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アメリカ大統領選
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いわゆる技術決定論を批判した本。2004年1月4日に作成した読書録。同じ領域の仕事にフランク・ウェブスターの『「情報社会」を読む』(→読書録)があるけれど、一般読者への訴求性はこっちのほうが上だろう。モノグラフと人文書の読者対象の違い、という側面もあるのかもしれないが、ウェブスターの本は読者を研究者や事情に詳しい人に限定している嫌いがある。佐藤俊樹の方は誰が読んでも情報化社会というタームの持つ不明瞭性を理解することができるようになっている。情報化社会という言葉に少しでも疑問を持ったら、この本を手に取るべきだろう。ただ、近代社会に立脚する「自己」という概念の抽象度がかなり高いので、それを理解するのは難しいかもしれない。この本は、情報化によって社会が全く変わらない、という議論をしているのではない。表面的に見れば社会は確かに変化しているのだから。それよりも、情報化社会論でしばしば言われるところの
身体性という言葉を見かけたので、それに言及した本について2003年7月26日に作成した読書録をリサイクル。再読する余裕が今はないので、とりあえずそのままのかたちで残しておく。今読んだら感想もだいぶ変わるのだろうな……。 序論 ドレイファスのこの本での一貫した見方は、「身体性」という言葉に要約できる。 私は哲学者なので、インターネットの具体的な使用法の良し悪しを論じる立場にはない。私の問いはもっと思弁的な、次のような問いである。もしネットがわれわれの生活の中心となったとしたら、つまり、ハーバード大学ケネディ・スクール学長のジョセフ・ナイが「魅力的な新たな文化」と呼ぶものが実現するとしたら、どうなるのだろうか。生活のかなりの部分をサイバースペースで送るようになるにつれて、われわれは、人間を超えることになるのだろうか、それとも人間以下になるのだろうか。 これらの問いを考える際、次のような可能性が
tumblrに書いた内容に少し手を加えてみた。文化庁が本気で「完全なDRM」*1というものを考えているのならば、これからここに書くくらいのことは既に考慮してあるのだろう。というのも、文化庁の考え方は、強固なDRMだけではなく使用料金徴収のための支払システム(マイクロペイメントシステム)など全てを含めた著作権管理のエコシステムが実現していることを仮定しているからだ。 以下の2つの図(「20XX年の私的録音の制度設計」と「20XX年の私的録画の制度設計」)を見てもらいたい。これは文化審議会 著作権分科会私的録音録画小委員会2007年度第15回会合で配られた配布資料にあったもの。 私が問題視しているのは、この2つの図にある赤い点線の部分。ユーザー側から権利者側に使用料金が流れる構図となっている。この流れをどうやって実現するのだろう?そして、仮にこの支払システムが実現したとしても、肝心のDRMが何
『CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ (NT2X)』の共著者の小寺信良さんと津田大介さん、そして法政大学の白田秀彰准教授らが発起人となってインターネット先進ユーザーの会(Movements for Internet Active Users : MIAU)が設立されることとなりました。明日、10月18日に設立発表会を行うとのこと。 既にいくつものブログで話題になっているので、自分が重要だと思っていることだけメモしておきます。すべては以下の津田さんの文章に集約できるのではないでしょうか(強調は引用者による)。 小委員会には消費者団体の代表(主婦連合会事務局長)はいましたが、「消費者団体=ネットユーザー」ではない。だから、僕はこの1年半小委員会での議論に参加してきて、きちんとネットユーザー利益や主張を吸い上げて、政策を作るプロセスに関与させるための団
"The Long Tail: Why the Future of Business is Selling Less of More"の著者、Chris Andersonが自身のブログのエントリ"Why I gave up on Second Life"で何故Second Lifeが広告の仕組みとして失敗したのかについて語っている。 I have now been flushed out by a flurry of controversy over our story on the failure of Second Life as an advertising vehicle, which is something I personally commissioned. "Why I gave up on Second Life" 彼はSecond Life上で周囲に他の人を見かけない現
岡田斗司夫の「「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書)」は、現代社会においていかに世界征服が非現実的であり、かつわりにあわないかを、PDACサイクルを用いつつ分析した良書*1。これまでTV番組やアニメで登場した様々な「悪の組織」の問題点を指摘しつつ、なぜ彼らが世界征服を実現できないのかを淡々と語る彼の口調が面白くて仕方なかった。目的と方向性を失った「悪の組織」へのコンサルティング本という視点から読んでも面白い。死ね死ね団の件では思わず爆笑してしまった。 三菱総研編「全予測2030年のニッポン―世界、経済、技術はこう変わる」のp34-36に「昆虫が兵器になる日」と題したコラムがある。2006年3月からDARPAが昆虫をサイボーグ化し、爆弾の発見や偵察に使うという研究プロジェクトが始まったとのこと。蛹の段階で昆虫にMEMS(Micro Electro Mechanical System)
はてなスターは人を褒めることが下手な日本人に人を褒めるための「アーキテクチャ」を提供する。いろいろなサイトで書かれているように実装に問題はあるかもしれないが、アイデアとしてはかなり練り上げて作ったとの印象を受ける。 そもそも「はてなブックマークが褒めるコメントばかりだったらこのようなサービスは必要なかったのだ」、という視点から考えてみるとわかりやすい。前のエントリでいろいろ書き散らしたが、褒めるコミュニケーションのための仕組みという考え方それ自体を否定するつもりはないので、CSSを使ってはてなスターを非表示にするのは止めることにした。 ただ、ユーザー側の意思でこの機能をオフにする仕組みは導入して欲しいな。
別に思想的意味はあまりないのだが、ここに書いてあった方法ではてなスターは消す方向で*1。 h3 span img{ display: none; } はてなスターリリース直後からコメント欄にて様々なご意見を頂きありがとうございます。 コメントの中に、☆を消したい、というご要望を多く頂いておりますが、当面☆を削除する機能はつけずにいこうかと思っています。 ブログのエントリーは次々に流れていきますし、挨拶のようなものであるとお考え頂ければ幸いです。 http://d.hatena.ne.jp/hatenastar/20070711/1184152733 とあるように、削除する機能も無いし、機能それ自体を無効化する選択肢も与えられていないようなサービスを使う気にはなれない。これを機にはてなダイアリーから他のサービスに移行するか、自分でサーバーを立てることを検討してしまうかも、な。 はてなブックマ
ここ最近業務に忙殺されていて、6月15日の著作権保護期間延長問題を考えるフォーラムの第3回公開トークイベントも出席することができなかった。茶会の人たちからそのときの白田先生の講演が熱かったという話は聞いていたけど、その雰囲気をそのままテキストにしたような投稿が増田にあって、いろいろと考えさせられた。 平成十九年六月十五日白田秀彰演説記録 そういえば以前、「著作権法は創造性のためにあるんじゃない、お金のためにあるんだ!」というエントリで上記と同じような意見を書いたことがあった*1。 白田先生に「最近は、茶会のメンバーですら、私の書いた記事にコメントくれなくなった」と言われ実際その通りなので反論できないのが申し訳ない。文章を書く中で負荷が高いのは「自分にとっては当たり前だと思っている内容を文章化すること」。こういった内容を定期的に形式知化して文章にし、アウトプットとして外に出すのは難しい。もち
2004年夏に作成したメモ*1。 P3Pの正式名称はPlatform for Privacy Preferences Project。バージョン1.0は2002年4月にW3Cにより勧告されている。まだ一般的とは言い難いものの、IE6がP3P対応であるために、P3Pの中身云々より先に、半ば強制的な環境のP3P対応化が今後顕在化してくるものと思われる。 考え方としてはCCPLに類似している部分も見受けられる。CCPLはlegal code(法的条項)、human readable code(コモンズ証)、machine readable code(機械可読コード・メタデータ)の3層構造になっているけれど、P3Pもhuman readable privacy policy(人間が解読可能なプライバシー・ポリシー)、machine readable privacy policy(機械が解読可能なX
現代の貧困、について文章が書かれるとき、そこに登場する言葉は決まって「格差社会」となっている嫌いがある。しかし、貧困と格差はその意味するところが全く違う。『現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)』の定義によると以下のような位置付けになる。強調は引用者による。 格差や不平等は、さしあたり「ある状態」を示す言葉である。つまり、ある社会においてAチームにいる人とBチームにいる人とに分かれているとか、高所得の人と低所得の人がいる、というような「ある状態」を示す、記述的な言葉である。そうであるから、格差は、それを問題にすることもできるが、「格差があってどこが悪い」という開き直りも可能である。あるいは、格差を問題にする場合も、どのような格差が問題か、という問いを別にたてる必要が出てくる。 これに対して貧困は、「社会にとって容認できない」とか「あってはならない」という価値判断を
団塊世代、という言葉を聞くと、その名の通り団結した塊のような世代を想像してしまう。第二次大戦直後から数年間(1947年から50年頃)の第一次ベビーブームに生まれた世代のことを一般には団塊世代と呼ぶのだが*1、大半が高度成長期をサラリーマンとして過ごし、一億総中流とも呼ばれた彼らの世代は、本当に同質的なクラスタなのだろうか。本書は、マスメディアによって作られてしまった「団塊世代」像を解体した試み。 『下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)』で良い意味でも悪い意味でも注目された著者だけに、今回も単純なマーケティング論かと思われてしまう可能性は否めないし、番外編の「団塊世代人間図鑑」はマーケティング的には興味深いものの本書で取り上げられている団塊格差という問題とは焦点がずれてしまうのではないかとの印象も受けたが、実際のところ米国でも年金について格差問題が深刻となってきており*2、日本にお
肝心の『下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)』が部屋の書棚から見つからないので、今書いてしまうのもどうかと思うが、Spiegelさんが昨日のエントリについて言及して下さったので、ちょっとメモ。Spiegelさんの記事のなかで、下流という言葉について指摘している部分がある。 ……『下流社会』が与えたもっとも大きなインパクトは「下流」という階層意識を社会的に認知させたことにあるようだ。今の日本は格差社会と言われるが,格差そのものは昔からある。しかし「一億総中流」といわれる中,「下流」であることは認めたくないタブーであったように思える。 それが『下流社会』の登場によって「下流」階層の存在を知り「下流でいいんだ」と開き直れる根拠を与えてしまったのかもしれない。もう「中流」に必死にしがみかなくてもいいのである。まさに「下流でも、みんなで流されれば怖くない」である。 この手の本が流行ってるの
先週ロンドンで開催されたInfosecurity Europe 2007で、『セキュリティはなぜやぶられたのか』の著者であるBruce Schneierがセキュリティ産業の必要性について語った。CNETの英語記事では表題が"Schneier questions need for security industry"となっているが、翻訳されたCNET Japanの記事では「「消費者は安全性に欠ける製品を受け入れるべきでない」--B・シュナイアー氏が講演」と表題が変更されているため、この内容が日本国内のブロガーにはあまり注目されなかったのかもしれない。 が、海外では「セキュリティ産業は現状では必要に決まっているじゃないか」などと、この話を巡り議論が巻き起こり*1、Bruce Schneier自身がWiredでこの件について自ら語ることとなった。その記事が、Wiredに5月3日に掲載された"Do
ここ数日twitterで投稿することが増えていて、mixiをあまり見なくなっている自分に気が付いたので、alexaで調べてみた。青がmixi、茶色がtwitter。定点観測してみると面白いかも。 (alexa.comでのこの1年間のアクセス推移表示結果より。上がリーチ、中がトラフィックランク、下がページビューの推移)
確か去年の夏休みあたりに、ロージナ茶会のブックリスト*1を作ろうと自分が言い出したのだが、リストだけ作ってそのまま放置状態になってしまっていた。ちなみにリストはhttp://grigori.jp/ref.htmlにある。ブックリストの作成だけではなく、それぞれの書籍について簡単な紹介文を付けるはずだったし、ブックリストの精査も結局手つかずのままになってしまっているので、何とかしたい今日この頃。 id:inflorescenciaさんが以前にこのリストについてのエントリを作成されているので、同様に私が以前作成したエントリや読書録にもリンクしておきます。 id:ced:20060513:1147570217で言及してます。 id:ced:20070120:1169252187で言及してます。 id:ced:20061104:1163205933に読書録があります。 id:ced:2006082
日本経済新聞2007年3月26日朝刊15面に「新卒採用、日清戦争後広がる」と題して、日本における新卒採用の大まかな歴史が書かれている。これまでの新卒採用の流れを俯瞰するのにちょうどいいと思ったので、ここにメモしておく。 「新卒採用、日清戦争後広がる」 今年も新入社員を迎える季節がやってきた。日本の大企業は卒業前の大学生を選考し、採用するのが一般的だが、こうしたやり方はいつから始まったのか。 大学生を定期的に採用する企業が現れたのは一八九〇年代の半ば、日清戦争のころとみられている。三井物産や日本郵船などが始めた。当時は大学生が現在よりも少なく、企業に就職するよりも、官僚になるのが一般的だった。企業側は十二歳くらいの子供を採用し、そろばんなどの実務を学ばせながら事務職員として育成するといったやり方で、人材を確保していた。 しかし日清戦争後に海外でのビジネスが急拡大すると、「外国語の教育を受けた
2002年当時に作成した読書メモ。 前半はこれまで様々な知識人が論じてきた戦争についての論議を総括している。ここに著者のオリジナリティはなく、読書感想文的な色合いが濃い。学術書というよりも戦争論を学ぶ人のための入門書といったところ。ただ、必要と思われる重要人物がほぼ網羅されているので、ここに出てくる人物の本を読めば、戦争観に関する勉強はかなり楽になると思う。強調は引用者による。 興味深いのは後半。冷戦後の内戦と、20世紀末の戦争の議論は、他の論者と違った視点もあって面白い。全体的に、クラウセヴィッツとベネディクト・アンダーソンに対する言及が多いのが特徴。 「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない。」(p3) クラウセヴィッツの『戦争論』からの引用。この本にはこういったかたちでの引用が数多くある。 戦争とは、政治、経済、文化等々がからみあっている歴史的な文明の構
以前読んだ『ハーバーマスの社会理論 (SEKAISHISO SEMINAR)』で印象に残った部分のメモ。 『公共性の構造転換』の基本主張は、一方で、十七世紀から十八世紀に成立した「市民的公共性」の理念、すなわち「論議する公衆」が担う公論(世論)の政治的機能を分析しつつ、他方で十九世紀末以降の社会国家的発展によって公共性が変質し、今や崩壊しつつあることを論証しようとするものである。市民的公共性は、資本主義の自由主義的時代における国家と社会、あるいは公共圏と私的領域との分離を基盤とし、その対立を市民社会の側から国家権力に媒介するものとして成立した。ところが後期資本主義の国家介入にともなって、「社会の国家化がすすむとともに国家の社会化も貫徹することになり、今やこの弁証法が、社会と国家との分離という市民的公共性の基盤をしだいに崩壊させてゆく」(SdÖ,226:一九八頁)。ハーバーマスは、市民社会に
上野千鶴子の「<わたし>のメタ社会学」で情報について書かれていた一節。強調は引用者による。 ここで「情報」とは何か、を定義しておこう。「情報」とはノイズの別名である。ノイズをはさんでその両端には、一方に自分にとって自明なあまり情報にさえならない領域、他方に自分にとって疎遠なあまり「認知的不協和」(フェスティンガー)のせいで情報としてひっかからない領域とがある。「情報」とはまったき自明性とまったき異質性の中間領域、そのファジーゾーンにはじめて発生する「意味あるもの」の集合である。 情報科学の概念では「ノイズ」はもともと「情報」と対立する概念である。だがノイズがノイズとして「聞こえる」という事実の中には、ノイズから情報への契機が含まれている。言い換えれば、「情報」とはノイズから絶えず生成される「意味生産」のプロセスと考えてよい。したがって情報とノイズとの境界はほんらいあいまいで流動的なものであ
Boing Boingでちょっと前に紹介されてた動画。Web 2.0について5分ほどの短い動画で説明している。解像度の高いバージョンをこのサイトからダウンロードすることもできる。Long TailのChris Andersonも、Lessig先生もお勧めしている。確かにTim O'Reillyが書いたWeb 2.0の記事より分かりやすい、気もするけど、どうなんだろう。 名和小太郎の新著、『イノベーション 悪意なき嘘 (双書 時代のカルテ)』を今日読み始めて、今日読み終わった。全112ページ、価格も1,115円、お手頃である。サラリーマンや大学生の通勤・通学電車の往復時間1日分で読み終えることのできる分量だろう。でも、この本の意図するところを考えると、その重みは凄まじい。ちょうど上記のYoutubeの動画を見て、筆者の主張の重要性について考え込んでしまった。そして、それは昨今流行りのWeb
2003年に読んだ時のメモ。『キャラクター小説の作り方』(→読書録)の前に書かれた本で、小説の書き方について実際的な方法についての説明を行なっている。この2冊はセットで読んだ方が理解がし易いはず。小説家の「才能」という特権を脱構築化しようとしたのが大塚英志だった、という評価も可能かと思う。それまで神話化されていた言説をもう一度構築しなおすことによって、どこまでが凡人でも実現可能なことであり、どこからが「才能」と呼ばれる領域となるのかを線引きしようとしている。なお、以下の引用文で強調は引用者による。 小説家の人々はしばしば自分が小説を書く運命にあった、とか、生まれながらにして小説家だったのだ、といった言い方をします。確かに小説を書くということは何かその人の内側にある特別なものの所在を証明するかのような行為にも似ていて、この国に限っても文学は衰退した、などと戦後一貫して言われ続けてきたのも、つ
2003年に読んだ時のメモ。強調は引用者による。 ……ぼくたちは全く何もないところからすべてを作り出すのではなく、先人の作った財産の上にあくまで物を書いているのです。それを忘れて軽々しくオリジナリティなどと口走ってはいけません。言ってしまえばぼくたちは大なり小なり誰かから「盗作」しているのであって、むしろ創作にとって重要なのは、誤解を恐れずに敢えて記せばいかにパクるかという技術です。(p47) 全ての文化は模倣から生れる。しかし、その排他的独占権を行使しないと経済的利益を得ることができない。これが現代資本主義社会における文化のジレンマだし、だからこそ著作権法や知的財産法関連でいろいろともめごとが起こっているわけだ。 僕の画っていうのは驚くと目がまるくなるし、起ると必ずヒゲオヤジみたいに目のところにシワが寄るし、顔がとび出すし。そう、パターンがあるのね。つまりひとつの記号なんだと思う。で、こ
押井守監督の作品で、『攻殻機動隊』の続編にあたる『イノセンス』は、『未来のイヴ (創元ライブラリ)』の影響を強く受けている。 本作品は士郎正宗の原作になるものではあるが、パンフレットおよび本編冒頭で引用されているとおり、ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』(邦訳は創元社・刊)の強い影響下にある。台詞は、斎藤緑雨、釈迦、ロマン・ロラン、世阿弥他からの引用が多用され、そもそも、台詞全体がなぜかくも膨大な引用から成り立っているかの理由そのものも、『未来のイヴ』において説明されているが、前掲書では機械人形を作る理由は所与の問題であったのに対して、本作品では「人間は、なぜ自分の似姿を、それもその理想型において創造しようとするのか」と、さらに根源的に問いかけている。(Wikipediaのイノセンスのエントリより引用) この映画にはすでにご覧になった諸君は感づいたかもしれないが、全篇が『攻殻機動隊』で姿
ロールズの正義論に関する簡単なまとめ。学生時代に書いたものだから、内容が間違ってるかもしれないけどとりあえずエントリを作成。底本は法哲学 (有斐閣アルマ)のp10-21およびp116-176。 ロールズの正義論はそれまでの正義論議と一線を画していた。1970年代初頭まで、社会科学における価値の議論は、倫理的概念の分析や価値判断の正当化の構造の追及といったメタ倫理学と、価値相対主義の台頭により、そもそも社会科学が実質的な価値判断を行なえるのかという疑問があった。社会科学が真偽を問えるのはあくまで経験的なものと論理的なものに限られており、正義のような社会的価値を社会科学の学問の下で語ることはできない、というのが当時の趨勢だった。 ロールズの正義論は、社会契約説を元に、自由で平等な道徳的人格が自分たちの社会の基本構造を規定する根本ルールを合意の上で選択する、という建設的ビジョンを、さまざまな理論
イノベーター(イノベーション)のジレンマについてのメモ。原著は"The Innovator's Dilemma"なのに、邦訳が『イノベーションのジレンマ』となっているのはなぜだろう……。 The Innovator's Dilemma (The Management of Innovation and Change Series)の内容をまとめると、次のようになる。innovationには2種類ある。sustainable technology(持続的技術)とdisruptive technology(破壊的技術)。sustainable technologyはそれまであった技術に改良を加え、さらに便利にしたものであり、disruptive technologyはそれまで存在していなかった革新的な技術を投入すること、とでも要約できると思う。 ChristensenはSカーブという考え方を元
日本人の法や法律に対する意識を考える上で欠かすことのできない書籍。 印象に残った部分のメモ。2003年当時のメモだから、今とは考え方が違っていてそれはそれで面白い。 強調は引用者による。 言うまでもなく、明治憲法の法典編纂事業は、まず第一次には、安政の開国条約において日本が列強に対して承認した屈辱的な治外法権の制度を撤廃することを、列強に承認させるための政治上の手段であった。…… このような歴史的背景の中で作られた諸法典の大部分は、その基本的な用語・観念・論理・思想において、はなはだ西洋的であった(もちろん、民法の「家族制度」の規定のように、西ヨーロッパの近代諸法典にない封建的家族の制度を定めたものもあったのだが)。このことをもう少し具体的に言うと、こうである。すなわち、これらの法典が西洋的なものとなったのは、当時の日本の国民生活の大部分において、法律を西洋的なものにするような現実的な或い
世界システム論のウォーラーステインによる社会科学批判と、志向すべき方向性の提示。興味深い指摘も幾つかあったけれど、既に今日ではこういった指摘はある程度一般化してしまっている嫌いがある。しかしだからこそ、正に社会科学は自己変革の必要性に迫られているとも言えるのだろう。より一層のタコツボ化が進む日本の社会科学への一つの警鐘とも捉えることができるのかもしれない。 まず第1章で18世紀から1945年までの社会科学の流れを追っている。19世紀も知の歴史を特徴づけているのは知識の学問分野化と専門職業化であり、それらは新知識の生産と知識生産者の再生産をするよう設計された恒久的な組織でもあった(p24-25)。現在見られるような社会科学の学問別多様化の構造が(ヨーロッパの)主要大学で公式に認められるようになったのは1850年から1914年の間くらいであって、それ以前はこういった学問分野別構造など存在してい
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