本能寺の変はなぜ起きたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「近年の研究では『四国説』が有力だ。四国の覇者である長宗我部元親の取次を担った明智光秀は、信長の要求との板挟みにあい立場を失った。その裏には光秀以上に追い詰められていた人物がいた」という――。 織田信長の絶頂だった「馬揃え」で起きた“変事” 天正9年(1581)2月28日、織田信長は京都で大規模な「馬揃え」を催した。「馬揃え」とは名馬や精鋭部隊を集めての一種の軍事パレードで、イエズス会宣教師のルイス・フロイスによれば、参加者は13万人を超え、20万人もの群衆が集まったという。 武将たちは可能なかぎり華やかに着飾って参加するように命じられていた。そこで、たとえばキリシタン大名たちは、ロザリオや大きな十字架、西洋風のマント、十字架がついた馬覆い、金の房がつきローマ字が染め抜かれた真っ赤な旗、といったいでたちを競い合った。 信長はというと、金