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動画共有サービスの台頭により音楽を映像によってパッケージ化するPR戦略の重要性はますます高まってきた。そんななか一般化してきたのがリリックビデオである。 「リリックビデオ」とは「リリック(歌詞)」と「ビデオ(動画)」の合成語であり、楽曲のサウンドに合わせてその歌詞が表示、展開される動画である。一言でいえば、テキストや歌詞のモーション・タイポグラフィをメインとしたミュージックビデオ(以下、MV)だ。 海外の楽曲プロモーション戦略やボーカロイド曲の動画文化から発展したこの動画形式は、比較的低コストで製作できることもあり、いまではさまざまなジャンルのMVで一般的になっている。 本稿では日本におけるリリックビデオ文化の形成過程やその源流にある映像表現を振り返りながら、現代のリリックビデオ・シーンの最前線を読み解いてみたい。 リリックビデオ前史 映像で流れる楽曲に歌詞を表示するという表現は、テレビ番
デジタル情報によるデータベースはコンピュータの黎明期から構想されてきた。現代では演算能力の向上やネットワーク環境の発達を背景に、世界各地にさまざまなテーマのオンライン・アーカイブが構築、公開されている。 グラフィックデザインやタイポグラフィも例外ではない。とくに2010年代以降は20世紀のグラフィックデザインに対する歴史的な関心の高まりを受け、多種多彩なイメージアーカイブが構築されている。 そこで本記事では筆者の独断に基づいてデザイナーや学生に向け、グラフィックデザイン関係のオンライン・アーカイブを、古き良きインターネットの伝統であるリンク集というかたちで紹介していきたい。 グラフィックデザインのアーカイブは対象とするリソースの蓄積や環境という側面から、アメリカやヨーロッパの団体、機関による取り組みが先行してきた。しかし、2010年代以降には、個人や任意団体によるインディペンデントなアーカ
2000年代以降、日本のTVアニメにおけるクレジットアニメーションは単なる世界観のプレゼンテーションに留まらない映像表現を見せている。その背景には映像制作のデジタル化はもちろん、動画プラットフォームのコミュニティから輩出されたモーショングラファーがグラフィックとセルアニメを高度に統合したクレジットアニメーションを制作するようになった状況がある。本稿ではこれらのTVアニメのクレジットアニメーションがどのような歴史文脈の上にあるのか考察してみたい。 バナー画像:Oskar Fischinger, An Optical Poem, 1938 ◎モーショングラフィックスとは そもそも「モーショングラフィックス」という言葉を最初に用い始めたのは、CGアニメーションの父と呼ばれるジョン・ホイットニーだ。ホイットニーは第二次世界大戦後、爆撃や対空砲火の照準装置のメカニズムを応用したアニメーション装置によ
グラフィックデザインの環境はいまや完全にビッグ・テックが提供するアプリケーションに囲いこまれてしまったようにみえる。しかし近年、デザイナーたちはそのような枠組みにとどまらない自由なアプローチを探究し続けてきた。身体性やアナログツールの復権はその代表的な動向だといえる。また、3Dや動画をはじめとするデジタル環境のさらなる深部へと方法を拡張していく方向も見逃せない。そんななかデザイナーの石川将也はデザインツールを自らプログラムするというプロジェクトに取り組んでいる。本論ではその動機やプロセスを公開する。 ●ちょっと一緒にやってみてくださいThe Graphic Design Reviewの読者の多くは、お使いのパソコンにAdobe Illustrator(CC)がインストールされていると思います。そこで、この文章をパソコンで読まれている方は、本稿の導入のための小さなワークショップとして、以下の
デジタルツールの発展でグラフィックデザイナーが動画を制作することはごく自然の風景となった。だが、それらのツールが提供するシームレスさは、グラフィックと映像それぞれのメディア性の本質や、両者の横断によって見えてくるものからデザイナーを遠ざけている。グラフィックにおける時間的側面、あるいは映像におけるグラフィック的側面について、グラフィックと時間のあいだで活動を続ける岡崎智弘が考える。 ◉グラフィックデザインと時間 この10年ほどグラフィックデザインと映像デザインが交叉する領域に向き合ってきた。そのあいだに取り組んできたコマ撮りによるデザインの実践から、自分の目と身体で得た経験を軸に、いくつかの「時間」を手掛かりとしたグラフィックデザインとその周辺について、この機会に私なりに書いてみたいと思う。 まず、私が二つの領域を往復するようになった背景についてふれておきたい。私はもともと映像表現に興味を
昨年来、これまで学術的な研究領域で探究されていた画像生成AIが一般ユーザーが気軽に利用できるウェブ上のサービスとして公開され、さまざまな反響を呼んでいる。コンピュータが描いたとは思えない高品質なイメージや、人間の発想を超えた奇妙なイメージをSNS上で見かけた人も多いだろう。これらの画像生成AIの展開と、その社会的、文化的な問題をめぐる議論について俯瞰する。 ●ブレイクスルーの到来 画像生成AIはクリエイション全般の在り方を問い直すものとして、現在注目を集めている。とりわけ昨年(2022年)はその技術がインターネット上で公開されたり、アプリケーションによってより手軽に利用できるようになったことから「画像生成AI元年(*1)」ともいわれており、さまざまなサービスが提供されるようになった。以下では画像生成の歴史を簡単に踏まえつつ昨今の盛り上がりについて触れ、それらが具体的にデザインやイラストレー
20世紀末に発表された評伝によって近代デザイン史、タイポグラフィ史における重要人物のひとり、エリック・ギルの「不都合な真実」が明らかになった。以来、ギルの業績やその書体の運用をめぐって、さまざまな議論が交わされている。作者とその制作物は切り離して考えられるのか、否か。国際的に活躍する書体デザイナーが考える。 バナー画像:エリック・ギル、1908-9年頃(出典:Fiona MacCarthy, Eric Gill: Lover’s Quest for Art and God, 1989) 日本およびタイポグラフィの世界でエリック・ギル(図1)といえばエドワード・ジョンストンの弟子、そしてGill SansやJoanna、Perpetuaなど名作とされる書体の作者として有名だ。特に人気のGill Sans(図2)は、ジャンルとしてはヒューマニストサンセリフまたはジオメトリック(幾何学的)サンセ
石川将也/小玉千陽/柿本萌/東泉一郎/三澤遥/加瀬透/脇田あすか/佐々木俊/正田冴佳/菊竹雪/田中良治/増永明子/味岡伸太郎 20世紀末に制作環境のデジタル化がすすみ、グラフィックデザインはAdobe社製を代表とするアプリケーション上で行われることが前提となってきています。しかし、デザインの仕事はアプリケーションやデスクトップで完結するものではなく、日常的な活動やコミュニケーション全体を通じて行われています。そこで本記事では基本的なグラフィック、ネット系のアプリケーション以外にその人が愛用している仕事道具について、13名のデザイナーにアンケートを実施。グラフィックデザインという仕事をより広い視点から見つめ直してみたいと思います。 FLUX社製レーザーカッター〈beamo〉 アクリル板や薄手の木材をカット・彫刻できます。Adobe Illustratorで作ったパスデータを、寸分違わず半立体
「デザイン」はつねに何かと何かのあいだにある中間的な領域だ。それは、さまざまな術や学を動員しながら、あるコトの 創出に向かう。文化人類学をひとつの補助線として、グラフィックデザインという方法をさまざまな実践に応用展開するデザイナーの考え方とは。 フリーランスとして働くようになる数年前、僕は「デザインで文化人類学をやる」ことに決めた。最近では「デザイン人類学」という言葉も聞くくらいデザイン界隈でも認知されてきた文化人類学だが、当時はまだまだデザインとは遠い存在だったと思う。僕自身も文化人類学の書籍を読んだり、映像人類学の映画を観たりしていたが、デザインとはかけ離れた世界だと考えてきた。しかし、その遠さが自分にとって重要だった。文化が異なる世界に触れ(ここまでのプロセスはデザインの仕事でも共通する部分はあった)、その世界を通して自身の視点や価値観がからりと変わってしまう(ここが当時のデザインの
表示媒体が多様化した現代、その環境に順応するように、毎年さまざまな書体が生み出されている。書体の作り手は時代とともに変わり、デザインのプロセスも答え方もその時々で変わってきた。それでも人の手によって作り出されるということに変わりはなく、脈々と引き継がれてきたものがそこには確かにある。 書体やフォントというと、現在はデジタル書体を思い浮かべる人が多くなってきているのではないだろうか。時代を二十世紀後半に遡ると、日本においてこの役目は写植書体が担っていた。私が小学生の頃にはすでに一家に一台のパソコンという時代だったため、実作業で写植書体を使うという経験は残念ながらほとんど経験したことがない。しかし、書体を扱う業界にいると必ず耳にする写植書体というものに興味が湧かないはずがない。 写植時代の、とくにゴシック体を語るうえで外せないのが1970年代に発売されたナールとゴナだ。これら二つの書体は、過去
『グラフィックデザイン・レヴュー』のボードメンバーが、今どんな関心や問題意識をもっているかを肩肘張らず語り合う編集会議的座談会。第2回はゲストにデザイナー、イラストレーターとして活躍し、社会問題にも関心が高い惣田紗希さんをお迎えし、「グラフィックデザインとジェンダー」について話し合います。日本のデザイン教育の現場では近年、学生全体の約8割を女性が占める状況が長く続いてきました。このジェンダーバランスの背景にあるものは何か、それに対する産業や社会の潮流はどうなっているのか? 活動拠点の異なるメンバーそれぞれの視点をもとに行われた座談会の模様をお届けします。 (協力:西山萌) 室賀:今回のテーマは「グラフィックデザインとジェンダー」です。近年、ジェンダーに対する社会的な取り組みが世界各地で大きな潮流となっています。Yulia Popova『How many female type design
その後、2008年にパートナーのToan Vu-Huuと共に、グラフィックとタイポグラフィのデザインスタジオBaldinger-Vu-Huuを設立。私たちのコラボレーションは、1889年に設立されたフランスの印刷、タイポグラフィ、グラフィックデザインに関する最も古いデザイン学校であるEcole EstienneのVIコンペを勝ち取ったことから始まりました。小さいながらもスマートなチームで、ヴィジュアルアイデンティティ、エディトリアルデザイン、ポスターデザイン、サイン・案内システム、展覧会の展示デザイン、タイプデザインなど、幅広いプロジェクトに取り組んでいます。 これらの経験と知識は、教職を通じて共有しています。1995年から2002年まではローザンヌ(スイス)のECALで、2002年から2006年までベルン芸術大学(スイス)で、2013年から2015年までナンシー(フランス)のANRTでタ
90年代に普及してきたインターネットやPCは、新しいフロンティアとして実験的デザインの舞台となってきた。2000年代以降、ブロードバンド化や小型デジタル機器の登場により、ネットは現実社会の基盤そのものとなってゆく。だがこれは同時に、かつてのフロンティアが巨大な資本やサービスに占有されていくことも意味した。デジタルメディアのデザインの初期からその最前線において挑戦を続けてきたデザイナーは、この大きな変容のなかで何を考え、どのような動きを見せてきたのか。長年にわたってウェブを核としたデザインに取り組んできたデザイナーで『The Graphic Design Review』のアートディレクターでもある田中良治(セミトランスペアレント・デザイン)が、日本のデジタルデザインの世界を先導し続けている中村勇吾(tha ltd.)を迎え、等身大の視点で語り合った90分。 「12 o’clocks」が見せた
2021年初秋に、『CAPS LOCK: How capitalism took hold of graphic design, and how to escape from it』 が出版された。著者はオランダ人グラフィックデザイナーでデン・ハーグ王立芸術大学(KABK)のNon-linear Narrative 修士コース[*1]で教えているルーベン・ペーター(Ruben Pater)だ。彼が2016年に発表した『The Politics of Design』(BIS Publishers)において現代のデザインという領域に潜在する政治や権力の構造を明らかにし、世界中のデザイナーや学生に衝撃を与えた。私も同書によって目を開かれた読者の1人である。 続く『CAPS LOCK』が取り扱うのは、グラフィックデザイナーと資本主義の切っても切れない関係である。同書の発売前オンライントークイベント
「グラフィックデザインには批評がない」とよく語られるが、ここで言うグラフィックデザインの批評とは何を指すのだろうか。2020年8月に「AIGA Eye on Design」に掲載されたジャレット・フューラーによる本記事は、1995年の『Eye』誌上でのリック・ポイナーとマイケル・ロックの対談を起点に、グラフィックデザインを取り巻くメディアの変遷を経た現在の「デザイン批評」について論じられた示唆に富むテクストだ。「グラフィックデザインの批評」は本当はどこにあるのだろうか。 私たちグラフィックデザイナーは批評と愛憎関係にある。私たちは、より多くの批評を求めながら、それが自分に向けられると文句を言う。一般の人びとに自分たちの仕事を理解してもらいたいのに、私たちの仕事についての記事が書かれると、それがどう間違っているかを批評してしまう。ビジネスの場で尊敬されたいと言いながら、「デザイン思考」のよう
DTPの登場やインターネットの発展は、70年代のヒッピー文化と西海岸コンピュータ文化のつながりを考えれば、ある意味必然だった。しかし、それはいまや巨大な情報産業へと変貌を遂げ、私たちの生活をフラットなスクリーンを通じて管理するようになってしまった。この状況に抗うかのように、近年、デザイナーたちはリソグラフのようなローテクな印刷技術やその質感に深い関心を寄せてきた。本論では、その背景にある実践や精神の系譜を探り、ノスタルジーにとどまらないDIY思想の現代的な可能性について考える。(バナーはリソグラフワークショップでの即興印刷) Low-Tech──リソグラフの話 ドイツのSpector Booksから『Exploriso: Low-tech Fine Art』という本が出版された。限定1000部のリソグラフの研究書だ。一見普通のペーパーバックだが、オフセット1色刷の本文ページの中央にリソグラ
先だって掲載されたフューラー「デザイン批評はどこにでもある」で語られている内容の時代背景や、そこから振り返る日本の状況について本サイト編集長が補足的に語る。 欧米のグラフィックデザイン批評との出会い ジャレット・フューラー「デザイン批評はどこにでもある──なぜ私たちはそれを求め続けるのか?」は、2000年代から現在にいたる西欧グラフィックデザイン批評の勃興とその変容について、著者の個人的な経験を交えて語ったエッセイだ。しかし、日本の読者にはそもそもどこの誰がデザイン批評を求め続けているのか、「私たち」とは誰のことか、と思う向きも多いのではないだろうか。この記事では個人的な体験の範囲であるが、フューラーの原稿の歴史背景について解説してみたい。 私は1999年から2018年まで『アイデア』というデザイン誌の編集に携わっていた。1953年創刊のこの雑誌は「世界のデザイン誌」をうたい、国際的な情報
1990年代以降、日本でもっとも影響力を持ったグラフィックデザイナーは誰かと問われたら、仲條正義(1933-)の名を挙げる人は多いだろう。すでに長いキャリアを積んできた仲條だが、90年代以降、あらためて同時代的な評価を高めていった。2000年代に流行した日本のグラフィック、その主要モードのひとつは、間違いなく仲條の仕事を源流としている。しかし仲條の仕事の気風や感覚について書かれることはあっても、そのデザインについて具体的に分析されることはあまりなかった。長い間その刊行が予告されていた仲條正義の決定的作品集『仲條』がついに刊行されたことを受け、同書を素材として仲條デザインの性質や特徴について考える。 『仲條』を読む 仲條正義の集大成となる作品集『仲條』がADPより2021年2月に刊行された。640ページに及ぶ内容はほぼ作品図版のみで、10年ごとに挿入される簡易な年譜、最後にまとめられた図版ク
日本文化を「フジヤマ、ゲイシャ」のようなステレオタイプなイメージで視覚化する習慣は、グローバル化が進んだいまなお根深い。また、これらの図像とともに用いられる独特のディスプレイ書体は、日本や他のアジア諸国の料理や物産を扱う店の看板やエンタテインメントの現場で、オリエンタリズムを表象する記号として運用され続けている。ステレオタイプな文化イメージの再生産を行う、この系統の書体の起源とは? オリエンタリズムと書体 海外で「日本」を視覚的に表現する際、登場率がもっとも高いモチーフはいまだに富士山と芸妓ではないだろうか。近年では漫画がその一要素に加わったが、こういった視覚表象をデザインに用いることで「日本」を表現する方法は、常にオリエンタリズムと切り離せない。日本の浮世絵・工芸が19世紀の西洋近代美術に与えた影響を専門にするドイツのクラウディア・デランク(Claudia Delank)は、これを「フジ
戦後の国際タイポグラフィ様式を代表するデザイナー、カール・ゲルストナー(1930–2017年)の主著『デザイニング・プログラム』(独語版1963年/英語版1964年)。同書は絵画的な造形理論や実践的な職能マニュアルから離れ、デザインをシステマティックな論理でとらえた点で画期的な著作だった。同書が示している視点は現代なお重要なものとして多くの読者を引き付け、2007年に改訂版、2019年にオリジナルの復刻版(ともにLas Müller Publishers刊)が刊行されている。 実のところ、『デザイニング・プログラム』はオリジナル版から時を置かずして日本語訳(朝倉直巳訳、美術出版社、1966年)が刊行されていた。しかし、時代に埋もれるまま手に入りにくい状況が続き、その復刊を望む声はますます高まっていた。2020年10月、ついに同書の日本語版が新訳で刊行された。同書をいま読むことの意義や刊行の
どうしてもデザインにこだわりたかった。 『死んでしまう系のぼくらに』を出すとき、デザインをちゃんとこだわって出したいですと編集の熊谷さんに言った。言葉は言葉であり、視覚的な要素が何もない。漫画でもないし絵でもないし、それに小説みたいに設定があるわけでもなく、言葉で風景を描写しているわけでもない。でもデザインにこだわりたかった。それは、視覚的なものが欠けているから、ではない。そこを補うためではない。むしろ補ってはダメで、詩が語らないものを語るデザインではダメで、だからこそ、こだわりたいと思った。詩集はいくつも詩が収録される、だから、そこにもう一編の詩として共に収録されるような、詩として成立するデザインでなければならないと思った。 いろんなデザイナーさんが候補に挙がったあと、熊谷さんが言った。「新しい人がいいんじゃないかな」。名前が挙がった人たちはみんな素晴らしくて、好きなデザイナーさんたちで
2025年日本国際博覧会(以下、大阪・関西万博)のロゴマークが発表された。 ロゴマークを見たとき、挑戦的なビジュアルにとても驚き、その後SNSで、ロゴマークに手を加えた「二次創作」たちが「祭り」[*1]のごとく発表され出したことにさらに驚いた。ちいさな感動すら覚え、興味深く見守っていたのだが、徐々にぼんやりした不安のようなものも感じ始めた。 2025年の万博開幕までのあいだに、このロゴマークが社会にどのように扱われ、受け止められるかはまだわからない。あれこれ評価する段階ではないだろう。ただ、いまこの瞬間の自分の期待とちょっとした不安の奇妙なブレンド具合を、記録として残しておくことに意味があるかもしれないと考え、この文章を書いています。 画像出典:https://logo.expo2025.or.jp/logo_announcement.html ・「やってくれたな!」 「イベントのロゴマー
トークイベント 奥村靫正×佐藤直樹:境界としてのグラフィックデザイン/出演:奥村靫正、佐藤直樹 進行:室賀清徳
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