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アメリカ大統領選
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「遺言書 陸軍衛生曹長・寺越恒男 私は国のために散ります。何事も運命です。姉弟助けあい一日も早く一人前に成長するよう父の魂は二人の身を護ります」【寺越恒男さんの遺書】 兵庫県西脇市に住む寺越脩さん、84歳。この遺書を書いた寺越恒男さんの息子です。 「親父のぬくもりというのが今でも知りたいで。だけどそれは無理な願いや」 父・恒男さんは脩さんが産まれてすぐ、軍隊に召集されました。太平洋戦争中に日本軍が東南アジアで行っていたタイとミャンマーを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設。ビルマ戦線へ補給物資を運ぶため全長415キロを結ぶ計画で、オーストラリアやアメリカなど連合国の捕虜5万人以上が投入されていました。 恒男さんは、この鉄道を建設する部隊に従軍し、過酷かつ劣悪な環境で働かされていた外国人捕虜などの治療に衛生兵としてあたってきました。 しかし、1945年に日本が敗戦すると恒男さんは捕虜への虐待容疑を
太平洋戦争末期。航空機による特攻が連日報道される中、世間に知られることなく展開された特攻部隊がありました。広島の暁部隊。そこにはボートによる特攻訓練をする少年兵がいました。元少年兵は「爆弾を積んで夜襲をかけた。1名1艦。みんな戦死だもん」と語ります。しかし、命を失う覚悟を決めた彼らを待ち受けていたのは、"特攻"ではなく"原爆"でした。戦後79年。多くの元少年兵が90代半ばを迎え、取材を受けることが難しくなる中、岩手県に住む男性が取材に応じてくれました。元少年兵「(ピカッと光った瞬間に)皮膚が焼けたからギャーワーもうすごかった。『兵隊さん助けて助けて』って。とてもとても...」。元少年兵の見たものとは... 元少年兵の被爆証言 ~陸軍に志願、そして原爆投下~ 岩手県遠野市。日本の原風景が残るのどかな町。「遠野物語」で知られる民話のふるさととしても有名です。そんな町で生まれ育った伊藤宣夫さん、
「死の恐怖は感じなかった」。太平洋戦争末期、軍需物資を運ぶ"徴用船"で働いていた少年たちがいます。徴兵年齢に満たない、身長も足らない――そんな10代前半の子どもたちが戦争の担い手として働かされ、命を落としていました。目の前で仲間を失った、数少ない"徴用船"の生存者の一人は、子どもたちが簡単に「自分の命にさえ鈍感」になり、「人殺しの道具にされてしまう」戦争の恐ろしさを証言してくれました。 「ダーン」という衝撃、水柱 深夜の攻撃 「魚雷が来るぞ!」1944年11月3日、深夜1時ごろのことでした。 南シナ海を航行中の船の甲板でうとうとしていた当時14歳の大矢秀二さん。 「ダーン」という大きな衝撃、反対側の船べりで水柱が上がりました。 10メートルほどのところにいた同い年の乗組員が、爆発に巻き込まれました。 船は浸水しはじめ、ゆっくりと傾いていきます。 「下はダメだ。上に登れ」 誰かの叫ぶ声に従い
「日本に行く夢がなければ死んでいた」ウクライナから来た23歳、日本で見つけた生きる目的 #平和を願って 「いま死んだら日本に行けない」と2022年2月のウクライナ侵攻の直後、家族と離れひとりで日本に避難してきた女性がいます。当てもなくポーランドに渡り、それから人との出会いを重ねて大好きだった日本へ。熊本県で歩み始めた生活で、動物看護師になるという新たな目標を見つけました。「いつかウクライナの動物を助けたい」。人生を変えた決断をした彼女が、終わりの見えない戦争で負った心の傷は深く、癒えることはありません。(取材・文:KKT熊本県民テレビ 藤木紫苑) 「夢がなかったら死んでいた」家族と別れ、1人で日本に避難 レナ・ベレズナヤさん(23)は、ウクライナの第二の都市・北東部のハルキウで暮らしていました。両親と7つ下の弟とマンションで4人暮らし。ロシアによるウクライナ侵攻がはじまる直前までは、大学で
「私には若く見えました。両手を縛られだいぶ血を流していたのを覚えています」 熊本県八代市に暮らす塚本太さん(83)。自宅の近くに墜落した米軍機を目撃しました。初めて見た外国人は、自分のふるさとを攻撃したアメリカ人の搭乗員でした。(取材:熊本県民テレビ 松本茜) 地元に墜落した血まみれの搭乗員 1945年7月と8月。現在の熊本県宇城市松橋町一帯は、終戦の5日前まで続いた3度の空襲で大きな被害を受けました。2度目の空襲が行われた8月7日、空襲に参加した米軍のB25・エアパッチが現在の熊本県八代市鏡町の氷川に墜落しました。 同じ空襲に参加していた米兵は米軍の任務報告書のなかでこのように証言しています。 「天気は快晴、視界は良好だった。私は当該機の左後方から『右方向へ行け』と言った。機体のコンディションは良好に見えていたがやたらと遅くなったと感じた。(中略)当該機は編隊を離れて南方向にまっすぐに飛
太平洋戦争の末期、日本国内でアメリカなどの連合軍による空襲が激しさをましていた。おびただしい数の爆撃機が都市を襲い、死者は50万人に上った。その裏で、日本の各地に墜落し、捕らわれた連合軍兵士がいたことはあまり知られていない。そうした歴史には、深い闇が隠れている。農村地帯に墜落し、生き延びた連合軍兵士を目の当たりにしたのは、一家の大黒柱や子どもたちを戦争で失った住民たち。空から降ってきた、死ぬほど憎い敵を前にした時、人はまともでいられたのだろうか...。(福島中央テレビ) 「ダダッ」機銃掃射で崩れる防空壕 死の恐怖に耐えた女学生 1945年4月12日午前11時過ぎ、136機もの米軍のB-29爆撃機が福島県郡山市の空に現れた。農業や工業が発達した開拓の街は戦中、「軍都」の一つとなった。集積する軍需工場を目がけ、大量の爆弾が投下された。工場に勤労動員されていた白河高等女学校の須釡千代さん(93)
5月、ある訃報がもたらされた。NHKの子ども向け工作番組「できるかな」などで人気を博した高見のっぽさんだ。のっぽさんは子どもを「小さい人」「おチビさん」と呼び、「小さい人はとても賢い」と言っていた。のっぽさんへのインタビューを振り返ると、その理由の一つに、自身の戦争体験が横たわっていたのが見えてきた。【江畑佳明】 生前最後の取材で語ったこと のっぽさんは昨年9月10日、心不全により88歳で亡くなったが、公表は今年5月10日。本人の「半年は伏せてほしい」いう遺志があった。私たちは昨年7月21日、のっぽさんにインタビュー取材をしていた。亡くなる約50日前のことだ。後で聞いたところでは、これが最後の取材になったという(紙面掲載は2022年8月22日夕刊)。 取材の目的は「戦争の記憶」を聞きたかったから。終戦時に11歳だったが、その体験を語り出したのはつい最近のこと。2015年に出版された「私の『
太平洋戦争の終結からまもなく78年。戦争体験の継承が困難になる中、「軍都・会津若松」で戦中の生活を映した貴重なフィルムが見つかった。当時を覚えている男性は「骨が浮き出るほど痩せても、勝つと信じていた」と振り返る。フィルムには、ドイツのナチ党が立ち上げた青少年組織=ヒトラー・ユーゲントが会津若松を訪れる場面も捉えられていた。三国同盟を結び、連合国と戦った日本とドイツ。2つの国の結束を高め、人々を戦争へと向かわせるために利用されたのは、会津で語り継がれる「白虎隊」だった。(制作:福島中央テレビ) 白虎隊に贈られたドイツ語の石碑 旧徳川幕府軍などと新政府軍が戦った泥沼の内戦、戊辰戦争の悲劇の地として知られるのが福島県会津若松市の飯盛山。16~17歳の少年で構成される会津藩・白虎隊士が「鶴ヶ城に戻って敵に捕まれば武士の恥、主君のために殉じよう」と、自刃した場所である。 この場所に、やや異質な石碑が
「戦友に弾の破片が直撃、となりで息絶えた」 戦艦「武蔵」最年少16歳の乗組員、奇跡の生還 #戦争の記憶 太平洋戦争で米軍に撃沈された旧日本海軍の戦艦「武蔵」。当時、16歳という若さで大型戦艦に乗り込んだ早川孝二さん(95)は、両腕を負傷し、沈みゆく武蔵が生み出す渦にのみ込まれながらも奇跡的に生き延び、故郷の千葉県南房総市に戻った。戦後、自身の壮絶な体験を周囲に語ることはなかったが、70年後の2015年、フィリピン中央部のシブヤン海で、武蔵とみられる船体が見つかったことが転機となり、体験を後世に語り継ぐ活動を始めた。(千葉日報社館山・鴨川支局 飽本瑛大) 世界最大級の戦艦に最年少で乗船 房総半島最南端に位置し、かつて上皇さまや幼少期の天皇陛下も訪れた白亜の灯台、野島埼灯台がそびえ立つ南房総市白浜町。1928(昭和3)年、早川さんはこの地で7人きょうだいの次男として生まれた。 小学校を卒業して
日本に逃れたウクライナ避難民は2千人超、置かれた境遇はさまざまだ。「自分はラッキーだった」と語るのはオルガ・ナセドキナさん(33)。東京のベッドタウン、千葉県鎌ケ谷市の会計年度任用職員に採用され、市広報誌へのコラム執筆や小学生の英語学習の指導助手など安定した仕事を得た。 平穏な生活を取り戻しつつあるように見えるが、「正直に言うと、1人で泣くこともある」という。幼い2人の息子と共に、彼女は異国で今日も「戦って」いる。(千葉日報社市川支局 小北清人) いつまで無事でいられるか...日本行きを決意 鎌ケ谷市は人口11万人の千葉県北西部のまちだ。市役所3階の企画政策室に彼女の机がある。昨年10月4日に住民票をつくり、12月5日付で職員として採用された。週3~4日の勤務だ。 彼女から一つ、要請を受けた。ウクライナにいる夫について話すのは控えたいというのだ。夫の職業はジャーナリスト。「いまウクライナで
ウクライナから避難し来日した23歳の女性が、支援してくれた人々に感謝を伝えたいと、日本語のメッセージを手書きでしたためた。日本のビジュアル系バンドのファンになって日本語を学んだ縁もあり、避難先を日本にした。過酷な旅路の末にたどり着いたこの国で、ふるさとに残る家族や同僚たちの無事を祈る日々。いまの自分にもできることを。そんな思いから、子どもたちに英語を教えるボランティアを始めた。【浜田和子】 ウクライナから日本へ 涙が止まらない夜も 「たくさんのえんじょをしてくださったみなさまへ。おかげさまであんしんしてせいかつできるようになりました。ありがとうございました。にほんのせいかつになれるようにがんばっています」。ウクライナ東部から戦禍を逃れ避難してきたアニャ・ペレクレストさん(23)が、平仮名一文字一文字を確かめながら書いた感謝のメッセージだ。 アニャさんは4月1日、日本にたどり着いた。航空券の
1945年8月15日、19歳だった庭月野英樹さんは特攻隊員として出撃するはずでした。「われわれが行ってやっつけなければ、空襲でたくさんの人が殺されるんだ」。同期生はほとんどが戦死し、自分も当たり前に死ぬと思っていました。あれから77年、庭月野さんは語り部として戦争体験を伝え続けてきましたが、「まともに話ができるのも今年ぐらいまで」と引退を口にしています。 直前までいた部隊が全滅 同期生と最期の別れ 宮崎市に住む庭月野英樹さん(96)は1943年、17歳で長崎県の航空機乗員養成所に入りました。52人の同期生は、多くが戦死しています。 「とにかく走らされて、野球のバットで尻をたたかれて。連帯責任というやつです。(同期生との絆は)本当に兄弟以上でしたね。たった11カ月でしたけど」 翌年4月、沖縄海軍航空隊に配属されました。そして10月、沖縄戦につながる「10・10空襲」を目の当たりにします。 「
1945年春に沖縄の特攻作戦が始まると、菊池飛行場(熊本県)は特攻の中継基地となりました。当時17歳の少年は空に憧れ、少年飛行兵として陸軍に入隊。戦友は自分の身代わりとなり、空襲で亡くなりました。94歳になった今、「生き延びた私の使命」と次世代への継承を願っています。 17歳の少年飛行兵に笑顔はなかった 「『にっこり笑って、はいチーズ!』なんてできる時代じゃなかったんですよ。『おまえたちは天皇陛下のために死ぬんだ』と言われて...。戦争は殺し合いなんて、この頃はまだわかっていませんでしたね」 熊本県菊池市で生まれ育った前田祐助さん(94)。カバンから取り出したのは写真館で撮影した2枚の写真です。軍服に身を包んだ当時17歳の前田さん。遺影写真として撮影したため顔に笑みはありません。前田さんの青春時代は戦争とともにありました。 「空に憧れて飛行機に乗りたい。これはもう一種の病気みたいに燃えて。
「どんなにいい考えを持ったり、希望を持ったり、才能があったりしたって、戦争があったら全部なくなっちゃう」 戦争で犠牲になる子どもたちへの思いを強く語る黒柳徹子さん。テレビ女優第1号となった1953年から、第一線で活躍を続けています。アジア初のユニセフ親善大使としては、世界中の貧困に苦しむ子どもたちを見てきました。(取材・文:NHK「#あちこちのすずさん2022」取材班/写真:NHK) 「戦争って泣いてもいけないんだ」 太平洋戦争が開戦した1941年、黒柳徹子さんは8歳。現在の東京・大田区に、両親と弟と暮らしていました。「戦争」は子どもだった黒柳さんの生活のあらゆるところに影を落としました。 ――幼いながら、どういったところから戦争を感じたのでしょうか。 「まず食べ物がどんどんなくなっていくっていうことですね。ごはんでも何でも配給じゃないとものが売ってない。それから何を買うにもずっと並ぶんで
いつの時代も若者たちの心をとらえ、ときめかせる"アイドル"。それは、あの長く苦しい戦争の時代も同じだった。当時、戦火のなかでも休むことなく幕を上げ続けた劇場「ムーラン・ルージュ新宿座」。"会いに行けるアイドル"に、出征する若者たちすら熱狂した。そんなアイドルたちもまた、慰問雑誌や戦地慰問、ブロマイド......さまざまな形で戦争に協力させられる。国策に絡め取られた戦時下のアイドルたちの足跡を追った。(取材・文:NHK特集ドラマ「アイドル」・「歴史探偵 "戦争とアイドル"」/写真提供:NHK) ムーラン・ルージュ新宿座は1931年開業、今の新宿駅東南口付近にあった劇場だ。もとは映画館として作られた建物で、せまい舞台の前に430の客席が並ぶ。 学生時代、ムーラン・ルージュ新宿座に熱心に通った男性が、当時の情景を書き残している。 「ここは小じんまりした劇場で、ひいきのスターも近くで見られるし、ま
西欧とロシアに挟まれたウクライナ。第二次世界大戦では、ドイツと旧ソ連による激しい戦闘で街は破壊され、数百万人とも言われる犠牲者が出ました。1991年のソ連崩壊で独立。しかし、2000年以降、プーチン氏が権力を掌握したロシアは、欧米に接近するウクライナへの干渉を強めてきました。この100年間のウクライナをめぐる動きを振り返ります。
この夏、長濱ねるさんが広島と長崎を訪ねる旅に出ました。 それぞれの地で被爆体験を未来に伝えようと取り組む同世代の若者と被爆体験者の方々と出会いました。体験者の高齢化が進む中で若い世代が被爆体験をどのように引き継ごうとしているのかをねるさんが見つめます。広島テレビと長崎国際テレビ、Yahoo!ニュースの共同取材です。 「8月6日も9日も、ただ夏の一日という感じで過ぎ去っていく。長崎にいたら当たり前のこととして学習していたことが東京に行ったら、みんなの中に浸透していなかったのがショックで、自分が長崎出身だからこそ発信する責務があるなと感じています。」 こう話す長濱ねるさん。長崎県生まれで、「欅坂46」のメンバーとして活躍し、グループ卒業後はTV・ラジオのMCやエッセイ執筆など言葉を大切に紡ぐ姿が広く支持されています。 この夏ねるさんは、広島と長崎に被爆体験を未来につなごうという若者に出会う旅に
日本における空襲の記憶を、年表で見ることができます。太平洋戦争全体の流れや、各地の空襲がいつあったかを知ることができます。東京大空襲や広島、長崎の原爆などについても記しています。
戦争の実態を現代に伝える手がかりの1つである「写真」。当時モノクロだったこの写真を、最新のAIテクノロジーと、当事者の記憶を元にカラーで復元する試みが現在、行われています。「過去」を「現在」に引き戻すカラー写真。ここに並べた呉の街並みと空襲のカラー写真は、戦争の気配や記憶をありありと伝えています。 カラーで見る呉空襲 呉の街並み 軍港都市の面影 空襲が奪ったもの カラー化写真は記憶のトリガーとなる 呉の街並み 01 呉市本通の四ツ道路交差点周辺(昭和初めころ) (元写真提供:朝日新聞社) 02 街灯がきれいな中通の夜景(昭和8年ころ) (元写真提供:朝日新聞社) 軍港都市の面影 03 呉の歓楽街と海軍の水兵(昭和2年) (元写真提供:朝日新聞社) 04 物干場(ぶっかんば)に集まる海兵団の新兵(昭和12年) (元写真提供:朝日新聞社) 05 入浴でくつろぐ呉海兵団の新兵(昭和12年) (元
2022年で8年目を迎えたYahoo!ニュース「未来に残す 戦争の記憶」プロジェクト。 戦争の記憶を伝えていくため、今夏も「#あちこちのすずさん」キャンペーンに参加します。 「#あちこちのすずさん」とは、映画「この世界の片隅に」の主人公・すずさんのように 戦時下に暮らす人々のなにげない日常のエピソードを集めるハッシュタグです。 今年もNHKと新聞社が取材した戦時中の「日常」の記事などを紹介します。
普通の人々の生活を通じて、戦争中という“一つの時代”を リアルに描いたアニメーション映画『この世界の片隅に』。 この映画の監督・脚本を務めた片渕須直監督に、 作品に込めた戦争と平和への思いを伺いました。 「戦争中であっても、今を生きる自分たちと 重ねられる部分が多々あると思ったんです」 戦争中の人々の生活を考えるとき、私たちはまず先入観で戦争というものに相対していたのではないかと思うんです。 戦争中とは、こんな時代だ。その中で生きていたのは、こういう人たちだと。本当にそうなのだろうか。もう一度捉え直す必要があると考え、『この世界の片隅に』では、戦争中であっても一般の人々の暮らしが特別ではなかった側面はたくさんあるはずだと思い、いろいろと調べて描いているんです。 それによって当時の人々がより身近に感じられるでしょうし、今を生きる自分たちと重ねられる部分が多々あると思ったんです。 例えば、戦争
1945年3月10日の東京大空襲は、多くの子どもたちから家と家族を奪いました。そうした子どもたちの多くは、戦争孤児として食べ物と住まう場所を求めてさまようしかなく、中には、冬の寒さと飢えのために命を落とす子どももいました。一方、そうした子どもたちを救おうとした人々もいました。しかし、多くの孤児たちは、守ってくれるはずだった人々を失ったことによってもたらされた苦しい日々を歩まざるを得ませんでした。しかも、彼らはそのことを語ることはほとんどなく、私たちも目を向けることもなく70年あまりの歳月が経過しています。 戦争孤児となった人々、保護した人々を訪ね、あの時一体何が起きていて、人々はその後の日々をどう生きたのかを、「東京新聞」との共同取材・制作で伝えます。 この動画には遺体の映像が出てきます。注意してご視聴ください。 孤児たちの戦い〜東京大空襲〜 ◇上野の地下道。毎日、誰かが亡くなっていた=鈴
山西義政さんは、太平洋戦争中世界最大の潜水艦だった「伊400」に乗り組んでいました。この潜水艦は日本の造船技術を注ぎ込んで建造された「潜水空母」で、普通の潜水艦の倍の艦体に3機の飛行機を格納し、そっと敵に近づいて爆撃することが主な任務とされていました。 しかし、戦争末期に完成したこの潜水艦が出撃した頃、すでに日本が敗勢に向かっており当初の任務とされたパナマ運河攻撃は中止になりました。そして米艦隊の拠点「ウルシー環礁」の攻撃に向かったところで終戦、拿捕されました。 山西さんに、海兵団入団から空母飛鷹を経て「伊400」での体験を伺いました。また、母親を原爆で亡くしたあと、戦後の混乱期に、闇市で干し柿を並べて売るという商売からどのようにして西日本有数のスーパーチェーンを築いたのかなどのお話もしていただきました。 制作:Yahoo!ニュース
空襲の被害データ 空襲を受けた年月日 1945/7/25 来襲した軍用機の種類 空母艦載機1機 空襲で亡くなった人の数 127人 空襲で負傷した人の数 75人 現在の大分県津久見市にある「保戸島」。太平洋戦争末期、この島の唯一の小学校・保戸島国民学校に米軍機が爆弾を投下。全校児童の4人に1人の命が奪われました。 保戸島はまぐろ漁の拠点として栄え、戦前は周囲4キロの島に2200人の住民が暮らし、保戸島国民学校には500人もの児童が通っていました。 終戦まであとわずかとなった1945年7月25日朝、授業が始まったばかりの学校に米軍の空母艦載機が爆弾を投下しました。さらに、崩れ落ちた校舎や校庭に機銃掃射を加えました。校舎の下敷きになったり、機銃掃射で撃たれたりした子供達の悲鳴、子の行方を捜す父母たちの叫びで阿鼻叫喚となったと言います。この空襲で、全校児童の500人のうち124人と教員2人、教員の
1977年9月27日、神奈川県横浜市郊外に米軍機が墜落し、三人の母子の命が奪われました。長年にわたってこの事故を取材してきた神奈川新聞社とともに、記事とコンテンツを制作、事故の経緯と関係する人々にどのような影響をおよぼしたのかを伝えます。 事故で奪われた母と二人の子の命 終戦から30年余を経た1977年。安定成長期に入り、大規模な宅地開発が進む横浜郊外の住宅地に、米軍機が墜落しました。2人の幼児が犠牲になった墜落現場に、その痕跡は残っておらず、今なお、その頭上を米軍機が飛び交います。遺族らは静かに、悲惨な事故を語り継いできました。 1977年9月27日午後1時過ぎ、在日米海軍厚木基地を離陸した偵察機(ファントム)が燃料満載の状態でエンジン火災を起こし、横浜市緑区(現青葉区)の住宅地に墜落。多数の周辺家屋を炎上、全半壊させました。ファントムの乗員2人は機外に緊急脱出し、無事でした。 市民9人
空襲の被害データ 空襲を受けた年月日 1945/3/19、5/5、6/22、7/1・2、24~28 来襲した軍用機の種類 B-29、グラマン、ロッキードなど 空襲で亡くなった人の数 3,700人 空襲で負傷した人の数 2,700人 斉藤久仁子さん 1932年生まれ 呉の初空襲は、1945年3月19日。この日は、斉藤さんが受験した女学校の合格発表日でした。しかし、米軍機と海軍艦船との激しい砲爆撃戦で外へ出られなかったと言います。その後、同級生とともに帰宅途中に米軍機の機銃掃射に遭い、わずか数メートル先を銃弾が走り、頭から砂をかぶるという体験をしています。また、斉藤さんの父親は、原爆投下後広島に救援のために入り被ばくしました。次世代の人々には戦争が何をもたらすのかに対する想像力を持って欲しいと今強く願っています。
空襲の被害データ 空襲を受けた年月日 1945/3/10 来襲した軍用機の種類 B-29 300機 空襲で亡くなった人の数 約10万人 空襲で負傷した人の数 約4〜11万人 1945年3月10日未明、300機を超す米軍の大型爆撃機が東京下町の上空に姿を現し、38万発1,700トンもの焼夷弾を投下しました。 下町は木造住宅が密集していたため、あっという間に火が回り、北西の季節風に煽られ炎が広範囲で吹き荒れる状況が出現しました。防空壕や人々が避難した公園や隅田川にかかる橋なども炎が飲み込み、わずか一晩で10万人もの犠牲者が出たのです。 この空襲から、米軍は軍事施設を標的にした攻撃から住宅街を無差別に空襲する作戦に変えたのでした。 東京の下町を一晩で焼け野原にした焼夷弾攻撃とはどんなものだったのでしょうか。かろうじて生き延びた人々の証言で振り返ります。
空襲の被害データ 空襲を受けた年月日 1944/6/16、8/20、1945/8/8 来襲した軍用機の種類 B-29 329機 空襲で亡くなった人の数 2,289人 空襲で負傷した人の数 1,246人 太平洋戦末期、米軍が開発し日本の攻撃に投入した爆撃機「B-29」。この爆撃機が投下した爆弾や焼夷弾が日本中の都市を焼け野原にしたのです。この「B-29」が初めて日本本土に飛来してきたのは1944年6月16日。福岡県北九州の上空でした。当時最大の製鉄施設を持つ八幡製鉄所が標的でしたが、大きな被害が出たのは当時の小倉市にあった兵器工場「小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)」でした。勤労動員されていた10代を中心とする若者約80人の命が一発の爆弾で奪われたのです。 その後、終戦間際の1945年8月8日、再び「B-29」が北九州・八幡を襲いました。大量の焼夷弾を今度は無差別に住宅街に投下し、2,500人
空襲の被害データ 空襲を受けた年月日 1944/10/10 来襲した軍用機の種類 艦載機のべ1,400機 空襲で亡くなった人の数 225人 空襲で負傷した人の数 358人 住民を巻き込んだ地上戦で、20万人を超す死者が出た「沖縄戦」。その沖縄での戦争の始まりは、1944年10月10日の「10・10空襲」でした。 それまで平穏だった沖縄をアメリカ軍の機動部隊が襲い、のべ1,400機の艦載機が軍事施設から住宅まで無差別に爆撃と機銃掃射を加えたのです。 那覇の町の9割が焼失し、5万人が焼け出されました。その後何度も空襲が繰り返され、翌年の3月にアメリカ軍が50万人もの勢力で沖縄に侵攻してきたのです。
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