サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
アメリカ大統領選
www.jacar.go.jp
地域生活のまとまりが日中戦争以降に整備されたのが町内会のはじまりです。 夏祭りから一斉清掃のお知らせまで、私たちの生活に密着している「町内会」。 これにはどんな歴史があるのでしょうか? 近世の「五人組」などを原型とした「町・村」のグループが整備強化されたのは、日中戦争以降です。 1940(昭和15)年9月、内務省訓令「部落会町内会等整備要領」(Ref.A06030085800)により、「昔からの隣保共助の美風」に基づいて、村に部落会、町に町内会をつくり、その下に隣組を置くことが決定しました。 その目的は、住民を団結させて「万民翼賛」を図り、国策を透徹し、経済統制をしやすくすることでした。 隣組は1組10世帯程度でつくられ、回覧板と常会を通じて日々の生活に関わりました。 回覧板は、政府の伝達を住民に周知徹底する道具でしたが、住民にとっては、配給などの情報を知る戦時生活の要でもありました。 回
戦前の日本語の表記は、漢字は旧字体、公文書の仮名はカタカナで、歴史的仮名遣い(例えば「言ふ」や「ウヰスキー」など)を用いており、横書きの場合は右から左に書くという右横書きで書くのが一般的でした。 それがいかにして現在のように変わったのでしょうか?ここでは特に漢字そして横書きについてみてゆきましょう。 まずこれらの日本語表記に関する標準を規定していたのは、主に文部省の創設した諮問機関でした。 1902年3月24日に「国語調査委員会」(Ref.A03020526400)が創設され、1913年6月13日に廃止されるまで国語政策に関する様々な諮問を行いました。 その後、1921年6月24日に「臨時国語調査会」(Ref.A03021335100)が創設され、これが1934年12月21日に「国語審議会」(Ref.A03021960900)へと改組された後、以後66年以上にわたりこの国語審議会が日本語表
昭和18年(1943年)7月からです。 現在の東京は、かつて「江戸」と呼ばれていました。 「東京」という名称が使われるようになったのは、1868(明治元)年のことです。 「東京都」という名称が用いられたのはいつからなのでしょうか。 実は戦時中の1943年7月に東京都という行政区分が登場しました。 1868年から1943年までは、東京「府」という名称でした。 それではなぜ1943年に、東京「都」になったのでしょうか。 そこには、東京市と東京府の二重行政問題(権限や行政効率化の問題)や、戦争遂行上の問題が関係してきます。 現在の東京都は、23区・26市・5町・8村で構成されています。 1893(明治26)年に三多摩地域(西多摩、北多摩、南多摩)が神奈川県から移管され、現在の形になりました。 それ以前は、ほぼ現在の23区の範囲と伊豆・小笠原諸島の地域が東京府でした(伊豆諸島は1878(明治11)
はい、本当です。ペットの毛や皮、肉まで供出させられました。 戦時下、不足する物資を補うため、金属や宝石、ゴムといった資源が次々と供出させられていきました。 動物の毛や皮革も例外ではなく、牛や馬、羊、鯨などとともに犬の毛皮も利用されていたのです。 当初は野犬の毛皮に限られていましたが、戦争末期にはペットの犬や兎、猫にいたるまで供出させられて、毛皮や食肉として利用されることになりました。 もともと動物の毛や皮革は重要な資源として利用されており、軍需用としても馬や牛、豚、羊など多くの動物の毛皮が利用されていました。 しかし、毛皮類は平時でも国産原料だけでは需要量をまかないきれず、その多くを輸入に頼っていました。 戦争が始まり、さまざまな物資が統制されるようになると毛皮も例外ではなく、1938(昭和13)年に「皮革使用制限規則」(Ref.A05032337100)や「皮革配給統制規則」(Ref.A
昨今の学習指導要領改訂やアクティブラーニング、学び直しへの関心の高まりを受けて、新しい教育用コンテンツ「アジア歴史ラーニング」を公開しました。 トップページにある6つのテーマをクリックすると、それぞれ年表ページが表示されます。年表は、「国内の動向」「対外関係の動向」「近隣地域の動向」「世界の動向」の4つに分かれており、歴史の流れを把握することに役立ちます。 年表のⓘマークがある記事をクリックすると、用語ページが表示されます。用語ページでは、解説や二次利用の際の手引きのほか、関連する資料画像やテキストを見ることができます。
アジア歴史資料センターで公開している資料は、歴史研究だけではなく、映像作品やテレビ番組の制作における時代考証など、様々な分野で活用されています。そこで、アジ歴ニューズレター第30号の特別企画として、映画監督であり、航空史研究者でもある片渕須直氏に、自身の作品や研究と、アジ歴資料とのかかわりについてお話をうかがいました。 プロフィール 片渕須直(かたぶち・すなお) 1960年大阪府枚方市生れ。日本大学芸術学部映画学科卒。アニメーション映画監督。監督デビュー作は『名犬ラッシー』(「世界名作劇場」)。その他の主な監督作品に『BLACK LAGOON』、劇場公開作品に『アリーテ姫』『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』。『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が2019年12月20日公開予定。航空ジャーナリスト協会会員。 ―片渕監督は最初、航空史研究のためにアジ歴を利用されていたとのこと
今や、高級ブランドのバッグから最新スイーツまで、何でもそろうデパートですが、戦時中は国の経済統制と深刻なモノ不足に直面しました。 しかし、そうした様々な困難を乗り越えて、戦時・戦後もデパートは営業を続けます。 日本に初めてデパートができたのは明治時代のことです。 1905(明治38)年元旦、銀座の三越呉服店が、様々な品物を陳列販売する「デパートメント・ストア」化の新聞広告を掲載し、大きな話題となりました。 続いて、同じく老舗呉服店の高島屋・松坂屋・大丸なども次々と新装開店し、現在の大手デパートが誕生します。 初期のデパートは海外からの輸入品などを主に扱う高級店でした。 しかし、第一次世界大戦後の不況や1923(大正12)年の関東大震災をきっかけに、「特売」(バーゲン)が行われるようになると、デパートの大型化と大衆化が進みます。 広くてきれいな店内には自動ドアやエスカレーターが設けられ、食堂
もちろん働いていました。 日本の基幹産業を支えたこともあります。 戦前の女性も様々なところで働いていました。 タイピスト、電話交換手、「エアガール」(客室乗務員)といった花形職業もありましたが、近代日本の産業を担っていたのは製糸業の女性です。 明治の初めに働いていたのは旧士族の「工女さん」ですが、1877(明治10)年以降になると、工場には貧農の女性が大半を占めるようになりました。 製糸業は産業の中心となり、大蔵大臣の松方正義が「日本の軍艦は総て生糸を以て購求するもの 」と演説するほど「富国強兵」の要となりましたが、工場の労働条件はよいものではありませんでした。 農商務省の『職工事情』には、きつい夜間労働や粗末な食事、狭くて不衛生な寄宿舎の実情が調べられていますが、工場労働をする女性が増える一方で、こうした環境は大正、昭和に入っても改善が難しいものでした。 女性の仕事として定着した製糸・紡
本格的に普及したのは戦後からですが、その原型は戦前・戦中期にありました。 終身雇用制とは、会社が労働者を入社から定年まで雇い続ける、日本特有の雇用慣行です。 現在もほとんどの日本企業が、正社員に対してこの終身雇用制を保障しています。 同じ会社で真面目にコツコツ働き続ければ、一生食うには困らない。 こうした長期雇用の慣行はいつ頃できたのでしょうか。 戦前からすでにあったのでしょうか。 実は、終身雇用制が本格的に普及したのは戦後になってからでした。 しかし、その原型は戦前・戦中期を通してつくられてきたといえます。 もともと、戦前の日本は労働者の移動が激しい社会でした。 特に、工場で働く労働者たちは、熟練工になるとすぐに、より給料の高い職場へ転職してしまいました。 そこで、会社は優秀な人材を引き留めるため、様々な奨励制度を考えます。 勤続年数=年功に応じた昇給、積立式の退職金、手厚い福利厚生など
■御署名原本について 御署名原本とは 「御署名原本」(ごしょめいげんぽん)とは、憲法、詔書(しょうしょ)、法律、条約、勅令(ちょくれい)などを上諭(じょうゆ:天皇の裁可を示す文章)により公布する際の、御名(ぎょめい:天皇の署名)・御璽(ぎょじ:天皇の印)を付した文書の原本です。 明治政府では当初、重要な法令は、布告や達(たっし)として太政大臣の名で公布されていました。しかし、明治18年(1885年)12月の内閣制度導入にともない、法令の制定手続きや公布方法も改められることになりました。 資料1は、明治19年(1886年)2月26日に勅令第一号として公布された公文式(こうぶんしき)です。新たに法令の制定手続きや公布方法を規定したこの公文式では、法律・勅令は天皇の上諭により公布することが定められました(第一条)。また上諭により公布される法律・勅令には、天皇自らの署名と御璽の捺印の後に内閣総理大
2018年は、元号が明治と改元されてから満150年にあたります。明治という時代は、日本や東アジアをめぐる国際環境が激変するなかで、日本が欧米列強との対等な関係をめざして近代国家への転換を推し進めていった時代です。新国家の建設が始まって間もない1871年、欧米諸国との交際や外交交渉、海外事情の視察を目的として派遣されたのが岩倉使節団です。 岩倉使節団は、政府首脳や各省の官僚から構成され、多数の留学生も伴っていました。後から合流した者や現地訪問国で同行した者も含め、その数は総勢約150名にのぼります。これらの人々の視察内容や留学経験は、その後の日本の歴史に大きな影響を与えたといわれています。 アジア歴史資料センターでは、岩倉使節団の活動を記録した歴史資料である「大使書類」をはじめ、岩倉使節団に関わる歴史資料を公開しています。また、岩倉使節団に関わった人々が作成し、またその活動が記録された歴史資
はい、ラジオ体操は1928(昭和3)年に放送が開始されました。 日本のラジオ体操は、アメリカのメトロポリタン生命保険社のラジオ体操を主なモデルに、逓信省簡易保険局によって簡易保険の宣伝、そして健康意識の涵養を目的として企画されました。 1928年11月に東京放送局で放送が開始されると、早い段階から小中学校の朝礼体操として普及していきます。 1929年2月から大阪局が独自の体操番組を放映するなど当初は全国共通のプログラムではなく、全国放映の体制が確立するのは1934年以降でした。 この頃はラジオが急速に普及し、その結果としてラジオにおける甲子園や六大学野球の実況中継が熱狂的人気を集めており、スポーツの振興やその基礎でもある身体の健康が強く意識されるようになる時期でした。 また、健康を支えるためにも規則正しい生活=自ら生活を規律するという意識が都市生活者のなかで持たれ始めていました。 朝の一定
コラムNo.1 【 軍事費捻出の打ち出の小槌 -臨時軍事費特別会計- 】 1. 軍事費の拡大と国債発行 1931(昭和6)年9月18日に勃発した満洲事変は、国家に巨額の財政支出を要求することとなりました。 当初14.6億円であった一般会計歳出実行予算の規模は、最終的には20.2億円へと膨張しました。 これは昭和6年度予算に比べて5.2億円、34.7%の大幅増加となり、その中心は満州事件費2.9億円と時局匡救費1.6億円でした。 財政支出の増加を増税で賄うことは事実上困難であったため、一般会計予算を補填するために国債を発行したのです。 国債発行予定額は昭和6年度の0.3億円(実績では1.2億円)から昭和7年には7億円弱にまで急膨張し、一般会計歳出総額の国債収入への依存度は前年度の2%(昭和2年度~4年度も3%台)から一挙に34%へと急上昇しました。 高橋蔵相は、一時の便法として国債の日銀引受
アジ歴グロッサリーとは アジア歴史資料センターのデータベースで資料を検索するのに、どのような用語をキーワードにして探せば良いのかわからない!探したい資料が見つからない! そんな時に、誰もが簡単に資料を見つけられるよう、資料検索のナビゲーション機能を設けました。 テーマ別にキーワード一覧、地図、組織変遷表、年表等から、お探しの資料や関連資料にもスムーズにアクセスすることができます。 テーマ別検索はこちらから
太平洋戦争の終戦から70年。 終戦時、海外には、軍人・軍属、ならびに民間人を含め在外邦生存者数が、およそ660万余人いたと言われています。そのうち、1947年12月31日までに、624万余人の方々が復員・引揚げを完了しました。アジ歴で公開している資料には、こうした経緯をうかがい知ることができる歴史資料が少なからず含まれており、当時の復員・引揚げの状況を詳細に知ることができます。 今回、ご提供するアジ歴グロッサリーを活用すれば、太平洋戦争の終戦時に各地に展開していた陸海軍部隊の復員や民間人の引揚に関わった機関、組織に関連するさまざまな公文書を簡単に検索できます。終戦時、海外に展開していた陸海軍部隊(師団・旅団レベル)の復員、民間人の引揚の記録を、地図・組織変遷表・年表・キーワード一覧といった、さまざまな方法から検索してみてください。 なお本コンテンツでは、アジ歴が公開している資料の整備状況の
※印の画像はクリックで拡大します。 千島樺太交換条約 (1) 千島樺太交換条約附録 ※ アイヌは、主に北海道から東北地域、そして千島列島や樺太(サハリン)にかけての地域の先住民族です。彼らの近現代史とはいかなるものであったのか、アジ歴の資料でたどってみましょう。 明治政府は、明治8年(1875年)にロシアとサンクトペテルブルク条約(千島樺太交換条約)を結びました。この条約によって、ウルップ島以北の18の島を日本が領土とし、雑居地とされていた樺太をロシアが領有することが決まりました。これにともなって、ロシアと日本との間の条約によって引かれた国境線を境界として、樺太南部と千島列島に住むアイヌの帰属と移住が、彼ら自身のあずかり知らぬところで一方的に決定されました。(1) は、この条約の附録の一部です。この第4条では、次のように規定されています。 「樺太島及クリル【千島】島に在る土人は現に住する所
※印の画像はクリックで拡大します。 教育の義務と権利 (1) 枢密院会議筆記 ※ 小学校を卒業すると、次に進学する学校はどこでしょうか。中学校ですね。現在の日本では、日本国憲法第26条第2項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」とある通り、国民には教育を受けさせる義務があると同時に教育を受ける権利を持っています。義務教育課程に相当する学校が、小学校(または特別支援学校の小学部)と中学校(または中等教育学校の前期課程または特別支援学校の中学部)です。小学校に6年間通い、引き続き中学校に3年通うことが法令で定められています。それぞれの学校での各修業年限から、義務教育課程の学校制度は「六・三制」と呼ばれています。義務教育以外の高等学校3年・大学4年を合わせた現在の学校制度を「六・三・三・四制」と呼ぶこともあり
幣原喜重郎 ~その人と外交~ ※印の画像はクリックで拡大します。 駐米大使~ワシントン会議全権として (1) 幣原喜重郎 (しではら きじゅうろう) ※ (2) 特命全権大使任命の上奏文 ※ (3) 太平洋方面に於ける島嶼たる属地及島嶼たる領地に関する四国条約 ※ (4) 山東懸案解決に関する条約 批准書 ※ 戦前の日本を代表する外交官の1人 幣原喜重郎 (明治5年(1872年)~昭和26年(1951年))は (1)、明治29年(1896年)に外交官試験に合格したのち、仁川領事館を振り出しに各地の在外公館に勤務し、大正4年(1915年)には外務次官に就任しました。これに続く彼の外交舞台での働きを、アジ歴の資料で追ってみましょう。 大正8年(1919年)、幣原は駐アメリカ特命全権大使に着任しました。 (2) はその任命の際の上奏文です。幣原大使は、1921年11月12日~1922年2月6日に
杉原千畝と「命のビザ」 ~東洋のシンドラーと呼ばれた外交官~ ※印の画像はクリックで拡大します。 杉原千畝とは (1) 杉原千畝 領事館の執務室 (2) 杉原千畝 「ユダヤ人入るべからず」 と書かれた看板の前で 杉原千畝(すぎはらちうね)、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官です (1) (2)。彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスという都市で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られています。 この「命のビザ」の物語をめぐって、アジ歴の資料から何が見えてくるのでしょうか。 「東洋のシンドラー」 (3) リトアニアの日本領事館の外観(1940年) 杉原がリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理に任命されたのは、昭和14年(1939年)でした。 (3) は、当時の在カウナス日本領事館です
本ウェブサイト内で使用されている版画類の画像はすべて大英図書館から提供されています。また、これらの画像はパブリック・ドメインに属します。
※印の画像はクリックで拡大します。 文明開化の雰囲気 (1) 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図 ※ 「文明開化」と言えば、何がイメージされるでしょうか。洋服、シルクハット、こうもり傘、靴、背広、煉瓦街、洋式建築、洋食、人力車、馬車、鉄道・・・。まさに、このような西洋の文物を取り入れようとした明治初期の時代の風潮のことを文明開化と言います。 文明開化は、東京と横浜や神戸などの開港地から始まりました。なかでも東京銀座には、ロンドンとパリをまねた煉瓦造りの洋館やガス灯が設置され、西欧風の町並みを背景に、洋装やザンギリ頭をした紳士が人力車や馬車に乗る姿が評判になりました。このような銀座通りの様子は、当時流行した錦絵に残されています (1)。 官僚の制服の洋装化 (2) 勅奏判官並非役有位部附上下一般通常礼服 ※ (3) 勅奏判官並非役有位部附上下一般通常礼服 ※ (4) 文官大礼服着用の節敬礼式被定 ※
この4月からアジ歴のセンター長を務めています。 初代の石井米雄先生、二代目の平野健一郎先生を継いで三代目ということになります。 アジ歴との関係では、10年ほど諮問委員を務めてきましたが、外務省の歴史事業により長くかかわってきました。 「日本外交文書」編纂委員、外交記録公開に関する有識者諮問会議委員、日中歴史共同研究日本側委員、いわゆる「密約」問題調査に関する有識者委員などです。 これらの仕事を通じて歴史公文書の管理、公開、編纂といった問題には比較的高い関心をもってきました。 アジ歴の設立は、1994年8月末、村山富市首相が、「平和友好交流計画」に関する談話のなかで、アジア歴史資料センターの設立に言及されたことに発端があります。 これを受け具体的なセンター構想が15名の有識者会議に託されました。 その発足にあたっての五十嵐広三官房長官談話は、日本は近現代史について「影」の部分も「光」の部分も
明治の文明開化から昭和初期の日常風景まで、生活や文化の様子さまざま いつから洋服を着るようになったの? 海水浴はどうやって広まったの? 明治時代に海外旅行ってあったの? …今では当たり前のことが、その「むかし」、どのようにして始まったのでしょう、どんな様子だったのでしょう。人々の生活や文化をめぐるさまざまなルーツやエピソードをご紹介します。
孫文と日本 ~革命いまだ成らず~ ※印の画像はクリックで拡大します。 革命の父、孫文 (1) 孫文 ※ 孫文(号は中山、字は逸仙)は、中国、清末・民国初期の革命家、政治家です(1)。台湾では国父、中華人民共和国では革命の父と呼ばれていますが、その長い革命活動の中で、多くの日本人と関わりを持ち、数度の亡命も含めて何度も日本を訪れています。この時の記録をアジ歴で見ることができます。 孫文は、1866年に広東省香山県(後に孫文の号をとって中山県と改称、現在は中山市となっています)に生まれ、1878年に華僑として成功した兄を頼ってハワイに渡り、ホノルルのイオラニ・ハイスクールを卒業しました。また、1892年に香港の西医書院(現在の香港大学医学部)で中国人として初めての博士の学位を取得しました。こうした体験が彼に国際性を備えた視野の広さをもたらしたと言われています。 革命運動へ (2) 神奈川県知事
※印の画像はクリックで拡大します。 2つの「東京オリンピック」―1964年と1940年 昭和39年(1964年)10月10日、東京で第18回夏季オリンピックが開幕しました。このオリンピックは、東京を中心に新幹線や高速道路などの急速な開発を呼び、戦後日本のめざましい復興・発展を世界にアピールする絶好の機会となりました。また、日本はもちろんのこと、アジアで初めてのオリンピック開催という意味も持っていました。 しかし、実はこれをさかのぼること24年、昭和15年(1940年)の9月にも東京―当時は東京都ではなく東京市です―でのオリンピックの開催計画があったことをご存知でしょうか。これは結果的に実現しなかったため「幻の東京オリンピック」と呼ばれますが、しかし、招致活動、開催地決定、そして会場建設といった準備は実際に進められたので、当時の人々にとって、これは間違いなく現実のものでした。 アジ歴の資料を
昭和15年(1940年)の日本軍の北部仏領インドシナ進駐と、日独伊三国同盟の締結に対する、アメリカ側の重慶国民政府への援助強化、太平洋艦隊の強化などの対応によって冷え込んだ日米関係を打開するため、同年11月、ウォルシュ司祭とドラウト神父が来日しました。二人は政府、財界、軍部各方面の関係者と会見し、日米関係の改善策について意見を交換しました。そして、アメリカ帰国後の昭和16年(1941年)1月、ルーズヴェルト米大統領とハル米国務長官にその結果を報告、「ウォルシュ覚書」を提出しました。この民間交渉の背後にいた人物としてフランク・ウォーカー米郵政長官が挙げられます。 また、ウォルシュ、ドラウトの訪日時、日本側でもっとも緊密な連絡をたもったのは、産業組合中央金庫理事の井川忠雄でした。井川はドラウトが日本滞在中にもちかけた「日米首脳会談」案を近衛総理大臣、松岡外務大臣、武藤章陸軍省軍務局長らに取り次
板垣退助暗殺未遂事件 ~「板垣死すとも自由は死せず」~ ※印の画像はクリックで拡大します。 「板垣死すとも自由は死せず」!? (1) 板垣退助 ※ 「板垣死すとも自由は死せず」、この言葉は自由民権運動を推し進め、後に大隈重信とともに日本最初の政党内閣を組織した板垣退助の名言として知られています(1)。 明治15年(1882年)4月に板垣退助は、岐阜県で刺客によって襲撃され、この言葉を発したと言われています。この言葉は、自由民権運動を象徴するものとして瞬く間に有名となり、現在にいたるまで広く我々が知るところとなっております。この言葉があまりにも有名になりすぎたため、板垣はこの時に暗殺されたと誤解している人も多いのではないでしょうか。しかし、実際には彼は一命を取りとめ、この後も政治家として精力的に活動を行いました。 ところが、時が経つにつれ、この有名な言葉もはたして本当に板垣自身が言ったのだろ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く