サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大阪万博
note.com/hosodatetsuya
【放送作家16年目(38歳) 現在】 勢いで、過去16年の回顧録を書き上げたものの、さてここからどうしよう…。 静かに机の奥にしまっておくのも一つですが、やはり、モノを書いて食べている人間としては、どこかに出さなければ意味がないという気持ちもありました。 「ハガキ職人」も「放送作家」も、テレビやラジオの舞台裏を書いたとて、今や世間の関心を引くコンテンツとは思えません。しかも日々、情報が更新されているこの時代に、16年前の昔話など誰も喜ぶはずがない。 noteへの投稿は何の計画性も意図もなく、ただの思いつきでした。リアルに言うと、仕事帰りに一人で喫茶店にいて、これから友人と合流してご飯に行くところでした。友人から「1時間遅れます」という連絡が来て、暇を持て余して、何となくノートパソコンから第1話を投稿してみた、それだけです。 翌朝。目を覚ますと、知り合いから何通かLINEが届いていました。
【放送作家16年目(37歳) 2017年】 3月。僕は目黒区学芸大学に引っ越して、彼女と同棲を始めました。 きっと彼女は、この頃にはもう僕の状況に気づいていたのかも知れません。「私も家賃を払う」と言って、雑貨屋さんでバイトを始めます。 「プロ野球のシーズン中なのに、いいの!?」 「うん、早番にしてもらうから大丈夫!」と彼女。 やはり、何があってもナイターは見たいようです。 彼女は「せっかく同棲してるんだし、自炊をしよう」と言いました。一緒にスーパーについて行くと、彼女はレタスを両手に持って天秤のような動き。重い方が、中身がたくさん詰まっていてお得なのだそうです。ニラは先っぽが溶けていないものを選ぶと良い、お肉はどこどこのスーパーに行った方が安い、などと。僕は母親にモノを教わる子供のように、それを聞きました。 「今日の晩御飯の、材料費はいくらだったでしょうか!? ドゥルルルル(口ドラムロール
【放送作家15年目(36歳) 2016年】 仕事が落ち着いて自分のペースが掴めるようになると、体調は少しずつ回復していきました。一つのバロメーターとして、パソコンの画面を見られるようになり台本を書くスピードが元に戻ったのです。 あとは睡眠の問題だけ。酷い時期は抜けましたが、十数年に渡る夜型の生活が身体に染み付いているのか、どうしても「夜に寝て、朝起きる」という当たり前のことが出来ません。 こういった状態であることは、仕事仲間や親友にも誰にも相談することができませんでした。 この頃から、僕は「ツイキャス」をよく見るようになります。 ツイキャスとは、スマホのカメラで気軽に生配信が出来て、視聴者のコメント(書き込み)とリアルタイムでやりとりする、というアプリ。 最初は、友人がやっていたツイキャスに視聴者としてコメントをする程度でしたが、何を思ったか「一度やってみよう」と軽い気持ちで生配信をやって
【放送作家10年目(31歳) 2011年】 そこから3年は、ほぼ仕事中心の毎日でした。作家10年目で、ある程度のレベルで書けるようになっていたことと、まだ30代前半で重宝がられたこともあり、僕は僕で金欠を味わった経験から仕事を断ることが出来ませんでした。 自らのキャパを大幅に超えた仕事量を抱えてしまったのです。 後輩の作家にお金を払ってネタ出しを手伝ってもらうも、そのクオリティに満足できず、結局は自分でやってしまう。僕は、何でも自分でやらないと気が済まないタチでした。 そして仕事量が増えていくにつれて、時間の使い方と頭の切り替えに悩むようになります。 作家の作業はざっくり3つに分けられると思っていて、①は企画を考えること、②は台本(構成・流れ)を書くこと、③が調べ物です。 不思議なことに①をやった後には、すぐには②に取りかかれず、逆の場合も然り。(僕だけかも知れませんが)思考を切り替えるた
【放送作家7年目(28歳) 2008年】 僕はゴールデンのテレビ番組の会議に加わることになりました。以前、お笑いライブでご一緒した先輩のHさんが、その番組のチーフ作家をやっていて一存で呼んでくださったのです。 その番組にはすでに6人の作家がいて、深夜枠からゴールデンに昇格したのを機に、(作家では)僕一人が新たに加わるという形でした。 Hさんに呼ばれてテレビ局に行くと、何の説明もなくポンと会議に入れられました。僕を含めた作家7人と、チーフプロデューサー(総合演出)とディレクター7人が向かい合うように座り、その周りをADさんらが囲む40人超の大所帯です。 「はじめまして」の挨拶もたったの30秒程度、怒涛のごとく会議は進んでいきました。決めなければならないことが山ほどあり、僕のような新人作家をイジっている暇などないのです。 僕は途中から加わったこともあり、会話に耳を傾けながら「今、何について話し
【放送作家4年目(25歳) 2005年】 1年目にサブ作家として出入りしていたラジオ局で、メインの作家として初めてのレギュラー番組が決まりました。新しくナイナイANNのディレクターになったGさんが、僕を別番組の作家として使ってくれたのです。Gさんは 「お手伝いとはいえ、ギャラが出ていないのはおかしい」 と初めて実際に動いてくれた人です。 本人からそう言われたわけではありませんが、ナイナイANNからは支払えないけど、別番組でギャラを出すからナイナイの方もお手伝いとは思わずにしっかり頼むね、ってことだったと思います。 それまで僕がやっていたハガキの仕分け(コーナーごとに分ける作業)も、もうやらなくていいと言い、そこから局のバイトさんにやってもらうようになりました。 Gさんとは、レギュラー以外にも深夜の特番を2年間で50本以上やらせていただきました。深夜の特番枠は各事務所が推している(これから推
皆さまへ 思った以上に反響をいただいて、嬉しさと戸惑いでいっぱいです。 ここで、どうしてもお伝えしたいことがあります。 僕は現在も、放送作家としての仕事を続けています。 廃業はしておりません。 ありがたいことに、まだ作家の仕事で食べられています。 そして、とても元気で健康です。 「廃業へ。」というタイトルを付けたのは、ここ数年、常に「廃業へ」という気持ちをもって仕事をして来たのと、少しでもインパクトのあるタイトルを、という厭らしさもありました。 3年ほど前。一番忙しい時期に体調を崩し、放送作家の仕事が嫌になり、仕事相手の連絡先を削除し、電話番号を変え、フリーの生命線である取引先をこちらから断ち切るということをしてしまいました。 今ある仕事が無くなったら廃業しよう、と本気で考えていました。 しかし、1年前。そんな僕を温かく応援してくれる女性と出会い、彼女のおかげで心も体も健康に戻り、僕は彼女
【放送作家3年目(24歳) 2004年】 この年、初めてのテレビのレギュラーが入りました。深夜のコント番組です。会議は週に1回、2時間程度。ラジオの場合は台本を書いて収録にも立ち会いますが、テレビの場合は会議と台本の執筆だけで撮影に立ち会うことは、ほぼありません。ハガキ職人でネタを書くのに慣れていたこともあり、コントを書くのはそれほど難しくはありませんでした。パパパッと書いて提出して、それ以外の時間はキャバ嬢と遊んでいるか飲みでした。しかもその番組は定期的にDVDを出していて、その度にボーナスとして、まとまったお金がドサっと入って来ます。 余計に金遣いが荒くなり、さらに浮世離れし
【放送作家2年目(23歳) 2003年】 サブ作家をクビになり、仕事は週に1度ナイナイさんのラジオだけ。ヒモ状態の僕は、いよいよ暇を持て余してエロサイトを作りました。 タイトルは『手●キ名人』。当時、エロ動画の無料サンプルを紹介するサイトがネット上には乱立しており、僕はそれをよく利用していました。しかし、ページも動画も無数にありすぎて選ぶのが面倒。そこで思いついたのが、自分がハマっていたジャンル「手●キ」の動画だけを集めたサイトです。大学時代にHTMLというホームページの仕組みを習ったことがあり、パパパッとページを作ってネット上に公開しました。 動画を仕入れるのも簡単で、他のサ
【放送作家1年目(22歳) 2002年】 サブ作家の仕事を続けて半年が過ぎた、ある木曜日。Bさんに呼ばれて別フロアにある会議室に行きました。ドアを開けると、そこにはナインティナインの岡村さんと矢部さんがいました。 Bさんはまたも唐突に 「こいつ、ハガキ職人の顔面凶器です。今週から、サブに付けますので」 とお二人に僕を紹介しました。 すると岡村さんが「そのトレーナー、俺も同じの持ってるわ」と僕の着ていたスウェットをイジってくれました。僕は緊張で何と返していいのか判らず、かといって何も言わないも失礼だと思い、「4千円で買いました」と、よく判らない返しをしたのを覚えています。 そこには番組のチーフ作家さん、サブ作家のAさんもいて、僕はその下の「お手伝い」という立ち位置で番組に加わることになりました。もちろんギャラは出ません。当然ながら僕には断る理由がなく、自分が好きで聞いていた番組に加われるなど
【放送作家1年目(22歳) 2002年 】 そんな僕の性根を叩き直そうとしてくれたのがディレクターのCさんです。この人は30代前半で、ラジオ局員には珍しくノリが軽く(今でいうチャラい)、女にモテそうで、いい車に乗ってそうな遊び人風の人でした。噂によれば、ある大企業の社長の隠し子で、学生時代は渋谷のチーマーに属し、あのZeebraさんともツーカーの仲だとか。事実はどうあれ、本当にそうであってもおかしくないと思える、魅力的な人でした。 のちにCさんは制作部から営業部に異動になると「ラジオを作れないならいいや」と言って、あっさりと某大手広告代理店に転職してしまいます。未だにCさんの正体は謎のままです。 Cさんにはとにかく無茶振りをされ続けました。深夜1時過ぎ、放送終わりのスタジオに閉じ込められ、いきなり即興の擬似ラジオ番組をやらされたこともあります。当然ながら、経験もトーク力もない僕が何をしゃべ
【大学生(21歳) 2001年 】 クリスマスが過ぎて大晦日になりました。僕は「こんな不安な気持ちでは年は越せない」と思い、作家のAさんに電話しようと決めました。こちらから電話をかけるのは初めて。相手は業界の人、何時に電話をかけるのが失礼にならないか、そもそも電話をかけて第1声、何て言おう。 「Bさん、まだ怒ってますかね?」 別にそんなことが聞きたいのではありません。 当時、僕は千葉市川市にある京成線の国府台という駅の近くに住んでいました。大通りを渡ればすぐに江戸川で、橋を渡ると向こうは東京都、江戸川区。Aさんに電話をかけたいけれど、何て言ったらいいのか。 晴れ空の下、ずっとそれを考えながら江戸川に掛かる大きな橋をケータイを握りしめてトボトボと歩いて渡り、東京都側へ。橋を渡りきると踵を返して、来た道を戻り千葉県側へ。そしてまた東京へ、千葉へ、東京へと何度も往復して、やっと歩き疲れて河川敷の
ハガキ職人から放送作家、そして。最終回 【放送作家16年目(38歳) 現在】 勢いで、過去16年の回顧録を書き上げたものの、さてここからどうしよう…。 静かに机の奥にしまっておくのも一つですが、やはり、モノを書いて食べている人間としては、どこかに出さなければ意味がないという気持ちもありました。 「ハガキ職人」も「放送作家」も、テレビやラジオの舞台裏を書いたとて、今や世間の関心を引くコンテンツとは思えません。しかも日々、情報が更新されているこの時代に、16年前の昔話など誰も喜ぶはずがない。 noteへの投稿
【大学生(21歳) 2001年 】 さすがに焦ってきた僕は、番組(ディレクターのBさん)宛てに封書を送りました。封筒の中身は「放送作家になりたいです」という真面目な手紙と、MDが1枚。(MDはミニディスクの略でCDに続く記録媒体として、当時よく使われていました) MDには、アコーディオニストcobaさんの『過ぎ去りし永遠の日々』という曲が入っていました。この曲は、当時「おしゃれカンケイ」というテレビ番組の中で、司会の古舘伊知郎さんが手紙を朗読するときにBGMとして流れる「手紙の朗読といえばこれ!」という定番曲でした。 のちに、その場にいた人から聞いた話によると、ある日の生放送終わりにスタッフ総出でリスナーから届いたお手紙を整理していた時のこと。たまたまディレクターのBさんが僕が送った封書を見つけたそうです。 (ハガキ職人の顔面凶器から、なんか届いてるぞ) 封を開けると、中には手紙とMDが。
構成・脚本 / 99ANNのハガキ職人から放送作家 / 100名の作家チームを運営 / 世田谷区在住 / 栃木県足利市出身 /
2017年8月5日は、僕が人生で2番目にたくさん泣いた日です。 同棲していたカノジョが言った「お金、足りてるの?」という一言がきっかけでした。それは僕自身がここ1年ずっと気に掛かっていたことで、怖くて目を背けていた深刻な問題でした。カノジョにしたら、週に2日しか仕事に出ていかない僕を見て心配にならない方が不自然です。 しかし、僕の仕事がフリーランスの放送作家という特殊な収入形態であること。つまらないプライドが捨てられずにいる僕の性格を理解して、ずっと言わずに我慢してくれていたのです。 16年前、深夜のラジオ番組『ナインティナインのオールナイトニッポン』へのハガキ投稿をきっかけにディレクターに拾われ、僕は22歳で放送作家になりました。26歳で年収1400万円を越え、若くして身の丈に合わないお金を手にして、天狗になり調子に乗り、貯金もせずに夜の街で遊び呆ける毎日。 仕事をいただける感謝の気持ち
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『放送作家 細田哲也|note』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く