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衆院選
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←はじめから読む そしてこう考えよ! 自分自身の肉体について思い、私の体は強く、健康なのだと考えよ。肉体はあなたが持つ最良の道具である。自分の体は金剛石と同じくらい強固なのだ、私はこの肉体の助けを借りて人生の大海を渡るのだと思いなさい。自由は弱い人には決して到達できない。すべての弱さを棄てよ。自分の体に対して、私の体は強いのだと言い聞かせよ。自分の心に対して、私の心は強いのだと言うのだ。そして、自己に対する限りない信仰と希望を持つのである。(「全集」第1巻146ページ) ⑫へ→
はじめに 自分のやりたいことが何も見つからないことに不安を持つ人は多いかと思います。先輩や大人たちを見て、いろいろな仕事や、教えられた価値観、さまざまなアドバイスについて考えてみても、どうしても「これだ」というものを自分のなかで感じられない…… 自分の希望はどこにあるのか? あるいは自分の人生の目的や理想はどこにあるのか? それを見つけられないことに焦りや不安を感じているかと思います。 最近では盛んに「夢を持て」などと言われます。しかし、どうしたら夢を持てるのか、自分の理想をはっきりとさせることができるのか、誰も教えてはくれません。誰も答えは持っていないように見えます——究極的な答えに到達した人以外は。 この記事の主旨 ブッダは真実の悟りに到達したと言われます。ヨーガは人生の目的は真実を実現することだと教えます。 実は、何もやりたいことが見つからないあなたこそが、今一番正しく物事が見えてい
←『瞑想とその方法』①へ 至福への門 瞑想はその〔無限の歓び〕が私たちに開かれる門である。祈りや儀式、その他あらゆる形式の礼拝は、瞑想からしてみれば単なる幼稚園にすぎない。祈ったり、何かを捧げたり、すべてのことが人の霊性の力を向上させるという考え方があった。ある特定の言葉や花、神像や寺院、あるいは、灯明を振るといった儀式によって、心はその状態に達するのである。だがそうした心の状態は常に人間の魂の中にあって、他のどこかにあるのではない。[人々は]皆それを行っているのだ。知らず知らずのうちに人が行っていることを、意識的に行う。それが瞑想の力である。 ゆっくりと次第に自分を訓練していくべきである。冗談なんかではない。これは一日でできることではないし、数年あるいは幾多の生涯をかけてもできないことかもしれないのだ。だが気にするな! 努力を続けるのだ。意識的に、自ら進んで努力を続けなければならない。少
『瞑想とその方法』(Meditation and Its Methods)は、「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ全集」(The Complete Works of Swami Vivekananda)の中から、瞑想に関する部分が抜粋された書物です。 著者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)は、近代インドの覚者シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの愛弟子であり、西洋に初めてヨーガの叡知と方法を伝えた聖者でした。ヨーガの成就者、ヨーガにおける権威であり、インド独立運動の精神的支柱ともなりました。(彼についてのエピソードをいくつか紹介しています。 Episode5:人の中にある神性への信仰——スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの原点 Episode10:英知と純真は人々への愛でつながる——ヴィヴェーカーナンダの偉大なるハートと信仰者ギリシュ) 『瞑想とその方法』は、日本語での
ヨガといえば、一般的にはヨーガのアーサナ(ポーズ)を思い浮かべるかと思います。実際にはヨーガというのは広大な体系をもち、アーサナはそのほんの一部にすぎません。しかしそのアーサナでさえも、何を目的とするのか正しく理解されていなければ、効果のないものになってしまいます。 アーサナは瞑想を目的とするもので、その目的を目指している場合に十分有効となります。つまり、アーサナと瞑想は別のものではありません。 ここでは、ヨガつまりヨーガのアーサナと瞑想の関係について、①ヨーガやアーサナは本来どのようなものか、②ヨーガの体系のなかでアーサナがどのように発展してきたか、③アーサナはどのように行えば効果があるかを説明しながら、そのすべてにおいて本質的に重要なのは瞑想であるということを解説したいと思います。 ヨーガとアーサナの意味 ヨーガ本来の意味 「ヨーガ」という言葉は「結びつけること」を意味します(「結びつ
夢で出会った人を、目覚めた人は見ることがないように、愛した人も、時が来て逝ってしまうと、もう見ることがない。名前がこれこれだと言われるそれらの人々は、かつて見られもし、聞かれもした。逝った人の、告げられる名前だけが残る。 憂いと嘆きと物惜しみを、「私のもの」を貪る者たちは棄てない。それゆえ、聖者たちは所有を棄てて安穏を見ていった。 『スッタニパータ』第4章6(807-809) 瞑想の集中ポイント:有無や生死を超えて真実に実在するものとは? 夢のように有ったり無くなったりするものは真実の実在ではなく、生死さえも例外ではない。では真実に実在するものとは何なのか? 何が実在するとはブッダは言わない。「聖者は所有意識を棄てて安穏にある」と言うだけである。有無の観念を超えて実在するもの、生死への固執を超えたところで体験すること、ブッダはそれに名前を付けることを極力拒んだ。 それが意味するのは、そうい
嫌悪とは、苦しみに執らわれることである。 ヨーガの瞑想を始めて僕が気づいた大きなことの一つは、意外にも人は嫌なことへの執着が非常に強いということです。 執着といえば、名誉とか地位とかお金とか異性とか、心にとって欲望の対象になるものに持つものだと思いがちです。ところが、その想定とは逆に、嫌なことや嫌いな人のことをいつまでも忘れようとしない心の力が思いのほか強いのです。 もちろん、そんなことは覚えていたくありません。すぐにでも忘れてしまいたいと思います。ところが、いつまでも頭のなかを回っているのは、嫌なことばかりということが少なくありません。後悔や不安や、自分や他人が嫌いだという感情もそこに含まれます。 嫌いならば、忘れたいならば、それ以上考えなければいいのにと、自分でも思います。しかし、それが思い通りになりません。なぜなら、それは心の表層意識だけでなく、深層意識に染みついた煩悩が関係している
貪欲とは、快楽に執らわれることである。 やっぱり快楽には執らわれますよね〜😅 誰もが。でも私たちもバカではないですから、人生の経験から学ぶわけです。快いこと楽しいこともいつかは終わってしまう、それどころかひどい苦しみに変わってしまうことがあるということを。 確かに経験には快いことと苦しいことがあって、「人生楽ありゃ苦もあるさ」というのが現象における事実です。そこで快は快、苦は苦で終わらせておけば、それ以上の問題は起こりません。おいしいものを食べて「ああ、おいしかった」で終わらせれば問題は起こらないし、恋人と別れても「ああ、楽しかった」で終わらせれば、いい思い出で終わるわけです。 しかし、私たちの心には「もう一度あの楽しさを、快楽を味わいたい」という執着が備わっています。それが貪欲という煩悩です。楽も苦に変えてしまう「苦しみ製造機」です。「こうだったのに、ああだったのに」という思いが、「で
自我意識とは、純粋に見ているだけの真実の自己の力と、見る作用を行っている心の力が、まるで一体であるかのようになっていることである。 覚者シュリー・ラーマクリシュナは自我意識を、料理するフライパンの上で火にかけられて飛び跳ねる野菜にたとえました。食材には意識がありません。しかしフライパンで炒められると、あたかも意識があるかのように飛び跳ねます。その様子を見て、野菜に独自の意識があるように勘違いしているようなものだというのです。 僕にも子供の頃の似たような思い出があります。お正月に食べるお雑煮に、我が家では食べる前にかつお節を入れるのですが、熱いお雑煮に入れると、まるでかつお節が生きているかのようにひらひらと踊るのです。「かつお節が生きてるみたい!」と妹と喜んで両親に話していました。 私たちが「自分は自分だ」と思っている自我意識には、そんな混同があるといいます。自己と心はまったく別のものである
欲望に対する貪欲を制御せよ。……あなたには取るものも、捨てるものも、何もないようにせよ。 以前(過去)にあったものを涸渇させ、この先(未来)には何もないようにせよ。その間(現在)でも握りしめないなら、平安に生きるだろう。 あらゆる名前や形のあるものに対して貪欲を離れたバラモン(聖なる人)には、死に支配される原因となる(カルマの)流入はないのだ。 『スッタニパータ』第5章12(1098-1100) 瞑想の集中ポイント:過去でもなく未来でもなく、今この瞬間の命を生きること 過去はすでに存在しないものであり、未来はまだ存在しないものである。過去と未来は、実際には今という瞬間の心の中にある。それは単なる知的な意味での記憶や予想というだけではない。過去のすでに終わった出来事による印象の種を、今この心の中に保持して執らわれている。そして過去からの印象を延長して、未来の傾向に引き継ごうとしている。それが
はじめに 「生きがい」や「自分らしさ」という言葉がよく聞かれる。老若男女を問わず、誰もが自由に自分らしく、積極的に自分の人生を生きたいと願っている。 しかし他方、自分が何をしたいのか分からないという人は多い。哲学的な問題ではなく、もっと単純に自分が何をしたいのか、まず分からないのだ。人生の目的がはっきりしないために、生きる方向性が定まらず、自分に自信を持つことができない。その時々を楽しく過ごしてはいても、その裏では何かしら虚しさを感じてしまう。 どうして私たちは自分のしたいことが分からないのか? どうすれば自分がつかめるか? 『真実の生を求めて—何のために生きるのか』のシリーズでは、ヨーガ・瞑想の体験と教えにもとづいて、このことを考えていくのを皮切りに、「本当に自分のためとはどういうことなのか」「他者のためとはどういうことか」、そして「何のためでもない、真実ゆえの生き方とはどういうものか」
ヨガのポーズを行う前後には、それぞれ2時間ほど食事を摂らないように勧められています。私たちのヨーガ・瞑想クラスでも、そのようにお願いしています。 しかし、そもそもどうしてヨガの前後で食事をしないほうがよいのでしょうか? また2時間という数字にどのような意味があるのでしょう? 実は、それには人間の体が行っている消化の仕組みと、さらには食物でできた肉体の内側にある精妙な気の働き、そしてヨガのポーズが体に及ぼしている深い効果が関係しています。 ヨガの前後で食事を控える理由を知っていくだけでも、私たちが普段気づいていない体と気の深い働きを学んでいくことができます。 ヨーガの前に食事を2時間空ける理由その1 ヨガのポーズ(インドのサンスクリット語で正確には「ヨーガ」と読み、ポーズのことは「アーサナ」(坐法)といいます)を行う前に、食事を2時間ほど控える理由は、胃の消化時間が関係しています。 食べ物の
皆様、明けましておめでとうございます。 去年3月に越して以来、東京で初めての年明けを迎えました。 これまでにもちろん何度も新年を迎えてきたわけですが、今年の元旦はいつもとは違う心持ちがします。例年はその年の抱負などは考えても思いつかないのですが、今年は違いました。 今年の抱負は「点火」です。 昨年大晦日の年明け前から、ヨーガへの志を同じくする仲間4人と年越しの瞑想を行いました。瞑想とそのあとの余韻のなかで思い至った、今年にかける希望がこの「点火」です。 それは、ヨーガの道をともに歩む兄弟弟子たちはもちろんのこと、昨年に縁を結ぶことができた人たち、まだ見ぬ兄弟姉妹、そして自らのうちにある神性・神を顕そうと、いまだ到達することのない答えを求めている現在・未来の人たちのなかに、「私というこの命、この純粋な実在こそが神である」という堅固な自信の火種をもたらし、神に憧れる信仰の炎があらゆる苦悩を焼き
無知以外の煩悩は眠っていたり、弱まったり、中断したり、活動していたりするが、無知はそれらの煩悩すべての地盤である。 生まれたばかりの赤ん坊のように、純粋無垢で煩悩などまったくないかのように見える存在もいます。でもそれは煩悩が眠っているだけなのだと、このスートラ(経文)は言います。(苦しみの原因である煩悩については1つ前のスートラ) 私たちは誰かに教えられて自我意識を持ち、心や体を自分だと思うわけではありません。自我意識はおのずから芽生えてきます。その他の煩悩である好き嫌いへの執着も生命欲も、本能のように備わっています。それらが表だって見えないのは、煩悩が眠っている状態だからです。まさに俗にも、思春期などを経て「自我が目覚める」というように、その頃には大人と同じくらい優越感や劣等感やその他のエゴ意識の固まりになっています。 煩悩はまた、ヨーガを実践することで弱めることができます。『ヨーガ・ス
煩悩とは、①無知、②自我意識、③貪欲、④嫌悪、⑤生命欲である。 苦しみや悩みというのは多種多様で、ブッダが「四苦八苦」とか「一切皆苦」と教えたように、あらゆることが苦しみになりえます。私たちは、その苦しみにぶち当たるたびに、何とか元の安心した状態に戻りたいと思い、1つ1つに解決を求めます。「こんな悩みがある。どうしたらいいのか? 何を選択したらいいのか? うまく切り抜けることはできないものだろうか?」と。 しかし、苦しみというのは、個々別々のものではなく、苦しみを生み出す仕組みが心の中にあるから生まれるのだというのが、ブッダやヨーガ行者たちが至った結論でした。ですから、1つ1つの苦しみに対処していっても、それは一時的な対処療法、応急処置にすぎず、苦しみを生み出す仕組み自体をなくさないかぎり、結局また同じような苦しみを味わっていかなければならないということです。 つまり、私たちは「苦しみ製造
怠ることなく独り歩むムニ(沈黙の聖者)——非難にも賞賛にも怖じ気づくことなく、音を恐れない獅子のように恐れず、網に捕らわれない風のようにとらわれず、水に汚されない蓮のように汚されず、他を導き、他には導かれない者、その者を賢者たちはムニだと知る。 『スッタニパータ』第1章12(213) 瞑想の集中ポイント:ムニ(聖者)の無恐怖で自由な純粋なる境地。 同じ比喩を使った次の言葉もある。「音を恐れない獅子のように恐れず、網に捕らわれない風のようにとらわれず、水に汚されない蓮のように汚されず、犀(サイ)の一角(いっかく)のように、ただ独り歩め」—『スッタニパータ』第1章3(71) いずれにしても、これらの比喩が言っていることは、世間の評判や他者との優劣など気にもかけず、他者に依存することなく、精神的にまったく自立・独立した状態で、日々淡々と自らを研鑽する者がムニ(沈黙の聖者)であり、そのムニであれと
等しいとか、優れているとか、あるいは劣っていると(自分を)思う人は、それによって言い争うだろう。3つのあり方に揺れ動くことがない人は、等しいとか、優れているという思いがなくなっている。 そのバラモン(清らかな生活を送る者)が、どうして「真実だ」と言って、口論するだろうか。あるいは「間違っている」と言って、誰と言い争うだろうか。等しいも、等しくないもない人が、誰と議論を始めるだろうか。 我が家(居心地の良い固定観念)を棄てて、家なく放浪し(誰の追従者にもならず)、村落でつきあいを作らない(欲望に慣れ親しまない)ムニ(内なる直観に従う沈黙の聖者)は、欲望から離れ、偏った思い込みなく、人と論争をすべきではない。……ちょうど、水から生える茎にトゲのある蓮が水や泥に汚されないように、沈黙を語り貪欲のないムニ(聖者)は、欲望にも世間にも汚されることがない。 『スッタニパータ』第4章9(842-845)
日常で行うヨーガは、瞑想で三昧を実現するためと、苦をもたらす煩悩を弱めるためにある。 このスートラ(経文)で言われている内容は、実はフライングでもうすでに解説してしまっていました(これです→Yogasūtra1.50)。もう一度読み返してみると、まさに日常でのヨーガと、それが瞑想の深い境地である三昧と、煩悩をなくしていくことに繋がることを、自分の体験とヨーガの歩みから話しています。よくまとまっていると思うので読んでみてください。(日常的に行うべきヨーガの内容については1つ前のスートラに説明されています) 僕は人間として自分を許せないことがあると、ひどく苦痛を感じたのですが、それは一方で単なる考えすぎという側面と、もう一方で、それがあったからこそ真実を求める情熱に向かうという側面があったと思います。小学生や中学生のとき、どうして他の友達や大人たちと違って(いるように見えたのですが)、自分が完
ある人たちが「真実である、本当である」と言うことを、他の人たちが「くだらない、間違っている」と言う。まさにそんなふうに口論して言い争っているのだが、修行者たちはどうして同一のことを語らないのだろうか? 真実はただ一つであって、二つとないという、そのことで知者と知者が言い争っているからだ。彼らはさまざまな真実を自ら主張する。それゆえ修行者たちは同一のことを語らないのだ。 『スッタニパータ』第4章12(883-884) 瞑想の集中ポイント:ブッダの強烈な、徹底した洞察を感じること。 真実という言葉も、ただの言葉であれば、エゴを強化するものになりうる。「私こそが真実を知っている」というエゴである。自分は正しい、他人よりも優れているという観念に真実を従属させ、それによって、むしろ自分に苦しみをもたらすことは、何としてでも避けなければならない。
今日から12月、井の頭公園のもみじは赤く色付いてきましたが、紅葉もそろそろ終わりのようです。樹々も葉を落とし冬の準備を始めています。 先週は京都で私たちのヨーガの師であるヨギさんのご聖誕祭(ジャヤンティー)に出席しました。 大好きな師と仲間がいて、すべてが歓びと至福と輝きに溢れているそんな時を過しました。 とはいえ、参加されたことのない方にとってはジャヤンティーってなんだろう?未知の世界だと思います。その様子はMYM京都のブログ『ヨーガを生きる』の中の「歓喜のジャヤンティー!!!」に写真ととも紹介されていますので、ぜひ見てみてくださいね。 東京に戻ってからもクラスで会った仲間とジャヤンティーの話でもちきりでした。こんな風に話ができることもまた嬉しいことです。みんながあの時の高揚感に包まれていて、それぞれに感じたものを分かち合う歓びに満たされました。 実は京都が驚くほど暖かかったので、東京の
自分の意見がない、何かありそうでもその場で出てこないと悩んでいる人は多いようです。たいていは「あなた自身の意見がない」と誰かから指摘されたり、意見を言うべき場面で何も言えなかった経験から「自分には意見がない」と感じているのだと思います。 それを改善するために、「自分に自信をもつ」「怖がらずに意見を言う」「他人がどう思うか気にしない」「失敗を恐れない」など、自分に言い聞かせることもしてきたかと思います。 それで改善できる場合もあります。しかし多くの場合、「それができない」ということになるのではないでしょうか? それは、心理的な原因を探ることなく、「意見がない」という現象だけに対処しようとするためです。ですから、「自信をもつにはどうしたらよいか」「怖がらないには」「気にしないには」「恐れないには」という問題にスライドして、そこでもまた、「とにかく自信をもとう」「気にしないでおこう」「恐れないよ
日常的に行うべきヨーガは、①心の不浄を取り除く熱になる苦行、②聖典の学び、③至高の存在に心をゆだねることである。 「苦行」という言葉は、結構日常的にも使われます。「あの上司といるのは苦行だ〜!」とか「こんなまずい飯を食い続けるのは苦行だ〜!」とか、たいてい精神的に苦痛だけど耐えて行うことを意味しているようです。 ヨーガなどを始めると、こういう苦行は良いことだと思って、「自分が我慢すればいいんだ。愚痴を聞くのも残業も夫婦げんかも苦行だ。自分のためになるのだ」と考えたりしがちです。でもそれ、間違ってます。そんな苦痛はないに越したことないです。 苦というのは、物事が思い通りにならない時に生じます。願望や期待が裏切られる時に腹が立ったり、悲しくなったり、虚無的になったりします。「こんなはずじゃないのに」という思いが背景にあります。要は積極的なものであれ、消極的なものであれ、欲望をかなえようとすると
サナータナのブログ「読んで学ぶヨーガ」の中で新しいシリーズ 『瞑想するための“新約ブッダの言葉”』が始まりました。 「真理は聞かされ、考えさせられ、瞑想する」といいますが、ブッダの言葉をただ聞くだけでなく、そこから考えて瞑想していくための内容です。 そういえば私も『ブッダ救われる言葉 』という本を持っていたことを思い出しました。その頃は救われたかったのかな〜 笑。ブッダの言葉だけでなく、教訓めいた言葉や、心が癒されるような何かを探していたのかもしれません。 しかし改めてブッダの言葉を読んでみると、癒しどころか胸に突き刺さるような厳しい言葉が結構出てきます。この世界において完全でないものはどこかでほころびて、苦しみを生んでしまう。ブッダの言葉には不完全なものを一切寄せつけない強さがあります。だから、そうは言っても・・・と、いい訳をしたいものにとっては耳が痛い。 癒しを求めていた頃の私はそうい
真理の智慧から生まれた潜勢力さえも止滅したとき、一切は止滅するから、思い計らいの種が完全に尽きた無種子三昧に至る。 無種子三昧はヨーガの最終地点、いわゆる悟りの境地です。そこに至るには真理の智慧さえも棄てなければなりません。あらゆる智慧も神秘体験も、もちろん知識や経験も、すべて超えていくことによって、その境地に至ります。想像も絶するような境地ですが、「私は悟りをひらいた」というような意識すら超えられたところでしょう。 このスートラ(経文)の言葉を見ると、いくつも思い出すことがあります。それはブッダの語ったことであり、禅の境地であり、そしてヨーガを始めたすぐのころに師が語ってくれた言葉です。 ブッダの有名な説法に「筏(いかだ)のたとえ」というものがあります。ブッダはあるとき弟子たちにこう言いました。「ある人が河の向こう岸に渡るために筏を作ったとしよう。その人は筏を使って無事に対岸にたどり着い
私は見るのだ、この世でバタバタともがいているこの生き物(人間)たちが、生への渇望に取り憑かれているのを。死の間際で途方に暮れる人たちは、この世やあの世の生に対する渇望を離れられずに嘆き悲しむ。 「私のもの」のためにもがいている人たちを見よ。干上がって流れの絶えた川にいる魚のようだ。まさにこのありさまをよく見て、生にしがみつくことなく、「私のもの」と思うことなくゆくがよい。 ……思いというものを知り抜いて、激流を渡るがよい。聖者は所有することに染まることなく、(心に潜む「私のもの」という所有意識の)矢を抜き取って、怠ることなく歩み、この世もあの世も望まない。 『スッタニパータ』第4章2(776-777, 779) 瞑想の集中ポイント:死の恐怖は、生へのしがみつきから生まれる。失うことへの恐怖は、「私のもの」だと思う所有意識から生まれる。 「これは私のものだ」と思って、所有意識を持てば、それを
争いの武器を執ることによって、恐怖が生じたのである。言い争う人々を見よ。私が感じたままに、この世を厭わしく思った衝動を語ろう。 干上がった川にいる魚のように人々がバタバタともがくのを見て、そして彼らが互いに相争うのを見て、私に恐怖が住み着いた。この世はどこにいっても不確かである。四方八方がすべて動揺している。私は自分の居場所を探したが、何にも侵されていないところは見つからなかった。 それにもかかわらず、結局は人々が対立するのを見て、私は不快になった。そしてそのとき、目に見えない矢じりが人々の心の中に潜んでいるのを、私は見たのである。その矢によって人はあらゆる方角を駆け回る。その矢さえ引き抜けば駆け回ることもなく、沈むこともないのだ。 『スッタニパータ』第4章15(935-939) 瞑想の集中ポイント:ブッダが見たこの世の実態。それに抱いた放棄の念。 干上がった川の中で魚が水を求めてバタバタ
“ブッダの言葉”の消費のされ方 ブッダの言葉というのは現代でも相当に人気がある。たくさんの書籍があり、大きなブームにもなる。そうした本を購入したり、インターネットで検索したりする人は、自分が抱える具体的な問題や、漠然とした不安や、生きるうえでの迷いに、答えやヒントを得ようとしているだろう。 これはブッダに限らず、過去の聖人や偉人や、あるいは現代の成功者や有名人たちの名言・格言を求める時の一般的な動機といえるかもしれない。(ニーチェの言葉とか、カーネギーやジョブズの名言とか) 特にブッダのような聖者や聖人と呼ばれる人の言葉を求める場合には、怒りや悲しみや苦しみに対する答え、つまり感情的な問題に対して、即座の癒しや慰めによる救いを求めているのではないかと思う。 「ブッダの言葉/ブッダの教え」というようなタイトルが付いた書籍を見ると、まさにそういうニーズに応えるような編集の仕方になっている。その
真理の智慧から生じる潜勢力は、他の煩悩による潜勢力を圧倒する。 瞑想を深めて三昧という特別な体験をすることと、一方で、普段の生活に気をつけてエゴをなくして、自分という人間を完成させていくこと、この2つがどう結びつくのか、僕にとっては1つの疑問でした。 何か特別な体験をしたら、それで自分の人格や人生まで変わるものなのかどうか。あるいは逆に、普段の生活に気をつけていれば、いつか深い瞑想の体験をすることができるのだろうか。 三昧の体験に憧れる一方で、僕は人間的完成ということに幼い時からものすごい理想を抱いていました。人間として自分に対して許せないことがあると、それがほんの少しのことでも、どうしても自分が許せず、すごく悩み込むことがありました。つまり、小さいころからブッダのような完全な人格に憧れていて、自分にずるさや嘘を感じると、ひどく自分を責めるようなことがありました。 そのあたりは他の人もみん
かっこいい人生訓とか、難しい哲学とか、そういう話ではないんです。いわば「今ここを楽しむ」と言った方が感覚的には近い。それがなかなか難しい。言うほど簡単ではないと感じています。 何かを見ようとすると、ますます見えなくなることがあります。物事が見えるようになるには、透き通った目が必要なのですが、見ようとする努力が(それが必要なのにもかかわらず)、力みになって目を曇らせてしまうようです。 いろいろ理由は考えられるでしょう。それはこういうものが見えるはずだとどこか想定していることであったり、見るということそのものにのめり込んでいたり。つまり自然の態を失っている。そうではなく、風に合わせて飛ぶ、波に合わせて乗る、音に合わせて踊るという感じが今を見ている、感じているということかと思います。 これが格闘技に例えられたりすることがあります。普段は型にはまった練習をしてきても、試合当日はまったく新しい、その
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