サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
衆院選
www.jinken.ne.jp
映画『私のはなし 部落のはなし』 満若勇咲✕角岡伸彦 対談 2022/07/22 角岡 あさって(5月21日)に公開される『私のはなし 部落のはなし』と関係してくるので、最初になぜ僕たち2人が出会ったのかをお話しします。 今から15年前の2007年に、当時大阪芸大の3回生だった満若君から連絡がありました。彼とは20歳以上離れているので、君付けです。屠場・食肉センターを撮りたいということで、いろんなところに取材依頼したんやね? 満若 そうですね。連絡したけど、どこもそれは厳しいと言われたんですが、東京・芝浦の「お肉の情報館」で、大阪に食肉に詳しいフリーライターの方がいるのでご紹介いただいたのが角岡さんでした。 角岡 別に詳しくはないねんけどね。 満若 『ホルモン奉行』(解放出版社、2003年)という本を出されてました。 角岡 ホルモンが、どこでどのようにして食べられているか、という本です。そ
「結婚差別」を人権の問題として取り組む 齋藤直子さん 2018/08/10 被差別部落出身であることを理由に、親などから交際や結婚を反対される。「子どもは産むな」と言われる。「親子の縁を切る」と迫られる。そんなことが身近で起きた時、あるいは自分が直面した時、あなたはどうしますか? 「結婚差別」を経験した人たちの聞き取りや相談を重ねながら、社会学の視点で分析と考察をした『結婚差別の社会学』の著者、齋藤直子さん。取り組みから見えてきたことや伝えたいことなどを話していただきました。 ――齋藤さんが結婚差別に関心をもたれたきっかけは何ですか? 大阪府が2000年に「同和問題の解決に向けた実態等調査」をした時、聞き取りのチームに参加したんです。被差別体験を語ってもよいという方に、お話を伺いました。40人ぐらいに語っていただいたなかで、結婚差別の体験がすごく多かったんですよ。それまで部落問題について聞
一人ひとりの言葉と生きる力に心を寄せて 琉球大学教授 上間陽子さん 2017/08/02 上間陽子さんは、大学で教えるかたわら、性風俗で働く若い女性たちの聞き取り調査やサポート活動をしている。調査で出会った女性たちとの関わりをまとめた著書『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』は、大きな反響を呼んだ。彼女たちの語りや生活から浮かび上がってきたものは何か。彼女たちが抱える「生きづらさ」とは何か。そして上間さんは、彼女たちとどう向き合っているのか----。 『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』は2012年の夏から沖縄ではじめた調査をきっかけに出会った女性たちのうち、キャバクラで勤務していた、あるいは「援助交際」をしながら生活をしていた、10代から20代の若い女性たちの記録である。調査はもともと、風俗業界で働く女性たちの仕事の熟達の過程、生活全体、そして幼少のころからの出来事に注目した聞き取
普段のおかずから運動会や遠足のお弁当、誕生日やお正月のごちそうまで、どの家庭にもその家ならではの「味」があり、人それぞれ思い出がある。その記憶は、ただ「食べた」というだけでなく、家族の笑顔や情景といっしょになって心に残っているはずだ。部落にも、部落ならではの「味」とそこに生まれ育った人たちのさまざまな思いがある。ムラ(部落)に生まれ育った30代から50代の女性9人が、食べ物にまつわるエピソードを思い思いに語ってくれた。 ムラの味として代表的なものは、「あぶらかす」(注1)「さいぼし」(注2)そしてホルモン(注3)類を使った料理である。 「ムラのなかにお好み焼屋さんがたくさんあったんやけど、どの店にも必ず”かす入り”があったなあ」 「私は”くろかす”言うて、ふつうのあぶらかすより質の悪い、黒っぽいかすをおやつがわりにボリボリ食べてたわ」 「うちでは水菜といえば、あぶらかすと炊いてた。時々、鯨
今、芸能というと「エンターテイメント」をイメージする人が多いのではないでしょうか。「エンターテイメント」とは、人を楽しませる、喜ばせること。もともとは「もてなす」という意味でした。転じて、今では芸能を「見て楽しみ、日常の忙しさをひととき忘れるための娯楽」といったふうに考えられているようです。しかし、古い時代に遡ると、芸能はもっと深い意味をもっていました。 今でもそうですが、「芸能」とは、踊る、舞う、歌うことです。その極致は、一口で言えば神々の世界と交流し、「狂う」状態に入ることです。精神が通常の状態ではなくなってしまうわけです。日常を忘れ、神のごとく非日常の世界に入る、忘我の境地。これが芸能の究極です。 なぜ、こうした「芸能」が生まれたのか。起源はおそらく縄文時代以前、石器時代人からではないかと考えています。大自然のなかで、いわば丸裸の状態で生きていた人間は、自然の力を頼って生きていました
「凶悪犯罪が増え、日本の治安は悪くなってしまった」 凶悪事件や少年犯罪といった言葉がメディアにあふれる中で、多くの人々がこうした固定イメージを持ちつつある。果たしてそれほど治安は悪化しているのだろうか。精緻な犯罪統計分析で知られる龍谷大学法科大学院教授浜井浩一さん(47歳)は、「事実なき神話」だと真っ向から反論する。「治安悪化を前提に、厳罰化や監視強化が進み、社会的弱者を不審者として排除する格差社会を産んでいるのでないか」と。 「統計をきちんと読み解けば、犯罪はそれほど増えていないし、凶悪化もしていない。治安悪化とは言えません」 早稲田大学教育学部で認知心理学を学んだ浜井さんは、国家試験を受けて法務省へ。元官僚であり、心理技官(矯正)として少年院や少年鑑別所、保護観察所などの現場も経験。さらに、国連犯罪司法研究所などへの海外派遣も含め、1996年に異動となった法務総合研究所では4年間犯罪白
アイヌの家に生まれた宇梶静江さん(71歳)は、幼い頃から厳しい差別にさらされた。アイヌであることを受け入れられないまま生きてきた静江さんが「解放」されるまでは、長い長い道のりがあった。アイヌに生まれながら、なぜアイヌとして生きられなかったのか。そして今、アイヌとして思うこととは?(※アイヌとはアイヌ語で「人」を意味する) 静江さんは北海道・日高山脈のふもとにあるちいさな町、浦河に生まれた。7歳上の姉と4歳上の兄、そして3人の弟がいる大家族。両親は家族が食べるぶんだけで精一杯の田畑で米や野菜をつくり、父は猟師として熊や鹿を追った。子どもたちは小学校にあがる年には立派な働き手として親を助けた。貧しい生活のなか、集落のおとなたちは支え合って暮らしていた。貧しさのために子どもを育てられない和人(大和民族、本土出身の日本人)の子を引き取って育てることも珍しくなかった。そして老いも若きも囲炉裏を囲み、
地域で精神障害者施設反対の運動が起きている。住民としてどうすればいいのか? 私は住宅街に住んでいます。最近、精神障害者の施設が近くにできるということで、住民の問で大騒ぎになっています。地区の自治会長は「事前に市から何の説明もなかった。自治会は施設建設に同意した覚えはない」と言い、近く建設反対の署名を集めようという動きもあります。私は障害者への偏見はもっていないつもりですが、こうした町内の動きに自分だけ背を向けるわけにもいきません。いったいどうすればいいのでしょう。 まず最初にはっきりしておきたいのは、「居住権は日本国憲法で保障されている基本的人権であり、これを侵すことは明確な人権侵害である」ということです。また、福祉施設建設にあたって地域住民の同意を得る必要も法的にはないのです。ただ、だからといって福祉施設が地域住民の意向をまったく無視してぐ建設・運営されてもよいというわけではありません。
世界文化遺産の平等院があり、年間400万人もの観光客を集める京都府宇治市。その市内に、下水道はおろか上水道さえ未だ十分に敷かれていない集落があ る。在日コリアン約60世帯250人が暮らす「ウトロ51番地」。戦時中に、国策の軍事飛行場建設のために集められた朝鮮人労働者の元「飯場」で、戦後国 から何の補償も受けることができないまま、そこに暮らすことになった人とその家族たちが住み続けてきた約2万1000平方メートルの地だ。 ところが、1998年、土地の「所有権」をもつ不動産会社によって、ウトロ住民を相手取る「建物収去・土地明渡」請求訴訟が起こされた。住民たちは団結 して最高裁に上告したものの、2000年敗訴。以後、強制立退の恐怖にさらされる中、「今さら出て行けと言われても、出て行くあてがない」状態での暮らし が続いてきたが、昨年9月に住民らが韓国で開かれた国際居住問題研究会議に出席して窮状を訴え
その後も跡を絶たない人と人の争い。ベトナム戦争も、アメリカの黒人差別も、ごく身近で起きていた国籍が違うだけで結婚できない人たちの問題も・・、僕らの周りには目に見えない境界線、渡ることができない「イムジン河」がたくさんあることを知らされました。だからこそ「イムジン河」を初めて聞いた感動を、大人になるまで持ち続けていたんだと思うんです。 10代の終わりに、コミカルな歌で人気のあったフォークグループ「フォークル」と仲間になり、相変わらず続く世間の差別意識を変えるためにも、まず身の周りから人間の自由や平等を音楽で訴えようと、加藤和彦くんに「大切にしている歌がある。歌ってくれないか」ともちかけた。聞き覚えた旋律を加藤くんが採譜し、2番3番の歌詞は、「南北がいつかひとつになれば」という気持ちをこめて、僕が書き加えることになった。そこで誕生したのが僕たちの「イムジン河」でした。 初めてコンサートで歌った
民主主義とは目の前のゴミを拾うこと 映画作家 想田和弘さん 2013/08/28 選挙のたびに投票率の低さが嘆かれる。自分たちの生活に直結しているはずの政治を「遠い」と感じる人は少なくない。それはなぜか。選挙運動をじっくりと観察した映画『選挙』『選挙2』を制作した映画作家、想田和弘さんに、観察を通じて見えたもの、感じたことを語ってもらった。 ――選挙運動そのものを淡々と撮影した映画『選挙』『選挙2』、面白かったです。「観察映画」と銘打たれていますね。 ぼくはドキュメンタリー映画を「観察映画」と称して撮っているんですね。なるべく予断と先入観を排して、対象をよく観察する。その観察で発見したことを映画にするという方法論です。そのために台本は作らず、事前のリサーチも打ち合わせもしません。まさに行き当たりばったりでカメラを回していくんです。観客にも自分の目と耳で観察をしてほしいので、観察の邪魔になる
日本人の両親のもとに生まれた、あるいは日本で生まれ育った人は、ごく自然に自分を「日本人」だと考えます。しかし、歴史を遡っていくと、私たちはいくつかの異なった民族に分かれます。 そしてそれぞれの民族集団は、何万年もの間に、北から南から、そして西から東から、順次やってきては根を下ろしました。つまり先にやってきていた民族に戦いをしかけ、征服し、あるいは婚姻し、この日本という土地に根付いていきました。こうしたことが数万年の間に数え切れないほど繰り返された結果が今の日本人です。 つまり、私たちの言う「日本人」とは、いくつかの異なる系譜をもった民族集団が、複雑にからみあい混じりあっており、決して「日本人」というひとつの系譜にはまとめられない。同様に、日本文化といわれるものも、渡来してきた民族集団がそれぞれ持ち込んだものが混じり合い、あるいは日本の風土に合わせて変化してきたものなのです。 なぜ、私がこの
薬物を乱用し、薬物依存症まで陥る若者が増え続けている。中でもシンナーは手に入れやすいことから、10代の中学生や高校生にもっとも乱用されている薬物だ。かつてシンナーに溺れ、18歳の秋、一夜にして視力を失った牟田征二さん(35歳)は、薬物の恐さをひとりでも多くの若者に知ってほしいと講演活動を続けている。 ビニール袋に入れて吸引する様がアンパンを食べる姿に似ていることから「アンパン」、あるいは「ガキのくすり」と呼ばれるシンナー。アルコールと同じ酩酊作用があって多幸感や陶酔感をもたらし、現実逃避の手段として青少年が乱用する場合が多い。乱用を続けると幻覚、幻聴が始まり、無気力になっていく。さらに、シンナーが切れるとイライラして攻撃的になる。また、有機溶剤であるシンナーは油を溶かす性質があり、体内の細胞に含まれる脂肪分を溶かすため、脳や神経系の細胞を死なせ、歯を溶かして骨までむしばんでいく。 仲間に勧
差別なんてしていない、部落問題なんて関係ないと思っている人の心の奥底に「ほんまにそう?」と問いかけたい。キレイゴト、タニンゴトじゃない、人権教育は自分自身の心の奥底のドロドロしたものをひきずり出して、取り除いて自分自身が解放されていくことなんやと伝えたい。だからわかりやすく、楽しく。耳を傾けてもらうために“エンタの神様”にも学ぶ。部落問題をドンと真ん中に据えて、差別と人権をあつく語る川口泰司さん。「見えない差別」を見抜く力を、「本当の自分を取り戻そう」と、若き語り手はあくまでもポジティブに、差別とは何かを発信しつづけている。 川口泰司さんは1978年、愛媛県宇和島市の被差別部落で生まれた。小学6年生の時に「ブラック差別」と勘違いして、部落出身という立場を知る。この時の出会いは「小さなマイナス」だった。しかし中学時代、同和教育に本気で取り組む教師と出会い、部落解放運動を知る。高校時代は市内の
ほんの少しアンテナを張れば、誰もの身の周りにある部落問題。作詞家、随筆家、放送タレント、芸能問題研究家などさまざまな顔を持つ永六輔さんにご登場いただく1回目は、ご自身の体験と西光万吉さんとの交流について語っていただきます。 僕が生まれ育った浅草は、江戸時代に今でいうホームレスらが集まってきた下町。生家は弾左衛門(だんざえもん)の縄張りのお寺でした。いわゆる被差別部落も近くにある環境でしたが、僕が直接に部落問題と出会ったのは、国民学校四年生で信州・小諸に疎開した時。 僕たち疎開児童もいじめられたけど、同じ集落の中に部落の地域があり、そこにはあからさまな差別があったのね。その地域だけ電気がついていなくてランプで生活していたし、学校での子どもたちの扱いにも差があった。僕は「なぜ?」と思ったけど、親と離れて暮らす自分も辛いものだから、他人に思いを寄せることはまだ出来なかった。でも、中学に入る前にそ
ふらっと新着情報 2024/09/10 NEW大崎事件にみる再審法改正の必要性 鴨志田祐美弁護士 2024/08/28 NEWBTSとジェンダー とんだばやし国際交流協会理事長 北川知子さん 2024/07/01 NEW性の多様性からじぶんについて考える 田中一歩さん 近藤孝子さん(にじいろi-Ru) 2024/06/03 NEWChatGPTと人権 近畿大学教授 北口末廣さん 2024/05/16 NEWすべての人にやさしいピクトグラム ~進化する多様性へのみちしるべ~
村﨑太郎さん、49歳。職業は猿まわし師。村﨑さんが猿の次郎に語りかけると、次郎がさまざまな仕草で応える。村﨑さんの合図で、次郎が高くジャンプし、輪をくぐる。 猿まわしは千年以上の歴史をもちながらもいったんは途絶えてしまっていた。江戸時代以降は被差別部落民の生業(なりわい)として差別視されてもきた。猿まわしが最後まで残っていたとされる山口県の被差別部落に生まれ育ち、厳しい差別と闘ってきた村﨑さんの父は、高校2年だった村﨑さんに「猿まわしにならんか」と語りかける。「部落が誇る伝統芸能を復活させろ。そして太郎、部落が誇るスターになれ」と。 自分なりの考えもあり、村﨑さんは17歳で猿まわし師の道を選んだ。その選択は、被差別部落に生まれたことと切り離せない。小学校に入学した頃から、差別を否応なく意識させられてきた。人とのつきあい方や物事に対する考え方にも大きな影響を及ぼした。もがきながら生きてきた村
インターネットで中傷され続けた10年 スマイリーキクチさん 2011/11/25 それまではいろんな事件の報道をテレビを見ながら「ひどいな」と思っていましたが、しょせん他人事でした。でも本当にこういうことがあるんだと。報道されていた事件の経過にひとつひとつ自分がはまっていくような感覚でした。 そんな時、彼女がネットでひとつの情報を見つけました。インターネットの誹謗中傷で困った時、刑事事件として捜査してほしいなら刑事課に行き、刑事告訴したいとはっきり意思表示したほうがいいと書いてありました。真偽のほどはわかりませんが、そういえばそれまでは生活安全課へ相談に行っていました。一か八かで管轄の警察署の刑事課を訪ねることにしました。 そこで出会ったひとりの警部補との出会いで流れが一変する。キクチさんが準備していった誹謗中傷の書き込みに目を通し、捜査を約束してくれたのだった。中傷のある書き込みやサイト
インターネットで中傷され続けた10年 スマイリーキクチさん 2011/11/25 インターネット上で、まったく関係のない殺人事件の犯人として名指され、中傷され、脅迫され続ける。お笑い芸人として活躍するスマイリーキクチさんに突然振りかかってきた”災難”は、振り払っても振り払ってもまとわりついてきた。1999年から10年間、見えない相手と闘い続けてきたスマイリーキクチさんがその経験を語る。 インターネットの巨大掲示板「2ちゃんねる」で、自分がある殺人事件の犯人だと話題になっているとマネージャーから聞かされたのが始まりです。ぼくが事件のあった地域出身で、犯人と同世代だったことが「根拠」とされたみたいです。 当時のぼくはパソコンについてまったくと言っていいほど知識がありませんでした。インターネットも今ほど普及していなくて、コンピューター好きな人たちのものというイメージが強かった時代でした。だから書
顔や身体にさまざまな病変や外傷、先天異常などがある人たちがいます。自らを「ユニークフェイス」(固有の顔)と名乗る彼らが、多くの人とは違う「見た目」をもつことからくる生きづらさを語り始めました。「人間は外見ではない。中身 が大事だ」「個性を尊重しよう」と、私たちは簡単に口にします。しかし現実は決してそうではないのです。 ユニークフェイスの人たちの生きづらさの背景には、何があるのでしょうか。 いきなり飛んできた罵声 「お前たちみたいな顔の人間がいるから世の中が悪くなるんだ!」 赤荻眞紀子さん(44歳)は、駅の雑踏のなかでいきなり罵声を浴びせられた。驚いて声のした方を見ると、サラリーマン風の中年男性が足早に去っていく背中が見えた。「突然だし、通りすがりに言われたので、何も言い返すことができませんでした」。 数年前の、一瞬の出来事。しかし今もその時の光景はハッキリと覚えている。 そんな失礼な人がい
数年前、モツ鍋が爆発的な人気を呼んだ。ブーム自体はやがて下火になったが、モツ(ホルモン)が若い世代に認知される大きなきっかけとなった。今やお好み焼き屋では「すじ入り」が人気メニューの定番だし、ちょっと凝った居酒屋にもホルモン料理がメニューに並んでいたりする。低カロリーでヘルシーな食材として女性誌の料理特集に登場することもある。「放るもん」が語源とも言われ、部落(ムラ)となじみ深いホルモンが一般食材としてすっかり定着した今、逆に部落のなかではどんな存在なのだろうか。何十年という長い間、ホルモンを扱ってきた人たちの話を聞いた。 JR・大阪環状線芦原橋駅の高架下にある「料理処 岳(たけ)」。近くの部落解放同盟大阪府連のスタッフもお墨つきの味である。出し巻やキムチ焼きそばなど、他の居酒屋でもおなじみの一品料理が揃っているが、おすすめは何といっても「さいぼし」「すじのこごり」「鱧皮のこごり」や「水菜
いったん自白がなされた事件なのに、あとになって無実であることがわかる。そんなえん罪事件が繰り返されている。「なぜやってもいないのに自白してしまうのか」。多くの人がまず抱く疑問に、えん罪の研究を重ねてきた浜田寿美男さん(奈良女子大学名誉教授、立命館大学特別招聘教授)が答える。 ――志布志事件や氷見事件、足利事件など、えん罪事件が後を絶ちません。共通しているのは、実際はやっていないのに、いったんは「やりました」と認めてしまっていることです。なぜ、やってもいない罪を認めてしまうのでしょうか。 嘘というと相手をだまして自分が得をするというイメージがありますが、虚偽自白は自分の利益になるどころか、逆に自分の首を絞めかねないものです。だから多くの人は「なんで嘘で自白するんだ」と思うわけですが、それは体験したことがないから言えることです。 強制力のない任意同行で、参考人として事情聴取される場合でも、実際
セクシャル・ハラスメントを考える 1999年の改正労働基準法に「セクシュアル・ハラスメント防止ガイドライン」が盛り込まれて3年余り。「セクハラ」という概念がようやく市民権を得てきた昨今ですが、10年以上前に職場でセクハラ被害に遭い、裁判に持ち込んだ人がいます。 福岡市のフリーライター、晴野まゆみさん(45)。裁判では「原告A子」と匿名でしたが、「日本初のセクハラ裁判」として大きな話題となり、全面勝訴を勝ち取ったことを記憶の向きも多いかもしれません。晴野さんにその経緯、そして「自分」を取り戻すまでの道のりを聞きました。 セクハラについて考えると共に、係争中に晴野さんと弁護団・支援の会の人たちとの間に出来ていったという「溝」についても、考えてみませんか。 我慢すればするほど、セクハラはエスカレート 晴野さんが、勤めていた福岡の出版社の上司からセクハラを受け、あげくに退職に追い込まれたのは今から
吉本興業のタレントとして活躍中の亀山房代さんは、1989年から12年間、元「ザ・ぼんち」の里見まさとさんとコンビを組んで舞台やテレビに出ていた元漫才師。漫才の男女コンビといえば、夫婦か元夫婦が定番なので、そうでないコンビの第一号だった。当初は「あの2人はどういう関係?」といった観客からのセクハラ視線にさらされたが、正統派の漫才に取り組み人気を得た。そんな中で見えてきたというのが、漫才の世界のジェンダー。亀山さんに話を聞いた。 ----そもそも漫才師になったきっかけから教えてください。 短大時代に、吉本興業で庶務のアルバイトをしたんですが、その時、上司に「君はタレントに向いている」と勧められたのがきっかけです。 当時の吉本は、女性社員といえば電話とりやお茶組みのOLさんばかりの体質から、男女雇用機会均等法の影響で4年制大学を出た女性をマネージャーなどに採用しはじめた頃。芸人では、東京吉本で、
東京都杉並区高円寺―ここが松本哉さん(35歳)の“本拠地”である。駅のロータリーから何本も細い路地のような商店街が延びている。アーケードのない商店街は昔ながらの八百屋に肉屋、洋品店と、アジア雑貨や古着の店、エスニック料理店が入り混じる。コロッケを揚げる匂いが漂う、いかにも暮らしやすそうなこのまちでリサイクルショップ「素人の乱」を経営している。 ──育ったのは東京都江東区で、新宿に住んでいた松本さんが、なぜ高円寺に根を下ろしたんですか? あきらかに儲からないことをやってる人がいっぱいいるんですよ。「誰も来ないよ」という店とか、まちで普通にパフォーマンスや音楽をやってる人がいて、みんなが勝手にやりたいことをやってる感じがすごくいい。金とつながっていない文化がたくさんあって、それがすごく面白いなと思ったんです。 大学時代は新宿の大久保に住んでいたんですけど、ほんとに(文化が)何もない。何かやった
横浜中華街のほど近く、JR石川町からぶらぶらと10分ほど歩けば寿町だ。赤いちょうちんやのれんを下げたちいさな店が軒を並べ、作業着やニッカボッカ姿の男性たちが三々五々歩いている。この高層ビルに囲まれた300メートル四方のドヤ(簡易宿泊所)街に、6500人ほどが住む。高度経済成長期やバブル時代には活気がみなぎっていたが、今は高齢化と不景気の長期化によって9割近くの人が生活保護を受給しているという。 寿識字学校が開かれるのは、保育所や学童保育、日雇い労働の人たちが利用するシャワーや洗濯機、娯楽室が入っている寿生活館だ。築30年はゆうに過ぎた建物の階段を4階まで上がる。1970年代にはオイル・ショックで仕事がなくなった労働者が布団をもちこんで泊り込み、当時の横浜市長が機動隊を差し向けたという歴史をもつが、今は人影もまばらだ。 「教室」となる会議室は長い机がコの字型に並び、お互いの顔が見える。大沢さ
僕はもう最初っからあきらめて生きてきた。自分が生まれ育った環境とか、血とか、もろもろ全部——。編集者・竹井正和さんが自分のことを語った著書『きょう、反比例』は、こんな言葉から始まっている。しかし、47歳の今、東京でアート系出版社を経営し、奈良美智や川内倫子、ロン・ミュエックなど世界中の気鋭アーティストと組んで仕事をしている。「向こうから本を作ってくれと言うて来る」と、にやり。「最初っからあきらめて生きてきた」という竹井さんが、どうやって今の自分にたどりついたのだろう。 ・・・竹井さんは、大阪市西成区にある被差別部落に生まれた。中国や韓国・朝鮮など在日外国人も多く住むこの地域は、当時、荒れに荒れていた。部落や在日外国人に対する差別のために、安定した仕事に就くのはきわめて難しい。結果的に生活が不安定になり、気持ちも荒れる。さらにその日暮らしで夢も希望も語れない大人たちを見て、子どもたちも「どう
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『ふらっと 人権情報ネットワーク』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く