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GWの過ごし方
note.com/sensou188
100年以上前に出された日本人への警告が今のことのように思える風見章の信濃毎日新聞社説ー人はなかなか変われないので過去に学ぶとはこういうこと 関東大震災が発生したのは、1923(大正12)年9月1日のこと。その後、朝鮮人の暴動や投毒などのデマが流れ、警察や軍隊もそれを信じて2日までは広報し、あるいは「敵は朝鮮人」と虐殺し、そしてなお多くの民衆が各地で多数の朝鮮人、日本人、それに中国人も殺害したことが知られています。その実数は、当時、政府が隠ぺいを図り、民間の、特に朝鮮人による調査を徹底妨害したことから、永遠に不明となってしまいましたが、数百人規模ではなく、数千人規模になることは間違いないとみられます。 当時、唯一の速報メディアであった新聞も、当初、朝鮮人暴動のデマ拡散に加担する記事を書き(内務省で官房主事の正力松太郎が記者たちに暴動のことを伝えてくれと話したことも後押し)、その誤った認識で
ちょっと島根県出雲市に旅行してきました。出雲大社にお参りして、出雲そば食べて、ぜんざいを食べて、と楽しんでいたところ「これ、戦争の痕跡じゃないか?」と発見していまったのがこちらです。 松に残る戦争の傷跡 出雲大社の正面には、およそ1㌔にわたって飲食店やおみやげ店などが並ぶ「神門通り」というまっすぐな通りがあります。車道と歩道の境に、70本余り(帰りのバスから数えた概数)の松が植わって、道の両側にきれいな松並木ができています。 神門通りの起点付近にある「宇迦橋の大鳥居(一の鳥居)」。左手に松が神門通りと松並木 大社側から一の鳥居まで来て、そこから歩道を反対側に移って出雲大社側に向かっていった時です。この松並木の古木(最初の写真)に独特の傷があるのを偶然目にしたのです。 大平洋戦争末期の1944(昭和19)年10月23日、次官会議で、全国で取り組まれた松の根を掘り返して乾留させる「松根油」作り
小林多喜二が殺される前、やはり警察で殺された岩田義道は拷問の様子を伝える司法解剖がなされたー小林多喜二の司法解剖をさせなかった警察の動機に 1933(昭和8)年2月20日に特高警察に逮捕され、その日の内に息を引き取った(警察の管轄下で!)プロレタリア作家・小林多喜二の遺体は翌日、遺族に引き渡されますが、この遺体を見た安田徳太郎医師らは、激しい内出血や各所の傷から拷問による死亡とみて、複数の大学病院に司法解剖を依頼しますが、小林多喜二の名前を出すと断られ、何とか受け入れてくれた慈恵医科大病院も、結局は解剖してくれませんでした。関係者は。明らかに警察の圧力がかかったと判断します。(以下、敬称略) その判断の背景には、前年の1932(昭和7)年11月3日に殺害された、共産党の活動をしていた岩田義道の告訴問題がありました。岩田は京都学連事件(1925年末から翌年4月にかけて、京大、東大、同志社大な
核保有発言関連連投②核戦争を描いた絵本「風が吹くとき」の作者が本当に伝えたかったのは、政府への盲従の危険性ではないか レイモンド・ブリッグズ作の漫画風にコマ割りした絵本「風が吹くとき」は、1982年の発行で、この翻訳本(さくまゆみこ訳)は1998年に初版があすなろ書房より発行されています。手元にあるのは2011年の14刷です。レイモンド・ブリッグズ氏は1934年、ロンドン生まれ。絵本の中に出てくる第二次世界大戦当時の防空壕の話は、おそらく実体験に基づいたものでしょう。そんな戦争を体験した作者による、核戦争を描いた絵本です。 「風が吹くとき」書影 登場人物は、イギリスの田舎の一軒家に住む老夫婦。この二人のやりとりで話が進んでいきます。冒頭は、図書館でさまざまな新聞を読んで帰ってきた夫と、食事を用意する妻の会話からです。もうすぐ戦争が始まるかもしれないという不安は感じていますが、なぜ、という部
お正月が近いから、というわけではありませんが、出物があったのでかなり無理して集めました。というわけで、せっかく入手したものを即座にご報告いたします。 こちら、B3版で多色刷りの木版画による「戦勝国婦人雙六」です。制昨年月日や発行者などが擦り込まれていませんので、推測するしかありませんが、軍艦の雰囲気やちょっと英国旗らしいものが見えるので、日露戦争から間もない明治40(1907)年前後のものかとも思いましたが、人物の表現や丁寧な木版画をつくっていた時代を考慮すると、日清戦争後のものとみてもよさそうです。すると、明治30年から明治40年ごろ、今から130ー120年ほど前のものということになります。何しろ、日本は戦争に明け暮れていましたから。 戦勝国婦人雙六 遊び方は、振り出しからさいころをふり、出た目の指示された場所へ駒を移すと言うスタイルです。それぞれの絵を見てみます。まず、振り出し。見送り
敗戦となり工事が中断した長野県松代町、西条村、豊栄村(現・長野市)への松代大本営のうち、出来高100%、つまり完成していた施設が2つありました。一つは皆神山地下壕「ハ号倉庫」でしたが、こちらは軽石で落盤が激しく作業を打ち切り食糧庫として完成とした事情がありました。もう一つ、予定通り完成したのは、現在地震観測施設があり、当時は天皇皇后や大本営参謀本部などが入る予定だった地下壕「ロ号倉庫」に接するように建てられた「仮御座所」(木造平屋)でした。工事が終了する前に天皇が来ることになった場合に仮住まいしてもらう場所でした。 この仮御座所が1947(昭和22)年3月、孤児収容施設「恵愛学園」として活用されることになります。 「図録・松代大本営」和田登編著より、「Ⅳ」が仮御座所。「Ⅰ」が御座所の半地下壕 1945年12月15日発行のアサヒグラフは「無用の長物地下大本営」として写真グラフを組みましたが、
2025年11月7日の衆議院予算委員会で、高市早苗総理が中国が台湾に武力侵攻する事態「台湾有事」を巡って、安全保障関連法の規定で集団的自衛権の行使が可能となる「存立危機事態」に当たるかどうかを問われて「戦艦を使い、武力の行使も伴うものであれば、存立危機事態になり得るケースだと考える」と述べました。 これは、中国が武力行使をした際、日本は参戦すると受け止められる内容で、中国側の最初の反応は駐大阪総領事の「台湾海峡問題に首を突っ込むなら、その汚い首を斬ってやる」とのSNSでの発信でした。これを中国中央の反発を代弁したものととらえず、その言葉だけを巡って中国が失礼だという雰囲気が広がり、だんだん中国側の発言者のポストが上がっていっても対応がまともにとられていません。そして日本への観光自粛、留学自粛、日本アニメ上映延期、日本産水産物輸入停止、と、段階を追って圧力がかけられる事態になっていて、日本バ
明治時代にも刑法に規定がなかった「日本国国章損壊の罪」(国旗損壊罪)の問題点を考えたーいかようにでもとれる条文には注意が必要 現在の日本の刑法は、1907(明治40)年に制定されたものがベースで、改正を重ねて現在に至っています。そこに、参政党が2025年10月27日、「国旗損壊罪」を新設する刑法改正案を提出しました。 同党のホームページで確認すると、「第四章 国交に関する罪(第90条ー94条)」に、「第四章のニ 日本国国章損壊の罪」を加え、「第94条の2 日本国に対して侮辱を加える目的で、日本国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の拘禁系又は二十万円以下の罰金に処する」を追加するというものです。提出理由は「日本国に対して侮辱を加える目的で、日本国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損する行為についての処罰規定を整備する必要がある」となっています。 また、自民
マレーシアでの高市早苗首相の行為が話題になっている中、せっかくなのでマレーシアの教科書の記述を紹介ー禍転じて福となすべく、歴史を直視したい 一方、2025年10月26日、首相に選出されて初めてマレーシアを訪れた高市早苗首相がクアラルンブールの日本人墓地で慰霊碑に献花し「先人を慰霊」した後、二度の大戦やマレーシアの独立闘争で亡くなられた兵士や市民のための国家記念碑を訪問し、歴史に思いを馳せたとXに投稿しました。 これに対し、海外からも「なぜマレーシアの兵士や民間人が第二次世界大戦で命を落としたのか?それは日本の侵略と占領に対して戦ったいたからだ」「日本が行った残虐行為については一切触れられていない?」「犠牲者を無視しながら侵略者に敬意を払うことは歴史に対する不敬」などのリプが投げられ、日本人からの戦時中の指摘も並びました。 前回のアジア教科書の紹介では、マレーシアは記述が多かったせいもあり取
表題写真を見ますと、普通に「大日本国防婦人会」ー(陸軍が主導して各地に結成された女性の軍事後援組織で、だれでも参加しやすいように、割烹着がトレードマーク)ーのたすきにしかみえません。大日本国防婦人会は1942(昭和17)年、先発の愛国婦人会など、各種婦人団体を統合した「大日本婦人会」に再編されます。その時までは、たすきとしての役割を果たしていたのでしょう。しかし、ちょっと変です。実は、たすきが切られ、別のものに再利用されていました。 元はたすきでしょうが、輪になるようになっていません下はひもを切り、背中側は大部分切り落としてあります たすきを切った布はちょうど筒状になっていて、その中に紙のようなものを差し込んでやや硬めにして、腕章に作り直してありました。その腕章の面がこちらです。 もともとは岡山の旗店で作ったたすきのようですが、このように改造されるとは…。 腕章の文字の部分。「上道郡連合
南京虐殺事件は無かったとかいう政治家がいるようですので、その南京に向かった長野県郷土部隊の戦場の香りを届けたい 相も変わらず、南京虐殺事件はなかったという妄言を吐く政治家を見てしまった。まるで戦時中プロパガンダのようなきれいごとも並んでいたなあ。 そのことで、最も強く感じたのは、この人は戦争に興味も関心もなく、ただただ、人気取りにちょっと過激なことを言ってみているんだろうということ。まじめに過去の戦争にも現在の戦争にも向き合う気持ちがないから、とても軽く重大なことを言ってしまえる。 しかも、それは相手のあること。人数はともかく、多数の犠牲者を、それも中国の国土で出してしまったのは事実。そして、南京攻略には、大義名分もありませんでした。宣戦布告したわけじゃなく、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件をきっかけにして、それまでたまっていた日中のもろもろが、とうとう本格的な戦闘になっただけで
治安維持法制定の足掛かりは、関東大震災時に出された「治安維持令」ー以後、政府・警察・軍が批判的とみた人物の弾圧に徹底的に利用 戦前、「国体護持」の名の下に、多くの人を弾圧し、時として命まで奪って来た「治安維持法」。国家権力がぜひとも設けたいと考えていた治安立法の足掛かりとなったのは、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災でした。この時、警察や軍隊も一時は信用した朝鮮人に関する流言などで混乱が広がったことを受け、同年9月7日に公布された「勅令第403号」、治安維持令です。アジア歴史資料センターからの原本の画像をどうぞ。 「治安維持の為にする罰則に関する件」=治安維持令陸軍大臣・田中義一の名がある犯罪の扇動、安寧秩序の紊乱の目的と、あいまいさがある議会を経ず、直接天皇が公布する形を取るので勅令なら、内閣だけで法を決められた 本文は、ごく短いものです。 「出版、通信其ノ他何等ノ方法ヲ
発行責任の裏付けなく戦地で刷りまくられた「軍票」が、現地経済を破壊ー金は印刷したら湧いてくるものじゃない 日本軍に限らず、戦地で物資を調達する際、現地通貨の代わりに占領地内だけで通用する「軍用手票」、いわゆる「軍票」と呼ばれるお金ににた印刷物を使うことはよくあります。日本は、日中戦争下の中国や大平洋戦争下で占領した南方の各国でそれぞれ軍票を発行しました。建て前では、臨時の建て替え券のようなもので、経済が安定してきたら実際の通貨と交換して回収させることになっていましたが、日本は一つも実行しませんでした。 戦時下、各国で日本が通用させた「軍票」 これらの軍票の特徴は、通貨としての裏付けがなされていないのに、通貨と同様に無理やり流通させたのが特徴です。こちら、中国で使われた、いずれも10円の軍票を比較するとよく分かります。 上が初期のもの、下が体制を整えた後のもの まず、上の軍票を見てみます。日
大平洋戦争で初の「玉砕」と発表されたことで知られるアッツ島ですが、占領時の島民の運命を本日まで知りませんでしたー一つの文化を破壊した戦争 日本人にはまるで関心を持たれていなかったアリューシャン列島のアッツ島に、日本軍が上陸したのは1942(昭和17)年6月6日から8日にかけてでした。そして戦略拠点としては価値の低いアッツ島、キスカ島占領が当時、大々的に報道されています。こちら、同年6月11日の読売新聞です。 横ぶちぬきの見出しで「米の対日北方攻撃地点破砕」と列島の所要点を確保、とあり、これがアッツ島の上陸占領でした この紙面、実はミッドウェー海戦の報道です。アリューシャン列島攻撃はミッドウェー作戦の牽制作戦として行われたのですが、主作戦たるミッドウェー島攻略・米機動部隊撃滅という2つの目的はいずれも達成できず、逆に日本は主力空母6隻中、この時出撃した4隻全空母と搭載機すべてを失う大敗北。米
全く嘆かわしい。国会に議席を持つ政党の代表ともあろうものが、右派勢力取り込みのため、麦を食べるようになったのは戦後、米国から押し付けられたからとかいう妄言を垂れ流す。自分の利益のためにはあからさまな嘘も平気でつく人間を国政に送ること自体、おかしいことですな。お若い方の支持が多いようですので、ぜひ目をさましていただきたいものです。 というわけで、戦時下を中心とした麦関連の資料をどうぞ。まず、海軍は創設期から、陸軍は日露戦争後、1913(大正)2年から、麦3割の米麦2合飯が一食分の主食でした。こちら、長野県松本市の歩兵第50連隊の内務班で食事をとる下士官。大盛の米麦飯にサンマ、加給食のブドウもあります。さすが長野県。1930年ころ。 ほかに汁と漬物。兵隊さんはこれでも腹が減ってたまらなかったとか こちら、日中戦争当時とみられる肥料の広告です。ちゃんと麦も対象にしています。 次いで、こちらは時期
1933年2月20日は、だまされて街頭連絡に出向いた小林多喜二が特高警察に拷問の末、殺された日です。何年たっても、その事実と日付は動かしがたいものがあります。それは、彼の周囲にはたくさんの人がおり、どう隠そうとも白昼堂々とやらかして、その後の遺体の始末をさせる過程で、またまた多くの人がかかわっているからです。お悔やみに来た人も片っ端から検束されていて、その中には「二十四の瞳」で知られる壷井栄もいました。そして人は通れない路地に、花輪、生花だけは次々と入っていくーそれを持ってくるはずの人がいないというのが、敵を倒してなお、おびえ続けなければならない支配者たちの姿の裏返しだったでしょう。 以前、「一九二八年三月十五日」をまた読みたいと思って「定本 小林多喜二全集」(新日本出版社)を購入、少しずつ読んでいましたが、実はこの最終巻の15巻が小林多喜二に対するさまざまな人の論評や思い出話が入っており
この記事を書いている2025年2月16日、世界ではウクライナへのロシア侵攻が3年続き、イスラエルによるパレスチナ人への迫害が激化しています。ミャンマーも国軍がクーデターを起こして2年、内戦状態で治安が悪化し、さまざまな犯罪の拠点となりつつあるという状態です。そして米国では米国第一主義のトランプ大統領が、政府組織から意に沿わない人達を次々と放逐し、メディアも選別して自分好みの情報発信を図るという状況です。国際連合の常任理事国が侵略の当事者となっている中、国際組織による解決や抑止が機能しなくなっています。 そんな中、日本はどうでしょうか。自民党が少数与党に転落する一方、排外的な主張をする政党が国会に議席を確保するという状態です。特に地方の市町村議会で、いつの間にかそうした政党に籍を置く議員が広がりつつあるのが現実です。 ◇ ここで、ナチス・ドイツのヒットラーを表題写真に据えたのには、理由があり
戦時下、よくまとめた「敵国現勢」ーただし、日本の生産量は発表されないので比較は現代になって初めて可能に こちら、戦時下の国策通信社として活動した社団法人同盟通信社外国経済部編集の「図説 敵国現勢」です。1944年3月28日発行で、B5判250㌻とボリュームもあります。 米国と英国を中心に、敵国の生産、配給、人的資源などをグラフや絵を多数利用して解説しています。序文では「一億の決意をさらに固くせん」との目的を示しています。 序文に続く編序では、一転して米国と英国の非道を並べて「公正妥当な戦争目的のあったためしがありません」と敵愾心を煽ります。(日本は自存自衛の戦いと書いてある。大東亜の話は?) 目次を見ると、かなり広範囲な内容で、これはこれで当時の日本側の敵国認識を知る貴重な資料となっています。 目次 そして、戦車生産の流れ作業といったカラー図解も入っています。 戦車生産工場の図解。緊張感を
経済制裁されたから自存自衛のため太平洋戦争開戦したというけれど、経済制裁される理由があったことは無視ー都合の良い戯言だ 太平洋戦争の開戦詔書には経済制裁で「自存自衛のため」やむなく戦端を開くことになったとあるので、一部の方たちから経済制裁をされたから仕方なく開戦した、と語られますが、経済制裁されるに至った経緯は、なぜか語ろうとしない。そこで、なぜ、経済制裁されるに至ったか、を整理してみました。 まず、大日本帝国は紀元2600年の1940(昭和15)年、コメは7分搗き以上の精米を禁止する、「ぜいたくは敵だ!」という標語が流れるという風に経済状態がひっ迫していました。それもこれも、1937(昭和12)年7月から続く日中戦争が終わりを見せない中、100万人もの軍隊を送り込んだ負担のためです。この年2月、何のため中国と戦争を続けているのかと問う斎藤隆夫衆院議員の「反軍演説」(参考・斎藤隆夫政治論集
太平洋戦争末期の日本陸軍、B29を相手にするため視力増強剤を開発ー飛行兵の疲労回復など、さまざまな研究の最後 米軍がサイパンを陥落させ日本国内への空襲が本格化、1945(昭和20)年3月10日東京大空襲で都内が灰じんに帰し、他の都市も次々に被害を受けていたころ、本土防空を担う陸軍は、飛行場を守るため、光を点灯させることなく飛行機を離着陸させることで、夜間のB29迎撃と艦船攻撃に役立てようと、夜間視力の増強を狙って訓練で目を慣らさせようとしました。が、うまくいきませんでした。 このころ、第七陸軍航空技術研究所が夜間視力の研究にあたっており、眼球網膜に含まれるビタミンB2の量が夜間視力と関係を持つことに注目していました。しかし、ビタミンB2の大量生産は困難で困っていたところ、朝鮮半島の近海で捕れるスケソウダラの眼球に多量のビタミンB2が含まれていることが分かったため、これを利用して1945年4
韓国の戒厳令事件に対し「日本ではクーデターが起きていない」という文字列を見たので、最大の二・二六事件を実況 2024年12月3日から4日にかけて起きた韓国のユン大統領による戒厳令公布と解除の事件に絡み、ネット上で「日本ではクーデターは起きたことがない」などという文字列が流れてきましたので、1936(昭和11)年2月26日から29日にかけて発生した大日本帝国陸軍部隊約1500人による日本最大のクーデターと鎮圧の戒厳令、そのどさくさで軍がやらかしたことを、当時の新聞と、当時内府秘書官長・木戸幸一による「木戸幸一日記」などを参考に紹介します。 ◇ 「一億人の昭和史・2」によると、2月26日未明、21人の青年将校が指揮する歩兵第一連隊、第三連隊、近衛歩兵第三連隊の下士官・兵1453人と民間人9人が首相、内相、侍従武官の各官邸と、内大臣、蔵相、教育総監の私邸、湯河原の伊藤屋旅館貸別荘を襲撃。内大臣・
2024年12月3日深夜、突然ネットが騒がしくなってきた。なんと、韓国でユン大統領が戒厳令を敷いたというのだ。「なんてこった!」が中の人の第一声でした。 X(旧ツイッター)より戒厳令布告。崔硯栄 @CHe_SYoung さんのポストより 情報を追跡していると国会周辺に大勢の市民が集まり、戦闘警察と軍が押し返されていることが分かってきました。そして国会議員が次々と登院。臨時国会を開き、戒厳令解除を決議。大統領もこれに従い、軍も引き上げました。戒厳令は不発に終わりました。 わたしは仕事でテレビもみておらず(だいたい、家にもテレビはないー価値がなくなったから)、新聞は夕刊がないので、もっぱらXで情報を入手しました。 軍の指揮官がまずは実弾なしで出動させたこと、韓国の有名俳優が後輩の特殊部隊員に命令への対処について説得していたこと、韓国軍では命令ではなく法に従えと教えられていたこと…。また、前大統
太平洋戦争開戦の詔書を、当時の価値観で解釈した本で読むー「天祐は歴史的事実」とかいっちゃってる人の文ですが… 1941年12月8日、宣戦布告前にマレー半島のコタバルへの奇襲上陸で始まった太平洋戦争ですが、戦を宣するのは天皇によって行われるというわけで、天皇による対米英への宣戦の詔書が出されるわけです。独特の言い回しであり、その意味を解釈するのは当時の人でも断片的でした。そこで、翌年1月2日の閣議で毎月8日を大詔奉戴日と決定し、この日には詔書を読むようにとしたので、より内容を正しく伝えようと、解説の冊子が国学院大学院友会によって作られました。 文学博士・山本信哉著「宣戦の詔書謹解」 著者の山本博士は神道の研究者でした。冊子自体は非売品で21㌻と小さいものなので、学内を対象に配布したのかもしれません。 大詔奉戴日が発刊のきっかけです 山本博士は序文から「禍つ国々をして慙死せしむべき大詔」と飛ば
「つらい真実 虚構の特攻隊神話」を読むー戦中派で特攻隊に自分も行くのが当然と考えていた筆者がたどり着いたのは、腐敗し官僚化した軍隊の姿でした 帰還を望めない体当たり攻撃。その第一陣の海軍の「敷島隊」「大和隊」が初めて出撃し、大和隊の予備士官久納好爭中尉(法政大出身)が第一号の特攻(戦果無し)をしたのは2024年からみて80年前の10月21日のことでした。その攻撃方法自体は、時として日本を含む各国で他に生還の手段がない状況下、自発的に行われることはありました。しかし、作戦レベルで大量に生還不可能な攻撃方法を実施したのは、太平洋戦争当時の日本だけでした。 筆者の小沢郁郎氏は、まえがきで「六歳で満州事変、一二歳で日中戦争、一六歳で太平洋戦争、二〇歳で敗戦、これが私の前半生である(略)昭和二〇年には海上にあって戦闘の一端にまきこまれていた私は、特攻隊であることを自他に誓っていた」と打ち明けています
こちら、1933(昭和8)年10月1日発行の新潮社の雑誌「日の出」付録「世界に輝く日本の偉さはこゝだ」は、近年の「日本スゴイ!」の元祖のような本として記録に値します。その中身を見る前に、この付録が出た時代を見てみますと、2月には国際連盟総会で42対1の大差で満州国を認めないとしたリットン調査団報告書の内容が採択されたことから国際連盟脱退を正式に通告、3年後の1936年に脱退となることと、1935年に海軍軍縮条約の期限が切れることから「35、6年の危機」と騒がれていたころです。 つまり、先の見通しを立てずに主要国として最初の連盟脱退となり、再び列強の建艦競争になればとても資金面で追いつけないことは明らかだが、世界に背を向けた以上、新たな条約の締結はできないー。そんな行き当たりばったりの政治・軍事・外交の状況下、不安を吹き飛ばすかのような企画をーと考えられたと容易に推測できます。 四六版160
ごみに見えるボロボロの紙ですが、大日本帝国陸軍騎兵第14連隊の献立表です。平時の兵営の食事から見えること。 収蔵資料は、軍隊生活を伝えるものもけっこうあります。軍隊の当事者となるのも庶民ですので、そのあたりの情報もそこそこ集めました。 表題写真と下写真は、満州事変当時、長野県上水内郡七二会村(現・長野市)から出征して千葉県津田沼の騎兵第14連隊に所属した兵士の関連書類に偶然残っていた献立表です。1932(昭和7)年の2月7日から20日まで1週間ごとの献立表が2枚、少し飛ばして3月20日から4月9日まで同様に1週間ごとの献立表3枚、そして献立表の書式が10日ごとに変更された最初の献立表1枚で、4月11日から20日までを記載。6枚合わせて45日分の兵営の食事が分かります。 6枚45日分の献立表 騎兵第14連隊は同年6月に満州へ派遣されますので、その直前の兵営での食事です。品目のみの記載とはいえ
関東大震災の直接の犠牲者、生き残ったのに虐殺された朝鮮人、中国人、日本人に哀悼の意を表します。そして、二度と過ちを犯さない未来を築くと誓います。 本日の101年前、関東大震災が発生し、10万5000人余の方が犠牲となりました。犠牲者の中には、地震では生き残ったのに日本人(自警団、警察、軍隊、普通の人)によって多数の朝鮮人(一説では6000人余、中央防災会議報告書は死者の1-数%と見込む)、中国人(600人近く)、日本人(福田村事件など)らが虐殺された数を含んでいることです。 大正12年9月2日付(1日発行)信濃毎日新聞夕刊東京が被害の中心と適格に判断手探りで取材した様子がうかがえる 山本内閣は、虐殺が表面化するのを恐れ隠蔽を貫きます。101年後の今日、東京都知事は虐殺という争いのない事実をあいまいに。朝鮮人の暴動はあったなど被害者を加害者に仕立てる暴言すらまかり通っています。当時でも疑惑の
大日本雄弁会講談社の絵本「西郷隆盛」は、地道な学問の大切さや天皇を大切にすることを伝えつつ、大どんでん返しが 中の人の知人で、長野県中土村(現・小谷村)で小さいころを過ごした方から、大日本雄弁会講談社の絵本を大量にご寄贈いただきました。母親が教師で、講談社の絵本を取り寄せてくれていたとのことです。 その中の一冊、1940(昭和15)年発行の「西郷隆盛」が大変興味深い編集をされているので、ご紹介いたします。 こちらは店頭の吊り下げポスター。売り込みもうまかった1ページ目はやはり上野の銅像 知人はまだ小さかったころで本の扱いが手荒く、表紙は無くなっていますが、ストーリー部分は完全に残っています。 身分の低い家柄でも、小さい時からよく勉強した西郷道場へも毎日通って剣道を稽古 しかし、ある時弱い者いじめをしている場面に遭遇し、注意したら相手が刀を抜いたので同じく刀を抜いて撃退したけど右腕をけがしま
1943(昭和18)年8月4日に政府の情報局が発行した「写真週報・第283号」は、別に発行した「改定時局防空必携」とい冊子の写真解説という位置づけでした。表紙には、地面に掘った溝に潜む3人の姿。防空法によって、逃げずに火を消すことを義務付けられた臣民の姿です。 「待避所」に入って空襲に備える姿 最後のほうにあった、表紙写真の説明を見てみましょう。 「待避所は、決して退避所ではない」と強調 「われわれの待避所は、決して退避所ではない。(略)敵焼夷弾が落ちたら最後、すぐさま飛び出してこれと戦うため、ほんの一時待機する所であることを忘れてはならない」とあります。焼夷弾なんて、一発だけ落ちるのではない、連続して次々と降って来る、それを飛び出して消せというのですから、命がけです。という訳で、表紙をめくったすぐに掲載している「時の立て札」をごらんください。 「命を投げ出し」とある 一番手に書いてあるの
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