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メタコミュニケーションのパラドクス (1) (『大阪樟蔭女子大学論集』第30号、1993年3月発行) 入江幸男 コミュニケーションを行うとき、それをうまくするために、コミュニケーション自体についてコミュニケーションを行うことは、我々が日常生活の中でもしばしば気づいていることである。このコミュニケーションについてのコミュニケーションを、メタコミュニケーションと呼ぶことがある。小論では、まずメタコミュニケーションとは何かを検討し、次にメタコミュニケーションに特有のパラドクスを分析して、最後にそれらのパラドクスがコミュニケーションの成立にとって重要な働きをしていることを指摘したい。 第1章 メタコミュニケーションとは何か。 第1節 メタコミュニケーションの広がりと重要性 我々がコミュニケーションを行うときには、コミュニケーションの進め方についての合意がなければうまくゆかないし、コミュニケ
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第41・42回臨床哲学研究会 第41回臨床哲学研究会 日時:2017年7月29日(土)10:30〜17:45 場所:大阪大学豊中キャンパス スチューデントコモンズ セミナー室B (http://www.celas.osaka-u.ac.jp/facilities/) 10:30-12:00 分科会ワークショップ『実践と研究の結び方・ほどき方』 分科会A「身体経験を記述する」:柴田登紀子・小泉朝未・菊竹智之 分科会B「事実の見つけ方:報道と学際の現場で」:増田弘治 分科会C「哲学カフェ・メタ哲学カフェ」:青木健太 12:00-13:00 ランチ懇親会(食べ物は各自ご持参ください) 個人発表 13:00-14:00「「共歩」×「臨床哲学」×「当事者研究」」:永浜明子 14:15-15:15「障害の包摂と排除の一考察:合理的配慮と権力との関係から」:村田観弥 15:30-16:30「加害⁻被害を
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ヘルムート・フェッター 浜渦 辰二(訳) 1、初期ハイデガーにおける「世界」と「存在」の関係への問い ハイデガーの最初の弟子の一人であるガダマーは一九八一年、ハイデガーにおける宗教的次元に関する論文のなかで次のように述べている。「フライブルクから学生達がやって来たすでに一九二〇/二一年当時、彼らはフッサールよりも多くハイデガーについて、しかも彼の極めて個性的で深遠かつ斬新な講義について報告していた。その頃ハイデガーは例えば『世界する〔=世界としてある〕(Es weltet)』といった用語を使っていた」(1) 。そのさいガダマーは、ハイデガーの講義『宗教現象学入門』を挙げている。しかし、この「世界する」という表現はすでに初期フライブルク時代の講義の一つ、一九一九年の戦時短縮学期に、戦争に参加していた学生のために特に行われた講義『哲学の理念と世界観の問題』のなかにも見出される。他方で、若きハイ
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開講スケジュールについてご紹介します。-江戸時代に開学した懐徳堂と記念会に関する様々な情報を掲載。歴史や活動内容、講座、グッズ紹介、こらむなど。
阪大中哲HP→懐徳堂と中国古典の世界→漢籍目録と分類の歴史 ここでは、「漢籍分類解説」をよりよく理解するための基礎知識として、漢籍の目録と分類の歴史について概説する。 漢籍は、通常の図書分類(日本十進分類)とは異なり、伝統的な独特の方法によって分類される。 その分類とは、漢籍を「経」「史」「子」「集」の四つに分かつ「四部分類」であり、それは、漢代の七(または六)分類を経て、六朝期に成立し、唐代に完成した。以後、漢籍は、中国・日本を問わず、この四部分類によるのが通常である。大阪大学附属図書館の漢籍、および懐徳堂文庫所収漢籍も、もちろんこの分類法によって配架されている。 なお、以下の内容は、全学共通教育科目「中国哲学基礎」(湯浅邦弘教授、平成12年度5月18日)の講義内容に対応している。 中国は、早熟な文字文化の国である。春秋戦国時代(前5世紀~前3世紀)には、多くの思想家が経世の理想を抱き、
擬似正規表現を拡張(2015/5/21) 例えば、検索文字列に「$てしま$う」を指定すれば 「~てしまう」「~でしまう」の全活用形を検索可能。 (詳しくは上の解説を参照] 収録作品を倍増(2014/12/1) (詳しくは上の解説を参照] 日本語KWIC索引生成 KWIC 日本語研究文献検索 BCCWJからの用例検索について
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2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」 入江幸男 大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」 §2 Quine「経験主義の二つのドグマ」(1951『論理学的観点から』1953) 引用;Quine, From a Logical Point of View, Harvard U. P., second edition, 1980 クワイン『論理学的観点から』飯田隆訳、勁草書房(以下の引用はこの頁数) ここでは、まずはクワインの「経験主義の二つのドグマ」の内容紹介し、その後その検討をおこなう。全体は、77段落、6節からなる。 ■冒頭の段落で論文の内容を要約している。 経験主義の二つのドグマと、その批判からの二つの帰結が示される。 「現代の経験主義empiricismは、は、二つのドグマによって大いに条件づけられてきた。その一つは、分析的なanalytic真
「指示と問答(2)」第三回講義 2001年10月30日 §番外編 「ボランティアに関する哲学的な問題」 (この文書は、ある出版予定原稿の後半部分の下書きなので、 出版た時点で撤去するかもしれません) 1 はじめに ボランティア活動の側から、哲学に解決を求める問題があるだろうか。あるいは、哲学の側から、ボランティアについて考えて見なければならない問題があるだろうか。 ボランティア活動の側から、哲学にその解決が求められている第一の問題は、「もし宗教に依拠するのでなけば、自分たちがやっているボランティア活動は何を思想的な基盤とすればよいのか」という問いであろう。 哲学の側からボランティアについて考えて見なければならない問題があるとすれば、ボランティア活動を社会の中にどのように位置づけるか、という社会哲学の問題になるだろう。それは、社会をどのように構想するかという問題でもある。この問題は、人間な
第1回 定例研究会 (2011 / 05 / 07) 報告者: 江川 温 フランス中世王権の神話的歴史的正統化 はじめに 中世盛期・末期ヨーロッパの王権、王国の中に存立する他の権力から隔絶した超越的権威を神話や歴史に基礎づけられた形で表現し主張 多くの諸侯権も相似した表現と主張。しかし、質的な区別。 こうした王の主張、被治者が部分的に受容、王の権威を別格のものと認める。 王の権威主張の歴史学的に分析する際の二つの視角 ①国内の支配構造との関連を考察する視角:王の権威主張はなぜ可能であり、それはなぜ国内で受容されるのか。 1950年代に堀米庸三、世良晃志郎、石母田正らが関与した中世国家論。 共通前提:封建的王権には、単に封建ピラミッドの頂点にあるというだけではなく、ゲルマン的、キリスト教的、ローマ的な伝統に基づく超越的な 性格がある。 堀米 封建制の外に超越的権威。 石母田、世良:領主権力の
(注記: これは、静岡大学人文学部『人文論集』第45号の1[1994年7月30日発行]に掲載されたものです。) 1、空間の形式性(1) カントの空間論(および時間論)(2) は、周知のように、一方におけるニュートン(およびオイラー)的な「絶対空間」説と、他方におけるライプニッツ的な「空間=関係(事物の秩序)」説という、両者の対立の狭間を縫って、それぞれの持つ難点を回避し、両者を綜合するものとして考え出されたものであった(3) 。カントによれば、ライプニッツ説では、空間は、「経験から抽象された、その分離において混乱して表象された諸現象の関係」(A40=B56f.) (4) に過ぎないこととなり、そこからは、ア・プリオリな判断としての数学の可能性を認めることができなくなる(ibid.) 。他方、ニュートン・オイラー説によれば、ア・プリオリな綜合判断としての数学の可能性は説明されうるが(A40=
博士前期課程を修了すると 本研究科前期課程を修了した人の多くは、博士論文の完成をめざして後期課程に進学しています。その後、専門研究者となって、各種研究機関で活躍する人も少なくありません。しかし、本研究科は専門研究者の養成だけをめざしているわけではありません。高度な専門知識を備えた社会人として活躍する人材を養成すること、それも本研究科の教育目標のひとつとなっています。 以下、本研究科博士前期課程を修了して社会で活躍している方々のメッセージを掲載します。現時点では必ずしも研究者をめざしているわけではないが、大学院で人文学の研究に取り組んでみたい。そのように希望する方にとって、何らかの参考になれば幸いです。 私が文学研究科を修了してから、2年半が経ちました。私は現在郷里に戻り、公務員として働いています。 私が社会人になって1番大変だった事は、学生時代に自分が学んでいた分野と全く異なる分野の仕事を
(注記: これは、『哲学年報』(九州大学文学部紀要)第49輯[1990年3月30日発行]に掲載されたものです。) はじめに 〈他者〉の問題(あるいは、フッサールがその問題の核心として考えていたもの)と「他人の心」の問題(あるいは、英米の哲学でしばしばそういう表題のもとに議論されているもの)とは、なんらかの平行関係があるとはいえ、どこかで微妙にズレているのではないか。―――これは、筆者がこの間、フッサールにおける他者と間主観性の問題を論じる(1) 一方で、英米の哲学の議論にもわずかながら眼を配って来た(2) 際、絶えず感じていたことである。フッサールは現象学的心理学と超越論的現象学の間には「或る奇妙な一貫した平行関係」があるとともに、或る「微妙な差異」があり、この「微妙な差異」こそ哲学にとって決定的だ、と語っていた(V.146ff.)(3) が、この両者の関係にも似て、〈他者〉の問題と「他人
(注記: これは、日本現象学会編『現象学年報』第10号[1995年1月30日発行]に掲載されたものです。ただし、活字になったものと一部異なる可能性がありますので、ご注意ください。) 現象学において、他者の問題は、汲み尽くせぬ泉のように、繰り返し様々な議論を誘発してきたテーマである。これまで現象学に大なり小なりコミットした哲学者のほとんどが、何らかの形でこの他者問題に首をつっこんでいるのは驚くばかりである。そういう事態をもたらしたのは何より、現象学の創始者であるフッサールが他者をまさに問題とみなし、早い時期から晩年に至るまでこれと取り組み続け、にもかかわらず、明確な解決を提出できたというわけではない、という事情であっただろう。フッサール現象学のなかにあるのは、他者問題への解答ではなく、それを求めて行われた様々な試行錯誤である。それ故にこそ、フッサール現象学から何かを学び取ろうとする者は、それ
(注記: これは、『哲学論文集』(九州大学哲学会編)第36輯[2000年9月25日発行]に掲載されたものです。) はじめに 哲学においては、古代ギリシア以来、或る意味では、対話にいつも重要な役割が与えられて来た。言うまでもなく、哲学(Philo-sophie)という語と同様、対話(Dia-log)という語もまた、古代ギリシア語に起源をもつ。ソクラテスの哲学の方法は、問答という対話であったし、プラトンの哲学の叙述形態は、その師の対話を再現することから始まる対話篇であった。一・二人称が中心となる対話形式に対して、アリストテレスの三人称を中心とした講義形式の叙述は、一見、対話とは縁遠いように見える。しかし、彼は人間を「ポリス的動物」と呼ぶかたわらで「ロゴスをもった動物」とも呼んでおり(1)、その行間を読もうとするとき、ロゴスを交わすことによってポリスを形成するという人間の姿が浮かび上がる。そこに
Started with anonymous FTP from: 1. April, 1995; Started with WWW from: 1. April, 1996; Last Updated: 21. January, 2003
レジュメの作り方 ☆新しいウィンドウが開きます☆ レジュメ作成例(書評用) レジュメ作成例(発表用) 参考文献の書き方 参考文献の書き方には、いろいろな方法がありますが、次に示すのはその一例です。 ☆新しいウィンドウが開きます☆ 参考文献の書き方 研究文献の書き方
「メチエ」は、経験によって培われた熟練の技を意味するが、専門性を捨てて現場に向かうとする臨床哲学の表現媒体に対し、なんとも逆説的なタイトルをつけたものだと我ながら思う。臨床哲学の最初の10年間において、この『メチエ』は、形式や伝統に囚われない自由な表現を追求する場であり続けた。未熟、未完成なものをそのままて??大学という場に位置しながらも、形式化や洗練化への誘惑に負けることなく、こうやって、『臨床哲学のメチエ』は復刊する。しかも、若い学部生や大学院生の手によって。未成熟であることを恥じず、古い課題も新しい挑戦も、どれも飽きずに繰り返し、さまざまな実践をさまざまな表現へと翻訳すること、それが私たちのメチエなのだ。 ~ メチエ vol.17 本間直樹 巻頭言より
プロジェクトの概要 外邦図研究プロジェクトについては、以下の文献(PDFファイル)において解説されています。 小林 茂(2006)「近代日本の地図作製と東アジア:外邦図研究の展望」E-journal GEO (日本地理学会)1(1)、52-66頁。(PDFファイル) Kobayashi, Shigeru (2012.3) 'Japanese mapping of Asia-Pacific areas, 1873-1945: An overview'. Cross-Currents: East Asian History and Culture Review, No. 2, 38p. (PDFファイル) ニュース 2017年2月に、小林茂編/岡田郷子・小林茂・小林基・鈴木涼子・波江彰彦・鳴海邦匡・藤山友治・山近久美子・山本健太・渡辺理絵著(2017.2)『近代日本の海外地理情報収集と初期外邦
精神病理学は「失敗した学問」なのか? ─渡辺哲夫『二十世紀精神病理学史序説』を読む─ 2002年4月17日 臨床と哲学の研究会にて 浜渦辰二 1.「失敗した学問」の元凶は〈歴史の不在〉にある? 昨年12月、渡辺哲夫『二十世紀精神病理学史序説』(西田書店、2001年)が出版された。「二十世紀精神病理学史」を語るこの本は、精神病理学を「失敗した学問」と呼ぶ章から始まる。16年前の著作『知覚の呪縛─病理学的考察』(西田書店、1986年)は、作家・田口ランディの「四十歳になって、本書『知覚の呪縛』と出会ったときの衝撃は、十五歳のときに〔セシュエー『分裂病の少女の手記』によって〕分裂病の存在を知ったときの衝撃の百倍もあった。メガトン級のショックを受けた」という賛辞によって今年2月に文庫本化(ちくま学芸文庫、2002年)されたが、「二十八年間にわたって精神病理学という研究領域に身を置き続けてきた」著者
(注記: これは、中部哲学会編『中部哲学会紀要』第29号[1997年3月25日発行]に掲載されたものです。) 1.フッサールの「新デカルト主義」 2.デカルト形而上学の閉鎖性 2-1.時間の排除 2-2.他者の排除 2-3.身体の排除 3.デカルト自然学の隠蔽性 4.「哲学の樹」は「大地」に根を張る 注 フッサールはデカルトから多くを学んだが、それはあくまで批判的に学んだのであって、デカルトから単に何かを借用したり継承したりするだけでよいとは考えていなかった。フッサールが唯一、過去の哲学者の名前を自らの著書に冠したのは『デカルト的省察』であるが、彼はそのなかで次のように述べている。「たとえデカルトの省察の動機をまさに徹底的に展開するために、かえってデカルト哲学の周知の学説内容をほとんどすべて放棄せざるをえなくなっているとしても、われわれは超越論的現象学を、一種の新デカルト主義(Neu-Ca
(注記: これは、静岡大学人文学部『人文論集』第44号の2[1994年1月31日発行]に掲載されたものです。ただし、活字になったものと一部異なる可能性がありますので、ご注意ください。) はじめに ではいったい空間とは何でしょうか。だれも私にたずねないとき、私は知っています。たずねられて説明しようと思うと、知らないのです。--- (1) 空間はさておき、時間について言えば、アリストテレスが『自然学』において展開した時間論とアウグスティヌスが『告白』において展開した時間論は、時間を論ずる際の根本的に対立する二つの考察方法として、しばしば対比的に考察されている。では、空間については、この両者においてどのように考えられているのだろうか。アリストテレスが『自然学』第四卷において時間を論ずるのに先立って、同じ第四卷の冒頭で(近代哲学流の言い方で言えば)空間論(2) を、しかも時間論とパラレルな仕方で(
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国際音声記号(The International Phonetic Alphabet) IPAが聞けるウェブサイト(抄) ★ Public IPA Chart (Department of Linguistics, University of Victoria) (とても明瞭な録音です。おすすめ。) ★ Peter Ladefoged 氏(1925-2006)による A Course in Phonetics (@カリフォルニア大学ロスアンジェルス校) http://hctv.humnet.ucla.edu/departments/linguistics/VowelsandConsonants/course/chapter1/chapter1.html (Ladefoged氏が亡くなった後も存続しています。合掌。) ★ Daniel Jones (1881-1967) の基本母
1.はじめの私 ひとつの私 私は、何によって成り立っているのだろうか。 何、簡単な事だ。私とは、手があって、足があって頭があって胸がある。 内部に目を向ければ、心臓やら肺やら脳やら肝臓がある。 私とはそういうものだ。と答えられるかもしれない。 確かに、私を構成している因子はそういった・・部品であるかもしれない。 しかし、部品は部品でしかない。 それが正しいならば、そういった部品がバラバラ殺人よろしく 分割されて配置されていても、私であるはずだ。 もし、それが・私だ。と胸をはっていえるならそれでよい。 しかし私には納得できない。 ある宗教家、あるいは科学者はこう答えるかもしれない。 私とは、肉体と精神であり、さらにその関係は不可分であると。 ならば問う。 私が、肉体と精神であり、かつ合一ならば、なぜ言葉の上とはいえ、 ・・肉体と・・精神とに分離しているのだと。 あるいは、こうも言えるだろう。
田野村忠温(たのむらただはる) 所属:大阪大学大学院文学研究科文化動態論専攻言語生態論コース (文学研究科文化表現論専攻・文学部の日本語学講座を兼任) 専門:言語学・日本語学 メール: 背景画像の解説を
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