認識を示しているのだろうか。この極めて重要な論点について、本書はかならずしも明解に説明していない。これに限らず、本書を読む上での最大の障壁は、著者が何を言わんとしているのかをただちに読み取れない――つまり何を言いたいのかわからない――ことである。読み手の知識や情報の有無の問題ではない。論旨の展開や概念の使用が著しく明晰さを欠くためである。このため、以下では可能な限り本書の記述に基いて本書が何を言わんとしているのかを再構成したうえで、その「責任」論の特徴を検討したい。 検討に先立ち、まずは本書における「動員」という語の極めて特殊な用法について触れておこう。第一章が「強制連行か、国民動員か」というタイトルであることから推測できるように、「動員」という語に、朴は本書で極めて特殊な意味を与えようとしたようだ。「与
〈朝鮮人や台湾人の日本軍「慰安婦」は、日本人と同様の「帝国の慰安婦」なのであり、敵国である中国や東南アジアの人々とは異なる存在であった。日本軍による朝鮮人への暴力的な拉致や強制連行も存在せず、大多数は「業者」によってだまされた人々だった。「慰安婦」とされた女性たちも占領地の女性たちとの違いを理解しており、むしろ日本軍兵士に共感を寄せ、「同志意識」を抱いた人もいたが、そうした感情は解放後の韓国での圧力で語れなかった。日本軍の責任を問う根拠となる「法」はなく、むしろ元慰安婦女性たちの個人請求権を日韓会談で放棄したのは韓国政府であり、個人補償相当分の金額を日本政府から受け取っていた。よって日本政府に法的責任を問うことできない。韓国の運動団体や政府は本質的には補償だった「国民基金」を拒否し、無理な日本への責任追求を繰り返して、むやみに日本を右傾化させた。いまこそ対話を進めて「慰安婦問題を解決」し、
排外主義運動を生み出さないためにも、マイノリティに過度な権利を与えるべきではない――こう主張をする者を、私たちは何と呼ぶべきだろうか。 排外主義者とは異なる何らかのまっとうな名前(中道派?保守主義者?リベラル?)を与えるべきだろうか。確かに一見排外主義を憂慮し「客観的」な立場から議論するふうを装っている。だが少し考えてみればわかるように、この者の主張は実際には排外主義者と変わるところがない。自ら「私は排外主義者ではない」と表明しながら、同様の主張をしているだけだ。そのような自認を汲み取って別の名を与えるくらいならば、正しく「排外主義者」と名指すほうがよほど正確だろう。 しかしながら、「排外主義者」よりも(あるいはそれとは異なる)悪質な何かである可能性はある。排外主義者たちが「私達のような者を生み出さないためにもマイノリティを優遇するな!」と自ら叫ぶとは考えにくい。むしろ自らが排外主義者では
批判と解剖――金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」とその後の「弁明」について(終) そもそも私が金のエッセイを批判したのは、「朝鮮学校の存在が日本のためになる」ことを周知させる努力をすべきだ、という在日朝鮮人運動への「提言」が、極めて危険なものであると考え、その危険性について広く警鐘を鳴らしたかったからだ。現在に至っても執筆時のこの考えは変わっていない。むしろ朝鮮学校が日本にとって「リスク」ではなく「メリット」であると主張せよ、という「提言」への批判の必要性はさらに高まったとすらいえる(関連する記事にタグ付けしてまとめておいたので、参照していただきたい)。 しかし、金明秀の「反論」はほとんどの場合、正面からの反批判というよりもただの言い逃れに過ぎず、その多くは支離滅裂で著しく明晰さを欠き、無闇に術語を濫用するため自ら制御不能に陥っている。弁明それ自体
金明秀のツイッターに私への「反論」が掲載された。今回の金の批判の趣旨は、私の批判は詭弁である、というところにあるようだ。金の人柄がとてもよくあらわれた「反論」なので、以下に検討してみたい(強調は引用者。以下同)。 「天邪鬼みたいな輩に都合よく切り出されて利用されるようだと、やっぱり鄭栄桓にもちゃんと反論する必要があるのかな。でも、あれは批判もずれているうえに、自分が書いた文章に自分で解説するような作業を伴うので、どうもやる気が出ないんだよね。ブログに書くと大手サイトに転載されるのも面倒だし。」
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『日朝国交「正常化」と植民地支配責任』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く