学び 30年以上住民反対、危険病原体扱う施設稼働へ : 科学・IT : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
エボラウイルスなどの危険な病原体を生きたまま取り扱う高度安全実験(BSL4)施設が、東京都武蔵村山市にある国立感染症研究所村山庁舎で、国内で初めて稼働することが決まった。 30年以上にわたり周辺住民の反対が続いてきたが、塩崎厚生労働相と藤野勝・同市長が3日午前に会談し、稼働に合意した。会談後、塩崎厚労相は感染症法に基づき、1週間前後で同庁舎をBSL4施設に指定すると表明した。 国内では、国が指定したBSL4施設以外でエボラウイルスなどの危険な病原体を扱うことが禁止されている。エボラ出血熱が疑われる患者が発生しても、ウイルスを死滅させ、感染の有無を確認する検査しかできなかった。今後はウイルスを生きたまま解析し、種類や感染経路を特定したり、ワクチンの開発につなげたりすることが可能になる。
安全保障関連法案を審議する参院平和安全法制特別委員会は3日午後、法案をめぐって「(従来の憲法解釈との)法的安定性は関係ない」と発言した礒崎陽輔首相補佐官を参考人招致した。 礒崎氏は「軽率な発言で審議に多大な迷惑をかけたことを心からおわび申し上げる」と陳謝した。そのうえで、「法的安定性は確保されている。安全保障環境の変化を述べる際に、大きな誤解を与えた」と説明し、自らの発言を撤回する一方、首相補佐官を辞任しない意向を表明した。 首相補佐官の参考人招致は初めて。礒崎氏の発言をめぐり、安倍首相は3日昼の政府・与党連絡会議で、「与党に迷惑をかけて申し訳ない。法的安定性は極めて重要な政府の考え方の柱だ」と強調した。 礒崎氏の参考人招致では、民主党の福山哲郎氏が野党を代表する形で質疑を行い、更迭を求めた。民主党の枝野幹事長は3日午前、国会内で記者団に「礒崎氏の発言は個人の考えというよりも安倍政権の本音
夏の風物詩「24時間テレビ」がはじまります。昨年は瞬間最高視聴率41.9%(平均視聴率17.3%)を記録して、改めて番組の認知度の高さが明らかになりました。しかし、24時間テレビは出演者にギャラを支払っているため、この扱いをめぐって意見が二分されることが少なくありません。 ●日本テレビは社会貢献をしている 芸能人は、フアンや支援者が多いためメディアへの影響力が強く、芸能人の存在によって多額の募金が集まるなら問題は無いという意見があります。写真週刊誌のFLASH(2013/8/13号)は、前年度の番組総製作費が4億2000万円で、CM収入の合計が22億2750万円だと報じています。これに募金を加算すれば、番組総収入は相当な額になります。さらにチャリティ番組であることから、スポンサーがつきやすいというメリットもあります。 アメリカの「Labor Day Telethon」は、1966年以降、ア
最近どこのコンビニでもアジア系外国人店員を見かけるようになって久しいが、困っていることがある。 それは、パスタを買うとフォークじゃなくて箸を無言で突っ込んでくることが多いことだ。正直、箸でパスタは食べにくい。 思い返すと、ミートソースやナポリタンなんかではフォークを入れてくれる率が高いが、明太子スパゲッティみたいな和風なパスタだと箸を入れられる率が非常に高い気がする。今日もセブンイレブンで「蒸し鶏の冷製生パスタ 梅しそ風味」を買って家に帰ったら、当たり前にように袋に箸が入っていた。 おしゃれなパスタ屋だと逆に箸で食べるスタイルを売りにしている店もあるが、あれは「一周回って」逆におしゃれ感があるだけで、コンビニにそんなものは求めていない。 彼らにとって日本人は麺類は何でも箸で食うものという思い込みでもあるのだろうか? 日本人店員だと、何も言わなくてもほぼ100%フォークを付けてくるのでありが
国会で審議中の安全保障関連法案に反対する高校生たちがグループを結成し、高校生の呼びかけによる初めてのデモが東京・渋谷で行われました。 東京都内は夕方になっても気温が30度を超える厳しい暑さとなりましたが、渋谷区で行われたデモには主催者の発表でおよそ3000人が参加しました。 制服姿の高校生たちがラップ調のリズムで「集団的自衛権はいらない」とか「憲法を守れ、命を守れ」などと呼びかけると、プラカードを持った参加者も声を上げて安全保障関連法案を廃案にするよう訴えました。 甲府市から参加した高校2年生の女子生徒は「同い年の人が呼びかけていることを知って、自分も動こうと思いました。デモを見た一人一人が考えてほしい」と話していました。 また、都内から参加した高校2年生の男子生徒は「強行採決で押し切ろうという考え方が納得できません。少しでも声を上げて、それが力になればと思います」と話していました。
1861年の6月1日、イギリスの駐日特命全権公使ラザフォード・オールコックは、香港出張の帰途、長崎から江戸に向けての日本国内旅行に出発します。これは前年(1860年7月)の、彼が外国人として記録に残る初めての富士山登山を果たしたのと同様、日英修好通商条約の下に約束された駐日外交使節の長に許された日本国内での旅行の自由を最大限に活用するパフォーマンスでもあり、また情報収集をも目的としていました。 香港への出張からもどってきたオールコックの心中は、決して穏やかなものではなかったはずです。といいますのも、香港でオールコックは裁判に負けているのです。 前年、1860年の11月、横浜に居留していたイギリス人商人のマイケル・モースは神奈川宿付近で狩猟としゃれこんだのですが、その帰り道、江戸城から十里四方の銃の使用はご法度ということで役人に咎められたところ、どうやら泥酔していたらしいモースはその役人を撃
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