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芥川龍之介(1892-1927)は、生前、自殺について「自殺しないものはしないのではない、自殺することのできないのである」(「侏儒の言葉」)と語り、昭和2年7月24日未明、自殺している。夫人の芥川文子(1900-1968)は「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという。妻の文子は龍之介の芸術への真摯な生き方へのよき理解者だったのだ。遺された三人の子供、芥川比呂志(1920-1981)、芥川多加志、芥川也寸志(1925-1989)を抱えての夫人の生活はたいへんだったであろう。 太宰治(1909-1948)は39年の生涯で5回の自殺未遂を繰り返し、昭和23年6月13日に玉川上水で愛人山崎富栄(1917-1948)とともに入水自殺した。そして「生まれてすみません」という太宰の自殺願望は芥川の自殺の影響が大きいことはよく知られている。昭和19年7月に発表した「津軽」には次のようなことが書かれ
貧困や格差、ワーキングプアなど日本で大きな問題となっている。貧困の研究は、経済学を中心とした社会科学の一つの原点となるものである。社会に現存する貧乏を的確に把握し、それを克服する方策を検討することが重要であることはいうまでもない。かつて河上肇が「貧乏物語」のなかで「貧乏は国家の大病」と喝破したことを肝に銘じて、資本主義にとっての最大の悪弊である貧困問題を追及していきたい。 およそ100年前のイギリスで2人の学者が別々の都市で貧困調査をした。驚くことにどちらも30%に近い市民が貧乏線以下の生活であり、その原因はそれまで信じられていた飲酒・怠惰・浪費などの個人的責任ではなく、失業・低賃金・疾病など社会構造に問題があり、その改良は政府の責任と考えられるようになった。貧乏線とは、貧困の範囲または境界を決定するために示す最低の生活標準。それ以下の収入では一家の生活を支えられないと認められる境界線(広
有島武郎は、明治11年3月4日、東京の小石川水道町52番地に生まれた。父有島武は当時大蔵省の権少書記官をしていた。武は晩婚で、37歳で、母幸子(ゆきこ)25歳との間に初めてできた長男であったから、ひとしお喜んだ。だが、やがてこの夫婦の間には、武郎を頭に、五男二女が生まれ、七人の子持ちとなる。七人のうち、武郎とともに、次男壬生馬(みぶま、明治15年生まれ)、四男英夫(明治21年生まれ)、の三人までが芸術家となった。壬生馬は小説家で洋画家の有島生馬、英夫は小説家の里見弴である。一家から三人も芸術家を出した父母の血は何かとさぐってみても、満足な答は、なかなかでてこない。むしろ薩摩藩の一支族北郷氏の平佐郷の下級武士で、薩摩藩の陪臣である父や、南部藩の江戸表留守居役を父にもった母に、有島兄弟からみて、逆に芸術家的素質がひそんでいて、たまたま兄弟の出生によって立証されたとみるべきだろう。 武郎兄弟の両
「業平橋駅」が「とうきょうスカイツリー駅」に改称された。「名にしおはばいざ言問はむ都鳥 我がおもふ人はありやなしやと」在原業平が東国で詠んだ和歌である。墨田周辺は「業平橋」「吾妻橋」「言問橋」など「伊勢物語」に由来する地名がいくつかある。だが業平東下りは本当の話であろうか。おそらくこれらの地名は江戸期に付けられたのであろう。「歌人は行かずして名所を知る」という。江戸の名勝旧跡を見聞した文化年間の隠居僧、釈敬順(1762-1832)によると、「橋畔の業平山(ぎょうへいざん)南蔵院は俗に業平寺(ぎょうへいじ)と呼ばれ、境内に業平天神があった。不運にも不意討ちに背後から刀で殺害された相撲取りに成川運平がいて、渾名を「成平(なりへい)」と呼ぶ。成川が殺されてからこれまで言われていた小梅橋を「成平橋(なりへいばし)」と俗称するようになり、成川が斬られたのが橋畔の南蔵院だったので、その境内にある業平天
NHK大河ドラマ「平清盛」第6話「西海の海賊王」。海戦シーンが見所だった。しかし視聴率は13.3%と急落。理由はわからないが、朝廷、平家、源氏と人物関係が複雑なのかもしれない。だが今回から頼朝の母となる由良姫(田中麗奈)と清盛の二番目の妻となる時子(深田恭子)が顔をみせた。平清盛vs源義朝、時子vs由良姫、というシンプルな構図を抑えてみればいい。実際は清盛が義朝より5歳年上。演ずる俳優は松山ケンイチが玉木宏より5歳年下というのが気にかかる。時子は清盛よりも8歳年下だが、深キョンはケンイチより2歳年上。由良姫の生年は不詳だが、玉木と麗奈は同年。おそらく由良姫はもっと若かっただろう。清盛役が若すぎる俳優のため、共演者と年齢のバランスがとれていない。主役の松山・玉木のライバルに視聴率がかかっている。深田・田中が絡むシーンはないだろうが、実際の2人はそのキャリアを調べると完全なライバル関係にある。
日本一と豪語した浦安市立図書館は職員が災害復旧活動に従事しているために、現在は休館中である。また計画停電のためHPが使用できない時間がある。地震による直接的被害はなくとも、避難者受け入れや、原発事故による電力不足のためである。数年前に図書館が策定した「これからの図書館」の先導的役割を果たす浦安市立図書館だが、自家発電もなく、その情報基盤は脆弱なものであることを露呈した。もちろんこれは図書館にかきらず水族館、博物館、美術館、すべての施設、機関が同様であろう。コンピューターも電気がなければタダの箱である。「これからの図書館」がコンピューター関連企業の後ろ盾によるものであり、基本のエネルギー問題には無頓着である。火力(石炭)、水力、石油、電力、風力、太陽光、バイオマス、今後なにに依存するのか我々は考えなければならない。政治家だけでなくメディアも反原発運動を抹殺してきた。岩波書店「世界」の特集をみ
正宗白鳥(1879-1962)は、明治41年の「何処へ」などで自然主義作家として認められたが、昭和期になると評論が活動の中心となる。人生に対しても文学に対しても批判的、懐疑的な傾向が強く、「永遠の懐疑者・傍観者」といわれる。戦後にも小説や回想的評論が多く、生命の長い文学者である。 正宗白鳥、本名は正宗忠夫は、明治12年、岡山県和気郡穂浪で生まれた。13歳のとき、民友社の「国民の友」を愛読し、はじめてキリスト教の存在を知る。15歳のとき、香登村のキリスト教講習所に通う。ついで岡山市に寄宿、病院に通うかたわらに、米人宣教師の経営する薇陽学院(米国より帰国した安部磯雄が主座教論)で英語を学ぶ。同時に、孤児院の院長の石井十次より聖書の講義を聞いた。明治29年、17歳のとき、東京専門学校英語専修科に入学。毎日曜、市ヶ谷のキリスト教講習所で植村正久の説教を聞く。夏、帰省の途中、興津で開かれたキリスト教
図書の電子化がすすむ現在、公共図書館の現場でも大きな変化がみられる。資料の電子化をすすめるグループはこれまでの紙媒体が図書館書庫のスペースを大きくとることから、国立国会図書館にあればよしとして、各館での資料保存を無益と考える意見が巾をきかせている。これは国立国会図書館や府県立などの大図書館では資料の保存機能が使命の一つとして位置づけられているが、中小の公共図書館では書庫スペースの効率化を図るうえからも、資料の廃棄が急激なスピードですすめられているのである。書庫の廃棄というのは一般市民にはあまり表面にあらわれないだけに問題として顕在化するケースは少ない。「うちの図書館には保存的機能はない」と公言してはばからない館長もいる。だが図書館法第2条には「保存」という二語がはっきりと明文化されている。もちろん電子化の恩恵を受けるのは、地域の小さな図書館でも端末で過去の貴重な資料を閲覧できることにあり、
改定常用漢字表が年内にも内閣告示されという。現行の1945字に196字を加え、5字を外し、計2136字になる。常用漢字が増えた背景には、情報機器の普及で漢字が書けなくても打てる時代になったため、難しい漢字でもよく使われる漢字は追加してほうが便利と判断したのであろう。「鬱」は、これまで、「憂うつ」「うつ病」「うっ血」「うっ憤」だったのが、「憂鬱」「鬱病」「鬱血」「鬱憤」と表記できる。もちろん国民一般にとっては強制するものでないから罰則もなく、たとえ常用漢字にない漢字を使おうとも一応自由であるが、新聞や官庁の文書などでは、ふりがなをつけるなどの工夫がいる。国民にとっては、生まれてくる子どもの名をつけるときに常用漢字、人名漢字という制限があることに気づくのであろう。 むかし、当用漢字といっていた頃、人名用漢字はわずか92字であった。私は若い頃、市役所の市民課にいて出生届を受け付ける係をしていた。
ゴーギャン セーヌ河のイエナ橋 1875年 色彩も線もまだゴーギャンの特徴はみられない。広大な展望と緻密な描写による静寂な雰囲気がある。 7114 +49 7219 +105 今年4月から公共図書館を辞めて、小さな家庭文庫を開いた。もちろん安定した役所勤めを辞めるからにはそれなりの理由があった。だがそれは言わない。長年、情熱を持って図書館活動に務めたが、仲間とも自然と意見が食違ってきた。貴重な本をどんどん廃棄する考えには疑問があった。金太郎飴のような図書館にも疑問をもっていた。そんなとき朝日新聞に佐野眞一の「売れ筋本ばかりの図書館はいらない」(2009.6.20)という記事が掲載されている。佐野の意見はほぼ「だれが本を殺すのか」という2001年の著書と同じだが、「深度と網羅性をそなえた知の迷路」という考えには、自分の置かれている状況、今やろうとしている漠然と考えていた私設図書館に示唆を
昭和57年、自宅庭内に作られた案内掲示板 秋岡梧郎(1895-1982)は明治28年、熊本県下益城郡豊福村大字竹崎で生まれる。大正8年、熊本県下益城郡教育会明治文庫司書となり、生涯図書館活動に従事する。大正11年、日比谷図書館に就職後、麻布、両国、京橋の各主任を経て、昭和6年、京橋図書館館長に就任。以後深川図書館、江東図書館などを歴任する。 秋岡梧郎の功績で知られることは、当時閉架制が全盛であった図書館で、昭和4年から京橋図書館で開架式(安全開架)を実践したことであろう。安全開架式とは、開架式(接架式)の一種で、書庫と閲覧室を区画し、利用者は書庫には自由に出入でき本を選択できるが、閲覧室で本を読むとき、あるいは、貸出をうけるとき書庫・入口カウンターで館員のチェックをうける。館員のチェックをうけず自由に書架から図書を出し入れできる閲覧方式が自由開架式といわれている。 秋岡梧郎の図書館人生で学
昭和60年に著作権法が改正され、書籍・雑誌の貸与権が確立した。しかし法施行以前からの零細個人業としての貸本屋が存在しているので、書籍・雑誌等の貸与に係る暫定措置の廃止に関する相手方との協議で貸与が認められる場合もある。ただしイトーヨーカドー子ども図書館は昭和53年の沼津店開始から全国10店舗で社会貢献活動の一環として、貸出サービスをしてきたものの、あくまで商品の売上げ拡大を図ることを目的として行われる行為として貸出はできないこととなった。近年、金沢文芸館においても会員制による貸出をしてきたが、著作権法に抵触するとして貸出は自粛することになった。多くは同情に値するものであるが、法の趣旨を広く国民にも理解してもらうことが大切であろう。今回の宝塚メディア図書館の場合個人会員年間5000円で会員特典、2週間で3冊まで借りられるということである。阪急今津線逆瀬川駅前の商業ビル・アピアは空き店舗があり
本日の夕刊に前宝塚市長の阪上善秀が1千万円を受領した起訴事実を認める報道があった。自治体の首長の違法な行為は日常茶飯となってしまった。6月1日オープンのNPO法人・宝塚メディア図書館の貸与権問題は前に指摘した。有料で著作物を貸し出すとなれば、貸与許諾料の分配などどのようにされるのであろうか。もし、著作権者の許諾を得ていないのであれば、明らかな権利侵害となる。たとえば「入館料」として施設の維持や照明、減価償却等に要する経費を徴収するのであれば著作権法上の料金には該当しないが、貸出の料金というのであれば「貸与権」が派生する。また資料の貸出をせず館内での閲覧のみにするのであれば、「閲覧権」や「展示権」のような概念上の権利は今後想定されるかも知れないが、現行法では派生しないので問題はない。多少老婆心ながら先輩の同業者として重ねてご忠告申し上げたい。 むかし川西で図書館とパチンコ店での問題があった。
阪神間に位置する兵庫県宝塚市は、宝塚歌劇の街として全国に知られているが、今から90年ほど前の明治末期は、閑静な松林がつづく武庫川のほとりの一寒村にすぎなかった。その宝塚に明治43年3月、梅田・宝塚間に箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開通したのである。この鉄道の開通に深く関わったのが小林一三(1873-1957)である。 ところで宝塚市には現在、清荒神に宝塚市立中央図書館が、小林に西図書館があるが、市役所のある逆瀬川周辺には図書館の固定施設はなく、移動図書館が巡回するだけであった。いわば逆瀬川駅周辺は、伊孑志(いそし)という神社・仏閣の多い歴史的由緒あるところであるが、図書館の空白地帯であった。ケペルはその文化の不毛の地に「女性の書斎」をオープンしたのであるが、なんと6月1日からアピア3に「宝塚メディア図書館」が開館するという。ライバルが進出して警戒するのではない。図書館が乱立することは
岩波茂雄(1881-1946)は昭和20年9月に脳溢血で倒れた。同年12月、雑誌「世界」が吉野源三郎(1899-1981)を編集長に、安倍能成(1883-1966)を最高責任者として、「世界1946年1月号」が発刊された。記念すべき第1号の執筆者は、安倍能成、美濃部達吉、大内兵衛、和辻哲郎、横田喜三郎、東畑精一、三宅雪嶺、武者小路実篤、長与善郎、宮塚清、桑原武夫、中村光夫、湯川秀樹、尾崎咢堂、谷川徹三、羽仁説子、H・バイアス、岩波茂雄である。雑誌「岩波」は創刊以来60有余年、良質な情報と深い学識に支えられた評論によって、戦後史を切り拓いてきた雑誌である。おそらく、バックナンバーを読みたいときは、普通のレベルの公共図書館ならば永年保存して書庫にあるはずである。 ところが、最近はどうやら事情が変わってきた。保存スペースに限界がきている図書館では、永年保存を有限保存に、あるいは一挙に廃棄するとこ
麻雀の好きな友人がある時、「日本ではふつう東西南北というのに、中国ではどうして東南西北(ドンナンシーペイ)というのか」と聞く。考えてみれば、東西南北は東西と南北という対立概念を組み合わせた表現である。それに対して、東→南→西→北と時計の針の回転と同じ順序に従った並べ方である。日本ではかなり古くから東西南北という言い方をして来たらしい。菅原道真の漢詩「舟行五事」の起句に見える。中国でも、東西南北という言い方は、「春秋左氏伝」(襄公29年の条)に見える。古くから東西南北という語は存在していたものの、中国で一般的に東南西北という言い方に変わったのは、五行説が民間に定着したことと関連するらしい。 人の生活の基本として、1年は春夏秋冬の四季に分けられる。五行説によると、この世界の森羅万象すべての事象は、木火土金水の五元素の輪廻・作用が循環して生ずると説明づけられる。つまり、五元素を方角に配置すると、
日々の話題あれこれ
最近ブログ検索などで毛利宮彦の名前をしばしば目にするようになった。「早稲田大学図書館を追われた毛利宮彦」「謎の毛利宮彦」とか興味をそそられる記事がでている。 毛利宮彦(1886~1956)の名前は人名事典などにも掲載されず、図書館史研究者だけが知る名前であろう。概略を紹介すると、大正4年にアメリカに留学して図書館学を導入、普及に貢献した。大正5年の秋、全国図書館大会において帰朝講演している。図書館での功績としては、戦前期のレファレンス・ワークの導入に関して「日本で初めて定義を紹介したのは毛利宮彦だといわれている」(『情報サービス論』阪田蓉子、24p)とある。 昭和3年から6年まで図書館事業研究会を主宰し、『図書館学講座』全12巻を刊行している。当時、これだけまとまった図書館学のシリーズ物を協会事業でなく、個人的事業として成し遂げたことはさぞかし苦労があったと思う。先ごろブログなどで閲覧でき
流行歌の中に英語のフレーズが挿入されるのは、今日ではあたりまえのようであるが、そのルーツを探ることは、ちょっと調査に時間がかかりそうで正確なことは難しい。伊藤雅光(国立国語研究所)は荒井由美の楽曲を中心に日英混交テクストで国語学の観点から語彙調査をしているようだが(「ポップス系流行歌の語彙調査における外来語と外国語の判定基準」計量国語学23巻2号、2001.9.20)、ケペルは史的関心からの調査では1960年代後半のグループサウンドにそのルーツをみることができる。1970年代、橋本淳、松本隆らが、日本の歌謡曲に英語歌詞を定着させた作詞家である。もちろん洋楽カバー曲であれば1950年代から60年代に多数みられる。漣健児の訳業も評価すべきであろう。 飯田久彦「悲しき街角」(漣健児・訳詩、1961) 北原謙二「北風」(服部レイモンド・訳詩、1964) ブルー・コメッツ「青い渚」(橋本淳・作詞、1
明治13年、駐日大使・何如璋の招きで来日した楊守敬(1839-1915)は、日本に多くの貴重書が残っていることに驚いた。森立之(1807-1885)らの協力によってそれらをことごとく購入した。4年間にわたる日本滞在の成果は、のちに「日本訪書志」「留真譜」「古逸叢書」として公刊された。楊守敬の来日は日本の書道界にも、巌谷一六(1834-1905)、日下部鳴鶴(1838-1922)らの書家に大きな影響を与えた。しかしながら、漢籍の収集については、主に東京府書籍館(東京図書館)の職員がなんらかの関与をしていたと思われるが、詳しい実態は不明である。 この明治13年という年は、東京府書籍館が再び文部省所管となり、明治13年7月に「東京図書館」と改称されている。岡千仭は明治12年ころは東京府書籍館幹事として漢籍に詳しい館長であった。楊守敬と岡千仭とが筆談をまじえて日中の漢籍の収集方法を話し合っていたと
「図書館幕末血風録・武州のサムライ決起するの巻」 いま図書館界では、「市民の図書館」を評価し、貸出サービスを重視する意見(市民派とよぶ)と、従来の貸出中心のサービスのあり方を批判し、「市民の図書館」からの脱却を主張する意見(改革派)とが対立している。あたかも幕末に佐幕と討幕との間にくりひろげられた死闘をみるかのようである。新着雑誌「図書館界」(2007.1)の特集「誌上討論」もいよいよ第4回をむかえその峻烈さを増している。今回は手嶋(町田)「貸出しを大切にしている図書館からの意見」、石嶋(日野)「小規模分館から見た貸出し:資料提供」が注目される。 根本彰批判としては、「資料提供論に代わる新しい公共図書館のパラダイムが必要なのだ」(『情報基盤としての図書館』勁草書房)とする根本に対して、手嶋は「資料提供論の否定によって公立図書館が発展するとは到底思えない」と説く。また現場の立場から根本の姿勢
「図書館幕末血風録・清河八郎の巻」。幕末史には武芸に秀で才覚もありながら、短い命を散らした尊皇攘夷思想を抱く人物も多い。清河八郎(1830-1863)享年31歳、芹沢鴨(1830-1863)34歳、伊藤甲子太郎(1835-1867)33歳。彼らはいずれも哀れな最期を遂げている。 「改革派」と「市民派」との論戦で、とかく槍玉に上がるのは三人の図書館学者であるが、「これからの図書館の在り方検討協力者会議」の委員は全部で13人であり、学者以外の方がどのような意見、思想をもって会議にのぞんだのか知りたいところであった。「図書館界」(2007.1)では委員の一人であった齋藤明彦からその実態をみることができた。図書館歴2年11ヶ月。(鳥取県立図書館在任期間2002年~2004年)。以下、発言内容の中から興味あるところをピックアップする。 図書館が持つ趣味的イメージだと議会や行政関係者からみると予算を削
有山崧と土方歳三との関係 有山崧(1911-1969)と前川恒雄。全国の図書館関係者でその名を知らないものはいない。今、図書館は、いつでもだれでも本を借りられ、気軽るに利用する場所となっている。このような公共図書館の形が40年前に最初に実践されたところが、日野市である。そしてこの図書館を中心となって作り上げたのが、当時の日野市長だった有山崧(ありやまたかし)という人物なのだ。有山市長は、幕末の新選組最大の支援者だった佐藤彦五郎俊正(1827-1902)と妻ノブ(土方歳三の実姉)の曾孫にあたる。その関係を詳しく言えば、佐藤彦五郎の四男の彦吉が有山家に養子となり、維新後、すぐに渡米した。銀行家となった有山彦吉は地元で有数の資産家となった。その後、彦吉の子の有山亮は日野町長となる。亮の子が有山崧である。 有山崧の略伝 明治44年、日野市に生まれる。東京帝国大学哲学科卒業後、文部省嘱託として社会教
図書館界で虚妄の論理が生まれる背景を探りたい。図書館雑誌2006年6月号「編集手帳」というあとがきの西野一夫の一文を紹介する。「公立図書館の指定管理者制度、国立国会図書館の独立法人化問題、大学図書館の民間委託の拡大、企業内図書館のリストラなど今図書館に降り注いでいる冷たい雨が、将来実りある収穫を迎えるための恵みの雨となることを願わずにはいられないこのごろです。図書館の危機が目前に迫っていることは、誰もが認めることでしょうが、それがどんな危機なのか、振り返ってみれば単なる杞憂であるような漠然としたものなのか、それを断言できる人もそう多くはないように思えます」とある。ここ数年、「図書館の危機」とか「図書館の変わり目」とか「改革する図書館、しない図書館」という表現で危機意識を煽ってきた一部の学者がいる。しかしながら、本当に何が問題で、いま危機的状況であるのかすら判然としていない。たとえば2005
昭和45年5月30付で日本図書館協会から「市民の図書館」が発行された。これはかなりの部数でまわった冊子である。ケペルが図書館に勤務しはじめた頃で、全員が一冊もっていて頻繁に勉強会をした。日野市に視察した先輩の館員からこれからの図書館像を具体的に聞き、みんな目標をひとつにして取り組むことができた。「市民の図書館」の最大の長所はそのわかりやすさ、明快さにある。それに比べて「これからの図書館像」はどうか。まず冊子が手にはいりにくい。もちろんネットで見たり、コピーをとったりするのだが、一人に一冊ほしいが、入手困難だ。 「これからの図書館」と「市民の図書館」の違いを端的に言えば、「上からの改革」と「下からの改革」の相違であろう。第一章を読んで感じたことだが、これは図書館現場に直接いない、外部に席を置くスペシャリスト「これからの図書館の在り方検討者会議」の委員13人の図書館改善策というべきものである。
図書館雑誌8月号の特集は「変わり目にある図書館」。本年4月文部科学省生涯学習政策局に設けられた「これからの図書館の在り方検討協力者会議」の『これからの図書館像』を薬袋秀樹が紹介している。この報告書でとくに注目すべきところを二点あげる。第1は、「課題解決支援機能の充実」第2は「ハイブリッド図書館の整備」。さきにこのブログで「図書館雑誌8月号に失望する」で取り上げた「図書館員の本棚・新版図書館の発見」の文中に「疑問を感じつつ読んだ点は、○○支援への苦言の部分でした。これはビジネス支援、医療情報支援など課題解決支援を指していると思われます。身近な例で考えてみると(以下略)」にある前川批判の部分である。新版が刊行されたのが本年1月。『これからの図書館像』が本年4月。図書館雑誌編集委員会によると「図書館界挙げての力の結集が世に問われた」という『これからの図書館像』であるが、「レファレンスサービスの充
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