サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ノーベル賞
game-scope-size.cocolog-nifty.com
「ビデオゲームはプレイヤーが自分で操作して世界と干渉するためもっとも物語を味わえるんだ。双方向的だから一方向だけの映画や漫画や小説の物語よりも豊饒なんだ」というような物語論の部分で簡単にビデオゲームならではの利点を語るのをしばしば見かけるのだが、しかし詰めのところでそれはまったくの逆の評価となる。むしろそれはビデオゲームならではの弱点ともなりうる点だからだ。 なぜならビデオゲームで干渉出来うる部分というのは結局のところ限られているうえに、搭載されている物語や登場人物の性格、世界観といった部分と根本の部分であるゲームメカニクス・システムというのは確実に相反しあう。ゲームプレイヤーが実質的に干渉しているのは物語ではなく、ただゲームメカニクスそのものだけだ。RPGのルールであるザオリクだけが”死”と名付けられた戦闘不能のステータスを戦闘可能にするだけであり、パパスをゲマに殺された”物語”から救う
「anodyne」はゼルダのゲームデザイン引用どうのこうのなんて話からスタートしてもどうだっていいことで、むしろこれは「ドラゴンクエスト」にとっての糸井重里の「MOTHER」、「バイオハザード」にとっての須田剛一の「killer7」みたいなもので自分が表現したいもののために既存のデザインを使っているタイプのゲームだ。 そうしたビデオゲームがゲームメカニクスを越え、プレイヤーの深層心理にまで食い込んでくる印象を与えたように、このゲームも相当に内省的である。ここのところのインディーズ界隈は何故憂鬱さや逃避的なチルウェイヴ的な作風が少なくないのか?ということ込みの「anodyne」のレビュー。 このゲームが内省的で陰鬱さを抱えたムードに包まれているのは「anodyne」というタイトルの意味の時点でよくわかる。 「anodyne」とは日本語に訳して「痛み止め」「鎮痛」という形容詞や名詞を意味し、そ
「the last of us」「the walking dead」などアメリカのポストアポカリプスの精神に繋がる文学・コーマック・マッカーシーの小説~映画「悪の法則」まで もう北米のビデオゲームシーンから世界の終わりをサバイブする体験が数多く繰り出されたのだが、ここのところ「the last of us」や「the walking dead」ゲーム版などは単なるゾンビが覆いつくし、破滅した世界を生きるというジャンル映画やアクションやアドベンチャーといったジャンルゲームの領域を超えた構成を取っており、そしてもちろん「主人公が追いつめられた状況の中で少女と出会い、生き抜く中で擬似的な親子関係を紡ぐ」というところまで似通っている。 さらにこの2作がインスピレーション元にしているのでは?と一部で語られているのが「the Road」という小説だ。これは世界がどうやら崩壊した中を、名もなき父と子が残
あなたが自分の家系や先祖を知るなかで分かる、ビデオゲームのストーリーやナラティブという物語の言葉を巡るおとぎ話 近年のビデオゲームは、プレイヤーが技量をチャレンジするためのゲームメカニクス・デザインのドラスティックな進化による新たな快感提供よりも、トレンドは変貌してすでに定型化してるメカニクスから如何に文脈を変えて新たな体験を作るかって方向にあるように見える。 AAAタイトルならばリアリティを表現するために膨大なデータ量によって根源のゲームメカニクス的攻防や都合を見えないようにしている流れがあるとみえ、インディーなど小規模デベロップメント界隈ではメカニクスを別の角度から見直したり、構造を書き換えたりすることで新たな見方やエモーションを作る作品というのが少なくない。 つまり、ゲームメカニクスの攻防による快楽以上に総じてビデオゲームにおける体験と物語の方法ってことが近年注目を浴びているような状
「LIMBO」のクリエイター最新作「140」感想と考察・「ジャンプACT」「音ゲー」「シューティング」の根源をユニゾンさせる実験 白黒の影絵の煉獄を旅するアクションパズル「LIMBO」で名を上げたリードデザイナーJeppe Carlsenの最新作「140」のレビュー。 「thomas was alone」や「proteus」など近年には徹底してミニマリスティックなビジュアルに絞ることで、ビデオゲームの持っているある要素を再構築・再提示するコンセプチュアルな作品が目立つ。 今回の「140」もそれらにたがわずビデオゲームの根源的なある要素を提示させようとしている作品なのだが、ではそれはなんなのか? 基本的にはここのところのiosでも少なくなく見かけるプレイアブルキャラが正方形だけで提示されるみたいなビットのジャンプアクションだ。基本的な進行はシンプルなビジュアルの中でタイミングを合わせてステー
さてオレも「GTAV」を遊んでいるんだけど、ファーストインプレッションはほとんど過去シリーズと相違ない進行であるにも関わらずブラッシュアップされた仕様や演出により新しい体験となっている、という王者のシリーズならではの順当さで特に今の時代にそれはやはり希少だ。っていう、いまのところは公式メディアの言うような当たり障りのない感想ではあるけど。 しかし中でも過去にない新しさというのを感じたのは主人公のひとり、マイケルの造形と背景だ。過去も未来を捨てているか生き延びるために死に物狂いで成り上がるかというこれまでの主人公たちと別に、すでに犯罪稼業からわけあって手を引き豪邸に住み、家庭を持っているという外面には社会的に上の位置におり成り上がっている位置だ。 ここがCJともニコとも違っていて、通常若い主人公が世界や社会と拮抗して物事を理解していくビルドゥングス・ロマンは成り上がるまで(抽象化していえば何
デビルメイクライやベヨネッタはどこから来たのか?「スラッシュアクション」仮設の歴史・序章 発生と成立編 _ここ何年かの日本のゲームの光景を作り上げたのはFFやMGSのムービーをたくさん使うストーリーテリングなんかじゃなくて、もしかしたら鬼武者やデビルメイクライ、真三国無双などのスラッシュと無双がなによりも大きかったんじゃないか? ・スラッシュアクション仮設の歴史 序章・誕生と発展編 ・第2章・かつてのシリーズ復活とジャンル追従編 ・第3章・独立系デベロッパーによるラジカルエクスプロイテーション編 ・最終章・海外勢そしてプラチナゲームス、日本のゲームの光景の象徴編 いつからこの流れが起きたのかの断層もそこまではっきりしてない上に、うんざりするくらい当たり前にこうしたゲームを目にするせいで、ずっと前からあったような気もするアクションゲームデザインがある。不思議なことにここまで多くリリースされ、
さてツイッターを眺めているとこんな発言が流れてきた。 「GTA V」の新映像を観た!凄い、凄すぎる。この自由度こそ、ゲームの未来!もう他とはレベルが違う。正直、落ち込む。僕らの「V」は、この「V」には勝てない気がする。でも、ロックスターの制作チームは最高。間違いなく、ゲームの可能性を引き上げてくれる。 — 小島秀夫 (@Kojima_Hideo) July 11, 2013 なるほど今の日本のクリエイターの中では屈指の技術進歩の垂直方向へのビデオゲームへのクリエイティビティを持つ氏らしく、特に諸海外のトップレベルの作品と張り合っていこうとしている意見を普段から発しているし、このように高度なゲームデザインには賛辞を贈る。 特に「MGSV」は売りに「オープンワールド化」を置いており、そのジャンルのキングである「GTAV」に対してこのツイートであるからちょっとした話題になったけど、しかしこうは言
知られざる「ムーンライトシンドローム」続編「BLOOD+ One night kiss」感想&考察 凍結した日本郊外の光景: 「killer is dead」キラーイズデッド発売直前レトロスペクティブⅡ 「killer7」以降のグラスホッパー・マニファクチュア(以下GHM)須田剛一作品はそのゲームデザイン順序が逆転し、まずジャンルに沿った操作・ルール設定・成長曲線や蓄積&収集といったゲームメカニクスから先に構築し、そこから感情移入先としてキャラや世界設定、シナリオを乗せるというゲームクリエイションの正道になる。「ノーモアヒーローズ」よりアドベンチャーゲームでなく、「デビルメイクライ」のようなスラッシュアクション主体へと転換していく。 しかし「ノーモアヒーローズ」で一つの完成に至るまでは、当時のインタビューなどからうかがい知れる恐ろしいまでの世間に流通しているゲームメカニクス構築のプライオリ
「~年代」という風にディケイドごとに分けて各時代を象徴したカルチャーから時代性を見ていくというやり方はオーソドックスなものだけれど、2000年代というのは何があったか?というのはなんとなくだが簡単にはみんな割り出せないような気がする。それを社会的な背景を反映したものに求めるのか、ネットの発達浸透以降の文化環境の激変を象徴するものに求めるのかで時代性を象徴したものというのは個々人で変わってくるとは思う。 オレが2000年代の初頭から中盤あたりの気分や空気というのをビデオゲームにて思い返すときには、時代の中でシナリオ変更を余儀なくされた「MGS2」でも、オープンワールドというジャンルを決定付け、凍結したかのような街を見せた「GTAⅢ」でもなく、なによりも先に「killer7」が思い浮かんでくる。 既にあの90年代も終結して時代の異質さというのも、コンソール界隈がPS2・ゲームキューブ・XBOX
SFとノワール、そしてアドベンチャーゲームの三つのジャンルが交錯する時、世界と存在が見立てられる:「GEMINI RUE」感想と考察・ SFとノワール(ハードボイルド)というこの二つのジャンル、それは掘り下げて行くと物語の本質として似通うポイントが存在し、近年ではその混ざり合うポイントを意識的に表現にした派生ジャンルとして「ネオ・ノワール」や「サイファイ・ノワール」なんてカテゴライズされる作品が出て来ている。 今回の「GEMINI RUE」というのは決して豪華でも膨大なボリュームのあるものではないし、「LAノワール」だとか「ヘビーレイン」に比べれはB級映画の世界だ。だが、まさにハードボイルドとSFの密接に混ざり合うポイントによって表現された作品なのである。だがしかし、それは単なる二つのジャンルの薄っぺらな表層だけを手触りとして繋ぎ合わせただけではなく、このジャンルの奥底にある、コアのところ
ゴールデンボンバーさえ現れなければファイナルファンタジー15をいつまでも永遠に「カ、カ、カッコイイ(そして失神)」と言い続けられたはずだ さていつまでたっても続報が聞えてこなかった「FF13ヴェルサス」だったが、遂にE3にて「ファイナルファンタジー15」と正式にナンバリングし直されることとなったのだが、今この段階でトレーラーをみたらそれはもうなんというか、古臭いと判断してしまい次になぜか笑ってしまった。 それはもうRPGの段階がスカイリムやバイオウェア作品と言ったレベルにまで底上げされたせいだからか。それともバイオショック・インフィニットのようにナラティブや表現のレベルが底上げされたものを見たせいか。AAAタイトルにて革新的な作品が提出され続けたせいでいつまでも開発しているFFヴェルサスの発表が遅れたおかげで古びて見えるのだろうか。いや違う。 正直笑ってしまった理由はおそらく紅白にも出場し
「Proteus」「Dear Esther」「アクアノートの休日」、もしかしたら「塊魂」などを評価する言葉”インスタレーション” 初期のプレイステーションで見られたものの、やはりゲームデザイン上セールス的に結果を出しづらいものであったゆえに鎮火してしまっていたが、近年のダウンロード市場の活況によるインディーズゲーム界隈にて再び見られるようになってきたゲームジャンルがある。 それはかつて「アクアノートの休日」あたりを嚆矢として現在の「Proteus」といった、ゲームのルールや駆け引きと言ったものをすべて取り外し、あるテーマによって作られた空間を歩くゲームたちのことだ。しかしビデオゲームを遊ぶにおいて、感情移入に必須である細かなキャラクターや演出によるストーリーテリングから、提供されるルールや駆け引きといった要素がほとんどと言っていいほど排除されているこれらのゲームに関しての感想を目にするに、
彼らは皆かけがえのない存在「Thomas was alone」感想・そして「ICO」から思う今のパズルアクションがもたらす物語の考察 基本的にビデオゲームを遊んでいるとき、アクションの2PプレイやMMOのように対人を介してのものは全く別にして、シングルでのRPGなどを遊んでいる時に仲間が仲間を助け合う関係と言うものを、ストーリーの展開ではなく戦闘などのゲームプレイの中で感じることは最近全くなくなった。 これはオレがすれてきたせいなのか。「ドラクエ2」を遊んだ時に、初めてサマルトリアの王子が仲間になってしばらくくらいはゲームプレイ中にそういう「仲間が助け合う」みたいな行間は見えたかもしれないが、RPGなんてやってる手前すぐさまにそれは戦略上の手段や手駒への評価にすり替わる。みるみるうちに戦略上役立たずであったり、または「ドラクエ4」のクリフトの死の宣告呪文を連発するAIのようにズレて行きはじ
「BioShock Infinite」バイオショック・インフィニット感想と考察 「全ての物事は目の前で起こる」偽史と記憶の現代演劇(修正版) 内容に触れていない簡単なレビューはmk2に書きました。 最初のバイオショックはプレイヤー=主人公であると言う徹底した一人称での体験を重視したものだった。対して今作「インフィニット」はブッカーという明確なパーソナルを持つ主人公が多彩なAIによって行動するエリザベスと共に空中都市コロンビアの冒険を描いたものとなっているのだ。 それは舞台が海底都市から天空へと変わったのと同様、プレイヤー=別の他人を操作するという3人称視点への変化を意味する。つまりフルに体験する形よりも、物語を観賞するという立場にシフトしたと言える。 だがしかし、近年のFFやMGSのように物語を過剰なムービーで進めるような分かりやすい演出によるストーリーテリングではない。本作はシリーズ同様
ドラクエで死んだ仲間をザオリクで生き返らせることができるのに、物語中に死んだ仲間を生き返らせられないのは納得いかない ドラクエなどで戦闘中に死んだ人間が出てきた時に復活の魔法なりアイテムなりを使えば生き返らせることができるのに、ストーリーの進行で仲間が死んでしまった場合には生き返らせることが出来ないというのはおかしい。だけどそんなことを言っても、大抵のプレイヤーは皮膚感覚的にそれが奇妙なことであるとは思わない。 物語やキャラクター、表現や演出、世界観の優れたビデオゲームは多数ある。しかし、ビデオゲームにおいて物語や表現が優れていると言ったならば「ではゲームの部分は面白かったのか?」という指摘が巻き起こることも少なくない。 ビデオゲームが提供する物語と表現という部分と、実際にプレイヤーが遊ぶ部分というのを分けて認識されていることが「ストーリーやキャラクターは良かったがゲーム部分が面白くなかっ
新生「tomb raider」トゥームレイダー感想と考察・ブロックバスタームービーと銃撃戦、ともすればレズビアンによるリブート トゥームレイダーはmk2にもレビューを書かせて頂きました。 ソーシャルからインディーまで各所に広がる現在では、コンソールゲーム機でのAAA作品を選ぶときはよほどの革新やひらめきのあるものしか遊ばないようになってしまったが、気がつけば自分でもびっくりするのだがここのところ選んだのが「デウスエクス」 「スリーピングドッグス」 そして今回の新生「トゥームレイダー」となんとスクウェアエニックスパブリッシャーになってるものばかり。 ネットでのゲーム語りによくいるアナリスト気取りのクズがドヤ顔で昨今の業績悪化による和田社長退任劇を受けて「スクエニは海外デベロッパー買い取りは失敗したね」というのを見かけるが、発売されたその内容は決定的なイノベーションをもたらすものではないかも
クソゲーには出来れば出くわしたくないものだろうが、なるべく避けるようにしていても2.3本は出くわすことがある。が、最近は極端なバグが目立つ作品などを別に、最初からコンセプトがおかしくなったまま突っ切った「ゼノサーガEp2」のような心に残る底抜けの大作というのもあまり見なくなってきた。近年のクソゲーオブザイヤーなんか少しも面白くないわけだし、時代ですね・・・ そんな時代ながらふと懐かしく思い出す、数少ないクソゲーが一つある。あれは小学生か中学くらいのことだったかに遊んだGBの「サンリオタイムネット」だ。 しかしふと思い出してネットで色々探しているうちに、良く考えたらこのゲームのとてつもなく恐ろしい側面に気付き、ある意味昨今の時節ではおそらくは発売が不可能だろう思われる時代に乗ったソフトであったのである。サンリオの怖さをみんな分かってない!それはなにか?ということでのGBの一時代のクソゲー回顧
「ゲーム性」は何か?という議論に一言たりとも耳を貸すな・それはビデオゲームの評論全体に付きまとう呪われた言葉 ビデオゲームの批評なり評論なりには、とある言葉が本当に長い間呪いのように付きまとっており、ところどころでその呪われた言葉に関しての議論が黒ミサのようにどこかで行われ、おまけにその呪われた言葉があまりにもシンプルな言葉で議論に参加しやすいゆえに人が集まりやすく、そして結局答えは出ないままに人々が散り散りに分かれたのちに呪われた言葉は伝染していき、またどこかで同じように議論されまた答えが出ないまま終わることを繰り返して今までに広がってきているである。 その呪いのような言葉とは何か?それはそのままシンプルに「ゲーム性」というもの。「ゲームらしいゲーム」なんて言われ方もある。それを巡って多様なビデオゲームの議論の対象になる。非常にそれはシンプル。ビデオゲームが好きで長く遊んでいる人なら少し
海外の「アドベンチャーゲーム・オール・タイム・ベスト100」名作ランキングと、ろくにお互い輸出入されない日本と海外のアドベンチャーゲームの事情(修正版) 海外サイトを漁っていたら大変興味深い企画「アドベンチャーゲームのオールタイムベスト100」があり、主催のサイトの名前もそのまんま「Adventure gamer」 と完全なアドベンチャーゲーム専門の情報サイトによる、記事の作られた2011年12月30日時点のこのジャンルに歴史を残しただろう100本のアドベンチャーが選ばれている。 しかし、日本サイドから眺めてみるとこの文化差にびっくりする。日本からも「逆転裁判」など巧舟作品や「ウィッシュルーム」のCING作品などが選出されているが、昨今はHDゲームでの活躍により洋ゲーと日本との距離感というのは薄まっているようになってきているとはいえアドベンチャーゲームというジャンルはそんな時勢もなんのその
去年の各サイトによるゲームオブジイヤーを振り返ってみて、ノミネートされている中でインディーズゲームの少なくないタイトルが見かけられた。「今のゲームにてクリエイティビティを担っているのはインディーズ」とさえ言われており、実際「マインクラフト」が全世界900万本を売り上げているというニュースなどは特にその中でも内容・セールスともに高い結果を残している。 コンシューマーの純粋な進歩と調和の歴史が完結し始めている中でソーシャルゲームの極端な広まり方とともに興味深い事象であり、いくつか遊びながら感じたインディーズゲームならではの現代ゲームでの勝ち方とはこういうものなのかな、ということの考察。 さてインディーズゲームに詳しい方ならここからの立ち位置の説明はいまさらかもしれないが、現代のコンシューマーゲームがその進歩の中で極めて精微な仮想現実世界を構築し、そして高い没入感を演出しようとするために予算・人
ゲームのルールが面白くて、音楽も印象ぶかく、ゲームを進める原動となるストーリーも面白く、ゲームクリア後の余韻が深く残る作品、それを神ゲーと言って差し支えないのだと思うが、ここのところのインディーズゲーム界隈では・・・・・と言う前置きさえ陳腐と化す、凶悪な完成度を誇るインディーズアクションゲーム「Hotline Miami」。 一見、近年のインディーズ界隈のアクションゲームに有りがちな8〜16bit時代のレトロゲームのインンスピレーションを持ってきたかに見えるし、実際基本的なゲームデザインやゲームルールの構成に関してはその頃のアーケードのデザインを踏襲した作りだ。 しかしこの作品は、インディーズに数多い安易にレトロゲームの手触りを再現していることだけが目的地であるようにはとても見えず、また「スキタイのムスメ」的に現代の目でレトロゲーム時代のジャンル性を脱構築して別の側面を提示するとか、8〜1
海外の「アドベンチャーゲーム・オール・タイム・ベスト100」と、ろくにお互い輸出入されない日本と海外のアドベンチャーの事情 海外サイトを漁っていたら大変興味深い企画「アドベンチャーゲームのオールタイムベスト100」があり、主催のサイトの名前もそのまんま「Adventure gamer」 と完全なアドベンチャーゲーム専門の情報サイトによる、記事の作られた2011年12月30日時点のこのジャンルに歴史を残しただろう100本のアドベンチャーが選ばれている。 しかし、日本サイドから眺めてみるとこの文化差にびっくりする。日本からも「逆転裁判」など巧舟作品や「ウィッシュルーム」のCING作品などが選出されているが、昨今はHDゲームでの活躍により洋ゲーと日本との距離感というのは薄まっているようになってきているとはいえアドベンチャーゲームというジャンルはそんな時勢もなんのそのでこのオールタイムベスト選考の
彼らはゲームクリエイターというよりも、ウォールストリートのヘッジファンドアナリストだ」と評されることも多い。ソーシャルゲーム大手の採用基準に数学科の博士号という項目が並んだのは、採用担当の気まぐれではない。 DeNAの2011年新卒入社44名のうち東大卒19名、京大卒6名と、半分以上がトップ国立大学で占められる。2012年に打ち出した「新卒でも年収1000万円」は優秀なエンジニアを採用するための破格の待遇である。 なぜクリエイティビティを尊ぶゲーム業界において、これほど高学歴な人材を求めるのか。それはマーケティングのあり方が変わり、クリエイティビティよりも情報集積やパターン認識といった学歴と符合する能力が問われるようになったからだと言える。 「ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか 」 中山 淳雄 (著) より グリー・モバゲーの急速な台頭によるソーシャルゲームは以上の元DeNAの人間の新書
「スペックオプス・ザ・ライン」のレビューはmk2にも投稿させていただきました この作品は実際に触れてみると、このブログでも例によって触れたけれど製作者のコンセプトにて言われていた「闇の奥」「地獄の黙示録」をベースにしているということの印象よりも、初期からのリアルタイム3Dレンダリングによるアクションアドベンチャーがその処理能力のレベルにより、必然とモチーフにしてきた表現方法と、そこから導き出された物語、という実感が強い。つまり、「spec ops:the line」は映像・空間的に「サイレントヒル」や「ICO」、近い時代なら「バイオショック」などの直系に連なるものだと思う。 それは何か?ある時は「霧」ある時は「闇」ある時は「深海」などなどに包まれたゲームデザインのことであり、視界が遮られ手さぐりになりながら手がかりを探るなかで、そのうちに現実感さえも曖昧になっていく場であることだ。 そして
というわけで、もしもここを普段見ていらっしゃる方がいればブックマーク変更やRSSの変更をお願いします。 新天地のwordpressの方では話題作「SUPERHOT」の書き散らしや、1月に亡くなったデヴィッド・ボウイの関わったビデオゲームの書き散らしが新たに加わる予定です。グリッチしされたエイデン・ピアースさんが目印になっております。
「EVE burst error」「YU-NO」菅野ひろゆき氏への遅れた追悼・日本のアドベンチャー史の何を変えたのか? 去年の暮れに唐突な訃報が入ってから数ヶ月経つ。オレはここ数年でようやく作品に触れたくらいなんだけど、菅野ひろゆき作品というのは今の時点から振り返ると、今の「シュタインズ・ゲート」から「魔法少女まどか☆マギカ」といったアニメからゲームが当たり前のように使っているストーリーテリングを先行していたことに驚く。 菅野作品は一体何を早い段階で実現していたのか?やっぱ代表作の「デザイア」「EVE burst error」「YU-NO」の3作をメインに語ることになってしまうけど、この3作が今のアドベンチャーゲームはじめ、先のシュタゲやまどマギにまで繋がるストーリーテリング方法を90年代の時点で完成させていたことは確かだ。ということで、アンダーグラウンドのエロゲー・ギャルゲー界隈から凄ま
ゲームのルールが面白くて、音楽も印象ぶかく、ゲームを進める原動となるストーリーも面白く、ゲームクリア後の余韻が深く残る作品、それを神ゲーと言って差し支えないのだと思うが、ここのところのインディーズゲーム界隈では決して誰にでも勧められる作品ではないにしろ、そうした神ゲーと呼ばれるに足る条件を満たした作品が幾つか見られる。 それが今回の「スキタイのムスメ」と「Nihilumbra」の2作で、iosアプリながら明らかにビデオゲームが持っている性質や本質のある側面を全面に浮上させた作風なのだ。ではこの二つの何が本質と性質を引き上げた傑作と言えるのか?の感想と考察を交えたエントリ。 「スキタイのムスメ」 「絶世の大書」を封じ込めるために、夢と現実を行き来しながら三つのトライゴンを集める冒険を描いたアドベンチャー。この三つのトライゴンというのがそのまま「ゼルダの伝説」のトライフォースを反転させたもの。
世間一般レベルでもネット界隈のレベルでも双方にアプローチされてるってことでは、今どき特に貴重な超話題作らしい超話題作「ヱヴァンゲリオン:Q」を観に行って見た。せっかくなので内容を巡ってウェブが荒れているこの流れに乗って見る。ということでの感想と考察。もちろんながら、全面的に内容に触れている。とりあえず上映が終わったあとに客席が低音でどよどよしだすというのはいい体験だと感じたよ。やはり映画は劇場で観るに限る。 まず「いきなりの14年後」だとか、「エヴァに呪われたことでずっと14歳のままに」といった唐突かつ急速な世界観の変貌の発想の理由なんかで面食らわせるところなんだろうが、ちょっと考えればバレバレの実際のエヴァの旧劇場版公開から14年後の2012年現在に繋げるというコンセプトを含ませた話で、「エヴァに呪われている」ってのもジャンルや業界に当てたようなメタフィクショナルなものだろう。新劇場版は
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『GAME・SCOPE・SIZE』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く