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GWの過ごし方
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今年も「このロンブンがすごい」を開催します。第2回となる「このロンブンがすごい 2025」。前回はこちら。企画の趣旨を簡単にまとめるなら、2025年に公開された単著未満のテキストを紹介するというものです。単著未満﹅﹅﹅﹅、という点が重要。単著より運動性や時事性、可塑性など重要な要素があるのにあまり目立たない、それらテキストを際立たせたい。 紹介者は様々なジャンルで活躍している方がた。前回は10名でしたが、今回は11名。なんらかの理由で「すごい」「面白い」「シェアしたい」等々と思ったものを紹介してもらいました。対象となるテキストは、言葉・演劇・美術・映像・音楽などなんらかの表現に関わるものが基本ですが、そこから外れたものもOK。単著未満なら、論文・記事・エッセイ・座談会等々なんでもありで、それを総称して「ロンブン」とここでは呼ぶことにしています。 どれも、表現に関わる上で有効なテキストを紹介
文芸批評と文学研究の雑誌『文学+』 運営「凡庸の会」、4号刊行中。 WEB版は中沢エクセルシオール忠之が運営。 連絡はbonyou.org@gmail.com 雑誌の購入はTwitterのプロフィール欄から是非! https://twitter.com/bungakuplus
【書評】豊﨑由美・広瀬大志『カッコよくなきゃ、ポエムじゃない!』 評者:武久真士 入門書の時代です。2023年の紀伊國屋じんぶん大賞では、第3位に千葉雅也『現代思想入門』がランクインしました。僕も寄稿した松田樹・赤井浩太編『批評の歩き方』は、批評の入門書と呼んでよいものです。あるいは「文学理論」や「メディア論」についてフィルムアート社が出している「クリティカル・ワード」シリーズも、各専門分野の入門書として作られています。 ◯「人手不足」の現代詩壇『ポエムじゃない!』を扱う上で、日本の現代詩が厳しい状況におかれているという前提をまず共有しておきましょう。詩の読者が小説の読者に比べて圧倒的に少ないことは確実であると思われます。短歌よりも多分少ないでしょう。俳句とは……似たりよったりでしょうか。 自己紹介が遅れました。僕は近現代詩について色々書いている者で、基本的には詩の研究者です。研究でも批評
「差別かもしれない」という名の金脈――『情況 二〇二四年夏号 トランスジェンダー特集』に関する同誌編集長・塩野谷恭輔氏への公開質問状 【評論】小峰ひずみⅠ塩野谷恭輔氏へ これから、再度、あなたを批判しようと思う。三度目だ。執拗だろうか。執拗だろう。しかし、私が『情況 二〇二四年夏号 トランスジェンダー特集』掲載のあなたの巻頭言を批判し続けているのは、別に私が怒っているからではない(だから、「私的なトラブル」として処理されるのはごめんだ【注1】。そもそも、あなたは、編集長として、ある「判断」をした。その妥当性は「公」の場で問われねばならない。後述するように、あなたはそれを避けようとする。だから、追求することになる。いかなる「判断」も、その妥当性を事後的に問われる可能性がある。あなたもまた例外ではない。だから、あなたは自らの立場を「裁判長」と類比したが、本稿であなたは――通常どおり・・・・・―
『情況』編集部は、いかなる意味で「卑劣」か?――「深掘りトーク 『情況』2024年夏号」への参加承諾理由を説明する
文芸批評時評・9月 中沢忠之 あなたは田山花袋という名前を知っているだろうか? 女学生の蒲団の匂いをかぐ痛いおじさん、もとい、文学史上自然主義の大作家として知られている。彼が明治37年(1904)に発表した「露骨なる描写」は、のちに私小説と呼ばれることになる文学ジャンルの旗揚げ宣言とも読める評論である。そこで花袋は理念や技巧を凝らした文章を批判し、自分の思うところをそのまま書くことこそが文学であるといい放った。「拙かろうが、旨かろうが、自分の思ったことを書き得たと信じ得られさえすれば、それで文章の能事は立派に終る」と、終ってしまうと。じゃあ作家なんていうおまえの職業こそ終ってるじゃないかとツッコみたくなる気持ちはわかる。花袋もそんなことは百も承知で、要は、ロマン主義や技巧主義を旧世代として敵設定し――実は花袋自身この世代に属するともいえるのだが――、自然主義を新世代が取り入れるべき正統な文
【書評】絓秀実1 言論表現の自由の基盤 現在、われわれは「言論表現の自由」が――無条件に?――保障され享受されるべきだと、漠然と考えている。時折、政府や官憲が発動する「言論弾圧」めいた権力の発動に対しては、ジャーナリズムから必ずと言っていいくらい批判の声があがる。だが同時に、「ヘイト」等々と呼ばれる――許されない?――言論表現が多々存在していることも、広く認識されている。民族差別、宗教差別、性差別等が、あるいは、それにかかわるいわゆるヘイト・スピーチが、言論表現の自由の名のもとに許容されるべきだという意見は、少なくとも欧米普遍主義下の「先進」国においては、いちおうは劣勢である。もちろん、これらの趨勢に対する「バックラッシュ」が今後も止むことはないにしても、である。 少しでも歴史を振り返ってみれば分かるように、「日本臣民ハ法律ノ範圍內ニ於󠄁テ言論著󠄁作印行集會及󠄁結社󠄁ノ自由ヲ有ス」
第一回 世界は再魔術化しつつあるのか? 倉数茂 0 宗教の凋落? それとも再魔術化? マックス・ウェーバーが、近代を脱魔術化の過程として捉えたことはよく知られています。宗教改革と啓蒙主義以降、それまで世界を覆っていた宗教的力能は徐々に領域を狭めていき、やがて合理主義的思考に取って代わられる。これがウェーバーら、初期社会学の巨人たちの見通しでした。ではウェーバーの時代から約一〇〇年がたった今、世界の脱魔術化は完成したのでしょうか。 世界112の国で1981年から2020年まで行われた大規模なアンケート「世界価値観調査」のデータに基づいて、ロナルド・イングルハートは、宗教心はますます凋落しつつあると結論づけます(注1)。グローバルに見るのなら、時代が下るにつれ、そして若い世代ほど、一人一人の信仰心は低下し、中絶や同性愛を忌むべきものとは考えず、宗教的規範に囚われず自分の人生を選択している。世
文芸批評時評・9月 中沢忠之 「「事件」は文芸誌で起きるんじゃないSNSで起きる」という名言をぶちあげた栗原裕一郎が、みずからSNSで「事件」を巻き起こしている。 トランスジェンダー差別をめぐってである。結論からいえば、栗原の論点は2つある。まず、昨今のトランス活動家の差別批判に、行き過ぎた暴力があると批判している点(①)。さらに、その暴力を文壇に持ち込んだとして文芸誌『文藝』および水上文を批判している点(②)である。トランス差別批判一般の話と個別文壇内の話とまとめられる。前者の①に関しては、トランス差別を助長するとされる論文や著作物――たとえば千田有紀「「女」の境界線を引きなおす」やシーラ・ジェフリーズ『美とミソジニー』――に対して「キャンセル」的な活動――雑誌掲載への批判、または著作物を売る書店への批判――を行う事例があげられよう。また、同じくトランス差別を助長すると評価された人物をリ
過去作読み放題。前衛的にして終末的な文学とその周辺の批評を毎月4本前後アップしています。文学に限らず批評・創作に関心のある稀有な皆さま、毎…
文芸批評時評・3月 中沢忠之 ロシアがウクライナへ軍事侵攻を開始した2月24日に芥川賞の贈呈式があった。そこで受賞者の砂川文次は「海の向こうで戦争が始まろうとしていて、糞みたいな政治家がたくさんいて、めちゃくちゃ頭にきているっていう気持ちで書いていたような(以下略)」と気炎を吐いた。今月の『文藝春秋』には砂川の受賞作「ブラックボックス」と選考委員による選評が載っている。選評は、流し読みした程度だが、砂川と九段理江の評価が高く、乗代雄介がそこにくわわるという感じだろうか。砂川をリアリズムに、九段を実験小説に、乗代を通俗小説に分配して評価がなされているようである。その見立ては外れていないと思う。ただ、乗代の評価を読んでいると、評価する前に仕上がってしまった作家に対して、授与のタイミングを逸した感が読み取れなくもない。「最高の任務」か「旅する練習」だっただろう。砂川も「ブラックボックス」より、そ
第三回 空虚/ナショナリズム/六八年 韻踏み夫 「“一人称”の文化」というテーゼは、ありうべき日本語ラップ史の成立を支える正当化の論拠として立てられつつ(第一回)、その論理自体はリズム論/グルーヴ論的な射程に開かれうるようなものであった(第二回)。しかし、それは当時、実際にはどのように受け取られたのだろうか。つまり、宇多丸の日本語ラップ批評がそのアクチュアリティにおいていかなる政治性を持っていたのかということである。 端的に言って、「“一人称”の文化」などということは、当時(も)、目新しいものだとはみなされなかった。たとえば、主体の解体というようなビジョンが賞揚されるポストモダニズム的な価値観からして、一見、遅れてきた実存主義であるかのように、退行的な印象はぬぐえまい。その政治的な帰結として象徴的なのは、『朝日新聞』による日本語ラップ批判、「探検キーワード 『リスペクト』~ラップで語る空虚
第一回 日本語ラップ批評宣言 韻踏み夫 ひとまず「日本語ラップ批評」と言ってみたものの、そんなものが果たして実際に存在しているのかは分からない。しかしながら、そのようなものの必要性はたしかに感じられる。日本語ラップは、多くの者の興味をひき、時にその期待に応え、あるいは裏切りながら、しかし三十年以上の豊かな歴史をつむいできたのは事実なのだ。ひとは、ヒップホップのことを理解もできないが、無視もできないでいる。その困惑の積み重ねが、さしあたり「日本語ラップ批評」というものであると言えるかもしれない。 ライターの磯部涼はかつて、あるところでこう言っていた。「若くて、新しい表現方法をもったラッパーが続々と登場する一方で、日本のラップ・ミュージックに対する批評は停滞していると感じます」(注1)。たしかに、日本語ラップ自体の(磯部は「日本語ラップ」という呼称自体の不適切さを指摘もしているのだが、ここでは
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