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衆院選
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政治について。 選挙のたびに、だいたい民主党、立憲民主党に投票している。けれど、もう何年も、投票するたびに罪悪感を抱いている。なぜなら民主党は、特に立憲民主党になったあたりからは明確に、自民党政治の補完勢力だとしか思えなくなったから。もはや本気で政権交代を目指すことなく、「政権を担いうる自民党以外」という選択肢を、ただただ消滅させていくだけの勢力としか、感じられないからだ。この党に投票し続けることは、自民党政権を延命させる補完勢力に加担している、という気持ちになる。気持ち、ではない、事実そうなのだ。 立憲民主党が自民党政権の補完勢力であると感じる最大の根拠は、安倍政治に対する正確な分析がまるでできていないことである。特にその根幹をなす経済政策、アベノミクスの評価だ。アベノミクスのせいで経済は悪くなった、格差は開いたと批判し続けてきたが、事実はまったく違う。 たとえば、このブログを読めばわか
AppleTV +(アップル版のNetflixみたいなもの)で、鳴り物入りで作られたドラマ『ザ・モーニングショー』がすごく良かった。アメリカのドラマの底力を見せられた。 大手テレビ局の報道番組の看板キャスターである男性が、複数の女性スタッフからセクハラで訴えられ、降板させられるところから始まる。#MeTooをテーマにした作品だが、優れているのは、その告発にとどまらず、被害者加害者傍観者それぞれの人物の立場から出来事を描いている点だ。それぞれの言い分、見え方、振舞う理由があり、それらを丁寧に押さえている。誰の中にも悪人と善人の要素があり、出来事には複雑な過程があり、シングルストーリーで決めつけられるわけではないのだ。 そうであっても、このドラマは振るわれた暴力に理解や達観を示すような真似はしない。ドラマ終盤で詳らかにされていくセクハラの実態は、あまりにもおぞましい。そして、その恐怖と痛みが加
昨日、巡業の土俵上で挨拶していた舞鶴市長が突然倒れ、駆け寄った女性たちが心臓マッサージなどを施している最中に、「女性の方は土俵から降りてください」とアナウンスがあった問題。ニュースを知り、その場の映像を見た時には私の頭も沸騰し、感情的な言葉を吐いてしまって落ち込んだが、その後の八角理事長のコメントを読んで、まずは納得した。コメントは次のようなもの(4月5日付スポーツ報知より)。 「本日、京都府舞鶴市で行われた巡業中、多々見良三・舞鶴市長が倒れられました。市長のご無事を心よりお祈り申し上げます。とっさの応急措置をしてくださった女性の方々に深く感謝申し上げます。応急措置のさなか、場内アナウンスを担当していた行司が『女性は土俵から降りてください』と複数回アナウンスを行いました。行司が動転して呼びかけたものでしたが、人命にかかわる状況には不適切な対応でした。深くお詫(わ)び申し上げます」。
今日は対鳥取ループ裁判の第7回口頭弁論を傍聴してきた。9月25日の第6回公判に続いて、2度目の傍聴である。 この裁判は、鳥取ループを名乗る被告が、「全国の部落の地名や関係者の個人情報をインターネットに公開している」という暴力と差別を問うもの。詳しくは、この裁判にも関わっている若手たちが作っているABDARC(アブダーク)のサイトを見てほしい。 私でさえ、この公判に行くには、朝から精神的な武装が必要である。さもないと、激しく感情を乱され、傷つけられるから。なぜなら、被告の鳥取ループは、裁判もヘイトの材料として利用して、楽しんでいるからである。被差別部落の地名や個人情報がさらされるというアウティングの暴力が問題となっているのに、その裁判で提出される、プライバシーを含むあらゆる情報を、公判の公開原則を悪用して、ネットにさらすのである。今日の公判ではまさにこの点が問題となったが、つい先ごろ、大阪
小池都知事が、極右で、都の住民のために行政を行うことなんか眼中になくて、安倍政権以上に民主主義を破壊する意思を持っていて、それを安倍政権以上に巧みに熱狂を起こして実行する政治家であることは、都知事としての行動に十全に示されていたから、選挙の結果には残念な気持ちしかないし、選挙後に都民ファーストの会代表に極右の男が何ら民主的手続きも踏まずに就任したことにも驚かない。小池都知事は、権力さえ握ったら民主的に進めるつもりはないことを、これまでも態度で示し続けているんだから。「自民ザマアミロ」とは思うけど、熱狂でまた投票が行われた以上、小泉首相のころからずっと続いている、政策でなくて熱狂という、有権者の姿勢が民主主義を骨抜きにする過程はまた一段階進んだと認めざるを得ない。自民党の魔の2期目議員とか言っているけど、熱狂に煽られ、その党の名前さえついていればトップ当選するような状況で当選した議員たちの中
6月25日(日)に上智大学で行われた「私たちの部落問題」という講義とトークのイベントに行ってきた。本当に本当に素晴らしかった。心から、参加してよかったと思った。 上智大学の出口真紀子先生の「立場の心理学:マジョリティの特権を考える」という授業の枠であり(この授業自体、すごく魅力的)、かつABDARC(アブダーク)というグループが企画した公開イベントでもあるため、学生も外部の人もいろいろと混ざり合い、会場を直前に大きな教室に変えねばならないほど、ぎっしり満席に近かった。 ABDARCとは(Anti-Buraku Discrimination Action Resource Center)の略で、「鳥取ループ裁判」という非常に悪質な部落差別事件の裁判に関わりながら、差別全般をなくすよう取り組んでいる、若い世代の有志の集まりである。「鳥取ループ」とは、「全国各地の被差別部落の所在地などの情報をイ
大阪場所はダイジェストで見ており、生中継での館内の様子はあまりきちんと見ているわけではないので、これはあくまで印象に過ぎないのだが、気になるので書いておく。 14日目、ご当地場所である兵庫県出身の実力者、妙義龍は、7敗ともう後がない。14枚目だから、負け越せば十両に陥落する可能性も出てくる。対戦相手は、このところ力をつけて来た千代翔馬。勝負はあっけなく決まった。立ち合いから千代翔馬に突き落とし気味のいなしを食らったら、自分からバランスを崩すようにして土俵に崩れ落ちた。傷めている膝が堪えられないのだろう。 異様だったのは、この時の館内だ。妙義龍の呆気ない敗戦と負け越し決定にがっかりし、ため息をつくのはわかる。だが、館内はシーンと静まり返ったまま、千代翔馬が勝ち名乗りを受けても拍手もないというのは、おかしくないか。 千代翔馬は普通に相撲を取っただけで、非難されるような卑怯な手を使ったわけ
稀勢の里、左肩の怪我を押して、今日14日目も強行出場するという。 貴乃花になぞらえる人もいるけれど、私はあまりいいことだとは思わない。貴乃花ファンだった私は、今でもあの武蔵丸との相撲を見返すたびに胸が苦しくなる。あれで貴乃花の相撲人生が終わったからだ。歴史に残る優勝だとは思うけれど、ファンとしてはあんなことはなくてもよかった。あのとき休場して、もっと多くの優勝争いを見られたほうが、ずっと幸せだった。 稀勢の里にはこれから充実した横綱人生が待っているのだから、無理をしてほしくはない。それでも出場してしまうのは、今の稀勢の里ブームで背負っているとてつもない期待に応えたいという使命感と、やはり優勝したい気持ちだろう。 同じく優勝を争う照ノ富士も、2年前に終盤戦で同じように大怪我を負い、しかし優勝争いトップだったために、強行出場した。星は落としたものの、鶴竜と優勝決定戦となり、負けた。そして
稀勢の里の優勝、長い長い長い間の重圧を思うと、この安堵と喜びは、稀勢とともに落胆し続けてきたファンにしかわからないものもあると思う。入門時から横綱候補と言われてきたその才能と努力がようやく報われたことを心から祝福したい。稀勢の里関もファンの方もおめでとうございます。 しかし、それと横綱昇進とは別問題だ。私はただただ唖然としている。40年相撲を見てきて、こんな事態は初めてだ。 いくつもの問題が重なっているのだが、まず最も不可解なのが、どうして昇進できるのか、その基準が明確に示されていない点だろう。昨年の年間最多勝であること、安定した成績や優勝争いの多さ、優勝次点の多さなど、理由はいくつも挙げられているが、問題はそれらの成績は今まで横綱昇進の条件として顧みられたことはほとんどない、ということ。 横綱昇進の基準は、1987年の双羽黒の廃業以前と以降とで分けられる。双羽黒(北尾)の廃業以降は
原発の問題は国だけが決める問題とは思わない。私も原発依存から脱却すべきだと思っているから、原発について新しい都知事がどのような政策を取るのかは、外せない要素として重視している。 原発事故によってはっきりしたのは、私たちが無意識のうちに原発に依存していたことだけではない。この社会が、各地域の生活をいかにないがしろにしてきたか、という構造だ。地方の自治を等閑視して、自己決定権はあまり与えないまま、「自分たちで何とかしな」と言わんばかりの無関心で放置し、「自分たちでどうにもできないなら金をやるから原発造らせな」と要求する。これは地域の選択でも自治でもない。 原発依存を脱するために必要なのは、たんに原発への意識を高めることだけではない。その地域社会が何かに依存することなく自立できるよう、自分たちの生活を自分たちで決めるという自己決定の考え方を大切にすることだ。自立できてこそ、共存という考え方が成り
秘密保護法案は、もしかすると憲法の改悪よりも深刻な事態を招く、最悪の法だと思っている。これが可決されたら、日本は戦後の民主国家から、北朝鮮や中国、アラブのいくつかの国家のような、アンチ民主主義国家となりうるだろう。そうなっても、有権者には何もできない社会になるだろう。 この法案の何が悪いのか、「絶対」と「相対」を軸に、私の考えを表明しておこうと思う。私は法学を原理的に学んだわけでもないので、この文章は論ではなく、あくまでも現在を考えるための手がかりである。 近代と民主主義は、「絶対」への批判から始まったと私は思っている。キリスト教圏で、社会を司る原理は、神だとか王だとか皇帝だとかの絶対的な言葉だった。「絶対的」であるとは、何人もそれを疑ったり批判したりしてはならないということである。その掟が正しい理由は、神(など絶対者)の言葉であるからであり、それ以外の説明は存在しない。絶対的な言葉とは、
先月の総選挙の後、私はさまざまな友人知人と会うたびに、「こんな選挙結果になるとは思わなかった。信じられない」といった言葉を何度も耳にした。こんな結果になってほしくなかったという気持ちは私も同じだが、「信じられない」とは思えなかった。社会はこの結果の予兆となるようなサインで満ちあふれていたのだから。 年末年始に読んだ本を並べてみる。在特会(在日特権を許さない市民の会)を追ったルポ『ネットと愛国』(安田浩一著)、木嶋佳苗裁判の記録『木嶋佳苗劇場』と傍聴記『毒婦』(北原みのり著)、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告の手記『解』。どれも気が滅入る本ばかりだが、まとめて読むと、なぜあのような選挙結果になったのか、非常によく納得できる。特に『ネットと愛国』は、あの総選挙の特色であった「気分としての右傾化」を扱っており、選挙結果の予言の書といってもいい。 列挙した本に共通するのは、登場するのがいずれも「
そんな言葉を冗談ではなく日本社会で目や耳にするなどという事態は、47年の私の人生で初めてである。尖閣諸島をめぐる中国との関係悪化のただ中、にわかに「戦争」という言葉が世に増殖し始めた。 中国政府の先行きが不透明で、また未曾有の軍備拡張を続け、制服組の発言力が次第に増している中、その可能性がまったくないとは私も思わない。政治は、最悪を想定しながら外交を行うべきだとも思う。しかし、最悪を想定するのはあくまでもその芽を事前に交渉で摘むためであって、相手をより先に威圧するためではない。今、社会に流通する「戦争」という言葉には、「そうなる前に相手を叩け」と言わんばかりの攻撃性が含まれているように感じる。
改めて、森口氏のiPS細胞臨床実験の虚偽と誤報の問題について考える。ツイッターで思わず書き連ねてしまったが、その言説の一部だけが流通するのは危険であり、まずかったと思い直している。 前提として、まず虚偽の発表や論文を作成し、メディアに売り込んできた森口氏に最初の罪と責任があることは間違いない。しかし、この虚偽を本当に虚偽たらしめたのは、大々的に報じた読売新聞である。森口氏の嘘は、あまりにも見破るにたやすい嘘であり、読売新聞が報じなければ、誰にも顧みられなかった可能性があるものだった。 最初の報道の時点では、私も、「へえ、そうなのか、すげえな」と感心していた。だが、ハーバード大学が森口氏の存在やアリバイを否定する声明を出した時点で、本当に仰天した。読売新聞は、そんな初歩的な裏までとらずに、こんな超特大のネタを記事にしたのか!という驚きである。 この誤報のことを、私は自分の周囲にいる大学教員(
一昨年に『俺俺』という小説を書いたとき、オレオレ詐欺がどうして成り立つのか、そのメカニズムを調べたことがある。 その極意(?)は、何者かにうまく成りすます演技力ではなかった。肝心なのは、いかに相手をパニックに陥らせるか、なのだという。頭が真っ白になったら思考が止まるからである。思考が止まれば、疑うこともない。思い込んだまま、頭がロックされてしまうのだ。少し冷静に考えれば嘘だとわかるような筋の通らない話でも、たやすく信じてしまう。 震災から一年が過ぎて、私は日本社会がそのような緩いパニック状態にあるように感じている。私自身、震災以前より感情的で涙もろく、怒りや悲しみへの歯止めがききにくくなっている。つまり、私たちは詐欺にかかりやすい状態にあるといえる。
ご承知のように、日本は年間3万人を超える人が自ら命を絶つ自殺大国である。14年連続で3万人以上の人が、「もう生きてはいけない」「自分は死んだほうがいい」と思って命を絶つ。実際には、そう思ったところで実行に移す人は、何十人、何百人に1人だろう。3万人の背後には、およそ100万人の予備群がいる、と言われているが、生活保護を受けている人が200万人を超えている現在、予備軍の数はその数倍に上るだろうと、私は感じている。生活保護を受けるにいたった人の大半は、1度は自死を考えていると、数々の現場関係者が報告しているからだ。 何百万人もの人が、「生きていけない」「死んだほうましだ」と思いつめている。その人たちに、社会全体が「そうだ、おまえたちは死んだほうがいい」と言い、背中を押そうとしているのが、この1、2カ月の出来事である。人気お笑いタレントの母親が生活保護を受給していた件に端を発した、生活保護受給者
売れっ子お笑いタレントの親が生活保護をもらっていたことが詳らかにされ、大バッシングが起こり、厚生労働大臣が生活保護の給付水準を引き下げることを検討し始める、というニュースを、ソウルに住みながらネットで知って、また殺人未遂が起きているのか、と暗澹たる気持ちになった。 この件で異様さを感じるのは、生活保護の実態への関心など本当はなく、ただ世間の何でもいいから叩いてやりたい、バッシングしたいという気分に、人気の芸能人がらみという点がうってつけだったために騒ぎが大きくなっただけなのにもかかわらず、政治が動いている点だ。政治を動かす要素は、もはや現場の実情や構造、その分析ではなく、世の中の漠然とした気分へと、すっかり取って代わっている。 バッシングを受けて政治が生活保護水準を下げたりしたら、どのようなことが起こるか。ただでさえ、社会から経済的社会的にこぼれ落ちて、生存の瀬戸際にいる大量の人たちを、死
震災や原発事故について、それが小説の言葉となるにはまだまだ時間がかかる、なぜなら小説は最も遅れる表現媒体で、対症療法的なメディアではないからだ、と、作家の多くは実感していることだろう。自らがある種、失語症的な状態に陥っているのを、もどかしく感じている人も少なくないだろう。そのように語っている言葉もたくさん目にした。それは9.11のときもそうだったし、地下鉄サリン事件のときもそうだったし、湾岸戦争のときもそうだった。 にもかかわらず、小説自体は書かれている。文学業界の光景が一変することもない。一見、何もなかったかのようにそれ以前と同じ調子で小説は書かれ、たまにいち早く震災・原発事故を扱っている作品が現れても、それは本質的に震災・原発事故を扱っているというより、視界に入ったものが映ってしまったというような感じだ。 かくいう私自身、震災前から準備していた長篇を、震災の少し後に連載としてスタートさ
少し以前、「便所メシ」という言葉があった。大学生が、一人で食事をしているところを誰かに見られたら、寂しい人として地位が下がるから、トイレの個室にこもって食事を済ませるのだ。 他人の目線が、自分の評価のすべてになっているのである。自分の価値とは、自分で決めることではないのだ。そんな息苦しさは、自由気ままでいいはずの大学生ですら追いつめ、居場所を奪っている。 先日、ビッグイシュー基金の主催で行われた「若者ホームレス支援会議」に参加したとき、若い人の自己肯定感をいかにしたら育てられるかという話になった。今は若年層のホームレス化と自殺が急増しているが、その根本の原因に、うまくいかないのはすべてダメな自分のせい、という自尊感情の低さがある。
「指導者」を求める空気 その青年は苛立っていた。 子どものころから地味で目立たず、誰かから重要な人間だとみなされることもなかった。自分の価値のなさに絶望する一方で、自分を認めない社会にも恨みを募らせていた。 特に、すべてが金とセックスに換算されてしまう傾向に、憎しみを感じていた。自分の価値も究極的には、要するにいくらの金を生むのか、という一点で決められてしまう。私生活ではその価値が、男の場合は、どれだけモテるかと連動してくる。女の場合は、若さや容貌で計られる。同じ程度の金を生む人間であるなら、自分である必要はなく、誰でもよいのだ。 そんな尺度だけで自分が判断され、一生を決める仕事に就くのだと思うと、いっそ道を外れてしまったほうが楽だとさえ思う。けれど、凡庸な自分では、外れる勇気さえ持てない。 こんな社会は腐っていると思う。他ならぬこの「私」が生きているという最低限の実感すら持てないのだから
女子サッカーを見始めた10年前、強豪国であったのは、王者アメリカ、ドイツ、スウェーデン、カナダ、中国、北朝鮮などであった。この名前を見ていて気づくのは、北方の欧米諸国か、東アジアの社会主義国だということだ。両者に共通するのは、女性の社会進出が相対的に進んでいるという点である。 女子サッカーの隆盛は、フェミニズムとともにある。女子サッカー文化の発展を牽引しているアメリカは、性差別を超えるプログラムの一環として、女子サッカー教育に力を入れた。その結果、女子サッカーはアメリカでは、「女こども」がするスポーツとなった。同様に、フェミニズム先進国であるドイツやスウェーデン、カナダといった北方の欧米諸国で、女性たちが積極的に関わってきた。男女同権が党是である「共産主義国」の中国や北朝鮮では、その国家主義的強化もあって、いち早く強豪化した。そこで隆盛化したのは、力と体格を前面に押し出すパワーサッカーだっ
大江健三郎さんとの公開対談で、会場では話せなかったが、控え室でやりとりしていて興味深かったことを書いておく。 会場でも大江さんは引用されていたが、朝日新聞のインタビュー中に書かれていた、「ネット上のなりすましによって自分の居場所を奪われた」という加藤智大の言葉に、非常に関心を示された。そして、次のようなことをおっしゃられた。 ぼくの時代は、アイデンティティの喪失や、失われたアイデンティティの回復・探求というのが、文学の重要なテーマだったけれど、今ではアイデンティティではなくて、居場所なんだねえ。 じつは、私は今回の対談に当たって、少し大江さんの小説を読んでおこうと思って、『個人的な体験』『空の怪物アグイー』『沖縄ノート』を再読、未読だった『水死』を読んだ。そして、『個人的な体験』を読み直して、大江さんの感想と同様のことを思ったのである。 「個人的な体験」が書かれたのは、まだ政治の時代でもあ
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