暮らし 『【コラム】どうして日本の「リベラル」はかくも無残に自滅してしまったのか - エストニア共和国より愛をこめて』へのコメント
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世の中 『『http://twitter.com/i/moments/914287102254182400』へのコメント』へのコメント
僕は自分を伝統主義者であり保守主義者だと思っているが、同時にリベラルでありたいとも思っている。 保守主義とは、古い仕組みを頑なに守ることではない。世界は常に変化している。その変化に対処できない人や組織は、衰退していずれ死ぬしかないだろう。生き残るためには、どんな人も組織も変化しなければならない。だがその変化は、なるべく緩やかであることが望ましいのだ。 自称保守主義者である僕は、そう考えている。 だが急激な変化を嫌う保守主義は、あらゆる変化を嫌う前例踏襲主義や「昔はよかった」という懐古主義に陥りがちでもある。だがリベラルであることこそが、そうした停滞に風穴を開ける。リベラルだからこそ、急激でないとしても、人や組織がゆるやかに変化していくことを促せるのだ。 しかし最近はこの「リベラル」という言葉が、ひどく肩身の狭いものになっている。なぜ日本人は、かくも「リベラル」が嫌いになってしまったんだろう
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