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(※この原稿は、オタク大賞マンスリーの『ガルム・ウォーズ』特集のために用意されたものです。実際に壇上で喋った内容とは異なっている部分があります。あくまで参考としてアップします) 押井映画のSF的な三つの要素 1、神を探求する、という、日本SFのテーマ。 山田正紀、小松左京、光瀬龍らの影響を押井守は公言している。 神の国ではなくなった戦後日本における、形而上的・宗教的なものへの探求。226事件や、三島由紀夫への共感も、そのような「意味」の問題として捉えるべきである。 〈ケルベロス・サーガ〉のあとがきなどを参照すると、「犬」とは、そのような形而上的な探求をしてしまう存在のメタファーでもあることがわかる。犬は飼い主を探してしまう本能を持っている。同じように、人間も自身の主人、自身の行動に意味を与えてくれる「神」を探してしまう。それどころか、作り出してしまう。このことは、押井映画それ自体を表してい
平成27年3月から現在に至るまで、インターネット上の匿名掲示板2ちゃんねる上において、私を誹謗中傷する悪意のある記事が繰り返し投稿されています。まずは、私の家族、友人の皆様等たくさんの方々からあたたかいご支援及び励ましのお言葉を頂戴いたしましたことを、心から御礼申し上げると共に、各方面の皆様にご心配をお掛けしましたことをお詫び申し上げます。 私を誹謗中傷する記事があまりに悪質で、数が多く、かつ長期にわたりなされたため、私個人の判断において弁護士を通じて発信者情報開示請求訴訟を提起した結果、開示対象のすべての記事について認容判決を得、3名の発信者情報が明らかとなりました。なお、判決において、これらの記事が私の名誉権を侵害するものであることに加え、記事に記載された内容が真実ではないことが認定されております。 したがいまして、私に対する誹謗中傷の記事は、全くの真実ではなく、少数の者による害意に満
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「伊藤計劃以後」に大変腹を立てているブログを見つけたので、いくらかの反論を書きたいと思います。 ■伊藤計劃はキリストを超えた。わけあるか。くたばれ。 http://anond.hatelabo.jp/20140308193257 以下、引用。 彼の死後、同社より、関連書籍の刊行が相次いだ。 『伊藤計劃記録』をはじめとして、ブログ及び個人ページに書きためていた映画評、 同人雑誌への寄稿が次々と出版され、多くの読者たちの手に渡った。 『記録』の主な素材は短編小説のほか、彼のブログに重ねられた書き捨ての文章である。その時既に彼の文章は死者の書物として上書きされていた。 だが、それらの文はインターネット上といえ、確かに人に見せるために彼自身の手により発信されたものだ。公開できるものとして。自らの分身として。 豚はその皮を食い破り、腸を捕まえる。裂け目から沸きだした臓物の汁の一滴まで啜り続ける。 そ
私は、田舎者です。文化果つる地である北海道より、東京の華やかな文化に憧れて上京した、典型的な田舎者です。まぁ、文化果つる地とは言っても、政令指定都市である札幌市の郊外なので、そんなに果てているわけではないのですが、自転車で少し走れば牛がいる、畑が続く、山に迷い込む、そんな場所でした。 で、故郷については「こんなとこには文化はねぇ」みたいな気持ちもあり、東京に来たわけです。本の品ぞろえ、美術館の量、街の活気、学術研究の質と量、小劇団、ファッションの多様性、建築の優雅さ……。まぁ、東京は、いいところなわけです。文化や学問、芸術が自然と生活の中に溶け込んでいるような感じがする(北海道と比較して)。漁村や農村ではこんな生活はできまい。そしてこれを目指してこっちに来たんだから、地元は一種、諦めている。毎回毎回、飛行機で帰るたびに、変化はないし、衰退している感じがするし、駄目だこれは、東京みたいになる
現在開催されている、福島県の土湯で開催されている、アラフド・アートアニュアルについてのシンポジウムでしゃべらせていただいたものの原稿です。2013年8月31日に東京大学情報学環・福武ホール ラーニングスタジオで、北田暁大さん、鉾井喬さん、CAMPの井上文雄さん、藤井光さん、ユミソンさんと行いました。その基調講演の原稿です。「関係性の美学」については、ぼくの雑駁な見解に対し、藤井光さんが見事な要約と文脈捕捉でより適切な理解を示してくださったことを補足いたします。 「コミュニケーション/コミュニティ化するアート」への、一批評家の、ちょっとした疑問 藤田直哉 どうも初めまして。批評家の藤田直哉と申します。美術批評を専門としている人間ではありませんが、AR美術作品で高く評価されているni_kaさんと行動を共にしていることが多いため、様々な現代アートの作品や、若手と出会い、お話する機会などを得てきま
1月20日の神山睦美さんと笠井潔さんのトークショーで、現代の叛乱の場はネットに移っているのではないか? という議論をしたかったのですが、時間が来てしまい、その話に入れませんでした。実は「日本オタク大賞2011」での話とも接続させたかったのですが、「日本オタク大賞」でのトークも駆け足で、色々と紹介するものの背景にある「大きな動き」についての「解釈」を話す時間がなかったので、事前に用意した原稿に加筆修正してアップしてみます。話したかったのは「ネット一揆」の傾向についてでした。 今回からネット・活字の部門を担当させていただくことになりました藤田直哉と申します。よろしくお願いします。 基本的にぼくが今回紹介するのは、ネット上の騒動を中心としたものです。特徴として、作者と消費者のあり方などを巡った争いが多い年でした。 昨年の顕著な特徴というのは、「ネット一揆化」が著しく進んだということといっていいと
僕は美術に関して素人である。素人であることを発言の内容に対する免罪符にするつもりはない。素人ではあるが、素人なりに美術を楽しんできたつもりである。門外漢であるが、門外漢であるが故に、言えることはあるだろう。特に、コンセプトや開催概要、理念などについては、色々と言える部分があると思う。一応、文章を吟味=クリティークし、価値判断を下すということで、お金をいただいているわけであるし、その方法論について、多少は勉強する機会もあったのだから。 問題にしたいのは、札幌ビエンナーレと、そのプレ企画の「表現するファノン――サブカルチャーの表象たち」についてである。とは言え、「問題にする」あるいは「批判する」ということを、ネガティヴな意味で捉えていただくと、意味が違ってくる。人が批判、あるいは批評をするとき、その基本的な動機には二つのパターンがある。1、ある期待のラインが高いので、それに向けて鼓舞したいとき
そろそろ印刷も終わり、配本が近くなってきました。それなりの部数を刷っているので売り切れる心配はないかと思いますが、予想外の量の注文が来ていて、ひょっとすると、増刷するまで入手困難になるかもしれません。予約いただいた方が安心かもしれません。 また、日本SF作家クラブ公式WEBマガジン「SF prologue wave」に、本書の趣旨と特色、それから編集意図と内容紹介を書かせていただきました。20枚近くありますが、それぞれの論や文章がどのようなものなのかお知りになりたいかたは、是非読んでいただけると幸いに思います。 http://prologuewave.com/archives/989 なお、DVDのコメンタリーみたいで恐縮ですが、あくまでこれは藤田個人の見解であり、監修者・編者全員の意見ではありません。また、紹介の内容が誤解を招くものであったり失礼なものであった場合、責任は全て藤田にありま
例えば、僕がナチスの台頭期の少し前、誰もこんな集団が政権をとるなんて思いもしていないときに、近くにいたとする。そこにいるカリスマのヒトラーは、画家として失敗し、そして支離滅裂な言動を行い、そして信者を獲得し、大きなうねりとなった。 僕が、そこにいたとする。そして、その理論や行動が、いかにインチキで、どんなに問題があることか気づいてしまったとする。そこで、僕が批判を行う。すると、ヒトラーは心が弱いので、自殺を仄めかす。 ここで追求をやめるのは、倫理的か? 相手が精神の病かもしれないと思ったときに攻撃をやめるのは、倫理的か? 僕の心は、当然同情に動く。しかし、ここで見逃すとどうなるのか? 「21世紀に生きている僕」はその帰結が分かっている。だが、その当時の「僕」は将来のことなんてわからないだろう。予感はあるかもしれないが、確定した未来は知らない。 「21世紀の僕」は、そこで追い込んで殺せば、巨
梅ラボ騒動まとめ http://togetter.com/li/138228 玄米茶氏による問題点まとめ http://togetter.com/li/147009 http://togetter.com/li/148099 梅ラボの言い訳。 http://d.hatena.ne.jp/umelabo/20110520 http://d.hatena.ne.jp/umelabo/20110524 代表:黒瀬陽平と藤崎嘘の言い訳。 http://www.ustream.tv/recorded/14883763 キメこな騒動まとめ http://togetter.com/li/138228 その後のカオスラ批判藤田直哉無双まとめ http://togetter.com/li/138897 http://togetter.com/li/138925 http://togetter.com/li/
9月6日発売の『ダ・ヴィンチ』10月号より、「SUPPLEMENT FICTION」と題して、「あなたの人生の役に立つSF」を新井素子さんと対談形式で一年間連載を開始いたしました! お手にとってお読み頂けたら幸いです。一回目は「美容SF」です。 二回目以降も、興味を持っていただけるようなテーマを頭を絞って考えて、作品も必死にいいものを選んでおります。乞うご期待!
ミステリ作家であり、最近ではミステリ評論二本が受賞されている知性派作家であり、限界研の顧問格でいらっしゃる小森健太朗さんが、美少女ゲームを結構マジで作られたようです。プロ作家で、ラッセルもライプニッツも読みこなしてガチの論理で攻める『探偵小説の論理学』の作者と同じ人とは思えません。随分以前から作っているというお話は伺っていたのですが…… 夏コミで売る、しかも美少女ミステリ、という、この振れ幅はハンパじゃないです。しかし、デビュー作が『コミケ殺人事件』なので、必然なのかもしれません。僕も見習って、自主制作映画とか作るべきかもしれません。1億ぐらい資産があったら、ガチで戦争SF映画を撮りますよw ザクティで! 夏コミケリリース!!美少女ミステリ・ノベルゲーム 8月14日(土) 東地区 V58a 「ネメシスの哄笑R2」 『ネメシスの虐笑』 原作・シナリオ--小森健太朗★ グラフッィク──早真さと
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人間、社会との繋がりが希薄になると少しずつ精神的に参っていく。これは、以前に1ヶ月くらい外国に一人で滞在したときに自分もそう思ったし、自分の家族がしばらく無職になって一人で家に籠っていたときにそういう状態になって、自分でなくてもそうなんだなと感じた。そういう時にインターネットが果たす役割は大事って思ってるというか、そう思ってないと今の職業できないんだけど、一方で、逆にそのインターネットでの中途半端な繋がりが本人をより追い込むことにもなるなあと感じることもある。隣の芝は青いというのと同じ感じで、人間は、中途半端に見聞きしたものに対して、勝手に自分の中でイメージを作り上げてしまう。駄目になった人間関係、別れた人、辞めた会社、諦めた夢、もうやらないと決めたこと etc、本来そこできっぱり断ち切って、入って来る情報とかも全部断ち切ってしまえば徐々に風化していくはずなんだけど、時に今のインターネット
東京芸術大学の公開講座Speculaを聴講してきた。池田剛介さんと千葉雅也さんが毎回討議者として参加しつつ、各方面の方々と討論する当企画。今回は「セカイ系という想像力」というテーマで前島賢さんと黒瀬陽平さんがゲスト参加。『社会は存在しない』というセカイ系論集を一応共著で出してもらった身としては、聞きにいかねば、という感じで聞きにいった。 全体の大雑把な感想は省略するが(前島氏の著作『セカイ系とは何か』の要約と、後半のユーモラスかつ戦略的な切り返しの妙技が冴えわたっていた)、池田氏が『社会は存在しない』所収の佐藤心論文に言及し、「崇高」のテーマについて語っていたところは、もっと聞きたいと思った。あの場で絵が出ればよかったと思うのだけれど、セカイ系の特徴として前島氏や前田久氏が特権化する「空」の表象と、池田氏の出されたターナーやフリードリヒの絵は確かに親和性があると思う(こんなの)。そして無限
twitterでスクールカースト問題について海老原豊氏と議論していた。「スクールカースト」とは言うが、それが従来の「カースト」であれば、「アウトカースト」(カーストに属さない者)が存在するはずである。アウトカーストは、一般的にはカーストの外部に存在し、「不可触民」とされている。それは貧困などの問題に晒されているかもしれないが、基本的にカーストの「外部」であり「最下層」ではない。日本でも伝統的に芸能や宗教を担っていた人間たちはここに属していたのではないかと思われる。あるいは「道化」や「王」もアウトカーストに入れてもいいのかもしれない。道化はカーストに属さずに好き勝手を言える人間として、王の傍にいる。そして王はその「カースト」に正当性を与える規準なのだから、それ自体はカーストには属していない。ざっと見て、このように、カーストの「外部」というものは歴史上は存在していたように思う。それは「聖」や「
(註、このエントリーはジェンダー理論、フェミニズム理論的に問題がある場合があると思いますのでご注意ください) 最近、対称性が破れた人と出会う機会が多い。具体的に言えば、同じことを自分がしていることには鈍感なのに、相手がそれをすると怒り狂う人とかである。自分の行為と他人の行為とに対称性が成立していないのだ。一言で言えば「自分のことを棚にあげている」人である。特に、評論とかに関わってから、そのような人に会うことが著しく多い(しかし一線で活躍されている方はさすがにこれはあまりない。どちらかというと志望者に多い)。それは自分を超越的な場に置き、その特権的な場所で「批評されない」で「批評する」ポジションに酔いたいだけなのだろうと、なんとなく考えていた。笠井潔の『テロルの現象学』ではないが、ある種の劣等感や屈辱の裏返しとして自分を「特権的」な安全なポジションにいるのだと錯覚してしまうという現象はよくあ
両作品が対照的で同じような現代的テーマを扱っていて面白かったので、簡単に感想をなど。『あなたのための物語』を評価するのは結構僕自身は両義的である。「純文学」としては文章や描写が殺伐としている。「エンターテイメント」としては、展開などがフラットすぎる。しかしそのフラットさが、作中にもある「平板化」とあわせて、ある意味を持っているところが、評価の迷うところ。基本的に、SF読者が期待しそうな「科学による解決」を全部外していくことによって作劇がされている。そこを評価するかどうか。 主人公のサマンサは、人間の脳に人工神経を形成し、それをコンピュータ言語に変換し、人間とコンピュータを繋ぐ装置を開発している。物語は死の病によって身体を蝕まれていくサマンサと小説作成人工知能「WANNA BE」との関係によって進む。この物語は基本的に「この私」と「身体」の問題系に帰結すると思う。例えば自分の人格をコピーした
■「限界ザクティ革命」の中でも話しているのだけれど、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』と『トランスフォーマー/リベンジ』について色々考えていた。この動画の中で僕は、どちらの作品も、コメディ的で萌え的でもある「日常」と、「戦争」が一直線に結びつくというセカイ系構造を共有していて、(特に『宇宙戦争』は完全にそうなのだけれど、その比較は原稿に書いたので、ここでは言いません)中間領域に当る部分が「軍隊」で占められているのは不思議に思っていた。特にヱヴァは、過剰なまでの電線と稼動する都市という、エレクトリックメディアが強調されているように思った。特に、使徒もCG性が強調されていた。 前のエントリで名前を出した『ナコイカッツィ』を見返していて、やはり、CGと軍隊とが重なって描かれるのは理由があることのように思った。このクリップを見てもらうのが一番早い。 このLife as warと題している作品では、日
とあるところに書いた原稿のアウトテイクです。ゼロアカ三次論文「非現実の祝祭」で考えていた、SF・文学とインターネットにラインを引くという構想の続きとして書かれたものです。ただ、あまりに知識不足などのため、構想自体が全く止められている状態であり、この文章自体はあまりにも文章がひどいので、没原稿だとお考えください。この方面で物事を考えていますよというアピール程度にご覧ください。「SFとインターネット」に関しては、いずれもっときちんとした形で調べてきちんとした原稿にしたいと思っております。 ・SF表象におけるサイバースペースと宗教性 サイバースペースと宗教性は、従来のSF的想像力の中でも近しいものと表象されてきた。ウィリアム・ギブスンのサイバースペース三部作二作目『カウント・ゼロ』は、サイバースペースに多神教的なヴードゥーの神々が現れるものであったし、士郎正宗『攻殻機動隊2 MANMACHIN
松本人志監督作品『しんぼる』を観た。北野と比べ、映像のセンス(構図)や編集のキレの弱さは目立つものの、大変面白い映画だと思った。しかしながら劇場はガラガラで、ネットでの評判も、一部の評論家の評判もひどく悪いようだ。どうもこれは擁護しなくてはいけないのではないかと思いつつ、連れと喋って色々と松本作品について考えたことをメモとして記しておくことにする。 映画の基本構造は不条理もの+シュールレアリズム的なものと考えてもいいだろう。『キューブ』のような密室不条理ものを寓話として提出している。作品全体は、死後の世界か夢の世界のように展開する。しかし、フェリーニやリンチとは大きく違う。それは、映像全体が「夢」や「狂気」のメタファーとして受け取れるようには描いていないというところにある。映像が寓意や隠喩を持つ映像的無意識のようなものを示してはいないのだ。映画というのは基本的に夢と相性のいいメディアだが、
お久しぶりです。最近ブログの更新が滞っていましたが、それはアイデアや思考が実戦投入されていたからです。少し飲み会とかイベントとか控えて、考えていることを論文にしてまとめようとしていると、ブログとか呟きに書くアウトプットも減ってくるという現象が起こってしまいました。何年もブログをやられているライターや評論家の方が、あまりブログを更新しないのも、なるほど、商業媒体に原稿を書いているとそうなるのだな、忙しくて売れっ子になるとそうなるのだな、と売れっ子でもないのに思っていました。 今回は時々やっている「コンシューマーゲームについて考えてみました」シリーズです。コンシューマーゲームと言う言葉で、まぁいわゆる「美少女ゲーム」以外のゲームも論じてみようぐらいの意味を込めています(ちなみに、筑波批評社の新刊「ゲームの思考」は勉強になりました)。ほとんどノートなので、詰めが甘いところはご寛恕ください。今回は
今、最後までこの記事を書いて、結構熱い文章だったのに、操作ミスで文章が全部消えて、マジでテンションがなくなっている藤田です。講談社BOXさんにご恵投いただいた至道流星さんの流水大賞作『雷撃☆SSガール』を読んで、現代における「システム改変的想像力の作品群」の重要性について延々書いていたのですが…… 仕方ないので、要点だけもう一度書き直すことにします。 現代において、エンタテイメントの想像力が、セカイ系からバトルロワイヤルのモードに変化しており、それは社会を反映しているのだというのが、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で提示した見取り図であった。そしてそのバトルロワイヤルの「決断主義」の時代において、それをもたらした小泉改革のような新自由主義の政策自体は不可避だと捉えた上で、小さな共同体を作り、そこを新自由主義的なもののバッファにするという『ラストフレンズ』を代表とするような作品を、宇野は「生き
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