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「頭痛が痛い」は良く知られた重複表現でありもはやわざと使って見せる体のもの。古くは岩城徳栄(「バカな娘」というキャラが売りだったタレント)の「持ちネタ」でもあった。なるほど「頭痛が痛い」はいかにも無用な冗語という感じがある。冗語、重複表現の代表格としての地位を確立している。 神経痛が痛い それでは「神経痛が痛い」はどうだろうか。 「頭痛が痛い」とまったく語構成を等しくしており、論理的には冗語とすべきだが、こちらは認容できる気がしないか。「頭痛が痛む」を「頭痛がする」と訂正する人は、「神経痛が痛む」をも「神経痛がする」と直すべきだと主張するだろうか。後者は「論理的だがちょっと筋違い」な主張ではないだろうか。「神経痛がする」はわたしの言語的直感にあっては、ちょっと舌足らずな感がある。つまりわたし個人は「神経痛が痛む」の方が良いとすら思うのだが、みなさんはどうお感じになるだろうか。 だいたい神経
クリストの梱包芸術 1)「梱包芸術」というジャンルがある。第一人者としてはブルガリア出身のアーティスト、クリストとそのパートナー、ジャーヌ=クロードが有名だ。ともかく何でも梱包してしまうというのがコンセプトで、古くは1969年にオーストラリアで「海岸を梱包」して世間の度肝を抜いた。また1985年にはパリの「ポン・ヌフ」を梱包した。ベルリンのライヒスターク(帝国議会議事堂)を梱包したこともある。 小さなところではスヌーピーの小屋が梱包されたこともあった。 (Peanuts 1978/11/20 ワシントンポスト他各紙;画像参照元は Peanuts オフィシャルサイト) その輝かしい戦歴をグーグルのイメージ検索でどうぞ: 梱包対象のインフレーション 基本的には、ともかくどでかいものを梱包することがライフワークの人で(そう言われると心外だそうだが傍目から見れば明らかに)、芸術批評界でも美術愛好家
わたしは漢字仮名変換には古くは EG Bridge、いまは「かわせみ」を愛用している老頭児マカーであるが、ゆえあってグーグル漢字変換エンジンを持ち出すことがある。ところがこれが腹立たしい。 グーグル漢字変換エンジンの大きなお世話 たとえば「レベル」ってタイプするとグーグル漢字変換エンジンは自動で英綴に直してくれて、「このLevelになると……」と、こういった具合の出力になってしまった。 何者なんだよ、この「俺」ってやつは。洋行帰りの嫌味野郎か、トニー谷か誰かなのか? 横文字なんざ変換候補に入っていなくて結構なのに。大きなお世話だわ、なにがしてぇんだべらぼうめ、余計なことしやがって。それともあれか、r, e, b, e, r, u… って俺がタイプしたのを見ていて、「違いますー、レベルは Level って綴るんですー、ぷぷっ、じぶん英語とか出来ない系?」みたいな煽りをグーグルから喰らっている
固有名ではない「山田太郎」 「山田太郎」といえばわたしの世代にはまずは『ドカベン』の山田太郎であろうが、この名前はある意味特権的な名前である。「名前の代表」として使われることが多いのだ。 名前の範例というものがある。 苗字なら英語で「スミス」、フランスで「マルタン」、ドイツで「ミューラー」、スペインに「ガルシア」、ロシアは「スミノフ」——そして日本では苗字を象徴するのは「山田」であろう。 数で勝る「佐藤」や「鈴木」をおさえて良く使われるのは漢字の画数が少ないことにも因ろう。 姓名の「名」の方では日本では「太郎と花子」。英語では「ジャック・アンド・ベティ」、フランス語なら「ジャン・エ・マリー」、ドイツ語なら「ハンス・ウント・ハンナ」といったところか、スペイン語なら「ホセ・イ・カルメン」に決まりだろう。 名前を象徴する「太郎/花子」、当然お役所などの書類の記入例によく登場する。 納税 太郎(確
将棋の話——いや飯(めし)の話かな。 登場する人物はぜんいん偉人枠につき、以下しばしば敬称略、また段位冠位は執筆時。 順位戦では飯を食う 名人位への挑戦権を争う順位戦は持ち時間6時間の長丁場だ。これより長い持ち時間の棋戦(たとえば名人戦、竜王戦などの番勝負)は二日制になるので、この順位戦が一日連続の対局時間としては最長の棋戦ということになる。朝始まって日付が変わるまで対戦が続くのが普通で、最高A級リーグ戦の最終二局はリーグ参加者が全員同日に熱戦を繰り広げる。とくに三月初旬、東京の将棋会館に集まって行われるA級最終局(9回戦)の日を「将棋界の一番長い日」などと言い習わしている。 各自6時間の持ち時間だから二人で12時間の考慮時間が用意されている、しかしそれを使い切っても「一分将棋」でまだ対局は続く。大変な話だ。 だいたい人というものは一つことを一時間と考え続けていられないものではないだろうか
「日本と欧州連合(EU)の経済連携協定(EPA)交渉で、EU は域内にあるワインやチーズなどの有名産地名を使った商品名約200件について、勝手に使えないようにすることを求める方向だ。合意内容によっては、日本で定着した商品名が変更を迫られる可能性がある。 特定の産地名を商品名などに使う権利は「地理的表示」(GI)とよばれる知的財産のひとつ。 EU は域内にブランド価値が高い産地名を使った食品やお酒が多く、いまのところ、日本に対して205件の商品名の使用制限を求める方向で加盟国と調整している。 朝日新聞が EU 関係者から入手したリストには、フランスのワイン産地に由来した「シャンパン」や「ボルドー」、イタリアのチーズ産地に由来した「ゴルゴンゾーラ」や「パルミジャーノ・レッジャーノ」、英スコットランドの「スコッチ・ウイスキー」などが挙がっている。」(朝日新聞web版 2015/02/26、ただし
エゴサの意味が変わりつつあるという。Twitter で「を/でエゴサ」を検索してみよう: この時間に「なう」でエゴサしてふぁぼってくるアカウントなにもんや 4年前声優になると豪語していたN君は元気だろうか、彼の名前をエゴサしても引っかからないのはきっと芸名使ってるからだよねそうだよね(棒読み 彼の名前をエゴサしたら「[彼の名前]ならアマゾン」という人身売買をしている脅威のアマゾン先生が垣間見えた 月曜から夜ふかしに出ていた地下アイドルの名前をエゴサしているんだが分からない(>_<) 知っている人教えてくらはい(^-^) 大嫌いなツイッタラーの名前をエゴサして、俺より潤ってないのを見て鼻で笑うのが楽しくてしゃーないわ!!! 1日に何度か好きな絵師さんの名前をエゴサして監視してる あきらかに自分以外のものを「エゴサ」する動きが始まっているのである。エゴ・サーチが省略されてエゴサになり、さらに「
人力車 「くるま」というのはもと人力車のことだった。たとえば落語で「吉原までくるまで」と言えばタクシーに乗っていったという話ではなく、人力車をチャーターしたということだ。「くるまといえば人力車」の長い時代を経て、その後 Automobile が上陸した時には「くるま」と区別して特に「自動車」という語を用いた。これがざっくり百年ほど前のことに過ぎない。 ところがこの Automobile はあっと言う間に物流の、とりわけ人間の輸送の主役におどりだし「くるま」の一語を人力車から奪ってしまう。「くるまといえば自動車」の時代になってしまったのだ。 さて困ったのは古い「くるま」の方だ。こちらを新しい「くるま」から区別しなければならない……そして拵えられた新しい用語が「人力車」だったのである。 この経緯からお分かりのように「人力車」は常用される語彙としては「くるま」よりも、それどころか「自動車」よりも
このように語彙の二層化が生じると、いきおい人は両者にニュアンス付けをして微妙に「使い分けていく」ようになる。一方が日常語になり、他方が学術語 (mot savant) になったりすることも多い。例えば buy と perchase などでは、訳し分けるなら「買う」と「購入する」と言ったようなニュアンスの差違が生じている。ここではゲルマン諸語系の語彙の方が日常化して、他方を「より専門語的」に仕上げたわけだ。生存競争(使用頻度)から言えば buy の圧勝だろう。 語彙流入の経緯からしても、後発のロマンス諸語系の語彙が学術語を受けもつ傾向が大きいのは事実であるが、もちろん逆の場合だってある。blossom と flower のペア、behaviour と action のペアでは後者のロマンス諸語系語彙の方が日常的になった。これらでは後者が生存戦略上圧勝している。 mistake と error
「レトルト」の語源は retort < retorte [fr.] < retorta [méd. lat.] = retorquere [lat.] と順に遡り、根っこはラテン語の「曲げ戻す、捩り返す、折り返す」の完了分詞女性形、上の通りその原義は「曲げ戻された」である。ではいったい何が曲げ戻されたのであろうか。「レトルトカレー」のどこが「曲がって戻って」いるのか? 実は「曲がって戻って」いるのは容器の口だった。 蒸溜や乾溜に用いる容器——その口が管状に伸びて下へと「曲げ戻され」ている——のことを「リトート retort」と言ったのである。 この容器ばかりでなく、この容器を用いた「蒸溜、乾溜のプロセス」そのものが「リトート」と呼ばれるようになる。より狭義にはほぼ「蒸溜 distillation」の同義語である。 容器の名が「それを用いたオペレーション」全体の呼称に転じたことになるが、これ
ニッチな新聞というものがある。業界紙などと呼ばれる特殊業界御用達の新聞である。 そういう業界紙のなかに、門外漢の立場からするとはっとするような名前の新聞がある。 たとえば自動車産業の市場規模を考えた場合『日刊自動車新聞』(紙面をご覧下さい)というものがあっても誰も驚かないだろうが…… いやそれどころか『二輪車新聞』(紙面をご覧下さい)というものがあってもまだ驚かないだろうが…… 『自動車タイヤ新聞』(これは是非、その紙面をご覧になって頂きたい)——タイヤ情報に特化した新聞が存在することを知ったならば多くのひとが驚くのではないだろうか。 また『日刊不動産経済通信』という新聞があっても、市場動向というものが莫大な損益を日々生み出している業界の事情を考えれば、こうした専門紙の必要性は判る。 だが……『日本屋根経済新聞』(これも是非、紙面をご覧になって頂きたい)という新聞の存在を知ると、随分ニッチ
観音様……ご開帳……摩羅……昇天……極楽…… 「急にどうしちゃったんですか、汚言症(コプロラリア)でも出てきちゃったんですか、お薬出しときましょうか」などとお思いになった方。何か勘違いをしておられるのではないかな。コプロラリアというのはトゥレット症候群や認知症などにみられる「猥褻語や冒涜語(ブラスフェミ)、Four-letter words を口にするのが止まらなくなる」という症状のことであるが……拙僧と如何なる関わりがあろうものかは。 愚僧はなにも猥褻語など一言も申し上げてはおらぬ、ただ羅什、玄奘の手になりつる有り難きお経を眺むれば玉章から拾い上ぐるばかりなり。「観音」も「開帳」も「摩羅」も「昇天」も「極楽」も孰れ由緒正しき仏教用語にこれあり、以て汚言などとはとんでもない讒謗(ざんばう)じや。 なに、並べ方になにやら底意を感じると、はてさて卦体なことを仰る方があるものだ、底意といひてどん
『論語』の決まり文句「子《し》曰《のたまわ》く」を機械翻訳にかけたら(Google 翻訳)「子供から聞いた話だが……」みたいになっててワロってしまいました(「ワロた」の適切でない使用例)。 論語が『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』と同類の書物みたいに見えてくる……いや、もともと近いものがあるのか? 子供が言ってたんだけど、 「遠くの友達がお泊まりにきてめっっちゃ楽しい」 子供が言ってたんだけど、 「口のうまい子は、あんがいこっちのことを真面目に考えてくれない」 子供が言ってたんだけど、 「失敗したら反省して、もうしないようにしないといけないんだよ」 なんだか育児ブログみたいになってきた。 子供が言ってたんだけど、 「ひとからされていやなことは、ひとにしちゃいけないの」 子供が言ってたんだけど、 「なんでもやりすぎはいけないんだよ」 子供が言ってたんだけど、 「七十才になったら
興味深いウナギ文を収集している。その都度更新。 追補の記事を書いた (13/06/10):うなぎ文の一般言語学へリンク これはこのエントリーに追加しようと考えていたのだが、ちょっとまとまった内容になったので、別項立てとした。関心のある向きは参照願いたい。 ウナギ文とは何か。 wikipedia から「コピュラ」の項を見よ。以下抜粋: 日本語では、「僕はウナギだ」「私はプリンです」のように、「買う」「選ぶ」「取る」「食べる」などの意の動詞の代替でコピュラを用いることが多くあり、このようにコピュラの使用をする構文を最も代表的な「僕はウナギだ」にちなんで、ウナギ文という。 コピュラの定義もそもそも難しいのだが、それ以上に、上記ウィキペディア項目の「ウナギ文」はやや説明が偏頗かと思われる。日本語のコピュラ相当「ウナギ文」にはほとんど使用制約がない。「買う・選ぶ・取る・食べる」など(上記記事による)
物語、伝承に登場する人物の名前が、人間の性格や属性を表す一般名詞として使われる例について。たとえば「タルチュフ」である。 この人物はモリエールの出世作、芝居『タルチュフあるいはペテン師』に知られる。タルチュフは偽善者(偽宗教家)であり、金満家オルゴン氏、その母ペルネル夫人に取り入って、一家に食い入ってくる。オルゴンの娘を強引に娶り、財産を収奪し、あまつさえオルゴンの妻にまで手を出そうとする(いずれも最終的には未遂)筋金入りの生臭坊主、いや本当は坊主ですらないのだ。タルチュフの偽善に気付いていた周りのもの、特にオルゴンの妻エルミールは策を巡らして偽善者を罠にかけ、その馬脚を露にするのだが、敵もさる者、すでに手に入れていた財産贈与の書面をたてに執行吏を遣わしてくる。さらにタルチュフはオルゴン一家は陰謀の一端を担っていると国王宛に告発し、一家の破滅は目前となる…… この強烈な登場人物タルチュフの
かつて英文学者の安藤文人(ふみと)先生の随筆に膝を打ったことがある。「ある『落ちこぼれ』の弁解」と題するエッセイで、ご自分が数学が苦手であったことを自虐的、諧謔的に回想した一文であった。敬称に先生としたのは実際にお世話になったことがあるから。以下は簡便のため「氏」とさせていただく。 今でも数学は勿論わからないし、時折夢の中で悩まされる以外は数学のことを思い出しもしないが、近頃になってようやくわたしに欠けていた能力が実際は何であったのかがわかってきたような気がする。簡単に言えば、わたしの頭はまったく偏頗にできていて、言葉、あるいは記号に対しては常に単一の反応しかできないのだ。例えば、次のような「文章題」が試験に出されたとしよう。 「弟が二キロ離れた駅に向って家を出てから、十五分たって兄が自転車で同じ道を追いかけた。弟の歩く速さは毎分七十メートル、兄の自転車の速さは毎分二百二十メートルであると
かつて「由来を失ってどこまでも重なっていく言葉」の項で、地名における意味の重複について触れた。今回の記事はその補遺である。 「意味の重複」についてネット上に流通している結構有名なコピペがある: 「ボリショイ」とはロシア語で「大」と言う意味。つまりボリショイ大サーカスでは「大大サーカス」 チゲと言うのは「鍋」と言う意味なので、チゲ鍋では「鍋鍋」 クーポンと言う言葉は「券」と言う意味なので「クーポン券」では「券券」 襟裳(えりも)はアイヌ語のエンルムからきていて意味は「岬」の事、つまり襟裳岬は「岬岬」 フラダンスの「フラ」とはダンスを意味する言葉なので、フラダンスは「ダンスダンス」 スキーという言葉は元々ノルウェー語で薄い「板」を差す言葉なので「スキー板」では「板板」 アラーの神と言う言葉、「アラー」とは「唯一神」の事なので「神神」 イスラム・シーア派の「シーア」は派閥という意味で「シーア派」
twitter で「汚名挽回」の名誉回復が論じられている。 誤用ではない?「汚名挽回」「名誉挽回」をめぐる辞書編纂者らの議論 辞書編纂者の方々は文証が多ければ、誤用か否かとは別に「現に用いられる」という理由でまずは用例として取り上げざるをえまいし、そこに誤用であるか否かの判断が必要ならしかるべき基準のもとに判断を下すだろう。以下、手許のカードから。大御所、ベテランから最近のものまで、わりと用例はある: 片山旅団に任務交替の日まで、支隊は九七〇を固守、汚名挽回に努めた。(五味川純平『ノモンハン』下) 田中参謀は、俄かに活気を取り戻した。西安の兵変を汚名挽回の好機として勇み立ったのである。(五味川純平『虚構の大義—関東軍私記—) 警視庁は非難されていたが、これでなんとか表向きは汚名挽回ができた。(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上) 漢中から無念の退却をした徐晃は、汚名挽回の好機とばかり、まっしぐ
かつての教え子からご質問があり、調べてみたこと。掲題の「ザクシャインラブ」とは、少年ジャンプ連載中のラブコメマンガ『ニセコイ』に出てくるキーワード。「10年前の約束」にまつわる言葉で、主人公はこの思い出を共有する「約束の女の子」を探しているとのこと。 この言葉がポーランド語だというのである。スラブ系の言語は苦手で、古い教会スラブ語の文法などに四苦八苦している上に、現代語は他に専門家がごろごろ居るので私の任ではないなと思ったのだが、ちょっとネットで調べてみたら「通説」がまるっきりいい加減なようで驚いてしまった。以下引用に辺り無用な改行を省く。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1381315678 Q : ニセコイについて質問です。 ニセコイに出てくるザクシャインラブの意味を教えて… A : たしか、「愛を永遠に
前々エントリー「流行り言葉の栄枯盛衰:ギャルとフェチ」および、 前エントリー「中二病、あるいは厨をめぐる用語史抄その1」を承けて続く: 中二病とは別に発達していた「厨房」 さて、前エントリーに述べたような経過を辿って、伊集院の「中二病」は徐々に意味を狭め「自虐の詩」すなわち自嘲の反省から、ひとの未熟をくさす罵倒表現へ、さらには「厨二病」とか「厨っぽい」といった形を得て「重篤症例の邪気眼妄想を指す用法」へと片極化を遂げてきたことが確認された。 しかしここに、とりわけウェブ上のジャーゴンとして「別のルート」を辿って成立してきた「厨房」という言葉がある。「厨二病」は、この「厨房」と付かず離れず隠微に交叉して、その意味に振幅を刻んでいる。では「厨房」とは何の謂か。 意図的誤変換「厨房」 「厨房」は、要するに「中二」に対応する「厨二」と同様に、「中坊」に対応する用字バリエーションに過ぎなかった。掲示
前々エントリー「流行り言葉の栄枯盛衰:ギャルとフェチ」を承けて続く: 今回のテーマは「中二病」ないし「厨二(ちゅうに)、厨(ちゅう)」という言葉である。もっともこのエントリではこの用語の変遷を瞥見することばかりが主眼であり、ここにことさら新しい知見は登場しない。ネット言説に平生触れている者ならば周知の事情を時系列に則して整理しただけの記事である。 「厨二」はウェブ上のジャーゴンの立場を脱し、すっかり世間に定着しつつある。同時に前エントリー(流行り言葉の栄枯盛衰:ギャルとフェチ)に触れたような、流行語には不可避である「語義の変転」が当然のこととして見受けられる。ところで、その変化に興味深い部分——珍しい分化が生じている。この言葉はちょっと面白い変転を辿っている。一言でいえば「同時に片極化し、拡大もしている」のである。意味が「狭まっ」ていると同時に「拡がっ」てもいる。こうした自家撞着がどうして
香辛料をどう呼ぶか 胡椒とは何か、辛子とは何か、私たちはよく知っているような気になっている。ところが改めて考えてみると、これが意外と曖昧で難しい問題だと判る。 もとより香辛料というものは東西南北の文化が相互交流をするようになってから手に入るようになったもので、ざっくり言って古代中世ヨーロッパには広く知られていなかったか、手に入らなかった、手に入りづらかったものである。『金と香辛料』ではないが、それはヨーロッパ中世にとっては著しく珍しい文物であり、しばしば大変高価なものですらあった。よく知られた話である。大航海時代以降に世界の食の風景は一変している。それであるから胡椒とか、辛子とか言うものが、多くの文化圏にとって「新参者」であり、呼称上の混乱を招いたということは理解出来る。 ここで既に、胡椒や辛子をめぐって「呼称上の混乱」などあるだろうかと訝しむ向きもあろうかと思う。胡椒といえばラーメンにぱ
キリマ・ンジャロ 「キリマンジャロの雪」といえば、ヘミングウェイの短編ではもっとも有名なもののひとつだ。このアフリカ最高峰であるキリマンジャロは二語からなる地名である。 で、その切れ目がキリマ・ンジャロ。「山」+「輝ける」。 コーヒーの銘柄選択で「キリマン」などと略称することは多いかと思われるが、この際どこで区切るのが原語に照らして正当かといえば、「キリマ」であるということになる。切れ目が意外なだけでない、日本人(ばかりではないが)には「ん」で始まる単語にいささか虚を突かれる思いがするところだ。もっともアフリカを行き来する人々にとってはンゴロゴロとかンジャメナとか当たり前の語感なのだろう。ンジャメナにいたっては一国の首都だ(チャド)。 タンザニアのザンジバルを中心とする「海岸(=スワヒリ)」の言語圏の音韻環境ではこうした語頭音はごく普通ということだ。尻取りをやっているときに相手がうっかりと
流行語の変遷の二類型 流行語について二回に分けて取り扱う。まずは流行語の語義の変化について。 とりわけ流行語における短期的な語義の変転となると、ある種の片極化・先鋭化が生じるか、あるいは対象の拡大・外延の膨張がおこるか、いずれかに転ぶのが通常である。簡単なことを難しく言ってしまった。要するに流行り言葉は語義が狭まるか、拡がる。 狭まった例:ギャル 語義の狭まった例としては、たとえば「ギャル」などはどうだろうか。もともと girl の転である俗語的な gal という言葉は、かつては女の子全般を指していた。沢田研二が『Oh! ギャル』(1979) と歌った頃には女の子は誰でも「ギャル」だったはずである(ちなみに沢田研二はこの歌が大嫌いだと公言している)。やや進取の気風をもった女の子を指しがちだ、といった弱い傾向はあったかも知れないが、「ギャル」はげんそく女子一般を指していたのであり、したがって
ではその筋道とは何か? まずは問題を簡単に整理しよう。 「いっぽん、ろっぽん、はっぽん、じっぽん」と促音で詰まったところに「本」が接続する時には /p/ 音が出てくる。すなわち「促音終わり」には /p/ 。 「にほん、ななほん、はちほん、きゅうほん」など「開音節・母音終わり」には /h/ 音。ただし「よんほん」にも /h/ 音。 「さんぼん」のように「撥音終わり」には /b/ 音。 解かれるべき問題 問題が幾つか見える。以下「 * 」は「実例無し 」の意味とする。 問題1)音韻環境が等しく見える「さんぼん:よんほん」をどう説明するか。なぜ同じ「ン音」に別の音が続くのか。 問題2)「*いちほん:いっぽん」「はちほん:はっぽん」「しちほん:*しっぽん」にみる「チ音と促音」の交替の不整合。 問題3)「きゅうほん:*きっぽん」と「*じゅうほん:じっぽん」の間の不整合。 いずれも音の転化が起こるに際
徹底した「ル責め」。長音の扱いはどうするか、固有名詞や地名の許容範囲は何処までか、ゲーム開始時にコンセンサスをとっておいて、どこまでも攻め続けよう。 そして「返し技」をも十分に準備しておくことだ。相手にも同じ「ル責め」で攻め込まれたら、その時こそ不敵な笑みを浮かべて切り返してやろう。 以下に「ルで始まってルで終わる」という「ル責め」上級者向けの必須アイテムを授ける。長年集めてきたもののお蔵出しだ(こんなことばかりやっている)。とくに使い勝手の良さそうなものは強調しておく。ちょっとフランス文学・思想などに偏りがあるかもしれないがこれは仕方がない。 ル・シャトル(ユーロ・トンネルを運行する「フェリートレイン」) ルー(カレーの) ルー(ケルト神話の太陽神) ルー(トランプのゲーム) ルー(ハーブの一種) ルー(小惑星5430) ルーアン家鴨 ルーゴン・マカール ルージュ・コラール ルータイル(
これは以前のエントリー「ウナギ文の好例コレクション(リンク)」の補遺として書かれ始めたものだった。そのエントリーに追補しようと考えていたのだが、この「追補」の方が本体より長くなってしまう勢いである。これは別エントリーにするに如くはないと考えた。 以下に新たな例を付け加えるとともに、いわゆる「うなぎ文」の問題圏から、「名詞文」の問題、さらにはドイツ語・ラテン語の非人称受動の問題、フランス語の代名動詞の問題まで、一般言語学的に話を拡げていく。というか、書いてみたら勝手にそこまで話が及んでしまった。 奥津講演 まず実例の追補として、次の講演に魅力的な例を多く見いだした。つまみ食いにするのはおしい充実した記事であるから、諸賢は原文にあたられたい、すべてリンクを張っておく。以下原則敬称略とする。 奥津敬一郎「言語における普遍と特殊-うなぎ文をめぐって-」2007年度 第1回日本語特別講演会:報告(活
外国人に日本語を教えた経験があるものなら大抵いちどは立ち止まったことのある問題だろう。日本語でものを数えるのは難しい——日本語では「数える対象」によって数え方が違うのである。日本語母語話者にとって当たり前のこの一事が、実はどれだけ難しいものを含んでいるのか、そこを考えるのが小文の趣旨である。 一少年、二少年、三少年 2004年に飯田朝子『数え方の辞典』という好著が話題になり、あらためて耳目がこの問題に集まったのであるが、日本語は驚くほどのバリエーションを擁して「ものの数え方」を区別している。ただ名詞に数詞を添えるのではなく、名詞のカテゴリー分別を内包した、いわゆる「助数詞」を添えるのである。 これが例えば英語ならば、a/one boy, two boys, three boys といった具合に数詞を対象の前に付加していくだけでよいが、同じやり方を日本語に適用すると「一少年、二少年、三少年」
外国人にとってはまだまだ日本は未知の国、外国の小説や漫画、映画などに出てくる日本人の姓名が時としてかなりヘンテコなものになっていることがある。ずっとコレクションしているのだが、ここに一端を御蔵出しする。 ※小文に限っては、簡便のため姓名の「名字(ファミリーネーム)」と「名前(個人名=ファーストネーム)」を常時区別し、単に「名前」とした場合でも、それはファーストネームの方を意味することとする。 まずは良い例から 無論、ヘンテコなものばかりではない、割に穏当なものも多いのだ。たとえば御大、エラリークイーン『ニッポン樫鳥の謎』(創元版)=『日本庭園殺人事件』(角川版)に出てくる寡黙な日本人老女中、その名は: キヌメ カタカナで書かれるとぎょっとするが、これは「絹女」とでも書くのだろうか、彼女は琉球の出身で、琉球はアイヌとも血統が近いと言われているが、戦前のものにしては割に正しい認識と言ってよかろ
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