自分の「思考」を起点に他者の「思考」へたどり着こうとしても、それは決して明らかなものとして与えられることはない。ということを書いて参りました。他者の理解とは、その他者の思考を自分の思考の中で組み立てる(さらに言えばその真偽の認証はその他者につけてもらう)ということではないのです。そういう形で「他者」を理解する、言い換えれば「他者」を自分の中に取り込んでしまうことはもともと構図的に不可能であると…。 にもかかわらず私たちは(他者を)「理解した」と思ったり、「理解して欲しい」と思ったり、当然その理解が可能だということを疑いません。これは、その相互理解への信憑が先に来ているからなのです。もしそれが「思い込み」であったとしても、それは私たちを作り上げてきた「基底的な思い込み」、それを疑うことなどできないレベルでの思い込みです。 私たちは胎内からこの世界に出た時点で、自他未分、世界のすべてが自分であ