サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
アメリカ大統領選
kosuke64.hatenadiary.org
硬派の社会派映画としてアカデミー作品賞を受賞した『スポットライト 世紀のスクープ』を観てきました。 あらすじ 2001年の夏、ボストン・グローブ紙に新しい編集局長のマーティ・バロンが着任する。マイアミからやってきたアウトサイダーのバロンは、地元出身の誰もがタブー視するカトリック教会の権威にひるまず、ある神父による性的虐待事件を詳しく掘り下げる方針を打ち出す。その担当を命じられたのは、独自の極秘調査に基づく特集記事欄《スポットライト》を手がける4人の記者たち。デスクのウォルター"ロビー"ロビンソンをリーダーとするチームは、事件の被害者や弁護士らへの地道な取材を積み重ね、大勢の神父が同様の罪を犯しているおぞましい実態と、その背後に教会の隠蔽システムが存在する疑惑を探り当てる。やがて9.11同時多発テロ発生による一時中断を余儀なくされながらも、チームは一丸となって教会の罪を暴くために闘い続けるの
戦前期における思想・言論弾圧事件として著名な矢内原事件(1937)を出版界の状況、大学の内部抗争、政府からの圧力といった多面的な視座から緻密に描き、現代に通じる思想的課題を提示した本。学内で陳謝することをもって幕引きが図られようとしたさなか、なぜ矢内原は辞任しなければならなかったのか?そして言論・学問の自由は何に脅かされるのか? 言論抑圧 - 矢内原事件の構図 (中公新書)posted with amazlet at 14.10.17将基面 貴巳 中央公論新社 売り上げランキング: 8,344 Amazon.co.jpで詳細を見る マイクロヒストリーとしての矢内原事件 帝国有数の植民地政策学者であった矢内原忠雄は、そのキリスト教信仰もあり、単なる「統治者ー被統治者」関係としての植民地政策学を目指すのではなく、社会現象としての植民を科学的・実証的に捉えて帝国主義論の一つとして描く希有な学者だ
現代における知的営み、それはその外部としての「社会」を想定することなしに語る事はできません。メディチ家がレオナルド・ダ・ヴィンチを養っていた時代は遥か昔に終わり、現代の学術研究は筆者の言う種々の「社会的基盤」を伴うことなしに営まれることは不可能でさえあると言えます。そんな時代にあって、科学史家たちは何を目指して知の歴史を紡げば良いのでしょうか? 伊藤憲二「日本における科学史の社会的基盤と社会的インパクト」『科学史研究』第269号, 2014年4月, pp7-13 科学史研究2014年4月号posted with amazlet at 14.08.29 コスモピア (2014-04-28) Amazon.co.jpで詳細を見る 第一の選択:「科学史」の対象 筆者は「科学」という概念が包摂する対象が多様である事を指摘した上で、狭い意味での「科学」(=いわゆる自然科学のこと?)を対象として科学史
『現代思想2014年8月号-特集・科学者 科学技術のポリティカルエコノミー』に掲載された中尾麻伊香さんの論文を読みました。理研という「科学者の自由な楽園」は、国民との危うい関係の上に成り立っていたとも言えるのではないでしょうか。 中尾麻伊香「「科学者の自由な楽園」が国民に開かれる時―STAP/千里眼/錬金術をめぐる科学と魔術のシンフォニー」『現代思想』2014年8月号所収 現代思想 2014年8月号 特集=科学者 -科学技術のポリティカルエコノミー-posted with amazlet at 14.08.01小柴昌俊 中村桂子 佐藤文隆 野家啓一 塚原東吾 美馬達哉 金森修 近藤和敬 榎木英介 粥川準二 青土社 (2014-07-28) 売り上げランキング: 4,499 Amazon.co.jpで詳細を見る 千里眼事件 超能力者・御船千鶴子、そしてその「能力」の科学的な裏付けを目指した東
日本の開国史を見るとき、北方において地理的に接触があったロシアとの交流を振り返ることの重要性が近年指摘されています。そのような文脈の中で、政治史的な側面よりも文化や表象、儀礼といった側面に重きを置いて分析を行った本を読みました。国交がなく人の往来もほとんどなかった両国の交流、それはまさにお互いにとって「宇宙人との邂逅」であったと言えるのかもしれません。共によって立つ基盤がない中で、外交儀礼の段階から一つ一つ積み上げを図っていった苦闘とはどのようなものだったのでしょうか? 外交儀礼から見た幕末日露文化交流史―描かれた相互イメージ・表象 (MINERVA日本史ライブラリー)posted with amazlet at 13.12.17生田 美智子 ミネルヴァ書房 売り上げランキング: 1,312,335 Amazon.co.jpで詳細を見る ラクスマン来航時に松平定信が発した対露対策の基本方針
1945年4月、瀬戸際に追い込まれた連合艦隊は「天一号作戦」を計画、日本海軍の象徴である戦艦大和は沖縄への海上特攻を敢行することになります。同月7日14時23分、坊ノ岬沖で数百機に及ぶ米軍機の攻撃を受けた大和は僅かな生存者を残して海中に没しました。ここに日本海軍の水上戦闘艦艇は壊滅的な打撃を受け、名実共にその終焉を迎えます。生き残りの一人、大和に副電測士として乗り組んでいた吉田満少尉(当時)は、復員後吉川英治に勧められるままに「戦艦大和ノ最期」と題した手記をまとめました。そこからはじまる吉田とGHQによる検閲との闘い・・・「歴史探偵の調査報告」とも言える論文を読みました。 山崎鹿名子, 「「戦艦大和の最期」とGHQの検閲」, 二十世紀研究 (11), 2010年, pp.91-113 検閲を行った日本人たち 筆者によれば、GHQの民間検閲部隊は総勢1万人近い規模(ピーク時で8763人)であ
映画「風立ちぬ」の主人公である堀越二郎はゼロ戦の開発者として名を馳せています。彼に限らず飛行機に対する愛とロマンに突き動かされつつも、兵器開発に携わらざるを得なかった技術者は多くいました。既存兵器の特攻への転用ではなく、「純」特攻兵器を開発していた技術者達は、「敵が死に搭乗員も死ぬ」兵器を作るという技術者としてのモラルからの逸脱にどう対峙していたのでしょうか?海軍特別攻撃機「桜花」とそれを取り巻く人々を追った論文を読みました。 西山崇「軍事技術者の戦争心理―海軍特別攻撃機「桜花」の事例―」『科学史研究』259, 2011, pp.129-137 ここ でDL可 なぜ作られたか? 筆者は技術者達が桜花開発を開始した要因の一つとして、単なる命令に留まらない共感があったと指摘します。開発の中心人物であった海軍航空本部の三木忠直技術少佐は、特攻専用機開発の発案者である士官・太田正一特務少尉との面会
SYNODOS主催の試写会&トークショーで7月27日公開の映画「終戦のエンペラー」を見てきました。このような機会を下さった編集部の方々、トークショーに登壇された小菅信子さん、片山杜秀さんには感謝申し上げます。以下、簡単ではありますが映画の感想を記しておきます。ネタバレしまくりなので、それが嫌な方はご覧にならないことをお勧めします。 「終戦のエンペラー」 (監督:ピーター・ウェーバー、7月27日公開予定) 1945年8月、日本が連合国に降伏し、第二次世界大戦は終結した。まもなく、マッカーサー元帥率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が上陸。日本は米軍の占領統治を経たのち、再び息を吹き返した。誰もが知っている、歴史の1ページである。 だが、そこには、1ページではとても語り尽くせない、驚きの真実が秘められていた。すべては、マッカーサーが部下のボナー・フェラーズ准将に命じた、ある極秘調査から始
宮崎駿監督といえば、その初期の作品「ルパン三世 カリオストロの城」でも有名です。作品中欠かせない小道具といえば伯爵が搭乗するオートジャイロですが、その基礎理論にはなんと希代の哲学者・ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが関わっていました。分析哲学の歴史に偉大な一歩を刻んだ彼は、航空工学の分野においても確かに足跡を残していたのです。航空工学者としてのウィトゲンシュタイン、その業績を追った論文を読みました。 Ian Lemco, "Wittgenstein's Aeronautical Investigation", Notes & Records of the Royal Society, 61, 2007, pp.39-51 ここで閲覧可能。 ウィトゲンシュタインと航空工学 ウィトゲンシュタインの父カール・ウィトゲンシュタインは製鉄業で財を成した実業家でした。息子にも跡を継いでほしいという父
零戦を開発した技術者・堀越二郎を主人公にした宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」が公開されました。そこで本blogではこれを機会に、航空技術開発に関する科学史の文献をいくつか紹介していきたいと思います。宮崎監督が「評伝を作るつもりはなかったので何も調べなかった」と述べているように、映画は映画、史実は史実で楽しむのが粋というものかもしれません。しかしながら、「零戦といえば堀越二郎が生みの親」という一般的なイメージに反して、戦前・戦中期における航空技術開発は様々な分野にまたがる多くの科学者・技術者の知見が集積されていく国家的一大プロジェクトでした。まずはその一端を研究した科学史家による本を紹介したいと思います。数多の史料にあたり、空気力学の発展過程を微に入り細を穿って記述した本書は非常に読み応えのある本です。読了した暁には、航空技術というものの幅の広さと深さ、そして幾多の科学者・技術者の奮闘が読者の心
今や世界中から電子化された論文をダウンロードできる時代、学術知の一形態である論文は容易に越境し流通しています。しかし遡ること70年前、戦争の勃発により日本への知の移動は大きな危機に直面していました。「科学封鎖」により知の還流を妨げられた学界の訴えを受け、海外から知の細い糸を繋ぐために二つの事業が開始されます。それらの事業は単なる戦争協力に留まらず、基礎研究の発展や戦後の教育をも見据えたものだったのです。 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業―犬丸秀雄関係文書を基に―」『科学史研究』266, 2013年, pp. 70–80 科学史研究 2013年 06月号 [雑誌]posted with amazlet at 13.07.04 岩波書店 (2013-06-28) Amazon.co.jpで詳細を見る 科学封鎖の影響 1941年以降、対日封鎖の拡大により
5ヶ月くらい前に「誰かblogで取り上げないかな」と言っていた人がいたので取り上げてみました。科学研究費補助金の前身である科学研究費交付金、その設立には当時の情勢が強く影響していました。 水沢光(2012), "日中戦争下における基礎研究シフト-科学研究費交付金の創設-", 「科学史研究」第51巻(No.264), pp.210-219 科学封鎖の実態 文部省による「学制百年史」等の記述によれば、1931年に勃発した満州事変以降の対中軍事行動に反応した各国の「科学封鎖」(書籍や物資の禁輸、留学生の受け入れ停止等)に対応するため、科学研究の根底からの変革を企図して科学研究費交付金が創設されたとされています。しかし筆者は、帝国大学新聞に掲載されていた「出版界の趨勢」や文部省在外研究員数の変化を基に、「科学封鎖」が本格化するのは第二次世界大戦勃発(1939年9月)以降のことであることを指摘します
既に昨日のことですが、駒場にて科学史科学哲学研究室主催の講演会「危機と科学」が開催されました。日頃講義をしてくださっている先生方の講演とあって、研究室メンバーの多くが参加していたようです。会場は駒場の奥まったところにある16号館1階の講義室、一般の方も含めておよそ40人程度が来場していたようでした。 以下は、私のメモに基づく本講演会の概要です。拙い文章ですが、参考にして頂ければ幸いです。なお、あくまでもメモに基づくものですので、先生方がお話になったことと100%一致するわけではありません。私以外に来場されていた方でお読みになりお気づきの点があれば、是非ともご指摘頂ければ幸いです。 追記:岡本先生のご指摘を受けまして、一部加筆修正しました(6月1日) なお、twitter上でも指摘があったように、本講演会は告知・ネットでの中継など極めて不十分と言わざるを得ませんでした。大学内の公式行事をネッ
久しぶりに映画館で新作を見た・・・のだが、大いに外れであった。「ブリッジ・オブ・スパイ」を見た人であればかなり落胆するのではないか? 結論:残念の一言。カンバーバッチが投獄されてげっそり痩せる「役者魂」だけがフォーカスされそうなカンバーバッチのための映画。おそらくこの映画を撮る条件がカンバーバッチ主演だったのではないかと思えるくらい。何もかもが中途半端。 (以下ネタバレだらけ) ・うまくいくばかりがいいスパイ映画ではない。バッドエンドだってあっていい。それだけに、ペンコフスキーが逮捕、処刑されたという史実を知るものにとっては、その事実をどう捉えて映画として昇華させるのかにはやはり関心が向く。それだけに、ペンコフスキーは「ナレ死」したのが本作最大の汚点。ペンコフスキーをそれなりに存在させると自動的に主役になってしまう。それなのにクーリエを主人公にしようとするからめちゃくちゃになっている。 ・
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『Nagazu-monologue』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く