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ドラクエ3
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「姫」の旧字体は「姬」(U+59EC)。 当用漢字表ではその字体だったが、当用漢字字体表で変更された。また、常用漢字表では康熙字典体と大きな差がないとして括弧をつけて示すこともしなかった(理由は画数が同じだから。どうやったらこの二つを同じ画数で書けるのか、数えながら書いてみてほしい)。 そのためJISでもこの字体を分離して符号化していない。しかし、Unicodeにはあるわけで、漢典の「姬」を見るとこの字は日本にだけないということになっている。 「姫」のほうは「慎」の異体字で「シン」と読む。まるで別の字。甲骨文字もある。ただ、人名専用の文字らしく『説文解字』には載っていない。 常用漢字では別の字を略字として正式に使うことにした字は多く、例えば芸(藝)、台(臺)、弁(辯・辨・瓣)、予(豫)、余(餘)、糸(絲)などがあるので、そのこと自体は特別ではない。年齢の「歳」を「才」と書くのを許容しても「
正月明けからもう3週間、どうにも更新ができなかったのは、「者」が難しすぎたため。 小学校3年で習うこの字が、なぜにそんなに難しいのか。意味は皆さんよくご存知の筈。 音は「シャ」、訓は「もの」。どちらにしても言葉の後ろについて、「(〇〇のような、〇〇をする)人」を示す。 『千字文』では996番目の字で「謂語助者焉哉乎也」(語助と謂ふ者、焉哉乎也)、「ものは」乃至単に「は」と訓ずる。 この字を草書からさらに崩して、「は」という仮名(変体仮名)ができた。 現代の感覚では「物」に対して「者」は、「もの」と訓ずるうちの「人」の方を表すというイメージで捉えられる。 ところが、もう一つ「人」そのものと比べた場合、少々変わってくる。 悪者と悪人、これはほとんど同じか。医者とは言うが医人とは言わない。易者も。各者と各人、後の方がよく使う。学者、人は付かないが、大学者と大学人だと意味が違う。芸者と芸人では職種
校正者の先輩にツジさんという人がいた。彼は雑誌や書籍より新聞社の仕事が好きだと漏らすことがあったが、その理由を酒の席で聞いたことがある。新聞の仕事はその日1日で終わる。出来上がったものも1日で古新聞になる。そのスピード感がいいと別の先輩が言ったが、ツジさんの理由はちょっと違った。「新聞のツジは一点だからな。俺の名前と一緒だ」。 確かに新聞社の活字では「辻」は一点しんにょう、雑誌や書籍ではDTP以前は二点しんにょうだった。校正者という、いわば文字の専門家の一端でも、こんなことに拘ってしまう。不思議なものだなと思った。 だが、校正者にはしんにょうの点の数に拘る理由はあった。当時は常用漢字は一点、表外字は二点とくっきり分かれていたので、表外字を使わない媒体の仕事でそれが目安になったのだ。そして、「逝」「遮」のように当用漢字表になく、常用漢字表で追加された漢字、また「遼」のように人名用漢字に追加さ
『タイポグラフィ学会誌04』所収 片塩二朗「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」の冒頭に、若き日の片塩氏が猪塚良太郎氏の仕事場を訪ね、清朝活字について教えられるという挿話がある。「25年前に廃業」とあるし、素直に読めば、1970年頃の思い出話と読める。論文の書き出しからエッセイというのも不思議だが、その下にある註では、猪塚良太郎氏について「詳細不詳」となっている。「数度にわたって訪問した」相手を「詳細不詳」というのもこれまた不思議なことだ。 この「エッセイ」で、片塩氏は何を言おうというのか。どうやら弘道軒の活字が、戦後も「役所」(外務省か宮内庁)で使われ、そのことは一般には知られていない、清朝活字にはそのような謎があるというらしい。 にわかに信じがたい話だが、この話の裏はとれるのか。まず、猪塚良太郎という人について調べてみた。 Googleで検索してみると、 大日本スクリーンのサイトの「描き
片塩論文72ページで、〈「神崎正誼の死亡公告」〉というところと、74ページの〈「神崎」は「神崎」と〉(二カ所)というところだけ、「粼」U+FA11をわざわざ使っている。 弘道軒清朝で印刷された「崎」を明朝体で再現しているのだが、こんなことが必要でないことをむしろ書いておくべきだろう。 二つの書物、 官員名鑑 明治10年5−12月 神崎正誼編 東京:弘道軒,明10−11 著者標目 : 神崎,正誼(1837−1891) 著者標目よみ : カンザキ,マサヨシ(1837−1891) 西暦年 : 1878 と 官員録 明治10年6月−11年7月 日暮忠誠編 東京:拡隆舎,明10−11 著者標目 : 日暮,忠誠 著者標目よみ : ヒグレ,チュウセイ 西暦年 : 1878 との、同じ箇所を見比べれば分かる。 「長崎県」の「崎」の字に幾つも種類があると考えますか? 「書体差」とはこういうことである。
隆熙3年(1909=明治42)に出版された『活版術』については、小宮山博史「明朝体、日本への伝播と改刻」(『本と活字の歴史事典』柏書房、2000年所収)で紹介されている。 印刷図書館で、現物を見てきた。隆熙3年とは日本による韓国併合の前年であるが、この書物を作った人々=韓国での活版印刷のための技術指導に努力する日本人技師たちの情熱が伝わってくる。 写真は高木徳太郎技師が、日本での活字サイズ調査を行った際の比較表。 日本印刷局、築地活版、製文堂、江川活版の二号から七号の活字を並べて、その実サイズがばらばらであることを確認している。さらにポイント検査器で、各活字のサイズを100分の1ポイント単位で計測している。 そして、その後のページでは、清朝についても記述がある。引用する。 清朝活字即チ楷書文字ハ殆ント三十年以前頃盛ンニ新聞及雑誌類ニ 使用セラレタルモ現今ハ案内状或ハ名刺等ニ用ヒラルルニ過キ
昨年6月に書いた記事に補足したい。 東京日日新聞の本文にサイズの異なる二つの楷書活字が用いられていることは先に書いた。 仮に一方を本文大、他方を本文小とすると、本文大は弘道軒清朝、本文小は築地活版の楷書活字である。 ところが、片塩論文では104ページで、これを「俗説」として切り捨てるような物言いをしている。 おそらく片塩氏は東京日日新聞の紙面を実際にご覧になったことがないのであろう。 一例として、明治21年5月9日付の紙面を見てみよう(小宮山博史氏提供のコピーによる)。 一面は三段組みで、二段目と三段目は清朝五号のベタ組み24字詰めである。一段目にはまず広告があり、二号の明朝と五号の清朝が混植されている。その左は官報で、本文小が使われている。 ベタ組みで30字詰め、天は少し空いている。片塩論文によれば、清朝五号は実測値で4.63mmであるから、一段24字詰めの行長は、4.63×24=111
『タイポグラフィ学会誌04』所収 片塩二朗「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」は、 弘道軒清朝に興味を持つものには必読の論文である。 20日には、論文発表会も開かれるので、その前に予習をしておこう。 http://www.society-typography.jp/news/ 10章(A4判110ページ余)に及ぶ論文なので、概略をメモしておく。 論文の骨子は、2008年に再発見され、提供を受けた横浜築地活字に保存されていた弘道軒清朝活字の父型・母型・活字のセット(以下「資料」)の検証であり、同時に本木昌造系の明朝活字に比べ、研究の少なかった弘道軒清朝の研究史を概括しつつ、新たな視点を提供するものといえる。 「資料」は、1976年にタイポグラフィ協会が岩田母型から譲り受け、現在では印刷博物館に所蔵されている父型・母型・活字のセットと同等のものであり、1946年に岩田百蔵が弘道軒の継承者から買
国立国会図書館の60周年記念特集ページ http://www.ndl.go.jp/exhibit60/copy2/3gesakusha_2.html に、山東京伝『作者胎内十月図』鶴屋喜右衛門版 享和4(1804)序刊の自筆稿本と刊本を見比べられるという素敵なページを発見。って2年も前の公開か。知らなかった。 刊本は河出書房新社から出たものがある(絶版)が、稿本が残っていたわけだ。 稿本の一丁目が欠けているので、二丁目の裏の一部を切り出して比較してみた。 「稿本」 かくて七日まんず〈春〉る日/とろ〳〵とねふりしゆ〈由〉めに/いんぐわ〈王〉ぢぞうあら〈良〉は〈八〉れた〈多〉ま〈?〉ひ/ぜんざい〳〵わ〈王〉れは〈八〉これといふに/およば〈八〉ず〈春〉す〈春〉が〈可〉た〈多〉でそれと/さとるべしそも〳〵ぐわ〈王〉ん/まうおほ〈本〉きな〈奈〉か〈可〉にさくの/た〈多〉ね〈年〉をさづけてしゆか〈多〉
手持ちの資料ではこれだけ。 117字ではとてもすべてとは言えないが、ま、とりあえず。 144dpiに落としているので読めない字もあるかも。 権利はイワタさんにあるのでトレースは(無理だけど)しないように。
twitterで「現代人の病」だと書いてしまったので。 明治十年の『官員名鑑』と『官員録』から。 姓と名の用例が並んでいる場所があったので選んでみた。 弘道軒清朝では「真」、明朝体活字では「眞」で組まれている。 これが普通の感覚。 とはいえ、一筋縄では行かない。手元の楷書活字資料では 正楷書は「真」だけ、文部省活字は「眞」だけ、弘道軒四号は両方ある。 『明朝体活字字形一覧』では「眞」しかない。『当用漢字字体表』の出現までは明朝体活字では「真」は必要なかった。手書きでは圧倒的に「真」でも、活字になると「眞」となり、そこに差異を見出すことはなかったといえよう。 ならばなぜ弘道軒に「眞」があるのか、これは宿題。
「叱」で思い出すのが府川充男氏が『組版原論』を出したときのこと。 様々なフォントで「叱」を見せ、「デザインの違いと考えたい」としていたのだが、その中にc字形(𠮟=U+20B9F)がなかったので、ツッコミを入れた。 当時はDTPフォントでc字形を出すことは不可能だった。 関連して、「匕」についても書いておこう。部首「匕」(さじのひ)の最初に「𠤎=U+2090E」がある。「化」の古文といわれる字だ。だいたいどうして「化」が「人」部じゃなくて「匕」部にいるんだ!とぼやくことしきり。いやいやそれはともかく、「匕」は平成明朝ができるまで、つまり写研の文字ではずっと「𠤎=U+2090E」だった。拡張新字体を嫌ってすべてをJIS78で組んだりすると、「あいくち」(匕首)が「ばけくび」になってしまうので要注意だった。 (化と匕) 篆書だと違いがはっきりするが、楷書では書き分けは難しい。 ちなみに「叱
JIS X 0208:1997の「附属書7 区点位置詳説」によると、28区24点「叱」には3つの字形がある。 aは78年版の1刷の形、bは同じく2刷から4刷および7刷以降の形、cは4刷の正誤表と5刷の形。83年版、90年版はすべてbの形である。 aは正楷書、bは弘道軒清朝、cは文部省活字の字形に同じ。 これらはJIS X 0208では包摂されている。しかしJIS X 0213:2004では表外漢字字体表への対応のため、cの字形を別字体として分離し、第3水準に追加した。 なぜなら2001年にUCSにExtensionBが追加され、その中にcの字体の文字が存在したためだ。 『明朝体活字字形一覧』で見ると、道光版康熙字典にある2つの字形から諸橋大漢和の(3248=aと3247=c)2つの字形の間にある23の資料の中で、両方の字形を備えているのは2つしかない。1914年の博文館四号と1916年の宝
大熊肇さんの『文字の組み方』(誠文堂新光社)、p24-25に字体のおかしな楷書フォントの話が出ている。 その中でちょっと引っかかったのが「令」の字体。大熊さんは欧陽詢の字を引いて「一般的な楷書」としている。 HNGで検索すると、 http://www.joao-roiz.jp/HNG/search/word=%25E4%25BB%25A4&ratio=0.020 その形は開成石経とその他数点で、多数とは見えない。 弘道軒、正楷書、文部省活字、学年別漢字配当表では以下。
正楷書で読めないものがまた三つ。 どなたかご教授願えませんか。
5000字もあると、まったく読めない漢字が出てくる。 似た字はあるのだが、同じではないような。
合字で麑島。近代デジタルライブラリーの官員名鑑目次では@島になっている。 國と高はこの形。
昨日の文字化けの話、→ではなくて、 これだった。 原稿はWordの「.doc」で、原稿の状態では折り返しの箇所でもないところになぜか入っている。 新居のほうが連載中なので、こちらでさっき発生した文字化けの話を。 編集からデザイナーに直接テキストが渡った追加原稿。 「掲載した商品は上記店舗で扱っていない場合があります。」の「上」が抜けている。 InDesign上で一字足した途端に文字化け発生。わけがわからないので、一旦全体をコピーしてテキストエディットに持っていったら、 あれ、大丈夫。ところがこれをペーストするとまた化ける。 で、今度は浮紙(ものかのさん作)にペーストすると、 な、なんか入っている。選択して文字ビューアを開けると、 矢印だった。 再現実験してみると、 「は」の後にカーソルを置いて「上」を入力。 「記」の前にカーソルを置いて「上」を入力。 フレームサイズを変えると、 いやあ、参
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