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アメリカ大統領選
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前記事「いじめ」の構造を気づいた範囲でいくらか補う。◆中井久夫「トラウマとその治療経験」(初出2000)『徴候・外傷・記憶』(2004)所収より。「いじめ...前記事「いじめ」の構造を気づいた範囲でいくらか補う。 ◆中井久夫「トラウマとその治療経験」(初出 2000)『徴候・外傷・記憶』(2004)所収より。「いじめの政治学」(……)この論文は、ひそかに、自殺まで思ういじめられっ子と教師とに読まれることを思って書いたものである。せめて、その子が全くの孤立者と感じないように、遠くから、きみの苦しさはわかっているよ、それはきみが弱いからではなく、卑屈でもなく、いじめが、そもそも理不尽なほど、いじめ側に有利な構造になっていて、きみはフェアであろうとして自分を責めるのはお門違いだよ、と、いかにいじめ側が優位に立ち、いじめられる側の基盤を掘り崩してゆくかを具体的に書いた。教師には、いじめ側への「無意
いじめで事件が起こる。すると「識者」ぶりたい人びとのご託宣が氾濫する。いつものことだ。そしてしばらくするとあっけなく忘れられる。斎藤環氏が、《毎度毎度、判...いじめで事件が起こる。すると「識者」ぶりたい人びとのご託宣が氾濫する。いつものことだ。そしてしばらくするとあっけなく忘れられる。 斎藤環氏が、《毎度毎度、判で押したように反復される既視感にいささか眩暈が。》やら《識者が担ぎ出されて「やりかえせ」「チクれ」「逃げて良いんだ」とか十年一日の御託が並べられ、若者の病理と変質がみてきたように語られ…すっかり溜飲を下げた人々は1ヶ月もすれば報復感情も癒えてまた忘れる。》と昨晩、ツイートしている。 既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようにあつかうふりを演ずる「識者」たちもいる、―――「まず、いじめとはなんであるかを問わなければなりませんね」、などと。 仮にこの「識者」が一度でも「いじ
読書ノート(ほとんど引用からなっています)。一人称単数を使った場合は半ば「フィクション」です。海外在住。(柄谷〕夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。 むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。 (浅田)理念は絶対にそのまま実現されることはないのだから、理念を語る人間は何がしか偽善的ではある…。 (柄谷)しかし、偽善者は少なくとも善をめざしている…。 (浅田)めざしているというか、意識はしている。 (柄谷)ところが、露悪趣味の人間は何もめざしていない。 (浅田)むしろ、善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそ
読書ノート(ほとんど引用からなっています)ーー一人称単数を使った場合は半ば「フィクション」です。以下、資料:小林秀雄批判(高橋悠治、蓮實重彦、岡崎乾二郎)補遺 ――「批判」と書かれているが、カント的な意味の批判であり、つまり「吟味」、なかんずく「自己吟味」ということになる。 ◆蓮實重彦・柄谷行人対談『闘争のエチカ』(1988)より。蓮實)たとえば小林秀雄が、批評とは他人をダシにして自分を語ることだと言った。あれは嘘なんですね。かりに何かが起こったとしたらば、べつに小林が自分のことを語るために、誰かをダシにしたわけではなくて、結局、彼はそのつど本居宣長になっちゃったり、ゴッホになっちゃったりしている。 そのなり方というのが非常に難しいんで、完璧に同じものになることはありえないから、ある水準をとってみなければわからない。そういう意味で二つの話がそこに入っているんだけれども、関係が逆転する。批評
読書ノート(ほとんど引用からなっています)前回のエントリーで野家啓一氏の文を引用したが、どんな方か寡聞にして知らない(その「名」がかつて頭の片隅をかすめたことがあるぐらいだ)。 少し調べてみたら、氏が柄谷行人に言及したものがあるので、資料として残しておこう。 ◆野家啓一「柄谷行人の批評と哲学」(『国文学』1989年1月号)と題したエッセイ 柄谷は「形式化」の極限において体系がパラドックスに陥り、内部から自壊せざるをえない構造機制を不完全性定理にちなんで「ゲーデル問題」と名づけてい る。かつて『隠喩としての建築』を読んだ時、私はその着眼の卓抜さと鮮かなレトリックには感嘆したものの、「専門学者」としての見地から、彼のゲーデル理 解とその敷衍の仕方には一種の「あやうさ」を感じざるをえなかった。というより、その「あやうさ」が後にエピゴーネンたちによって増幅され、「ゲーデル問 題」が過剰な意味づけ
※前回ポスト(ヤコブソンのコミニュケーション論をめぐって)の補遺 ―――「欲望についてのレッスン」石田英敬(東京大学大学院 情報学環 学際情報学府 / 総合文化研究科 言語情報科学専攻 教授) ◆ヤコブソンの「コミュニケーションの六機能図式」をめぐってヤコブソンの「コミュニケーションの六機能図式」では、コミュニケーションを構成する六つの機能のうち「メッセージそのもの」に焦点が当てられたことばの働きは「詩的機能」と呼ばれ、二つの定義が与えられています。 第一の定義は、詩的機能は、言語による「メッセージそのものの志向」である、というものであり、第二の定義は、詩的機能は、「等価性の原理を、選択軸から結合軸へと投射する」というものです。 ヤコブソンの「詩的機能」は、直接には、言語記号の働きにかかわるものですが、後に、プラハ学派と呼ばれた二十世紀前半の記号学の運動では、絵画や映画など、他の芸術にも、
読書ノート(ほとんど引用からなっています)―――ここからすこしの間は頭の中の対話として述べたい。それは私の発想が在と非在との間をゆれ動いている時期をもっとも忠実に再現するものと思う。それはポール・ヴァレリーの『若きパルク』の冒頭三行である。 すぎゆく ひとすじの風ならで 誰が泣くのか? いやはての金剛石(ほしぼし)とともにひとりある このひとときに…… 誰が泣くのか? だが その泣くときに かくもわが身に近く。 「パルクは深夜にめざめる。おそらく夜の半ばだろう。宇宙の地平に明滅するいちばん遠い星がいちばん近くに感じられ、その他はすべて闇だというなかにめざめる。私が泣くという自己所属性の意識はない。すぎてゆくひとすじのような風にまがう、かそかな泣き声。それは、誰の泣き声なのか。パルクはおのれを知らない。身体のほとんどはめざめていないのだから。しかし、あまりにわが身に近い。ほとんど
読書ノート(ほとんど引用からなっています)蓮實重彦は2005年5月、ソウルで開催された「世界文学フォーラム」(テーマ:平和のために書く)での講演で冒頭の簡単な導入後、次のように語り出す(「『赤』の誘惑」をめぐって)。 「葛藤」や「無秩序」への私の執着は、言語をめぐるごく単純な原則に由来している。それは、ある定義しがたい概念について、大多数の人間があらかじめ同じ解釈を共有しあってはならないという原則にほかならない。とりわけ、文学においては、多様な解釈を誘発することで一時の混乱を惹起する概念こそ、真に創造的なものだと私は考えている。そうした創造的な不一致を通過することがないかぎり、「平和」の概念もまた、抽象的なものにとどまるしかあるまい。 このように述べた後、《「フィクション」という単語の意味をめぐる大がかりな不一致》を取り上げる。今日の理論的な考察の基盤にある西欧的な思考にとって、「フィクシ
読書ノート(ほとんど引用からなっています)しばらく旅行にいっていてインターネットの情報から離れていたのだが、すこし過去に遡ってツイッターを中心に眺めている。 東浩紀は数日前次のように発言している。 震災直後の「これで日本が変わる!」が、「やべえまじでこれでも変わらないのかよ……」に変わりつつある。(単なる感想です、むろん変わるべきだと思ってます)「日本は変わる必要なし、前のままでよし、日常も戻る!」と国民の多くが思っているなら、それはそれでいいと思います。ぼく自身はそんな国はうんざりだけど、なら出てけってことなんだろうから、となるとぼくなんて出ていくほかないんでしょうね。バカくさ…… あるいは、ぼくは震災前は文学者や哲学者の非合理的なロマンティシズムをアホくさいと主張してきたが、震災後は、TLに溢れる経済学者や法学者や経営者たちの合理的 (悟性的)判断に対して、悟性判断には内在的に(システ
読書ノート(ほとんど引用からなっています)◆中井久夫の「災害がほんとうに襲った時」(阪神大震災に際しての記録)より抜粋。 【初期の修羅場(1995年1月17日夜――1月18日)】 有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。初期ばかりではない。このキャンペーンにおいて時々刻々、最優先事項は変わった。一つの問題を解決すれば、次の問題が見えてきた。 「状況がすべてである」というドゴールの言葉どおりであった。彼らは旧陸軍の言葉でいう「独断専行」を行った。おそらく、「何ができるかを考えてそれをなせ」は災害時の一般法則である。このことによってその先が見えてくる。たとえ錯誤であっても取り返しのつく錯誤ならばよい。後から咎められる恐れを抱かせるのは、士気の萎縮を招く効果しかない。現実と相渉ることはすべて錯誤の連続である。治療がまさにそうではな
読書ノート(ほとんど引用からなっています)◆ネット上で拾える文献からいくつか抜粋する。 【混乱のスパイラルが起こる可能性】 今回の震災においては、家族が同一場所にいた場合が多く、このことは9割といわれる市民救出を可能にした最大の要因である。そうして安全の確認と、関心の増大とが自己、家族、隣人、職場、地域というふうに、同心円的に拡大していった。仮に、多くの者が自宅以外に存在したならば、このような順調な同心円的拡大が進行したか、はなはだ疑問である。家族の安否の確認を急ぐ者、まず帰宅しようとする者で、大きな混乱が起こったに違いない。そのために大きな機能麻痺が生じただけでなく、市民救出も迅速十分に行われなかった可能性が高い。ここから、混乱のスパイラルが起こる可能性は低くない。[中井久夫「こころのケアの推進」『阪神・淡路大震災 復興10年総括検証・提言報告(3/9)』 【パニックを防ぐ要因】 振動音
読書ノート(ほとんど引用からなっています)ジジェクの『身体なき器官』を読んでいて、もっとも私は英語版しかもっていなくて、わざわざいかがわしい私訳でこの場にまとめるわけもいかず、すこしネット上を検索したのだが、6年ほどまえ、すばらしく上手にまとめられている人のHPがみつかった。「 身体なき器官なき身体なき・・・」三つに分けられているが、ここでのリンクは最初の(1)だけ。続きはリンク元から読んでください。 そのまま引用してみよう。 ◆まず、ラカンの前期ドゥルーズ(ガタリと組む前の、つまり『アンチ・オイディプス』以前のドゥルーズ)評価の指摘箇所。 ラカンがドゥルーズに触れた機会が二度ほどあります。一度は1967年4月19日。ドゥルーズの『マゾッホとサド』に関する非常に好意的な論評です。「しかし驚くべきことではないかと思うのは、こうしたテクストが本当の意味で、私が今実際に、今年切り開いた途上でいう
読書ノート(ほとんど引用からなっています)凡庸と愚鈍について、すこし整理しておきます。 もともとこの言葉は、蓮實重彦の『凡庸なる芸術家の肖像』に由来する。それぞれが個別に使われる場合は、別の意味合いをもつ場合は当然あるが、すくなくともこの語が、二つ並べられて語られるときは、蓮實重彦の文章による叙述は欠かせない。そして、そこで書かれているのを単純に言えば、凡庸と愚鈍は反意語、といってよい。 『凡庸なる芸術家の肖像』の主人公は、マクシム・デュ・カン。彼はフローベルの友人で、晩年はアカデミー・フランセ-ズ会員に選ばれる「芸術家」ですが、いまではほとんど忘れられた三流文学者、そして旅行家やら写真など、当時の先進的なアーティストとして振舞った人のようです。それに対して、フローベルは、書くまでもありませんが、もちろんアカデミー・フランセ-ズ会員などには選ばれず、書くという行為だけをもくもくと頑固に続け
読書ノート(ほとんど引用からなっています)◆まず前段、「幻想」をめぐって(ジジェク『ラカンはこう読め!』 鈴木晶訳 より) 人間の主体性を特徴づけているのは(……)外部と内部を隔てている差異、つまり幻想がその最も基本的レベルにおいて主体にとって接近不能なものになるという事実である。ラカンの言葉を借りれば、主体を「空虚」にするのはこの接近不能性なのである。(……) 生起する諸現象は、主体の現象なのではなく、主体にあらわれる現象である。そこに主体が含まれていないということではない。だが主体はまさに排除され、分割され、彼あるいは彼女の内的経験のいちばんの中核を担えない審級になっている。 ここでは、まず一般的なラカンの他者と欲望をめぐる叙述を「セミネール不安」から引用しておく〔ラカンは自らのことを<私>とせず<ラカン>といって語っている)。ラカンにとっては、言わしていただければ、ラカンは分析家です
読書ノート(ほとんど引用からなっています)●ジャック=アラン・ミレール「エル ピロポ」より。(未公開論文試訳、「精神分析サークル」でパスワードを取得する必要あり) ミレール -「女La femmeは存在しない」という取り扱いに注意を必要とするラカンのこの公式を、ピロポを利用して皆さんに紹介しました。存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。たしかにこれは難しいことです。ラカンはこのことをイタリアで説明したところ、次の日の新聞に『ラカン、女は存在しない、と言う』と大きいタイトルで出ました。 これについては、それ自体かなり不可思議なピロペアーダというこの女を取りあげてみなさんに示唆するにとどめておきます。男については「すべての男を一つにまとめる」ことができるが、女についてはそれができない、と言えるでしょう。本来ならば、性に関する、そして
読書ノート(ほとんど引用からなっています)前にも書いたけど、15年前、日本を脱出して、長いあいだ、日本のことはこちらの新聞に出ていることくらいしか知らなかった。インターネットで、日本の情報に接するようになったのは、この一年ほどに過ぎなくて、その間、以前はほとんど知らなかった名前と、その人がどんな人か、をネット上の情報だけだけれど、知るようになった。今、思想・評論・批評に関係する人だけをあげると、こんな具合だ。 東浩紀 斉藤環 茂木健太郎 内田樹 松岡正剛 千葉雅也 もちろん、彼らのそれぞれは、私などまったく比べられないほど、勉強しているわけで、批判などおこがましいのだが、すこし、それぞれの人への感想を書いてみる。まあ、著書などは、ほとんど読んでいない感想なので、偏見のかたまりみたいなもんだけど。 もっとも斉藤環と東浩紀は、『批評空間』から出て来た人だから、すこしは知っている。 ●東浩紀の9
読書ノート(ほとんど引用からなっています)Balthusは、「バルチュス」とも「バルテュス」とも書記されるようだ。ここは、まず浅田彰の散文的な紹介から。2月18日、バルチュスが92歳で死んだ。リルケやジッドの薫陶を受けて育ち、ルネサンスの巨匠たちからクールベに至るヨーロッパ絵画の伝統を深く継承した、最後の大画家。だが、だれもが口にするこの呼び方には、いささか違和感がある。きわどい姿の少女を奇妙に稚拙なタッチで描いた初期の絵画などを見ると、巨匠というよりほとんど変態画家といったほうがいいくらいなのだ。実際、彼はそういう個人的なオブセッションを生涯にわたってキャンヴァスに投影し続けただけではないのか。そのオブセッションこそが、あれらの大画面の否定しがたい迫力の源泉だったのではないのか。 そんなバルチュスが、西洋絵画の写実的伝統を継承する最後の巨匠として惜しまれるというのは、歴史の皮肉と言うべき
読書ノート(ほとんど引用からなっています)私はたいして絵画をみるほうではない。しかし、いくつかのとても好きな作品というものはある。が、今はそれらに触れない。 ツイッターを契機に、村上隆氏の作品を知るようになった。最初は、なぜこのような作品が好まれることがあるのかと訝った。それは巷間で決まり文句のように言われるように、旧来の「絵画」、「芸術」にたいする嘲笑、侮辱のようにも思われ、見て見ぬふりをする人が続出するのも当然だと感じた。 しかしツイッターでの露出は多い。ふとしてはずみで、そこにリンクされている画像をみると、なかには、おや、これは捨てたものではないぞ……というものが出てきた。その印象がどこからくるのか、私には表現できない。 ところで浅田彰はこんなふうに書いている。村上隆は、1990年代半ば以後、日本を代表するアーティストとして世界的に注目されているが、それはけっして不思議なことではない
読書ノート(ほとんど引用からなっています)中森 東は浅田さんが編集委員を務める『批評空間』が売り出した批評家なんだから、もうちょっと教育したら。それとも、個人的に迫ったけど、ふられたとか(笑)。 浅田 いや、あれはおニャン子のおっかけで自宅まで行ったような本物のおたくだよ。それに、僕としては過保護に近いくらい面倒を見たつもり。柄谷は「父」だから、「面白いから書け」と言うだけで、書いたものは読まない。それは「父」としてはいい態度じゃない? で、僕はいわば「兄」として意見を言って、デリダはラカン-ジジェクの線に近いとか言うからそれは逆なんじゃないかって言ったら、逆であるという本ができたわけよ。それをあれだけ褒めたんだから、本が出た後、批判する権利はあるよね。ところが、ちょっとでも批判的なことを言うと、ヒステリーの発作が起こるわけ。「こんなに頑張ってるボクをなぜ褒めてくれないの」って。「エヴァ」
読書ノート(ほとんど引用からなっています)However, the thing to add immediately is that the desire staged in fantasy is not the subject’s own, but the other’s desire, the desire of those around me with whom I interact: fantasy, the fantasmatic scene or scenario, is an answer to “You’re saying this, but what is it that you effectively want by saying it?” The original question of desire is not directly “What do I want?”
徒然なるままに何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞いがちであります。たしかに、そうすることで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解したかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥りがちなのです。 だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態たといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」になるためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされて
徒然なるままに分裂病親和性を、木村敏が「ante festum(祭りの前=先取り)的な構えの卓越」と捉えたことへの応答部分。中井氏は先取り的構えの優越=兆候空間優位性を次のように定義する。「もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前する如く恐怖し憧憬する」。 …ここで先取り的な構えの長所と短所をもう少し具体的にみるために、一次近似的モデルとして、入力の時間的変動部分のみを抽出し未来の傾向予測に用いられる「微分回路」の諸特性をとりあげてみよう。ただし私は電気工学には全く素人なので誤解がないとはいえない。また「微分回路」が一次近似にすぎないことは、回路は入力が外に発生することを前提とすることからも明らかで、人間においては入力が”回路”内部にも発生することが問題である(要するに思考や情動や、すべて認知の対象となる”内的事象”のことだ。) 系統発生的には、おそらく積
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