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或る種の生は緩慢な自殺にほかならない。あるいは、すでに余生でしかない生と言うべきか。 福田和也氏が亡くなった(以下、故人の敬称は略す)。実生活での面識や接点はまったくなかったが、同年生まれ(わたしは二月、彼は十月)で、昨年読んだ『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』表紙写真の痩せ細った姿に自分も無縁ではない病や老いを見ていただけに、同世代としての弔いの気持ちが引き起こされたのだろうか、同じく昨年出版の『放蕩の果て──自叙伝的批評集』を手に取った。 わたしは福田の熱心な読者ではない。クルツィオ・マラパルテに依拠した『日本クーデター計画』は自著『死者たちの都市へ』で批判対象としたし、『イデオロギーズ』についてはハイデガーらの思想を扱う手つきの杜撰さばかりが印象に残った。『日本の家郷』はたしかに購入しており、『奇妙な廃墟』も自分の関心領域内だった筈だが、もはや何の記憶もない。毎号欠かさず読んで
自由民主党の国会議員・甘利明氏のインタヴュー(『文部科学教育通信』No.471 2019年11月11日号、聞き手はジャーナリスト・松本美奈氏)はネット上で「全文掲載中」と銘打って公開されている【リンク】。 この現在公開されているインタヴューには甘利氏の発言として次の一節がある。 「橋本〔和仁〕さん〔当時の国立研究開発法人物質・材料研究機構理事長、現在の科学技術振興機構理事長〕がある日、私のところに当時、東大理学部長だった五神真さんを連れてきた。「この人を東大総長にしたいと思っている。本命ではないけれど、きっとさせてみせます」と。さらに「甘利大臣の大学改革にも興味を持っていると思います」とも。結局、五神さんは総長になった。」 しかし、同じ『文部科学教育通信』No.471の本来の印刷版では次のようになっている。 つまり、ネットで公開されている記事では次の部分が削除されているのである──「そこで
Profile 田中 純 東京大学大学院総合文化研究科・教授 TANAKA Jun, Ph.D. Professor The University of Tokyo Profile (日本語) Profile (English) J-GLOBAL 研究者情報 J-GLOBAL English 科学研究費交付実績
昨日(2016年11月28日)の合評会「田中純『過去に触れる』に触れて」(http://repre.c.u-tokyo.ac.jp/news/?p=857)の最後に読み上げたメッセージです。 この書物の根底にあるのは、ひとつの「身振り」です。ベンヤミンはゲーテの『親和力』を論じた論文の末尾で、詩人ゲオルゲのヒロイックな詩に対して異議を唱えるようにして、こう書きました──「彼らが「闘いに叶うほどに強く」ならなかったとしても、それがどうしたというのか」。「闘いに叶うほどに強く」とはゲオルゲの詩からの引用です。そして「彼ら」とは、第一次世界大戦勃発時に自殺した親友たちを念頭にしています。この「それがどうしたというのか」という鋭い問いかけは、ゲオルゲの詩の崇高な「強さ」に逆らって、若くして死んでいった友人たち、つまり或る意味で時代に「敗れ去った」、力弱き死者たちと連帯しようとする、一種の抵抗の「身
ロックを聴いてきたとはいえ、ヘヴィメタルのファンでもなければ、いわゆるアイドルに興味も関心もなかった自分が、なぜBABYMETALのライヴ映像を繰り返し視聴し、SU-METALの歌声に忘れかけていたものを思い出させられたようにして、勇気づけられてしまうのか。
「脱構築の生き証人のような人」と言われるロドルフ・ガシェさんの講演や『思想』のデリダ特集と、デリダづいていた週の印象記。 25日に駒場でロドルフ・ガシェさんの講演を聴講。原稿の全訳が配付されたこともあり、門外漢でもついてゆけた(と信じたい)。「或る際限なく単数の=奇妙な普遍」という最後の捩れたフレーズへといたる過程に、「風」が確かに吹いたように思った。「思考の迅速さ」(カント)──非物質的な、風のように。 質疑で「風を哲学はあまり取り上げてこなかった」という指摘があり、むしろ「東洋で論じられてきた」例としてTadashi Ogawa と言われたのは小川侃さんのこととあとで知る。著書に『風の現象学と雰囲気』がある。 ただ、その後思ったのは、風はどこから吹くのかと。思考の風は破壊的効果を自己発生的に生み出すというのだから、思考そのもののなかから吹くのだろうが、しかし、「風に吹かれる、吹き飛ばさ
・ダイアグラム diagram:一義的な定義はないが、一般に要素間の関係を幾何学図形など抽象化された形象で表現した図を指す。→ここでは形態の単純化や抽象化といった傾向と関係性の表現という機能に着目し、一般にはダイアグラムには含まれない、具象的な形態までも包摂して考える。→「思考のイメージ」全般を問題化
という論文を読んだ(Michael S. Roth, Memory, Trauma, and History: Essays on Living with the Past所収)。 洗練された議論に見せるために「フーコー」や「バクサンダル」といった名が参照されてきた風潮へのやや揶揄気味の指摘はそりゃそうだろうし、「フリード」という名は少しリスキー、「クラウス」はもう賞味期限切れ、今や「ランシエール」がちょっとした政治性を加味した先進性を加えるのには恰好で、「エルキンス」となると、あまりにユビキタスなため、アイデンティティが失われている、などと言われるにいたっては、その皮肉な口ぶりの聡明な才気に感服する。 こうした名は「支配的パラダイムが曖昧で不安定あるいは首尾一貫していない時代には、学術分野のレトリックでとくに重要な役割を果たす」という指摘は炯眼。主張そのものよりも特定人物の「名」こそが、
言うまでもなく、飛行機は現実から切り離された自由と夢の象徴なのだから、「美しい飛行機を作りたい」という「夢」とは、夢を夢見る夢であり、さらにこれまた見やすいことながら、そして、作者自身がほぼ認めていることとして、飛行機はアニメーションと等価なのだから、自分のそんな夢という欲望を表現することについての宮崎駿の弁明はあまりにあからさまで、今更この映画のあれこれに難癖をつけることは野暮というものに思える。菜穂子もまた、ひたすら「きれいな」存在であることを強調されるばかりなのだが、この周到な自己言及的構造のもとでは、その点に苛立つ気持ちとて、空回りするだけだろう。美しいものだけを見せられ、美しいものを作りたいという願望の純粋さだけを見せつけられて、それはそれで憧れさえ呼び起こすものの、しかし、この映画があまりにそんなおのれの美学を守ることに長けている点に、なんと言うのか、一種の狡猾さを感じてしまう
写真パネル展示「ムネモシュネ・アトラス──アビ・ヴァールブルクによるイメージの宇宙」 会期:2012年12月15日(土)〜22日(土) 16日(日)休 展示時間:10:30〜19:00(会場でのイベント開催時を除く) 会場:東京大学駒場キャンパス 21KOMCEE 地下1階 MMホール 入場料:無料 本展では,ロンドン大学ヴァールブルク研究所から提供を受けたデータにもとづき,ヴァールブルク逝去の年1929年に撮影された「ムネモシュネ・アトラス」全63枚の写真を,すでに失われて現存しない実物のパネルに近いサイズで展示します。 展覧会サイト:http://mnemosyne-ut.tumblr.com/ 問い合わせ先 e-mail warburg2012[at]gmail.com 主催:平成24年度科学研究費補助金・基盤研究(B)「ヴァールブルク美学・文化科学の可能性」(研究代表者: 伊藤博明
本日の表象文化論学会第7回大会企画パネルにおける、鯖江秀樹さんの著書『イタリア・ファシズムの芸術政治』についての書評読み上げ原稿を公開します。パネルではかなり端折ったところがあり、とくに最後の部分は断片的にしか話せなかったので、これによって補足させてください。 田中 純 鯖江さんの著書は『イタリア・ファシズムの芸術政治』と題されています。「芸術政治」とは奇妙な言葉です。「芸術政策」といったニュートラルな言葉ではない。あとがきによると博論のタイトルは「芸術と政治」だったようですね。「芸術政治」と連続してはいない。著者によれば、「芸術」と「政治」が格助詞なしに連接された「芸術政治」という言葉は、両者のあいだに形成された「密接かつ曖昧で、場合によっては危うい関係」(11)を表わすものとされています。そして、本書では「イタリア・ファシズム」、つまり「ファシズモ」のこの錯綜した関係がつぶさに観察され
MARUZEN &ジュンク堂書店渋谷店(東急百貨店本店7階)人文書コーナーで開催中のブックフェア「表象文化論のアトラス」について、選者4人によるコメント付き選書パンフレットをPDFで公開します(他の選者3名の方々の了承済みです)。 ブックフェアの基本情報は次を参照。 http://before-and-afterimages.jp/news2009/2012/06/623-731.html 田中純「イメージの宇宙を旅するための57 冊──『ムネモシュネ・アトラス』とアビ・ヴァールブルクをめぐる書物の星座」 (画像クリックでダウンロード:PDF 1.6 MB) 大橋完太郎「啓蒙からポストモダンへ──「世界を読む」ための50+α冊」 (画像クリックでダウンロード:PDF 594 KB) 鯖江秀樹「「厄介な近代」を繙くための53冊」 このパンフレットは印刷用に面付け済みのPDFとなります。 鯖江
ベルリン文学・文化研究センターのシンポジウムで御用達のようにして本を売っていた出版社KADMOSのラインナップから、テーマが気になったので買った1冊、『職業としてのディレッタント』(ドイツ語原書)。 編者たちは議論の大枠として、専門家、素人、ディレッタントの関係を次のように定める。専門家はその知識や方法のみならず、学問ないし芸術の共同体の一員であるという制度的な立場によって規定される。素人とは非専門家であり、啓蒙の対象であると同時に、専門家が依存する経済的・政治的な巨大集団である。ディレッタントはこの両者の境界に位置する。ディレッタントには知識があり、知的探究を好んでいるが、学問的・芸術的共同体の一員とは認められていない。しかし、にもかかわらず、ディレッタントは芸術や学問において創造的でありうる。共同体の一員ではないのだから、その活動はまずは私的なものとして始められる。ディレッタントの重要
「ややアメリカ的な問い」という副題がついている。2010年6月8日にオスナブリュック大学で行なわれた講演の記録。 グンブレヒト氏は2007年に慶應大学で「大学の人文学に未来はあるか?」という講演をしており、記録が公開されている(PDF)。現代ドイツという文脈を離れた人文学の趨勢については、二つの講演は重なる部分が多い。 グンブレヒト氏が大学に籍を置いてからというもの、ドイツの大学が改革に明け暮れぬときはなかった。トロツキーの永久革命の 夢がまるで実現したかのように。この改革の果てに、大学の精神科学はなお生き延びうるだろうか、という問いをグンブレヒト氏は立てる。そして9つの点からそ れを検討してゆく。 最初の三つは歴史的な検証である。まず第一に、19世紀初め、国民文化の過去を知るために中世のテクストを読む過程で、ド イツにのみ文献学的な読解の技術が生じた。グリム兄弟やロマン派のこの伝統から、
nachDenken. Internationale Wirkungsgeschichte der deutschsprachigen Geisteswissenschaften und ihrer Sprache これもベルリン文学・文化研究センターのシンポジウム。3日間の日程だが、今日は行かないので、以下が備忘のためのメモ。非常に長文です。 学術出版や対話におけるドイツ語ないし英語の使用をめぐる現今の激しい議論は、諸々の精神科学 [Geisteswissenschaft]や文化科学に関わってくるのは、それらの対象が特別な仕方で主として言語的なステータスをもつことのみによるのではなく、それらの概念、方 法、思考様式が言語から切り離せないからでもある。 グローバル化と伝統という対立す る論拠の狭間で硬直している現在の賛否両論を超えるためには、議論のための別の土俵を開拓することが妥当であろう
「見る」経験と「読む」経験が異なるからこそ、ことばが「視像への情熱」をかき立 て、イメージが「ことばへの情熱」をかき立てるという第I部の結論は納得がゆくものだが、では、「ベッチマンがそこで沈黙した」(p.129)という「イ メージの意味」はどう「語る」ことができるだろうか? バルトの言う「第三の意味」あるいはプンクトゥム、それは語り得ないのか? バルトにあって、 「脱・命名」は抽象画の「物質的シニフィアン」に向かう。確かにそこでは具象が描かれている場合についての問題は取り逃されるが、果たして、抽象画につい て触れれば「脱・命名」つまり「非ないし脱言語的な」「意味」について明らかになるのだろうか? このような問いは、わたし自身が『都市の詩学』でアルド・ロッシの建築物や建築ドローイングのイメージと詩の関係について考察した経験に由来している。物語性やナラトロジーとは別の次元でことばとイメージとの
amazonのあるレビューに「学者は呪われよ、衒学者は嘉されよ。ディレッタント万歳! 」とあった。この本のレビュアー「編集素浪人 "ディオゲネス"」は(明記されていないが)編集者の二宮隆洋氏だろう。「「中間的」な著者・翻訳者や読者を馬鹿にしてはいけない」という指摘は確かにその通りだと思う。だが、それ以前に中間層を形成する媒体の弱体化が危機的だ。 建築の教育を受けていたり実践していなければ語れないことがあるのは当然なので、こちらには何も競合する気などなかった。建築や作品をめぐって異なる種類の言説が交差して何がいけないのか。排他的になったりせずに、それぞれが学び合えばいいだけのことではないか。『10+1』でもこの種の不毛な批判を何度か受けた。Web上で公開されているテクストをたどればわかるはずだ(連載を書物にする過程で、批判に対する反批判の類はすべて削って捨てた)。まあ、そうした軋轢は別にあっ
寄稿しました。書誌情報は、田中純「I cannot keep silent──「正義への衝動」を育てるもの」、石井洋二郎編『リベラルアーツと民主主義』、水声社、2024年、119-134頁。
教養学部報で高田康成氏がイェール大学への出向からの帰国報告──「感慨がない」という感慨──を書いている。かの地の大学教育をめぐる状況と東大・駒場の状況との格差について述べたものだ。そこでオックスフォードの日本研究者Roger Goodman教授がイェールで行なった講演が紹介されていた。日本における高等教育の崩壊をめぐる内容であるという。理系は別として(ということは文系には)まともなカリキュラムがなく、したがって評価のシステムもない云々、といったことらしい。 参照)は見つかったの で読んでみる。極めて客観的な論述で、概ね納得する。蓮實先生の「本当は教育が嫌いな日本人へ」という文章(2008年)の存在も教えられた。なお、 イェールにおけるGoodman教授の講演原題はThe Collapse of the Japanese Higher Education System?であり、?マークが付い
10月初めに黒沢清さん、鈴木了二さんとトークイベント「映像の際」に参加した。まず三人のプレゼンテーションがあり、自分の発表についてのアウトラインはこれ。ちなみに鈴木了二さんのプレゼンは、1980年代から2000年代までの自作を回顧して、東京の変貌に接続する内容で、1.標本建築、2.空隙モデル、3.墓・空洞モデル、4.海・空地、5.住宅:空洞三部作、6.歴史、7,Dubhouseといった構成だった。黒沢さんは自作に基づき、フレームの外部にある出来事が暗示されることで生じる、見えそうで見えない状態の無気味さ、不安について解説した。 ミー スにしてもテラーニにしても、自分の論点はもともと鈴木了二さんの強い影響を受けているから、出発点は同じになってしまう。そういえば、ミース論ではミー スの「底なし=底抜け」性のギャグをジャック・タチの『プレイ・タイム』に比べてみたのだった。そして、バルセロナ・パヴ
9月14日に東京大学駒場キャンパスで、美術史家イヴ=アラン・ボワ氏によるレクチャーがあった。演題は「〈似て非なるもの〉を思考する──疑似形態学の魅惑と危険」。5年くらい前から彼が話しているテーマらしく、過去の講演の映像もある。 まずこの映像を見てみた。パノフスキーに始まって、予想通り、カイヨワが登場する。講演者が「as modernist」 と何度も繰り返すのが印象的だ。質疑では生物学の概念との関係を問う質問やクーブラーの名も出ていた。自分自身は、と言えば、ボワ氏の専門である現代美術に詳しくはなく、モダニストでもないので、長期持続における類似にこそ関心があった。 この講演映像の最初で導入される用語は、講演タイトルで「疑似形態学」と訳されている「pseudomorphosis」であり、直接的にはパノフスキーの用例に基づいている。パノフスキーの『イコノロジー研究』ではこのpseudomorph
表象文化論学会第5回大会を週末に終える。学会が成立してから4年、これから5年目。Five Years──だから、来年の7月は一つの区切りになるだろう。 「そんなふうにわたしの今までの試みが努めてきたのは、芸術のジャンル性をめぐる教説を粉砕することによって芸術作品への道を切り開くことだった。それらに共通するプログラム的な意図とは、前世紀の学問の概念を特徴付けているディシプリン間の堅固な隔壁をだんだんと取り壊している諸学問の総合化の過程を、芸術作品の分析を通して促進することであり、この分析は芸術作品のうちに、ある時代の宗教的・形而上学的・政治的・経済的諸傾向の、いかなる面でも閉域を形成して制限されることのない、総合的な表現を見出すのである。」 1928年に書かれた履歴書の一節。 筆者がこうした自分の試みと結びつく研究として挙げているのは、「芸術意欲」をめぐるアロイス・リーグルの方法論であり、同
茂木健一郎氏の「日本の大学のガラパゴス化」という文章について思うところを書く。 【追記:2010年5月28日】 ここに書いたことのうち、提案の部分は、ある特殊な課題への対処策として立案したものであり、さらに、おもに人文系の大学院を想定している。その点で、あらゆる大学院専攻に適用すべきものとは、筆者自身も考えていない。また、専門職大学院が孕む問題点も承知しているが、ここで主眼としたのは、大学と企業などが積極的に協同してカリキュラムを作り上げてゆく過程で、相互に生じることが期待される変化である。つまり、大学が変わると同時に、企業側の認識も変えてゆくということだ。 ただし、現状でまず検討すべきは、アカデミアの教育に汎用性をもった能力(論理的思考、メディアの批判的リテラシー、討議力など)の育成を意識的に組み込むことだろう。人文系に限れば、論文を書くための最低限の条件は、ごく一般的なリサーチの技術や
もっとも「敵」はいたるところにいる。 『中央公論』の蓮實+浅田対談をつい読んでしまう。 既視感あふれるものだが、文字通り、対談自体が現代を19世紀の反復と見なしているのだから、20年前と大差ないものになることは当然なのだ。 現在のメディア状況に対する姿勢はお二人とまったく同意見で、「即時的なレスポンスのやりとりがコミュニケーションだという誤った神話に惑わされてはいけない」という浅田さんに対して、「それを嘲笑すべく、ドゥルーズは「哲学はコミュニケーションではない」と書いたわけじゃないですか」と蓮實さんが応じているのはもっともというほかない。もういっぺん強調しておくと、ドゥルーズは「哲学はコミュニケーションではない」と書いたわけだ。 Twitterをただの雑談と見なせば別にどうということはない。雑談は楽しいし意味もある。しかし、もの書きがただでさえぐだぐだな思考をTwitterで垂れ流しても、
『政治の美学』のために 2009 写真と映像による紹介 基本情報+目次 写真 オリジナル高画質映像 参考:「思想の映像化について」 内容紹介映像(Youtube)音声付 著者によるレクチャー(2009.1.8)1時間20分のMP3音声ファイル,55.2MB ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク氏のサイトから その1・ その2・その3 書 評 『週刊読書人』書評(山口裕之氏) 『朝日新聞』書評(苅部直氏) 「REPRE」書評(松浦寿輝氏) 『図書新聞』書評(永野宏志氏) 『出版ニュース』書評(高橋順一氏) ブックガイド 『都市の詩学』から『政治の美学』へ──「独学」のための40冊の星座+1冊 田中純が興奮した20冊と1枚(番外1冊)──『政治の美学』のために
Before- & Afterimages: TANAKA Jun's Site Ph.D., Professor, The University of Tokyo. Before- & Afterimages of City, Architecture and Art このサイトは東京大学 大学院および教養学部における 表象文化論講義・ゼミナールで扱われたテーマに関係するさまざまな情報を提供するものです。 (田中 純) 最新情報はBlogへ! This site intends to give some additional information on topics, which we have discussed in the lectures and seminars at the University of Tokyo; Graduate School for Interdisc
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