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司法と裁判員裁判に関するsuzu_hiro_8823のブックマーク (2)

  • 河野真樹の弁護士観察日記 危機意識を喚起しない姿勢という「不安要素」

    司法に国民の常識を反映させる「民主的」な制度として描かれている裁判員制度。しかし、これをなぜ、今、市民を直接参加させる形で、しかも強制までして実施する必要があったのか。こう問われた時に、明解な回答ができる市民の方が明らかに少ないと思います。そもそもこの点について、「必要であると思うか」という問いかけを、政府もマスコミもしないまま導入されたのが、この制度です。前記そこまでする必要性について、納得したというよりも、よく分からないまま、いつのまにか参加させられているのが現実だと思います。 仮に「民主的」と規定された制度でも、それが国民の意思を問わずに強制されることが「民主的」なのか、という矛盾を指摘することはできますが、それがゆえに、むしろここでわれわれが見逃していけないのは、むしろこの「強制」そのものに目的があったのではないか、という点です。つまり、「強制」に対する国民の耐性、その実験もしくは

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    suzu_hiro_8823 2013/04/08
    その「危機意識の喚起」が「体感治安の悪化感」と「凶悪犯罪に対する厳罰化」という錦の美旗によって雲散霧消した。とすれば、「マスメディアはむしろ”人民裁判”に積極的だった」という穿った見方も出来るのでは。
  • 河野真樹の弁護士観察日記 「裁判員制度」というトリック装置

    民主主義社会においては、しばしば「民意」は「錦の御旗」になります。それは、権力の正統性を民意に求めるということではなく、「民意」の「旗」を振ることに求めることといってもいいと思います。残念なことに、そのことがこの社会で、大衆を服従させる、もしくは沈黙させることに有効である、とみるからこそ、偽装してまで「民意」の旗を獲得しようとする輩が、しばしば登場するのを、われわれは目にすることになるわけです。 したがって、われわれがこの社会の一員として、常に注意を払うべきなのは、「民意」として振られているものが、当に「民意」といえるものなのか、ということともに、それが「民意」の反映よりも、大衆を服従・沈黙させる方に真の目的があるものではないか、ということだと思います。 国民の常識を裁判に反映させることを謳い文句とする裁判員制度についても、こういうことが当初から言われています。国民が直接司法に参加しても

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    suzu_hiro_8823 2012/05/24
    それと、マスメディアのキャンペーンも見逃せない。社会的な制裁を受け持つマスメディアの「正当性」を担保するために情緒的な記事を流し、「容疑者(犯罪者)に人権なし」と「厳罰化」を後押しする節がみられる…
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