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以下、全文が早稲田大学ジャーナリズム教育研究所HP(花田達郎教授)からの引用です 「朝日新聞吉田調書記事取り消し事件」 出来事の名前は重要である。発生した出来事にどのような名前を与えるか。命名の仕方はその出来事の意味の解釈および定義付けを含んでいる。そして、重要なのは、その出来事はその名前ととともに歴史に記録され、人々に記憶されるということである。権力側の視点から命名され、メディアもそれを受け入れた「外務省機密漏洩事件」という名前が「沖縄返還密約事件」に修正されるのに何年を要したことか。 さて、2014年9月11日夜の朝日新聞社の木村伊量社長の記者会見、そして同紙の翌日朝刊の謝罪紙面はどのように見ればよいだろうか。大きな出来事であったことに間違いはない。 9月12日の1面には、次のような見出しが並んでいる。 ①吉田調書「命令違反し撤退」報道 本社、記事取り消し謝罪 ②慰安婦巡る記事 撤回遅
もう15年近くも前の1999年9月、ニュージーランドのオークランドでAPEC首脳会合があった。私は当時、北海道新聞の東京政治経済部で日銀・大蔵省(現財務省)を担当していて、現地に出張した。会その3晩目だったと思う。小渕恵三首相と記者団との懇親会が海沿いのレストランであり、食事中ずっと、小渕氏の右に座った。丸いテーブルには6−7人。長く小渕氏に仕えた政務の秘書官やどこかの省庁の幹部もいた記憶がある。 ほとんどが冗談話だった。内容もほとんど記憶していない。ただ、自分なりに「これだけは総理に聞いてみよう」と考えていたことがいくつかあって、そのうちの一つが国旗国歌法だった。調べてみたら、この法律の発布・施行は1999年8月13日。APEC首脳会合が9月12、13日だから、法律ができてちょうど1ヶ月後だった勘定になる。国旗国歌法案の衆院提出はこの年の6月末で、衆院通過までに要した時間はおよそ1ヶ月だ
私の郷里は高知県高知市である。縁あって、4月から、ふるさとの高知新聞で記者として働くことになった。北海道新聞社を退社してから8ヶ月余り。舞台を変えて、再び新聞記者として一からの、ゼロからの出発である。 高知市は私が高校生のときまで住んでいた。高校卒業からすでに30年以上が過ぎている。街は変わったところもあるし、変わらぬところもある。私の実家は高知城から西へ3−4キロほど離れた旭地区にある。坂本龍馬の生誕地へもぶらぶら歩いて行ける。その街の様子は以前、英国ニュースダイジェストという、英国の邦人向けフリーペーパーに書いたことがある(木を見て森もみる 第44回「きょうは安心して眠りましょう」)。これを書いてから、またさらに年月が過ぎた。なにせ、この4月には52歳である。そんな年齢が自分に訪れようとは、ほんの数年まえ、50歳に到達するまでは実感したこともなかった。 幸いなことに、高知の実家では、父
「メディアの罠 権力に加担する新聞・テレビの深層」が発売されて、1ヶ月ほどになる。おかげさまで、あちこちから「メディアの病巣がよく分かる」「問題は本当に構造的だ。それをきちんと整理できている」といった声を頂いている。今度の日曜日、11日午後には東京の八重洲ブックセンターで刊行記念のトークショーも予定されている。神保哲生さん、青木理さん、それに私の3人が顔をそろえ、あれやこれやと語る手はずだ。関心をお持ちの方は、ぜひ。大震災からちょうど1年に当たる日なので、話はその方面にも進むと思う。 「メディアの罠」については、私が著者3人を代表する形で、以下のような「まえがき」を書いた。ぜひ書店で手にとってくだされば、と思う。 (以下、「まえがき」からの引用) 最近のメディア批判、ジャーナリズム批判は止まるところを知らない。本書を手に取ったみなさんも「新聞やテレビの報道はいったい、どうなってしまったのか
ここ数日、「報道の基本は何か」ということを考えている。「調査報道とは何か」とも考える。 今さら言うまでもないことだが、取材とは事実の積み重ねである。集めた事実が正しいかどうか、幾重にもクロスチェックをかける。さらに裏取りをする。ぜい肉をどんどん落とし、さらに肉付けし、、、という地味で地道な作業の繰り返しである。 ポイントは「事実のチェック」である。「評価の集積」ではない。「おれはこう思う」という「思う(=評価)」をいくら積み重ねても、「事実のチェック」には直接関係ない。 たとえば、世の中の矛盾や不条理に苦しんでいる人のところへ話を聞きに行ったとしよう。そこで耳にした話は、なるほどひどい。さあ、その話を書こう・・・だけで良いかどうか。「調査報道」という視点から見れば、それでは足りない。まったく足りない。「ひどい話が本当かどうか」を煮詰めるのが、取材である。「取材したとき、相手は確かに『ひどい
自由報道協会が「自由報道協会賞」というアワードを設け、私が編者になった「@Fukushima 私たちの望むものは」が同賞の中の部門賞「3・11章」に他薦でノミネートされた。このような地味な書籍に着目してもらい、本当にありがたく、光栄でもある。 しかし、きょう午前零時に公表された(本当はもっと早くにも公表されていたようだが、いったんサイトが閉鎖されていたらしい)賞のノミネート一覧をみて少々驚いた。この賞がこういう形になっていること、「記者会見賞」があり、そこで小沢一郎氏の受賞がすでに決定していたことに驚いた。そこで、賞自体の考え方等に大きな疑問があるということで、昨晩(というか本日25日)午前零時50分ごろ、下記メールを同協会に送り、賞の辞退をお願いさせてもらった。以下、送付したメールのエッセンスを記しておく。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この度、「自由報道
「@Fukushima 私たちの望むものは」が出版されました。版元は東京の産学社です。どんな本であるかは、以前、このブログでも紹介しました。ぜひ手に取っていただき、少しでも多くの方に読んでもらいたいと願っています。以下はその「まえがき」です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東日本大震災から、半年が過ぎた九月中旬の午後。私は福島県南部の街にいた。 二両編成の電車を降り、駅前へ出る。人通りはほとんどない。客待ちのタクシーが三台。それをやり過ごして信号を過ぎると、小さな川を渡った。二つ目の信号は右折。次の角は左折。目指すアパートは、青みがかった灰色の三階建てだった。都会ではごくふつうのアパートだが、郡部のこのあたりでは小綺麗で立派な部類に入るかもしれない。 「C」の部屋に表札はなかった。 インターホンを押し、玄関を空けてもらった。たたきには、靴
秘密保全法案について、再び書いておく。この法制について検討を重ねていた「有識者会議」が今年8月にまとめた報告書がある。ネットで検索すれば、すぐに引っかかるので、時間がある方はぜひ目を通してもらいたいと思う。報告書は有識者5人の検討を経てまとめたことになっている。5人には失礼かも知れないが、事実上、官僚たちの成果物と言って差し支えあるまい。 報告書を紐解いてみよう。私は法律の専門家ではないから、誤読があるかもしれないが、その点は容赦してもらいたい。まず、最高で懲役10年を科そうとする「秘密」はどこに存在しているのか。報告書によれば、(1) 国の行政機関 (2) 独立行政法人等 (3) 地方公共団体=とくに警察 (4)行政機関等から事業委託を受けた民間事業者及び大学−−の主に4つである。そして、何が秘密かを指定する権限は行政機関にある、とする。 秘密を扱う人物に対しては、あらかじめ、当該行政機
秘密保全法案が来年早々召集の通常国会に上程されそうだ。「いよいよか」と思う。実に不気味な法案である。秘密保全法案は御承知の通り、(1)防衛など「国の安全」 (2)外交 (3)公共の安全・秩序の維持―の3分野を対象に「秘密」を決め、漏洩者等には最高で懲役5年・10年の刑罰を与えようとする内容だ。 日本新聞協会や雑誌協会などは相次いで反対の声明を出してはいる。しかし、いかにも勢いは弱い。新聞社説やコラムなどでも各紙はおおむね「反対」をうたっているが、一方で「国には一定の秘密がある」という趣旨のことをあっさり認めてしまう(例えばここ→京都新聞の社説)。「国家秘密とは何か」「そもそも国家に秘密はあるのか」「誰がそれを認定するのか」をめぐる議論こそが最重要になるはずなのに、である。それに機密保全のためなら、すでに国家公務員法や地方公務員法の中に立派な守秘義務項目があるではないか。 「国家」という抽象
今月初め、上智大学で開いたシンポジウム「調査報道をどう進めるか」の基調報告で、いわゆる「持ち込みネタ」に関する問題点を指摘した。当日参加できなかった方から「持ち込みネタをやめろという話をしたそうですが、どんな話だったんですか」という照会があった。メモなしで喋っていたので詳細は記憶にないが、趣旨はだいたい、以下のような話である。 (ただし、この話には2つの前提がある。一つは対象を「主たる新聞とテレビ局」に限定していること。雑誌やその他の媒体はまた違う話になる。もう一つは、いわゆる「権力追及型」調査報道に限定していること。調査報道にはいろんな種類があるが、今回は定義付けの場ではないので、そこには言及しない。) 日本の新聞やテレビにおいて、なぜ、調査報道が少ないか。議論の出発点はそこにある。もちろん、調査報道は「相当に少ない」のであって、「ない」ではない。実際、過去には多くの優れた調査報道があっ
大した根拠は何もないが、いよいよ、「帝国」の姿が見えてくるのかもしれない。朝日新聞社と読売新聞社が共同通信社との契約を解除するというニュースを見て、そんな気分が増している。一部報道機関によれば(笑)、ニュースの概要はこうだ。 <共同通信社は12日、朝日新聞社と読売新聞社から、外信ニュースとスポーツ記録の配信契約解除の申し入れを受けたことを明らかにした。共同通信社によると、解除の理由を「第一に経費的な理由」などと説明しているという。両社は1952年に一度、共同を脱退。その後、強い要請により、共同加盟社の承認を経て、1957年から「契約社」として外信記事の提供を受け、スポーツ記録の配信などに契約を拡大してきた。> スポーツ記録も外信ニュースも、共同通信にとってはいわばドル箱である。とくに国内外の小さな大会にまで目配せするスポーツ記録は取材やデータ整理に手間暇がかかり、これを新聞社が単独でやろう
あまりにも当たり前すぎて、ふだんは不思議に思わないことがある。「新聞はニュースを報じる」。これもその一つだ。ニュースを報じない新聞は新聞ではない。実にその通りだ。しかし、「新聞はニュースに縛られている」のも事実である。これはどういう意味か。先日、東京・文京のシビックセンターで月刊誌「創」のシンポジウムがあって、そこでも同じことを言った。うまく説明できたかどうか、自信がないので、ここに書き残して、再度きちんと説明しておこうと思う。 「ニュースとは何か」という、大学の講義みたいな話になってしまうが、少しお付き合い願いたい。 ニュースの基本は「出来事」を追うことだ。戦争や政局、事件・事故、株価の動向、企業の新製品。これらは、すべて「出来事」である。出来事であるからニュースになる。「出来事」とは、簡単に言えば、「動き」のことだ。逆に言えば、「動き」のないものはニュースになりにくい。 最近、「新聞は
9月1日午前、札幌は快晴。夏に逆戻りしたような陽気になった。朝早くに知人からの電話があって目が覚め、そのとき、「ツイッターにこんな話が出ているよ」と教えてもらった。 Takashiさんという方のつぶやきである。 @Tyrant_of_Japan 【北電やらせメール】道新の報道姿勢がやはり気に入らない。元々共産党の調査により発覚した問題に乗っかっただけで、道新は調査するどころか藤原さんの内部告発さえ扱おうとしなかった。高田昌幸さんの言う通りただの発表報道に過ぎない。本来あるべき調査報道はもはや望むのは酷か… #泊原発 「発表報道」とは何か。それを説明しようとしたら、1冊の本ができるだろう。それほど根深い。私なりに簡単にまとめると、いくつかに集約される。 まずは、発表のタイミング=時期が、当局側の都合で左右されることだ。当局・権力者らによる発表のキモは「発表したいものを、発表したい時に、発表し
「北海道新聞を退社しました」とのお知らせをメールで送ったり、その挨拶で知人の方々を訪ね歩いたりしていると、ほうぼうで「やっぱり、あれですか、あの件で?」との質問を受ける。北海道警察の裏金報道を手掛けた後、道警の元総務部長である佐々木友善氏が名誉棄損で私や出版社などを訴え、先頃、その判決が確定した。それが「あの件」である。 上告していた「北海道警察裏金本訴訟」は、私の退社直前に最高裁が上告を退ける決定を下した。もっとも、最高裁の決定は今年秋ごろだろうと予測していた。最高裁決定と退社時期との時期的な近似は、偶然に過ぎない。退社はもっと早くに、大震災発生直後の日々の中で最終決断した。 しかし、裁判やその帰趨がどうであれ、それだけでは辞めようとは思わなかった。 有り体に言えば、未曽有の大震災が起き、原発事故が日々深刻さを増している中、それ以前と同じような感覚、態勢、視点で報道を続けていく勤務先の新
4月上旬の平日、午前中のことだった。旅先のホテルで何となくテレビを付けっぱなしにしていた。正確な日にちや時間は覚えていない。ニュース・ショーだったことは間違いないが、どの局のどの番組だったかの記憶も曖昧である。それを語った人の名前も忘れた。しかし、その瞬間の、画面に向かって思わず、「そりゃないだろ」と叫び出したくなるような感覚は、今も忘れない。福島第一原発の事故現場の地図か何かを背景に、画面のアナウンサーだかキャスターだかは、おおむね、こういう趣旨のことを語ったのである。 「(原発事故の状況について)福島の現地対策本部と東京の東電本社、保安院では、それぞれ言う内容が違う。本当に困る。どれが本当なのか、国民は分からない。政府は、発表を一本化してきちんと対応すべきじゃないか。早くひとつにまとめて下さい」 まったく、何を言っているのか、である。報道機関であるなら、「発表内容がなぜ違うのか」の要因
東日本大震災の後は、半ば呆然とした日々が続いていた。札幌は、地震も津波も原発事故も、ほとんど影響がなかったし、今もない。自分の日常の仕事も、震災前と同様に続いている。 新聞労連の集会に呼ばれて青森県の八戸市へ出向いたのは、2月初旬のことだった。東北各地から地方紙の記者や販売・営業担当の人たちが集まり、夜は店を3軒もハシゴしながら「地方紙はこれからどうしたらいいか」といった話を続けていた。あのとき、夜遅くまで話した人たちも、かつてない事態の最中にある。その場で一緒した「今だけ委員長」さん、河北新報の寺島英弥さんの「余震の中で新聞をつくる」、あるいはその他の奔流のような報道に接していると、現場のすさまじさと足下の日常との、あまりにも違うその落差を前にして、私はなかなか語るべき言葉を持ち得なかった。 それでも、書いておきたいことは山のようにある。何からどう書いておくべきか、頭の中の整理が仕切れて
2010年の振り返り総括でも書こうと思っているうち、2011年が明けてしまったが、昨年末(と言っても10日ほど前のこと)、久々に強い憤りを感じたことがあった。例によって、記者クラブ問題である。 「記者会見・記者室の完全開放を求める会」のホームページに昨年末、「総務省記者クラブとの懇談会」、 「総務省記者クラブからの返答」という2つの記事がアップされた。当初は、記者クラブ側がフリーランス記者たちの意見を聞き、会見開放に向けての具体策を考えていく、そのための会合だと思っていた。ところが、そうではなかった。 「総務省記者クラブからの返答」は、公表用だから随分マイルドな表現になっている。このやり取りを行ったフリーランス記者の渡部真さんによると、実際のやり取りはもっと激しかったようだ(口調や言葉遣いのことを言っているのではない。誤解のないように言っておくが、渡部さんは非常にまじめな、穏やかな人である
「日本の現場 地方紙で読む」(旬報社)が出来上がった。そろそろ書店に並び始めるころである。かなり分厚い。自分でかかわった一冊だから、自分で言うのもおかしなことかもしれないが、読み応え十分だと思う。 この本は、日本の地方紙の秀逸な連載記事を集めたものだ。編者は私と立教大学教員の清水真氏(現昭和女子大教員)。対象は、2008年から2009年にかけての連載(一部単発記事)。地方に根を張った、地方紙の記者が丹念に地域を歩いて記した「日本のいま」の記録である。本の帯には、こうある。「地域崩壊、高齢化社会、医療問題、農業の先行き、成り立たない林業、貧困と格差、戦争と平和の問題、自治体合併の光と影・・・」「地域にはこれだけの問題と、これだけの取材テーマがある。各地域に固有の問題が、実は日本のあちことで起きていることがわかる。地域固有の出来事と思われがちな問題が実は日本社会全体に問題の根を広げていることも
引き続き、「日本の現場 地方紙で読む」の紹介を。 表紙のイメージ写真がまだ掲載されていない(8月26日午前11時現在)ので、なんかヘンな感じだが、アマゾンで予約注文しました、という声も届いた。この本では、渡し同じ編者の大学教員・清水真氏が「地方紙の存在証明」について小論を書いている。また、「ヤフー!ニュース」のトピックスの編集長、奥村倫弘氏(ヤフージャパン・メディア編集部長)が「ネット時代の地方紙」、朝日新聞東京本社特別報道センターの梶山天氏(元朝日新聞鹿児島総局長)が「真価を問われる地方紙の存在」を、それぞれ寄稿してくれている。 「日本の現場 地方紙で読む」を送り出すことになった経緯については、私の「まえがき」をここに再録することで説明しておきたい。「まえがき」といっても、私の個人的な体験をあれこれ綴ったに過ぎないが。読んでいる途中で、「あいつ、またおんなじこと書いてるな、言ってるな」と
私も会員になっている日本ジャーナリスト会議の勉強会が過日、札幌で開かれ、少し、しゃべってきました。タイトルは「調査報道とは何か」。なかなか本格的です(笑)。講演の概要は、以下のテキストの通りです。講演のyoutube録画はこちら。北海道警察の裏金問題を一緒に取材したメンバーの1人、青木美希さんが先に話し、その後に私が話しています。青木さんは北海道新聞を退社し、この9月から朝日新聞記者として東京で再スタートを切ることになりました。 以下が高田分のテキストです。ダイジェスト版で短くなってはいますが、それでもかなりの長文です。ご注意を。 <リクルート事件> 1986年に北海道新聞に入社、最も長い部署は経済部です。実は調査報道とは何かについてキチンと書かれた本は日本には一冊もないんです。今年の6月に機会があって上智大学で3週連続で講義を持ち、学生にも調査報道について話しましたが、田島泰彦先生も調査
原口総務大臣が、検察庁を含めた中央省庁の裏金問題について、実態把握に乗り出すと述べた。2日前のことである。どんどんやってもらいたいと思う。そもそも、国家会計の元締である財務省が架空予算を計上するような国である。本気で調査すれば、裏金やら予算の流用やらは、次から次へと出てきて、収拾がつかなくなるのではないか。そして、そういった税金の不正使用を暴いて国庫に返納させる方が、豪勢な舞台での「事業仕分け」よりも、よっぽど実益がありそうだと、私は感じている。 全国市民オンブズマン連絡会議の調査によれば、全国の自治体で2006-2008年10月に発覚した分に限っても、裏金の返還額は29億円を超えている。その後も「裏金」問題はあちこちで発覚し、というよりも、発覚しすぎて、もう記憶しきれないほどだ。オンブズマン会議のブログ「事務局日誌」を見ていると、「はぁぁ」と溜め息の連続だ。最近に限っても、「横浜市で裏金
東京地検特捜部の元検事、郷原伸郎氏の「検察の正義」(ちくま新書)を読んでいたら、ライブドア事件に関連し、ライブドア株で損失を被った機関投資家が、ライブドアに損害賠償を求めた民事事件について触れたくだりがあった。 裁判自体の筋立ては、ややこしいので省略するが、郷原氏の著作(83~84頁)によると、この裁判の判決理由の中では「…検察官が、司法記者クラブに加盟する複数の報道機関の記者に、報道されることを前提として…容疑事実の一部を伝達したこと」が認定され、さらに「…検察官によって粉飾決算容疑についてのリークが行われた事実を正面から認定し」たのだという。また昨年5月には、一般株主がライブドアを相手に起こしていた、同様の損害賠償訴訟においても「検察官のリークの事実を認定した上で」判決が言い渡されたという。 判決については、「御器谷法律事務所」さん、「弁護士阪口徳雄の自由発言」さんのページで、要点が解
松本サリン事件での集団的大誤報などが、なぜ起きるのか。事件報道でとくに顕著であるが、常軌を逸した集中豪雨報道は、なぜ無くならないのか。「悪者」を作り出し、当局と一緒になってバッシングする報道が、どうして続くのか。こうした問題は、古くから指摘されているのに、なかなか改善されない。いったい、これは何なんだろうね、という議論を最近、メディア関係者と飲みながら交わした。 毎度のことながら、「これ」という結論があるわけではない。それでも、いくつかのポイントは見えているように思う。 新聞社や放送局の取材現場は、かなりの部分が細分化され、かつ縦割りになっている。政治部は「官邸」「与党」「野党」「省庁」などに分かれ、経済部は「財務省」「日銀」「東証」「経産省」「東商」などに分かれ……という具合である。世の中が大激変を繰り返しているのに、こうした取材態勢は、各社とも実はそんなに変化していない。 この何年かの
ふだんはあまり顧みることもないが、ごくごくたまに、「新聞倫理綱領」に目を通すことがある。新聞協会が創立時につくったもので、現在は2000年6月の改訂版が最新の綱領だ。どういう内容かは、新聞協会のHPのこの頁で閲覧できる。皮肉でも何でもなく、この種の文章は、それ自体は実に美しい。憲法(とくに前文)や世界人権宣言も同様である。そして、だからこそ、その文章の崇高な理念と現実の差異を見せつけられると、表現のしようがないほど、がっくり来ることがある。 新聞倫理綱領はそう長い文章ではない。その中でも、私がとくにアンダーラインを引きたくなるのは、以下のような箇所だろうか。 <国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。> <……すべての新聞人は、その責務をまっとうするため、
なかなか眠れないので、今宵3本目のエントリである(笑)。 「世界に架ける橋」という朝日新聞の元記者さんが運営しているブログで知ったのだが、朝日新聞は昨年10月の新聞週間にちなんだ特集で「検証 昭和報道 ~ 捜査当局との距離は」という記事を掲載している。その中で、東京地検特捜部が司法記者クラブ所属の記者に発する「出入り禁止」措置について、以下のような用語解説を載せている。 「世界に架ける橋」さんの当該エントリから孫引きする。 <検察の出入り禁止> 87年、東京地検特捜部名で司法記者クラブ各社に出された文書では、出入り禁止とするのは(1)部長、副部長以外の検察官、検察事務官などへの取材(2)被疑者等への直接取材など捜査妨害となるような取材(3)特捜部との信義関係を破壊するような取材・報道をした場合とされている。 禁止内容には、「担当副部長の部屋での取材不可」から、最も重い「最高検、東京高検、東
夜になって、東京は雪になった。重く、湿った、札幌でいえば3月のような雪である。たぶん、明日の朝は通勤・通学でたいへんな思いをする人も多いだろう。 数日前、「リクルート事件・江副浩正の真実」(中央公論新社)を読み終えた。リクルート事件が表面化したのは、1988年だからもう12年22年も前のことだ。リクルート事件の関連書籍はほとんど読み尽くしたつもりだったが、この江副氏の本は出色である。 御承知の方も多いと思うが、リクルート事件は、川崎市の助役に対し、リクルートコスモス社(当時の社名)が未公開株を譲渡していたことを朝日新聞が報道したことに端を発している。取材に当たったのは、朝日の横浜・川崎両支局の若い記者で、それを指揮したのが、調査報道の旗手として知られた山本博氏だった。少し前、山本氏と食事をしながら、調査報道とは何か、といったテーマで話をさせてもらったことがある。「なるほど」と感心することが
日付は1月26日に変わったから昨日25日のことになるが、夕刊に何紙かにこんな記事が出ていた。またまた小沢一郎民主党幹事長の資金疑惑に関連する件である。 記事によると、逮捕されている石川知裕議員の手帳(地検が押収したことになっている)の2004年10月15日の欄に「全日空」という文字が書き込まれていた、という。この日は、水谷建設元幹部が東京・港区の全日空ホテル(現在はANAインターコンチネンタルホテル)の喫茶店において、石川議員に5000万円を渡したと供述した、とされている日だ。つまり、供述を補強するかのような証拠が石川氏側の押収物にあった、という話だ。 これが事実なら、相当の決定打である。実際、各報道はそれをずいぶんと大きく扱っている。同じニュースは昼のテレビでも流れていた。 しかし、普通の記者なら(記者でなくとも)疑問を持つ。あのホテルは、私の今の職場にも近く、時々利用するが、ロビー階の
小沢一郎民主党幹事長の資金疑惑問題に関連し、ここ数日、報道の表現方法が微妙に変化を始めている。多くのみなさんも、それに気付いていると思う。例えば、これまでは「……ということが関係者の話で分かった」となっていたのに、「……と供述していることが石川容疑者側の関係者への取材で分かった」「……ということが小沢氏側の関係者への取材で判明した」といった表現が増えているように思う。とくに、2、3日前からのテレビのニュースでは、この種の表現が間違いなく増えている。 「検察情報の垂れ流しではないか」との批判に対抗したものだと思われるが、しかし、相変わらず、「……ということが東京地検特捜部の関係者への取材で分かった」という例は、ほとんどない。「地検関係者」「捜査関係者」もほとんどない。「地検関係者への取材で分かった」といった書き方をすれば、おそらく、東京・司法記者クラブの地検担当記者たちは、かなりの確率で「出
昨年11月の、少し古いニュースだが、外務省が機密費を使って会計検査院職員(院長を含む)らと会食を行ったことが判明した、というニュースがあった。当時の記事は、WEB上のここで見ることができる。裁判の結果、最高裁が開示せよとの判断を下し、それによって開示が実現したものだ。 これに関する開示請求を行ったのは、東京のNPO法人・情報開示市民センターである。そのHPのトップページを開き、「トピックス」内に書かれている<端数のない巨額のおかしな支出(4件)><「間接接触」の官官接待や議員接待の一例(3件)><「間接接触」開示文書58件の概要 (09.11.12)>などをたどると、開示された本物の書類を閲覧することが可能だ。 この種の開示資料にあまり縁がない方は、このページを開くと、おおおおと驚かれると思う。書類作成の日時等を除いて、真っ黒に塗り潰された書類がいきなり目に飛び込んでくるからだ。本当に真っ
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