奈良県明日香(あすか)村川原(かわはら)の小山田(こやまだ)遺跡で、約50メートルにわたって石材を張り付けた巨大な掘割が見つかった。県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)が15日発表した。7世紀中ごろに飛鳥に築かれた未知の古墳の一部とみて、規模や立地、特異な構造から、舒明(じょめい)天皇(593~641)が最初に葬られた場所との見方を明らかにした。舒明天皇は、大化改新で知られる中大兄皇子(なかのおおえのみこ、天智天皇)や壬申(じんしん)の乱に勝利した大(おお)海人(あまの)皇子(みこ、天武天皇)の父。 これまで小山田遺跡では木簡のほか、目立った遺構は出土していなかった。県立明日香養護学校の校舎建て替えに伴う発掘で、東西方向に幅7~3・9メートル、長さ約48メートルの掘割を確認。北側斜面は40センチ大の石英閃緑岩(せんりょくがん)を張り、底面は15~30センチの石材を敷き詰めていた。南側
平城宮跡(奈良市)で出土した木簡を展示する秋期特別展「地下の正倉院展」が、奈良文化財研究所平城宮跡資料館で開かれている。 「木簡を科学する」をテーマに、重要文化財に指定されたものを含む計75点を展示。木簡はもろく壊れやすいため、展示品は期間中、約2週間交代で計3回入れ替えるという。 文字資料として記された内容に関心が集まりがちだが、展示では素材の木の種類や保存方法など、木簡そのものに焦点を当てた。最も一般的なヒノキなどの針葉樹のほか、数が少ない広葉樹の木簡も展示。広葉樹は土中ではもろくなりやすく、保存処理では特に注意が必要という。 データ採取や保存技術で今後の活用が期待される3Dプリンターで出力した木簡型の模型も展示。奈文研研究員、山本祥隆さん(31)は「材質や木目の違いなど、個性豊かな木簡を自由に楽しんでもらいたい」と話している。 30日までで、入館無料。月曜(祝日の翌日)休館。問い合わ
鳥取県埋蔵文化財センターは30日、8世紀後半の山陰道と条里制遺構が見つかっている国史跡・青谷上寺地遺跡(鳥取市青谷町青谷)で、標識として使う■(片の右に傍のツクリ)示(ぼうじ)木簡が出土したと発表した。条里区割りが計画的に施工されていたことを示し、官道周辺の土地利用を考える上で貴重で珍しい発見という。 木簡は長さ18・5センチ、幅2・1センチ、厚さ0・8センチで樹種は不明。■(片の右に傍のツクリ)示木簡としては小ぶりで、杭(くい)に結びつけて使ったらしい。 赤外線撮影の結果、「自此西方十二…不可取之(これより西方十二…これを取るべからず)」と墨書してあった。判読不能の文字は地名か人名、作物の名前らしく、立ち入りを規制するための標識として掲示したとみられる。数字は、区割りの基準があったことを示すという。 木簡は、条里制の畦(あぜ)(幅約2メートル、高さ0・5メートル)から出土した。同遺
トップ > 社会 > 話題のニュース一覧 > 記事 【話題のニュース】 難波宮から国内最古級木簡 7世紀、宮廷に肉送る Tweet mixiチェック 2014年8月1日 12時01分 大阪市の難波宮跡で見つかった「斯々一古」などと記された7世紀中ごろの木簡の赤外線写真(左、奈良文化財研究所提供)と実測図(大阪文化財研究所提供) 大阪市中央区の難波宮跡で「斯々一古(ししいっこ)」などと記された7世紀中ごろの木簡が見つかり、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が1日までに明らかにした。難波宮では万葉仮名で「皮留久佐」などと和歌を記した640年代の木簡が出土しており、ともに国内最古級という。 木簡は長さ8・6センチ、幅2・5センチ。「斯々」は肉を、一古は「一籠」を意味するといい、宮に貢ぎ物か税として送られた肉の塊に付けられた荷札木簡とみられる。右側にも逆さに「一古」などと記されており、余白に字の練
平安京跡から出土した、救済施設「施薬院」と記された木簡。武蔵からサンショウの一種「蜀椒」が1斗届けられたと書かれている。右は文字を見えやすくするため、赤外線を照射して撮影されたもの(京都市埋蔵文化財研究所提供) 京都市南区の平安京跡から、救済施設「施薬院」や「悲田院」と記した9世紀(平安時代)の木簡が見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が2日、発表した。死者の年齢や地方から送られた薬品の原料名などが書かれていた。施設の詳しい実態が分かる木簡の出土は初めてで、平安京研究の一級史料となりそうだ。 施薬院は、聖武天皇の妻・光明皇后が730年、平城京に創設した施設で、病人を治療し貧しい人に薬を配った。現在の病院に近い性格で、平安京にも設置された。 出土した木簡は平安時代前期の17点。うち6点(長さ約9~26センチ)に詳しい記載があった。
この3月に国立歴史民俗博物館館長を退官した著者が、記念に出版した一書である。氏は、1970年に宮城県多賀城跡調査研究所に入所して以来、一貫して、地中から出土した漆紙文書や木簡などの出土文字資料の解読を通じて古代史像の構築に取り組んできており、この分野の牽引(けんいん)役を果たしている。また、博物館人として常に、事象を現代社会にとっての課題と捉え、研究成果のわかりやすい伝達と発信にも努めてきた。 本書は、このような著者が新聞、雑誌、月報などに掲載してきた研究や新発見に関するエッセー38編を、紙、木、土器、金石という材質別と、文字の読み解き方、新しい歴史像への視点といった項目別に再編し収録している。 まず紙に記された資料として、漆紙文書が挙げられている。紙が貴重な古代にあっては、廃棄時点で漆壺(つぼ)などの落とし蓋にリユースされることがあった。漆漬けになった和紙は、一旦(いったん)乾燥すると、
【ネットオリジナル】〈デジタルアーカイブ あの日 あの時〉駅伝出場、石川県・遊学館高校を激励(2008、2010年) 創始者が倉吉市出身…縁をつなぐ
奈良市の平城京にあった西大寺旧境内で2009年に出土した奈良時代の繊維製品の断片が、絹に漆を塗った特殊な織物だったことが、奈良県立橿原考古学研究所と市教委の分析でわかった。 当時の繊維製品が多く伝わる正倉院宝物にも現存しない製品で、東大寺などと並ぶ大寺院・西大寺で使われた貴重品の可能性があるという。7日に弘前大で開かれる日本文化財科学会で報告する。 断片は1~5センチ大の約30点。市教委の同年の調査で「神護景雲(じんごけいうん)二年」(768年)という年号が書かれた木簡やイスラム陶器の破片などとともに出土。いずれも平織りの織物で、電子顕微鏡で絹糸の特徴である三角形の断面を確認。赤外線による分析で漆が塗られていたことがわかった。
中国地方最古の文書木簡 鳥取、役所の連絡用 鳥取市の良田平田遺跡から出土した、中国地方で最古の「文書木簡」。右が表(鳥取県教育文化財団提供) 鳥取市の良田平田遺跡で昨年10月に出土した木簡が、7世紀末~8世紀初め(飛鳥時代末)に役所間の行政連絡に使われた「文書木簡」で、中国地方では最古のものと分かり、4日、鳥取県教育文化財団が発表した。 木簡は途中で折れていたが、長さ約19センチ、幅2・5センチ。表に「御前□白寵命」(□は不明)、裏に「使孔王部直万呂午時」と記されていた。 「御前に謹みて白す」の書式は、大宝律令(701年)によって公文書の様式が整えられる前の7世紀末~8世紀初めに多用されたもので、口頭伝達を文書化したものという。
トップ > 滋賀 > 2月16日の記事一覧 > 記事 【滋賀】 納税品に付けた荷札の木簡出土 長浜・塩津港遺跡 Tweet mixiチェック 2013年2月16日 (右)見つかった木簡の表。「皇后宮御封米」と書かれている(左)裏の墨書は「代十石栗毛母馬」と読める=県文化財保護協会提供 県文化財保護協会は、長浜市西浅井町塩津浜の塩津港遺跡から、平安時代後期に地方から税として納める品に付けた荷札「付札」の木簡が見つかったと発表した。律令(りつりょう)制度の中で貴族や寺社などに納めた税「封米(ふうまい)」と書かれている。この記述のある木簡の出土は全国で初めてといい、これまで文献資料でしかわからなかった物納の流れを証明する貴重な資料だという。 木簡には「皇后宮御封米(こうごうぐうみふうまい)」と書かれ、裏に「代十石(だいじゅっこく) 栗毛(くりげ) 母馬(ははうま)」と記されている。この記述は、
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