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アメリカ大統領選
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東日本大震災五周年を記念して再掲載:いとうせいこう『想像ラジオ』(河出文庫)と柄谷行人『遊動論―柳田国男』(文春文庫)をめぐって ■新しい柳田論「遊動論」はなぜ書かれたか いとう 柄谷さんの「遊動論――山人と柳田国男」(文學界二〇一三年十月号〜十二月号。二〇一四年一月文春新書より刊行予定)をいち早く読ませていただきました。『トランスクリティーク』『世界史の構造』『哲学の起源』のあと柄谷さんが何をやるのかと思ったら柳田国男だったことに驚いたし、前作までで獲得された視座に立って柳田を読むというのが非常に面白かった。と同時に、現在の日本の政治的状況を考えると、すごくアクチュアリティがある論だと思いました。戦争の問題ですよね、これは。 柄谷 そうですね。 いとう 戦争が近づく中で「こども風土記」を書き、空襲下で「先祖の話」を書いた柳田国男に柄谷さんが焦点を当てたというのは、柄谷さんの著作のタイトル
キム・ウチャン教授と知り合ったのは、一九八〇年代アメリカにおいてであった。以後、アメリカと韓国で何度もお会いしている。韓国の雑誌で対談をしたこともあり、一緒に講演をしたこともある。私が最も印象づけられたのは、キム教授の東洋的な学問への深い造詣であった。たとえば、私がカリフォルニア大学ロサンジェルス校で教えていたとき、キム教授は同アーヴァイン校で儒教について講義されていた。英文学者でこんなことができる人は日本にはいない。というより、日本の知識人に(専門家を別にして)、こんな人はいない。さすがに韓国きっての知識人だな、と思ったことがある。 ネットで読んだ新聞のインタビューで、先生は、韓国では人がすぐに激しいデモや抗議に奔ることを批判しておられた。それを読んだとき、私とはまるで違うなと思った。私は日本で、むやみやたらにデモをするように説いてきた。なぜなら、日本にはデモも抗議活動もないからだ。原発
ハンス・アビング 著 芸術への崇拝は、十九世紀西洋で、ブルジョア的な金権と経済合理性に対するロマン主義的反撥(はんぱつ)として生じた。芸術家は金のために仕事をするのではない、美的価値は市場価値とは異なるというような考えが、この時期に生まれたのである。しかし、「芸術の神話」が真に確立したのは、芸術家らが反抗しようとした、当のブルジョア自身が、そのような芸術を崇拝し、そのために奉仕することを高尚なことだと考えるようになったときである。 さらに、国家も芸術を支援することで威信を示そうとするようになった。芸術を理解する文化的国家と見られたいのである。その結果、芸術は市場によってよりも、政府や企業・ブルジョアからの贈与によって成り立っている。それだけではない。贈与が、市場価値とは異なる美的価値を保証する仕組みになっている。たとえば、市場で売れなくても、公的な助成金を得たり、美術館によって買い上げら
「視差」戦略的に全面的に再編成 カントは『純粋理性批判』で、たとえば、「世界には始まりがある」というテーゼと「始まりがない」というアンチテーゼが共に成立することを示した。それはアンチノミー(二律背反)を通してものを考えることである。しかし、カントはそれよりずっと前に、視差を通して物を考えるという方法を提起していた。パララックス(視差)とは、一例をいうと、右眼で見た場合と左眼で見た場合の間に生じる像のギャップである。カントの弁証論が示すのは、テーゼでもアンチテーゼでもない、そのギャップを見るという方法である。実は、そのことを最初に指摘したのは、私である(『トランスクリティーク――カントとマルクス』)。それを読んだジジェクは、本書において、戦略的なキーワードとして、パララックスという語を全面的に使用した。といっても、たんに言葉を取り入れただけである。本書は、その語を使って、彼がすでにこれまで書
1960年代以来、丸山真男といえば、西洋に比べて日本の前近代性を批判する知識人、つまり、近代主義者という否定的なイメージができあがっていた。私もその通念から自由ではなかった。初めて丸山について真剣に考えるようになったのは、1984年ごろである。それは日本でポストモダニズムの現象が注目を浴びた時期である。それは先ず、「現代思想ブーム」というかたちであらわれた。私自身がその代表者の一人と目されていたが、私はそれをはなはだ不本意に感じた。私はそれまで「近代批判」の仕事をしてきたが、それとこのようなポストモダニズムとはまるで違うものだったからである。 このとき、私はそれまで取り組んできた仕事がまちがいではないが、どこか的が外れていると感じた。私が考えていた「近代批判」はつきつめると、自発的な主体(主観)に対する批判ということになる。各人は自発的な意志をもつと思っているが、それは「他人の欲望」によっ
石井知章 著 中国や北朝鮮の現状を見るとき、清朝や李朝に似ていると思う人が多いだろう。しかし、マルクス主義者による革命から、なぜそんなものが生まれてきたのだろうか。それはマルクスのせい、では毛頭ない。マルクスは「アジア的生産様式」について考えていた。それは専制的な国家体制と、それに隷属する農業共同体を意味する。このようなマルクスの考えに忠実であったプレハーノフは、ロシアのようなところで、権力奪取と土地の国有化を強行すれば、「アジア的」な専制国 家に帰着してしまうほかない、と批判した。しかし、レーニン・トロツキーからスターリンにいたるまで、マルクス主義者はそのような意見を斥(しりぞ)け、あげくに、「アジア的」という概念そのものを廃棄してしまった。しかし、彼らの社会体制はまさに「アジア的」な形態に陥ったのである。 その中で、もともと中国学者であったウィットフォーゲルは、「アジア的生産様式」とい
今日、私が「日本ラカン協会」に招かれたのは、かつて「日本精神分析」という論文の中でラカンに言及したからだと思います。そこで私は、ラカンが日本について、特に、漢字の訓読みの問題について述べたことを引用しました。今日、それについて話すつもりなのですが、その前に少し経緯を説明させていただきます。「日本精神分析」という論文は一九九一年頃に書いたもので、「柄谷行人集第4巻」(岩波書店)に収録されています。これは『日本精神分析』(講談社学術文庫)と題する本とは別のものです。後者は2002年に書いたもので、この時点では、前に書いたものに嫌気がさした、というようなことを述べています。かつて「日本精神分析」を書いたとき、自分は日本人論、日本文化論を否定するつもりで書いたけど、結局その中に入るものでしかなかった、と。実際、それ以後、私は「日本論」について一切書いていません。だから、現在の気分としては、読み返す
フロイトは第一次大戦後の一九二〇年に『快感原則の彼岸』を書き、そこで「死の欲動」という概念を提示した。その後、一九二三年に「自我とエス」という論文で、超自我という概念を提示した。これに該当する概念は以前からあった。『夢判断』(一九〇〇年)でいえば、夢の「検閲官」である。それは、親を通して子供に内面化される社会的な規範のようなものであった。しかし、「自我とエス」という論文で明確にされた「超自我」は、それとは異質である。検閲官が他律的であるのに対して、超自我はいわば自律的、自己規制的なのである。 こうした自律的能動性は、『快感原則の彼岸』では、外出した母親に置き去りにされた幼児が母親の不在という苦痛を反復的に再現して遊びに変えてしまう例においても示されている。この例はすでに自律的な超自我の働きを暗示するものだ。しかし、超自我のこうした性質は何よりも、「ユーモア」という論文(一九二八年)において
「国家権力縛る」基本は今日的 本書はつぎのエピソードから始まっている。伊藤博文は明治の憲法制定に関する会議で、「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」と発言した。この事実を、著者が法律関係者の多い聴衆に話したとき、衝撃をもって受けとめられた、という。 立憲主義の基本は、憲法は、国民が国家権力を縛るものだという考えにある。それは、別の観点からいうと、国家は本性的に、専制的であり侵略的であるという認識にもとづいている。だから、憲法によって国家を縛らなければならない。明治時代に日本帝国を設計した政治家にとっても、それは自明であった。しかし、今や、法律関係者の間でさえ、この基本が忘れられている。 たとえば、憲法9条にかんする議論がそうである。改憲論者はもっぱら国家の権利を論じる。そして、日本の憲法は異常だという。しかし、9条の趣旨は、伊藤博文の言葉で
3月11日の東日本大震災から、この6月11日で3か月が経過する。震災直後に起こった福島第一原発の事故を契機に、日本国内のみならず、海外でも「反原発・脱原発デモ」が相次いでいる。東京においても、4月10日の高円寺デモ、24日の代々木公園のパレードと芝公園デモ、5月7日の渋谷区役所~表参道デモとつづき、6月11日には、全国で大規模なデモが行なわれた。作家や評論家など知識人の参加者も目立つ。批評家の柄谷行人氏は、六〇年安保闘争時のデモ以来、芝公園のデモに、およそ50年ぶりに参加した。今後、この動きは、どのような方向に向かい、果たして原発廃棄は実現可能なのか。柄谷氏は、6月21日刊行の『大震災のなかで 私たちは何をすべきか』(内橋克人編、岩波新書)にも、「原発震災と日本」を寄稿している。柄谷氏に、お話をうかがった。(編集部) * * * 【柄谷】最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり
住民運動が阻んだ巨大プロジェクト 本書は、一口でいうと、1950年代から60年代にかけて、モーゼスという人物が強引に推進したニューヨークの再開発を、ジェイコブズという主婦が阻止した事件をあつかっている。モーゼスが推進したのは、衰退していた19世紀的な都市を再生するプロジェクトである。それは多様なものが混在していた都市を、商業区や住宅区に分け、それらを高速道路網でつなぐ現代都市のプランニングである。これは、ル・コルビュジエの「輝く都市」に示されたモダニズムの都市理論にもとづくものだ。 モーゼスは40年代から、歴代の州や市の政府の下で、一貫してこの計画を進め、ニューヨークの風景を一変させてしまった。彼はそれを実現するために、住民に対する買収、反対者への脅迫、メディアによる宣伝を徹底的におこなった。誰も容易に反対することができない体制を創りだしたのである。その結果、モーゼスは「マスター・ビルダー
福岡伸一:30年近く前になりますが、柄谷さんは生物学者の日高敏隆さんとの対談の中で、生物学者のナイーブさや素朴さを笑われました。その状況は今もほとんど変わっていません。生物学者は生物をテクノロジーの対象としてとらえ、機械論的に考えて操作できるという幻想を依然として追い求めています。 また、生命現象において、二つ以上の出来事の間に原因や結果としての結びつきがあるという「因果性」が当時ほど明確ではなくなってきているということもあります。 たとえば同じ遺伝子のセットを使って生命を操作しても同じ結果が現れるとは限らない。再生医学の切り札として注目を集めている胚性幹細胞(ES細胞)や人工多能性幹細胞(IPS細胞)などの万能細胞も、われわれがコントロールできるかどうかわからない。
相互扶助の出現、無法状態でなく 大災害が起きると、秩序の不在によって暴動、略奪、レイプなどが生じるという見方が一般にある。しかし、実際には、災害のあと、被害者の間にすぐに相互扶助的な共同体が形成される。著者はその例を、サンフランシスコ大地震(1906年)をはじめとする幾つかの災害ケースに見いだしている。これは主観的な印象ではない。災害学者チャールズ・フリッツが立証したことであり、専門家の間では承認されている。にもかかわらず、国家の災害対策やメディアの関係者はこれを無視する。各種のパニック映画は今も、災害が恐るべき無法状態を生み出すという通念をくりかえし強化している。 むしろこのような通念こそが災害による被害を倍加している。サンフランシスコ大地震でも、死者のかなりの部分は、暴動を恐れた軍や警察の介入による火災や取り締まりによってもたらされた。同じことがハリケーンによるニューオーリンズの洪水に
『柄谷行人対話篇2 1984―88』 (講談社文芸文庫 2019年10月) 『柄谷行人対話篇1 1970-83』 (講談社文芸文庫 2019年10月) 『柄谷行人 浅田彰 全対話』 (講談社文芸文庫 2019年10月) 『世界史の実験』 (岩波新書 2019年2月) 『内省と遡行』 (講談社文芸文庫 2018年4月) 『柄谷行人書評集』 (読書人 2017年11月) 『新版 漱石論集成』 (岩波現代文庫 2017年11月) 『坂口安吾論』 (インスクリプト 2017年10月) 『言葉と悲劇 柄谷行人講演集成 1985-88』 (ちくま学芸文庫 2017年5月) 『思想的地震 柄谷行人講演集成 1995-2015』 (ちくま学芸文庫 2017年1月) 『憲法の無意識』 (岩波新書 2016年4月) 『定本 文学論集』 (岩波書店 2016年1月) 『世界史の構造』 岩波現代文庫 2015年1
マサオ・ミヨシについて、先ず、簡単なプロファイルを記しておく。彼は一九二八年東京に生まれ、旧制一高・東大英文科を卒業後、一九五三年フルブライト交換留学生として渡米。ヴィクトリア朝文学を専攻して博士号を取得し、六四年には、カリフォルニア大学バークレー校で英文学教授となった。その後、日本文学についても書き始め、アメリカの日本学に画期的な影響を与えた。さらに、サンディエゴ校に移って、日本学をふくむさまざまな研究を行った。一方、一九六〇年代にバークレーで反戦運動を始めて以後、チョムスキー、サイード、ジェームソンらと並んで、行動的な知識人として知られるようになる。二〇〇九年一〇月死去。 私は一三歳年長のミヨシを、マサオと呼んでいた。それは彼ともっぱら英語で話していたからだ。日本語で話したことはほとんどなかった。私は英語を話すのは楽ではないが、英語のほうが楽な面もあったのである。たとえば、マサオと呼び
宮崎学は本書で、個別社会という概念を提起している。それは、家族、村、労働組合、同業者組合、経済団体などのような基礎的な集団を意味するものである。社会学では、そのような社会は全体社会に対して部分社会と呼ばれている。宮崎がそれらを部分社会でなく個別社会と呼ぶのは、それらを、全体を構成する一部としてではなく、むしろ全体に抵抗する一部であるという意味合いでとらえようとするからだ。 もちろん、似たような考えは前からある。たとえば、政治学では、宗族・村落・ギルドなどを、国家と個人の間に存在するさまざまな集団の総称として、中間団体あるいは中間勢力と呼ぶ。これはモンテスキューの考えに由来するものである。モンテスキューは、一八世紀、絶対王政時代のフランスの思想家で、貴族や教会のような勢力を、王政が専制化することを妨げる中間勢力として評価した。通常は、貴族や教会はアンシャンレジーム(旧体制)の象徴であり、フラ
坂部恵氏は、一九七六年一月に『仮面の解釈学』、同六月に『理性の不安―カント哲学の生成と構造』を出版している。刊行は前者のほうが少し早いが、所収論文は後者のほうが早く書かれている。つまり、この二冊は、ほとんど同時に書かれ、同時に出版されたといってよい。しかも、たまたまそうなったのではない。それは、意志的になされてきたことの必然的な結果なのである。 この二冊は連関しつつも、ある意味で異質な著作である。『理性の不安』はカント、つまり、西洋哲学の可能性をめぐる本である。それに対して、『仮面の解釈学』は、日本と日本語で哲学することが可能か、可能だとしたらいかにしてかを問うような本である。日本で哲学を志す者なら、西洋哲学を目指すだろう。しかし、自分が日本と日本語という現実の中にあるということを無視することはできない。ゆえに、誰でも早晩その問題に直面する。その場合、幾つかのタイプがある。大きく分ければ、
■一日を再現、積年の疑問解けた 本書は、古代ローマ最盛期の社会を、一人の人物(語り手)の一日の経験として描くものだ。もちろん、フィクションであるが、細部に関しては最新の史料にもとづいている。私は古代ローマの政治や経済について多少勉強したが、具体的な姿はわからなかった。せいぜい小説や映画から得たイメージしかない。また、それに関して疑問に思っていたことがたくさんある。たとえば、なぜ彼らはいつも公衆浴場にいるのか、誰が奴隷かどうしてわかるのか、というような。 ローマは最盛期に人口150万人といわれるが、狭い土地にどうしてそんなに人が住めたのか? 高層の集合住宅が林立したのである。そのために投機的で悪質な開発業者が横行した。家賃が払えないと野宿者になる。その意味で、現代の都市と似ている。だが、最大の違いは、水道や電気がないということだ。炊事場・風呂・便所はたかだか2階までしかできない。富裕者は下の
■異質なものの遭遇 新たな意味へ 量子力学以前の物理学では、観察者を超えた、超越的な視点あるいは超越的な何かが仮定されてきた。たとえば、相対性理論も光速を一定と仮定することで成り立っている。ところが、量子力学がもたらしたのは、そのような超越的視点がもはやないという認識である。光子や電子は、粒子であり且(か)つ波動である。しかし、それらを同時に知ることができない。観察するかしないかで、そのあり方が変わるからだ。そこでは、いわば、結果が原因を創(つく)りだす。といっても、観察者に問題があるのではない。対象そのものが不確定的に存在するのだ。 本書は、このような科学認識のあり方を、古代から中世・近代を経て今日にいたる知的変容において考察するものである。というと、科学史の本のように聞こえるが、そうではない。むしろ、著者が指摘するのは、自然科学に生じたのと類似した事柄が、ほぼ同時期に、他の領域でも見い
私は一九九〇年代に、カントからマルクスを読むとともにマルクスからカントを読むというような仕事をし、それを「トランスクリティーク」と名づけた。また、同じような仕事をフロイトとカントに関しても行なった。以来、私はカントについて考えたことがない。が、最近、トム・ロックモアの『カントの航跡のなかで―二十世紀の哲学』(牧野英二監訳・法政大学出版局)を読んで、多少考えることがあった。ロックモアのやり方が、私と似ていたからである。 現代の哲学者はそれぞれカントを越えたと考えている。カント研究者も何らかの現代哲学の立場に立ってカントを読んでいる。しかし、哲学の場合には、後続する者が先行する者より優れているわけではない、とロックモアはいう。彼は逆に、カントの立場から、現代の主要な哲学(プラグマティズム、マルクス主義、「大陸哲学」、分析哲学)を見ようとする。つまり、それら四派を、カントに対する一連の応答として
柄谷行人 公式ウェブサイト エッセイ 『想像ラジオ』と『遊動論』(いとうせいこうと対談) 2013.10.28収録 長池 2012. 8-9月号 『暮らしの手帖』 キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて 2013.6 丸山真男とアソシエーショニズム (2006) 『思想』 特集「丸山真男を読み直す」 2006年8月号 日本精神分析再考(講演)(2008) 2008.12.7 日本ラカン協会 反原発デモが日本を変える 2011.6.17 『週刊読書人』 ロングインタビュー 温暖化と原子力発電 (2008) 2008.4.7 朝日新聞朝刊 講談社文芸文庫『原本 日本近代文学の起源』への序文 2009.2 カント再読 『哲学』(岩波書店)月報 石山修武と私 2008.7.11 熊野大学の再創出 2009.5.14 トルコ語版『日本近代文学の起源』への序文 2010.6 近代批判の鍵 『坂部
「社会運動」は、全部読んでいるわけではないけれどもいつも目を通しています。僕は協同組合に関心がありますが、よく知っているわけではありません。だから、皆さんの前で、僕が協同組合に関して話すのは気がひけます。ただ、僕は協同組合の現実については知らないが、その意味については考えてきました。僕の話は、そのようなものとして聞いてください。 たとえば、この前の「社会運動」に、フィンランドのことが特集されていましたが、実は、今世紀の初め、NAM(New Associatinist Movement)をやっていた頃、僕のところにフィンランドとスウェードンから大学院生が来ました。NAMに興味があるというので、君らが僕から学ぶことなんか何もないでしょう、僕が考えているようなことは、北欧には全部あるじゃないですか、と言いました。北欧では、協同組合は長い伝統をもっています。日本でいえば、江戸時代からあるわけです。
私が石山修武と初めて会ったのは、二〇〇〇年五月、ニューヨークで開催されたANYという会議であった。これはアイゼンマンや磯崎新を中心に、世紀末の一〇年間、毎年、世界の諸国で、哲学者などをまじえて行われた建築家の国際会議であったが、その最終回がグッゲンハイム美術館で開かれたのである。私はこの会議に常連のメンバーとして参加したけれども、少しもなじまなかった。なじもうとする気もなかった。いつも場違いな気がしていた。 建築には古代から二つの起源がある。一つは、住居である。もう一つは神殿・王宮のようなモニュメントである。偉い建築家というのは、後者にたずさわる人たちである。現在でも住居を建てている建築家も、やがて偉くなるとモニュメントを建てるようになる。ANYに集まっていたのは、だいたいそのようなタイプであり、さらに、それを難解そうな(私から見ると幼稚な)哲学的衣装で飾る人たちであった。そんなものが私に
まさにコロンブスの卵と言うべきだろう。菊地信義の装丁した福永信の小説集「アクロバット前夜」(リトル・モア刊)のことだ。なにしろ、徹底した横組みが採用され、1頁の目次のあと、2頁の1行目はそのまま3頁の1行目へ、さらに4頁の1行目へと、どこまでも横へ横へ続いてゆくのである。読者はどんどん頁を繰りながら話の筋を追っていかなければならない。そして、121頁の1行目を読み終えたところで、2頁の2行目に戻る……。そうして読み進むうちにも、頁の下の方にちらちらと見えるさまざまな言葉が妙に気になって、どんどん先へ先へ引っ張られてゆくのだ。福永信の小説そのものは、いわば阿部和重の小説を単純化したようなもの――戦場としての学校で展開される小中学生のノンセンスなサヴァイヴァル・ゲームといったところで、一度読んでしまえばとくに読み返す気にもならない(だが、逆に言えば、阿部和重の小説がそれをいたずらに複雑化しただ
新年を迎えて平山郁夫が薬師寺の壁画に最後の一筆を入れる。その儀式をTV中継でみて、あらためて仰天した。風呂屋の壁でもちょっとお目にかからないくらいどぎつく稚拙な絵。それを収めるのに、わざわざ「大唐西域壁画殿」と称する大きな建物まで建てたというのだから、恐れ入るほかはない。東山魁夷が唐招提寺に描いた障壁画も、十分ひどいしろものだったが、平山郁夫の新作は、スケールにおいても、徹底した稚拙さにおいても、それをさらに凌ぐものだ。これらに比べれば、加山又造が天竜寺の法堂に描いた龍の天井画の方が、装飾に過ぎないとはいえ、技巧的に隙が無い分、はるかにましだろう。考えてみれば、下手な絵本の挿絵描きにすぎなかった東山魁夷がどういうわけか権威になってしまってから、日本画の伝統はおかしくなってしまった。それが平山郁夫とともにとうとう最低点まで達したのである。このような「権威のキッチュ化」は、日本画にとどまらず、
ヘタな映画マニアのつくった「映画おたく映画」より、TV的な居直りで突っ走ったやけくそのパロディ映画の方が、案外面白いような気もする――というのは、『溺れる魚』のこと。一昨年の「ケイゾク」や昨年の「池袋ウェストゲートパーク」でTVドラマに新風を吹き込んだ堤幸彦が、後者とほとんど同じ手法とテイストで撮った映画だ。 振り返ってみれば、「池袋ウェストゲートパーク」は、いまの若者たちの現実をとらえる鋭い視角といい、コマ落としなどを多用したスピーディな画面展開といい、昨年のTVドラマでは文句なくベスト・ワンだったと言ってよい。そこに描かれる若者たちの生態を、アーバン・トライバリズムと呼ぶことができるだろう。かつて、都市はモダンな文明化(シヴィリゼーション)の拠点だった。それがいまや、ポストモダンな部族化(トライバリゼーション)へと反転しているのだ。学校から落ちこぼれ、定職ももたず、なんとなく群れてぶら
「論争」というものが文芸批評から姿を消したのが何時なのか、私は正確には知らない。少なくとも十年以上文学論争らしい論争がなかったことは確かである。その代りに一方的な罵倒と一方的な無視の応酬だけがあった。そして最近は罵倒すら減少して、ただひたすら自分に気に入らないものは無視することだけが流行っている。これは文学に論争すべきテーマがなくなったこと、すべて政治的あるいは社会工学的、更には商業的問題に還元されてしまったことを示しているのかもしれない。しかしそれだけではなく、たとえ争うべきテーマがあったとしても、大手の商業新聞はもちろんのこと、現在の文芸誌はもはやそのような論争を保証する中立的な場ではありえなくなっている。年功序列と終身雇用に守られた安楽椅子の老人たち(実際の年齢というよりは精神的な老人たち)が「青春」を懐かしむ炉辺閑話しかそこでは許されない。 第III期「批評空間」第2号に唐突に載っ
ジャック・デリダといえば、もう読まなくても分かっているかのように言う向きがある。だが、少なくとも日本に関する限り、デリダの仕事はまだまだ十分に紹介されているとは言えない。 そもそも、1967年の『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』『声と現象』は早くから翻訳されていたものの、1972年の『散種』と『余白』が書物としてはいまだに翻訳されていない(インタヴュー集の『ポジシオン』だけは翻訳されている)のはどういうわけか。その意味でも、1974年の『弔鐘』の翻訳(鵜飼哲による)の連載が『批評空間』第III期で続行されることになった意義は大きいと思う。1980年の『葉書』の翻訳(東浩紀による)はどうやらずっと「停止中」らしく、残念なことだ。しかし、その後のデリダの仕事に関して、最近いくつか注目すべき翻訳が出ているのは、歓迎すべきことである。 たとえば、『葉書』とも関連の深い1987年の『
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