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home > archives > ヴァッティモ論 ■ 学会発表 ジャンニ・ヴァッティモの宗教哲学の倫理的意義 ケノーシス概念を中心として 【注意書き】 本論は、日本基督教学会近畿支部会(2002年3月26日、同志社女子大学) にて発表した研究です。以下は、当日口頭発表した原稿ですが、各節の表題は、HTML化するにあたり、新たに私が補足したものです。 要約 (学会資料集に掲載) 現代イタリア哲学を代表する思想家であり、「弱い思想 pensiero debole」の提唱者として有名なジャンニ・ヴァッティモ(Gianni Vattimo, 1936- )は、J. デリダらとの共著『宗教』(La Religion, 1995)、『信じることを信じること』(Credere di credere, 1996)などにおいて、盛んにキリスト教思想の現代的意義を主張している。 ヴァッティモの哲学は、M.
実践的客観性へ向けての一試論 【注意書き】 以下は、『往還する考古学-近江貝塚研究会論集1』(近江貝塚研究会, 2002. 10), pp. 149-158に掲載された私の論文です。現在、この書籍が品切れ状態で入手困難な状態にあるため、HTML化してここに掲載します(内容は一切変更なし)。引用に際しては、原典書誌情報およびURLの記載を宜しくお願いします。なお、私の手元に抜刷は余ってますので、ご希望の方には郵送もできます。 1.客観性の梯子――今さらにして今だからこそ 今、考古学に対して「客観性 objectivity」を求める声が、考古学の内外から聞こえてくる。 しかし、この「今」は、既にして両義的である。それは一方で、「今さら」の今であり、他方で「今だからこそ」の今である。一方で、考古学を含む多くの学問において、良くも悪くも研究に対して様々な主観的要素が介入することが是認されている現
ひっそり考える哲学のサイト。宗教哲学、現象学、解釈学、反省哲学など
【注意書き】 以下は、私が日本宗教学会 第52回学術大会(2004年10月8日、東京女子大学)にて口頭発表した研究です。なお、本研究は、拙稿, 「不可能な赦しの可能性」『宗教倫理学会』第4号, 2004, pp. 64-81.と一部重なるところがあります。 ■はじめに 私たちは、時に他人を害してしまう。あるいは逆に、他人に害される。もしくは、自分の大事な人がそうした目に遭う。そうしようという意図がなくとも、行為の結果の連鎖など見通せない以上、誰もその可能性からは免れられない。そもそも、私たちの心の内奥に、根元悪という、道徳法則よりも自分自身の欲求を優先させる性癖がある以上、悪を犯し被る状況から完全に逃れることなどありえない。そして悪を被った側に「やられたらやりかえす」心が動くとき、復讐が始まる。そしてこの復讐は、現在この世界がそうであるように、往々にして復讐への復讐、復讐の連鎖を生む。そ
ホワイトによれば、それぞれ同じ横列に並べられている様式が、歴史家の物語の作法において結合しやすい様式の組み合わせとなる。ただし、あくまで「結合しやすい」であって、その組み合わせが必然ではないことはホワイトが強調する通りである。 しかし、ここ迄読み進めたにもかかわらず、何故ホワイトの理論が「歴史の詩学」と称されているのか、全くもって判然としない。実は、ホワイトによれば、歴史家がこうした作法によって歴史場を整理し、解釈するのに先立って、その歴史場を「前言語的に prelinguistic」形象化する行為が潜んでいるというのである。その行為こそが「詩的 poetic」行為なのであり、歴史家の持つ深層構造の次元において遂行される行為なのである。言わば、詩的な眼差しによって、歴史場の全体的な見取り図を描く行為と呼べようか。 では、何故「詩的」なのか、この疑問が当然沸き起こるだろう。それは、「その歴史
home > study notes > 古くて綺麗なもの 古くて綺麗なもの――美と考古学的構想力 ■ 注意書き 本論は、若手の研究者が自主的に主催した哲学・思想 若手研究者の会 第7回シンポジウム「美は、どこから、どこへ」(2006年3月19日(日) 京都大学文学部新館第1講義室)にて口頭発表したもの(ごく一部、表現を改変)。シンポジウムの性格上、厳密な文献註はつけていない。また、当日レジュメおよびモニターにて使用した図版類は割愛した。 はじめに シンポジウムの表題「美は、どこから、どこへ」には、「美という概念は歴史的・文化的に制約を帯びたものであり、歴史の中で変化する」という美の歴史性の主張が含まれていると理解できる。しかし、それと並んで以下で考えてみたいのは、「美しいものもまた、歴史の中で変化する」ということである。 ただし、ここでの美しいものとは、something beautif
home > web design > 非イメージのボタン イメージを使わないボタン Without Image 「web デザインの悩み」とはちょっと異なるかもしれませんが、関連するテーマなので。ちょっと今回は、HTMLについての知識がないと、意味不明かもしれませんので、関心のない人は読み飛ばしましょう。 最近、ある研究会から web site のデザインを依頼され、一つ、こしらえました。予めお断り申し上げますが、あくまで web site のデザインのみが私の仕事であって、研究会自体は、さしあたって私とは関係ありませんので、お間違えのないよう。以下の研究会がそれです。 新たな対話的探求の論理の構築 *京都大学文学研究科 21世紀COEプログラム 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」の一研究班 そこで、私は前々から試そうと思っていた技術を使ってみることにしました。それは、「一見す
■ 文献情報 本論は、『往還する考古学』vol. 2(近江貝塚研究会, 2004. 5)に寄稿した拙論「あとにのこされたものたち――考古学から哲学への還路」に加筆・修正を施し(特に、5章以降は大幅に加筆した)、第123回近江貝塚研究会にて口頭発表したものである。冒頭で「往還」云々がキーワードとなっているのは、その収録雑誌の事情による。 1. 往還する哲学 まるで夏の網戸に腹這いになってたむろするヤモリのように、『往還する考古学』という書名そのものにべたりとへばりついた論考を記すこと。そして、考古学の考古学たる部分をぬらぬらと這い回る哲学的思索を練り上げること。最近の私の目標は、そうしたヤモリのような営みである。 では、そもそも、「往還する」とはどういうことか。それは「行き」「帰る」こと、そしてその連続である。往路と還路、その二つがあるからこそ、往還は往還たりえる。では、哲学の研究に携わって
author: 佐藤 啓介, reflexion@inter7.jp from さいたま / last update: 2008/9/15
【注意書き】 以下は、宗教的寛容研究会(2004年6月28日)という場で発表したものを、二つのファイルに分けたものです。ですので、一応主題は「宗教的寛容」という概念をどう論じるか、ということです。あまり文章化はしておらず、見出しの段階にとどまる箇所も多いですがご寛恕ください。できれば、「今、宗教的寛容をどこから問題にするのか(2):認めがたく、耐えがたいもの」と併せてご覧ください ■ 寛容論を始める 寛容(tolerance)、正確にいえば、寛容の「実践」と「理論」は、現在それぞれの面で危機に瀕しているといえる。 「寛容についての言説は、二つの危機に瀕している。陳腐化の危機と、混同の危機である」(Paul Ricoeur, "Tolérance, intolérance, intolérable" Lectures 1: Autour du politique, Seuil, 1991,
home > study notes study notes 以下は、私が哲学研究の過程で記した研究ノートです。いずれもやや長文ですがご容赦下さい(もっと気軽に読める小品集は Essay に、実際に論文として公刊された著作物や、学会にて発表したものは、archives に収録)。 私の専門は、「近現代フランス・イタリア哲学、特にその宗教哲学的側面」だと要約できます。現在は、リクールを中心として、アンリ、マリオン、ヴァッティモなどを研究しています。それらを中心として、様々な方面に雑駁に関心を持っています。 この研究ノートがいつか論文という形になればよいのですが、まぁ自分のための思索という一面が強いので、あまり気にしてはおりません。演習などで口頭発表したものが多いので、「本発表は ...」といった表現が見受けられますが、その辺りは御察し下されば幸いです。Fav. とあるのは、私が個人的に気に入
文学批評理論概論 1950-1980 3.作者はテクストの中に: ナラトロジーの仮想戦略 NC と構造主義によって徹底的に突き詰められた作品分析志向を洗練させたのが、70年代以降に急速に発達したナラトロジー Narratology である。手短に言えば、ナラトロジーとは、諸々の物語を分析し分類するための「包括的枠組み」を探求する学である。要するに、個別的な批評ではなく、物語一般についての学、それがナラトロジーである。ナラトロジーの代表 S. チャットマンが述べているように、彼等の理論的な土壌は、本発表がこれまで扱ってきた二つの理論、即ち NC と構造主義である。それゆえ、彼らもまた、自分たちの両親に倣い、基本的には「意図に関する誤謬」「情動に関する誤謬」を回避し、テクスト自体の分析についての理論を目指している。 彼等の大きな特徴は、必ずしも物語を言語的テクストには限定していない点である。
文学批評理論概論 1950-1980 序. 批評理論の批評と理論 本発表で扱うのは、今世紀中頃から80年代に至る、英語圏を中心とした文学批評理論の動向の軌跡である。とはいえ、主要な理論全てを取り上げることは、単なる時間の制約という物理的理由もさることながら、発表者の知識の制約という根本的理由のため、どうしたところで不可能である。それゆえ、対象の選択には発表者の知識・関心の偏向が強く働いており、また取り上げられた理論にしても、いたって概論的なレヴェルにとどまっているということは、予め断りを入れておこう。 言い訳はともあれ、本発表の進め方とその基本的視点を明らかにしておく。一口に批評理論と言っても、対象へのアプローチの仕方は多種多様である。そして、それらの理論をたた漫然と列挙した場合、一見すると絢爛豪華に見える発表にはなるだろうが、個々の理論が持つ問題意識や特徴、メリットやデメリットは捉えにく
私はどう読んでいるか 以下では、私が日々、どのように研究行為を実践しているか、そのありのままの姿を、一部公開いたします。具体的に言えば「テキストをどう読んでいるか」、それが主なテーマです。 というのも、私たち思想系の研究者というのは、それ以外に作業がないからです。その点で、実物を見分したり、実験を繰り返したり、フィールドワークをおこなったり、統計処理をおこなったり、そういった様々な「研究の実践」というのも、私は是非うかがってみたいのですが、ある意味で、私どもの研究の実践は、最もシンプルな部類に属すると思いますから、それらとの「違い」を際立たせる格好の素材となるかもしれません。 前置きはともかく、本題に入りましょうか。 1. 読むものと読み方 まず、専門研究のために私が読むのは、言語の種類を問わず、 ある思想家が書いた、原典となる哲学書や論文 それらについて書かれた研究論文 原典の理解に必要
On Long Documents このコンテンツ On Web Design の基本的テーマは、「私がWebデザイン、特に「堅い思想系サイト」のデザインをする上で、いつも考えていることや悩んでいることを告白する」ことです。そして、繰り返し繰り返し、思想系サイトの基本特徴を「長文主体」と形容してきました。そして、長文主体であるサイトに相応しい配色・デザインなどについて記してきました。 しかし、実はそもそも「長文主体」であることそれ自体、悩みの種なんです。その理由はいくつかありますが、主として2点にまとめられると思います。 長いと閲覧者の読む気が失せる 長いとファイルが大きくなり、読み込みに時間がかかる 前者は Web Document に限ったことではないのですが(本だって厚いと読む気が失せる)、それでも、紙と比較した場合のディスプレイの可読性の低さ(要するに、目に悪い)を考えれば、Web
On Line-Height & Letter-Spacing 行間や文字間を何も設定しないと、Webページは文字がびっしりで非常に読みにくいページになってしまいます。実際にそうしたページに遭遇することも多いのではないでしょうか。もちろん、個々の段落が短い文章であればよいのですが、私たち思想系のサイトの場合、必然的に文字ばかりからなる長文がサイトのメインを占めがちです。これを行間や文字間なしで読むのは苦痛以外の何者でもありません。 そうした訳で、私のサイトのうち、この Pensiero と、京大キリスト教学研究室の二つは、行間を170%、文字間を1ピクセルに設定しています。行間が170%とは、一行を100%としたとき、それに対して70%の余白を作る、ということです。また、文字間が1ピクセルとは、読んで字の如く、文字と文字の間が1ピクセル開くということです。試しに3つの例で比較してみましょう
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