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大学退官後、ふぬけとなり、論文はもちろん、マンガすらあまり読まなかった。物語の内に引込まれる娯楽小説ばかり読んでいた。そんなわけでマンガ売り場にもあまり行かずで、その結果、『ダンジョン飯』が14巻で完結していたことを今更知った。しかも完結編出たの2023年。2年前だぜ! 近所の書店に平台置きで全巻揃っていたのだ。あんなに大好きなマンガで楽しみにしていたのに、今まで全然気づかなかった。リハビリ必要かも。。どうやら9巻までしか読んでいなかったようだ。まず完結14巻を読み、次に10巻以降を買い込んで全部読んだ。最近ではこんなに面白い連載物はなくて、物語の構成もよくできていて、しかもユーモラスに描く余裕があり、基本的に大好きなタイプの作品である。九井諒子はなかなか力のある作家で、初期の短編もとてもいい。何と言っても魔界ものなのに、ひたすら魔物料理を食べまくるなんて話を一体他の誰が考えただろう。そし
みなもと太郎さんお別れ会で配布された小冊子『みなもと太郎 風雲児たち外伝』は、みなもとさんの文章のように書かれています。それ自体、素敵な文章で感動的です。が、最後の頁に「まんがのこと、歴史のこと、その他のこと、きっとこんな思いだったろうと、みなもとの絵をコラージュしてみました。お気軽に、読んでみていただければ幸いです。」と奥様の名前が書かれている。もし奥様が書かれたのだとすれば、大変な文章家で、かつすごく深くみなもと先生を理解されていたのだな、と思わず涙が。でも「ここまでやってこられたのも、ひとえにあわせにわたいれなどと、本人が申しておりました。」という、いかにもみなもと先生的なギャグには笑いました。素晴らしい小冊子です。亡くなられた後までも、ありがとうございます。
昨日は雨の中、中野サンプラザで「みなもと太郎お別れ会」。いつも人わさわさの中で会うみなもとさんにしては、さすがに来客も多くはなく、寂しい感じでしたが、久々に呉さんや小野さんにお会いできた。バロンさん、エミリさんにも、秋田のマンガ学会以来にお会いできた。そのうち最近は顔会わせられない人々が集まり、折角なので、お茶でもという話に。何しろみんななかなか一緒に会えない人たちなので、一度マンガ話が始まると止まらないですよね。おまけに呉さんはいる、とりみきさんもいる、菅谷さんもいる、ベルさんはいる、石田汗太さんはいるわ、宮本くんやエミリさんもいるで、そりゃもう大騒ぎ。ほんとに楽しかったです。15時に会場に行って、そのあと一階のイタトマに移動し、最終的には近所の店で5人で食事。10時過ぎにやっと解散しました。僕も原稿抱えてたんですけどもね。ナニやっとるんだ、まったく。
追悼 宮谷一彦 宮谷一彦さんが亡くなった。2022年6月28日。心よりご冥福をお祈りいたします。 お会いしたことはない。むしろ遠ざける心理があった。それだけ大きな存在で、厄介な存在でもあったということだろう。 2000年3月「BSマンガ夜話」で、たまたま刊行された宮谷『肉弾時代』を契機に放映することになった。僕はもう自分一人で一時間喋りまくる覚悟で準備を始めたが、どう考えても彼の果たしたことを『肉弾時代』だけで語り切れないと思い、スタッフを通じて宮谷さんにお伺いを立てた。「自分の持っている単行本にもなっていないスクラップの作品も含めて、『肉弾時代』以外の作品も触れたいが、お許し願えないか」と。直後、宮谷さんから直接FAXをいただき、「そのほうがありがたい。君とはいずれこうした形で出会えると思っていた」とあった。じつは、大学生の頃僕は宮谷さんに手紙を出しており、その中で彼の作風が変化したこと
第一部「原画に託す」 倉田よしみ、竹宮恵子、バロン吉元、エ☆ミリー吉元、伊藤剛 第二部「原画を託す」 大石卓、ヤマダトモコ、イトウユウ、岡本正史、表智之 例によってバロンさんの暴走ぶりと、見事な親子漫才でそれを制したエ☆ミリー吉元さん(バロンさんのマネジメント)が面白かった。竹宮恵子さんが返ってきた原画から編集部のつけた指定の薄紙をはがし、作家にとっての「純粋な原画」に近づけようとする発言をなさったのに対し、むしろ指定の文字があったり、傷があったり、あるいは編集部の原画を入れた紙袋に複数の作家名が次々消されているような情報が面白いし、そういうのこそ展示したいといわれていて、非常に興味深かった。アーカイブスでいえば、まさにそういう情報に多重的な資料性がある。 「原画を託す」では、集英社漫画アートヘリテージプロデューサーの岡本正史さんの、作家と出版の間にある活版や写植、文字情報のローカルルール
小学館から、いしかわじゅん、江口寿史、呉智英、中野晴行、村上知彦、山上たつひこを選者にした「日本短編漫画傑作集」刊行。が、ツイッターで「少女漫画がない」と指摘され「少年青年漫画篇」とタイトルに付けて3巻まで刊行した。検索してみたが、誰がどの巻の選者なのか、今のところ僕には分からない。各巻別選者ではなく、まさか合議とかで全員が全巻を監修した? ツイッターには初出表示がないとも書かれてたようだが、それが本当ならこの手の企画で資料性がないのは痛い。
少し前になりますが、田村さんとお会いして、学習院の講義でトークをしてもらいました。そのとき田村さんが、フランスの大手出版から原案者、脚本つきのマンガ化を依頼され、その作業工程で山ほどストレスを抱えている話を伺いました。彼はまずフランス側出版社の編集者に「ネーム」を送ってほしいと頼んだそうです。 しかし、マンガ編集者とネームを介して相談し、内容を決定するのは、日本独特の作法だと思われます(「ネーム」という工程を言説化して一般化した責任の一端は僕にもあるかも)。ジャンプ出身の田村さんにはそれが当たり前でしょうが、世界的には通じない可能性が高い。むろんラフを介在させるシステムは、ジャンルや出版社などによってありえます。分業で別人がやる場合もあるでしょうし、原作者とラフを介して相談する場合もありえますが、編集者が強い権限をもってラフの段階から内容に介入するのは日本ぐらいだろうと思います(むろん例外
訃報が続きます。長谷邦夫さんが亡くなりました。フェイスブックでご長男・長谷洋之氏がご報告されています。ご冥福をお祈りします。 2018年11月25日、うっ血性心不全のためご逝去。81歳。 いい方でした。安らかに。
ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』(小学館)1巻。帯「戦国大名の先駆け、北条早雲の物語」。 しかし、始まるのは、伊勢千代丸(のち新九郎」という少年が、複雑怪奇な室町幕府の政治とクーデターの渦中で翻弄される物語。彼は幕府の権力中枢に成り上がって喰いこんだ伊勢氏の若者だが、今まさに「戦国時代」が始まる契機となったとされる応仁の乱が始まる瞬間なのであった。 新書で最近ベストセラーになった応仁の乱だが、とてもじゃないが人の動き、関係、変化が尋常ではなく、一体何事がおきたのか、いくら本を読んでもわからん、という難物。そんな印象があるので、僕もじつはあ読んでいないのだが、そういう複雑怪奇奇奇怪怪な歴史を、新九郎の経緯を追うことっで描こうとしているようなのだ。ときおり、かなりシビアに歴史解説が入るが、正直、登場人物の名前がすでにおぼえられない。 ちなみに、北条早雲は一介の浪人が下剋上で戦国大名に成り上がった
二松学舎シンポジウム「誰が漱石を蘇らせる権利をもつのか? 偉人アンドロイド基本原則を考える」(2018年8月26日)について 漱石の偶像化には賛成できない 夏目房之介 シンポジウム当日はまず平田オリザ氏作・演出の「アンドロイド演劇」『手紙』(女優の正岡子規とアンドロイドの漱石がロンドン滞在中の手紙についてやりとりする二人(?)劇)が上演され、その後アンドロイド製作者・石黒浩氏、二松学舎の山口直孝氏、島田泰子氏、谷島貫太氏のほか、福井健策氏(弁護士、著作権など)が発表し、最後に私も参加して討議を行った。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180827/k10011595211000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_001 2018年8月27日 NHK NEWS WEB「偉人のアンドロイド 「人格権」が課
自主ゼミで『読み方』についての発表があった。事前に『読み方』の制作資料をひっぱり出して研究室に並べた。 宝島社から依頼があったとき、たしか『描き方』のような依頼だった気がするが、そうじゃなくて『読み方』にしよう、表現論の共時的な展開をやろうと提案し、ついては竹熊、小形の協力をあおぎ、定期的に研究会を開いて議論を積み重ねて作ることにした。 ほぼ1年半にわたり、毎月一回、土曜日の午後一杯かけて編集者二人、僕と竹熊、そのほか僕の講演などにきてくれていた知り合いの学生や当時サラリーマンだった斎藤宣彦などが、随時集まってテーマごとに発表・議論した。むろん一銭にもならないので、多少の原稿料では単体では全然合わない仕事だった。これがきっかけできた仕事(たぶんNHKの人間口講座なんかもそうかな)も含めれば黒字ですが。 最初はまずのちに『手塚治虫の冒険』にまとまる講義のおこしをもとに戦後マンガ史年表を作りつ
みなさま 今年は、『マンガの読み方』(宝島社 1995年)の制作主要メンバーを集め、シンポジウムを開きます。 ご参加、拡散など、ご協力お願いします。 夏目 2017年学習院身体表象文化学専攻 マンガ研究フォーラム マンガ批評/研究の転換期 1995年『マンガの読み方』の成立過程とその時代 2017年11月25日(土) 13:30~17:00 会場 学習院大学文学部 西2号館501号室 西5号館B1F 参加無料 (会場が変更になりましたので、チラシ画像も変更しました) 13:35~14:35 60分 第一部 報告 『漫画の読み方』と「マンガ表現論」の成立過程 野田謙介 & 三輪健太朗 14:40~17:00 140分 第二部14:40~16:20 100分 座談会 『マンガの読み方』の舞台裏 竹熊健太郎 小形克宏 斎藤宣彦 近藤隆史 司会・夏目房之介 休憩 10分 第三部16:30~17:
細馬宏通『二つの「この世界の片隅に」 マンガ、アニメーションの声と動作』(青土社) いやあ、脱帽っす。これほど、精緻にして直感を研ぎ澄ませた表現分析は、めったに見られない。呉に縁のある細馬さんの作品への「愛」の深さが感じられます。微妙な声や音楽、動作や小物の意味、それらを注視する研究者の業のようなものが、ぴたりとマンガとアニメを巡る往還に注がれ、これまた見事な文章で書きつくす。 とりわけ、「まつげ」と題されたエッセイである。まつげの向きと眼玉の関係を分析し、ついに「未来志向」と「過去志向」を見出すアクロバティックな分析は、僕などはゾクゾクしてしまう。たしかに、人によってはその「危なっかしさ」に二の足を踏むだろうが、そこがまた面白さになっている。論文というよりエッセイというべき文章だろうが、むちゃくちゃ面白いので、いいのではないだろうか。いや、別にいいか悪いかはどうでもいいか。 マンガを雑誌
「日本マンガ学会」のスポーツマンガ特集で扱ったサッカーマンガですが、日本のサッカー練習の世界との違いを扱っていて、それが非常に面白い。たとえば、日本のサッカー選手の体形は、もも前を使った低重心の走りや構えでできていてごつごつした感じだが、なぜ海外選手はもっとしゅっとしていて、軽々と動いて見えるのか。日本人はもも前を使っているからだ、という。もも前の筋肉は止まるために使うことが多く、自然に前に出るためにはもも裏の筋肉を使う。また、いわゆるインナーマッスルで重心を安定させて動けば、当たっても強く、目線を高くできる。高い重心で素早く動ける。日本型だと力強くみえるし練習してるようにもみえるが、反応が遅く動きに対応できない。何よりも、広い空間を認識する広い認識ができず、狭いフォーカスした視野になってしまう。もちろん、それがふつうの世界でやっていれば、それなりに通用するので気づかない、というような、運
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2016special2/ よくある手塚物番組の中では、いくつかの違う角度からの、それなりに突っ込んだ作品論を語る番組になってはいたと思う。僕も取材Vで出演しているので、録画で観た。 例によって、ディレクターが作った脚本の文脈にそって、何時間も話させたうちから、彼の脚本に必要な部分だけを切り取って放映されていた。別に文句をいいたいわけではなく、テレビのこういった取材Vはたいていそのように作られているので、こんなものなのである。こちらも、事前に向こうのほしいポイントは伝えられていて、それを承知で仕事として引き受けている。僕の本をいろいろ読んでいる人なら、テレビで使われた部分が、どんな全体の文脈で語られるべきかはわかってもらっていると思っているので、まあそれはそれでいいのだ。 ただ、なまじにVで出演してしまったので、
本日、漱石アンドロイドの本体が一応の完成をみて、二松学舎で確認作業がありました。声は出ませんでしたが、手や姿勢、表情は動きました。 初めてみたときは、なんだかえらく小さくみえて、顔は僕らの中にある千円札的な漱石イメージより細い感じがしました。上からの光線で影ができてたせいもあるし、そもそも一般的なイメージがややふっくらとした顔(当時の写真の修正度合も関係する)であるのと比べると、やや違和感はあります。 おそらく、動いてしゃべるさまを見ているうちに「慣れ」が生じて、次第に受け入れられていくんでしょうが(もっとも、その声の元は僕なわけですが)、その過程自体が人間の「人格」イメージ成立にとって興味深い現象になるんだろうと思います。
ジャカルタでいただいた隔月マンガ雑誌「少年ファイト」。じつは日本でマンガ編集をやっていた方が起こしたインドネシアローカルマンガの雑誌だそうです。まだ書店ではみかけず、ほとんどネットで購入するんだそうです。ここの編集者をしているインドネシア人の弟さんにお会いしたんですが、彼によると昨年シンガポールのマンガイベントに参加して、英語版の同誌を作って60%売れたのだとか。面白い試みで、がんばってほしいとろこです。インドネシアでは、他にも新人作家集団が作る独立系の雑誌とかが出ていて、グラメディアのエレックス社では、そうした雑誌などから新人を見つけるのだといってました。
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160515 さっきまでやってた。いやあ、じつに面白かった。 最近あった韓国の囲碁チャンピオンと人工知能のたたかい(4勝1敗で人工知能の勝ち)を縦軸に、ディ-プラーニングという、自ら学びながら「創意」と「直感」を再現してゆく人工知能、さらにそこに「感情」パターンを再現させ、「倫理」的な判断もできるようにする試みなどを、羽生がロンドンや日本で開発者を訪ねて紹介。さらに、国家=都市全体を人工知能で管理しようとするシンガポールの現在なども紹介。日本のソフトバンクでは、感情で勝手に動くペッパーを開発していて、羽生と花札勝負をする。まず取材カメラに驚き、不快な感情になり、羽生に負け続けて落ち込み、画面上には「怒り」「不安」などの項目の領域が発色するスクリーンが映る。が、最終的には、羽生が勝つ
役者はいい。オダギリジョー、松重豊、荒川良々、安田顕、生瀬勝久、小日向文世、ムロツヨシと回りを固め、主人公は黒木華(くろきはな、だと思ってたら、ハルなのね)。
本日は、青山葬儀場に「水木しげるサンお別れ会に行ってきました。一応、ご招待をいただき、第一部の関係者のみの会に参加し、献花してきました。献花後の懇談会では、荒俣宏さん、南伸坊さん、永井豪さん、松田哲夫さんなどに久しぶりにお会いしました。もちろん呉智英さんにも。でも、何よりもつげ義春さんがこられたところで、そこに池上遼一さんがかけよってこられ「懐かしいなあ」と握手された現場にいあわせられたこと。その後並んで座ってお話しされている横に座らせてただき、少しお話しできたのは、感動ものでした。もっとも話の内容は、つげさんが先日の雪で転ばれて肋骨を折られた話とか、病気話でしたが(笑)。でも、このお二人と同じ場所にいられただけで、マンガ好きには「思い出」です。荒俣さんとお話しできたのも、本当に久しぶりで、水木先生のお導きです。 また、せっかくの機会なので、うちの専攻でつい先日「劇画的絵柄の誕生 貸本漫画
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6182543 水木さんが逝かれた。 デスクワークしていたら立て続けにマスコミからコメント依頼がきて知った。 貸本時代にはほとんど知らず(「忍法秘話」では見ていたはず)、「ガロ」で作家として認識し、すっとぼけた中に尋常ならざるニヒリズムというか、索漠たる気配の漂う短編群が大好きだった。後年、捕虜生活中に描いた絵の、時間が止まった「死」の気配に、それが戦争体験とつながっているのを知った。いわゆる妖怪は、おそらくその「死」=「異界」からやってくる。そのはざまに立つのが、ねずみ男だったろう。 マンガ論を手塚を軸に始めたとき、手塚を相対化する存在のひとつが梶原一騎とならんで水木さんだったし、とにかく水木マンガのあの世界が好きだった。でも、インタビューでご本人にお会いして、いきなりその人を食った存在にやられ、「水木マンガも面白いけど、ご本
3月7日(土)、小野耕世さんのメディア芸術祭功労賞受賞を祝って、日比谷図書館ライブラリー・カフェで祝賀パーティが、講演に続いて行われました。写真は、そこで配られた小野さんクッキーと、寄せ書きノート。ノートには、小野さんが翻訳された作品の一コマが色々と載っていて、その隣にサインとをするようになってます。 小野さんは、ご存知のように長いあいださまざまなマンガを紹介してこられ、印口崇氏や小田切博氏に影響を与え、海外マンガの紹介、翻訳、向こうの事情紹介を、その広範な交友関係から行い、日本マンガについても「マンガ奇想天外」などに「スピード太郎」や松下井知夫など、あまり触れられない作品、作家を紹介し、とてつもなく幅広い活躍をされてきました。昔、僕の本の紹介もしていただいて、ずいぶん嬉しかった記憶があります。小田切さんが以前から主張するように、もっと評価されてしかるべき方なんですが、ようやくこうした賞を
http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/ 本日、午後1時からえんえん6時半過ぎまで行われた宮本大人氏の長大講義。案の定、膨大で密度の高い問題提起に満ちた講義でありました。 早稲田大学総合人文科学研究センター研究部門「イメージ文化史」主催ワークショップ「マンガ、あるいは「見る」ことの近代」第3回(長い)として行われた宮本大人「速度と重力、名前と音声ー大正末から昭和戦前・戦中期の子供向け物語漫画におけるキャラと空間ー」(だから長い!)。いつもながら勉強になります。刺激的な観点が山ほど提出され、語り口も面白いので、飽きませんが、いかんせんほっとけば24時間でも話し続けられる人なだけに、質疑はなかなか時間を取れなかったのがやや難。これでも、夕べ準備で20分しか寝てないというのだから、まだ若いです。 三輪健太朗の議論をふまえてマンガやアニメの重力、飛行、身体、それを支える空間
http://www4.nhk.or.jp/P3310/ 面白かった。浦沢が仕掛けたらしい企画で、漫画家の下書きからペン入れまでをカメラで記録し、それを漫画家が観ながら語り合うという、僕にとっては願ってもないドキュメント。登場するのは、浦沢本人のほか、かわぐちかいじ、山下和美。この比較がまた面白い。 すでにすべての画面が頭の中で完成していて、いきなり登場人物の眉から描き始める浦沢に対し、頭部の輪郭からペンを入れ、しっかりと人物の輪郭を固めてから顔の各部に入り、眼を後から入れるかわぐち。 もっとも驚くのは山下で、ネームでいい線が出ているのに、ペン入れの段階で何時間も悩み、しまいにペンではなく初めてだという和紙に墨でいきなりボカシを効かせた絵を描き始め、ついにはそれを断ち切りの1ページ絵にすることを決め、前のコマ構成を変えてしまう。まるでペン入れもまだネーム中のような描き方。山下の場合、すでに
今年の「現代学入門」のテーマは「個人と国家」でした。無茶ぶり気味のテーマですが、僕の担当分レジュメです。 2014.10.23 現代学入門⑦ マンガにおける個人と国家 ①国家表象と個人 夏目房之介 ○神様の表象 →キリスト教系 元ユダヤ教=ユダヤ民族と契約する神 一定の地域住民・文化の表象 古代ギリシャ アテネ=女神=都市国家の表象 :都市国家を「個人」が表象 ある地域集団の共同「信仰」=神(多くの場合、人間ないし人間化された動物):「擬人化」 神~国家の歴史 神(共同体の信仰)→王(国家の首長)→近代国家(市民社会と政治統治機構の分離) ○国家(state)とは? 政府・官僚組織・行政組織・警察・裁判所など統治システム 近代国家の理念上、民族(nation)、人民・市民・国民(peaple)、社会が合意の上で契約する政治的な統治機構を「国家」という(近代代議制) = 一種のフィクショ
成蹊大で連続講義の一回を担当しました。以下はレジュメです。 2014.11.3成蹊大学 武蔵野市寄付講座 昭和サブカルチャー史 漫画というメディアと昭和 夏目房之介 前提として 大正時代を通じて日本は、第一次大戦を契機に重工業化が飛躍的に進み、貿易収支も黒字に転じた。関東大震災後、出版文化が飛躍的に拡大。昭和に入ると映画が歌舞伎などにかわって浸透し、トーキー化によって庶民娯楽の中心を占める。出版では、講談社「キング」(1925(大14)年創刊)百万部をはじめ大部数の大衆雑誌が出現し、改造社「現代日本文学全集」(1926(昭1)年)から「円本ブーム」が始まる。明治末に雑誌取次が寡占化し、鉄道の90%以上が国有化、流通インフラ整備を背景に、出版市場は大衆化した。 都市給与生活者を中心に中産階級が充実し、都市「遊民」的な感覚の文化が花開く。ロシア革命の影響で、大正末~昭和初期「マルクスボーイ」
早稲田EXの7回連続講義も、次の土曜で最終回となりました。最終回は、これまでの夏目、岩下朋世、野田謙介、三輪健太朗の講義を受け、質疑と討議を行う予定です。 初回の夏目講義のレジュメを公開します。 2014.7.12 早稲田大学EX中野校 連続講義「手塚治虫の世界 -手塚治虫とマンガ論研究-」 第一回「手塚治虫をめぐる現在の課題」夏目房之介 1)「マンガの神様・手塚治虫」像の社会的浸透=手塚の「死」 1989(平成元)年2月9日 手塚没(1928(昭和3)年11月大阪生 亨年60歳)【注01】 2月10日付朝日新聞訃報「手塚治虫さん死去」〈『鉄腕アトム』『火の鳥』など日本のストーリー漫画とテレビアニメーションの創始者である漫画家、手塚治虫(てずか[ママ]・おさむ、本名治)氏〉下線引用者以下同 【図1】 〈多くの漫画家に影響を与えたことや、斬新な手法や、テーマの開拓・・・・そのことの根拠はさま
出ました! 「アメリカン・コミック・ストリップの最初にして最高の傑作」ウィンザー・マッケイ『夢の国のリトル・ニモ』「完全収録」の『1905-1914リトル・ニモ』448ページ!(小野耕世・訳、解説 小学館集英社プロダクション) すごい! まだ読み始めたばかりだけど、素晴らしい! もともと新聞日曜多色版の大型紙面なので、縮小してはいるが、これが単行本としてはぎりぎりの大きさだろう。小学館集英社プロダクションの快挙である。これで6000円は、はっきりいって安い! 色彩もいいし、読みやすい。これまでも翻訳はあったが、これが最高といっていいだろう。いやあ、満喫。ニモのかたき役で登場したフリップといたずら好きのジャングル小僧が最高にかわいい! 見よ、この波の表現の素晴らしさ。 見よ、この象の迫力! 見よ、この色彩構成! 「日本のマンガが世界一」などと無意識に信じ込んでいる人は、20世紀初めの米国で描
『マンガを「見る」という体験 フレーム、キャラクター、モダン・アート』(水声社 2014.7.20刊 2800円+税)を読み始めた。まだようやく半分しか読んでいないのだが、非常に刺激的で面白い。この本は、2013年後半期に早稲田大学戸山キャンパスで三回にわたって行われた「マンガ的視覚体験をめぐってーーフレーム、フィギュール、シュルレアリスムーー」というワークショップでの発表をもとに各発表者によって書き下ろされた論文集である。僕も一度見に行ったのだが、言葉の共有、問題意識の擦り合わせというのは、美術とマンガの間でもなかなかに難しいものだな、という印象をもってしまった。いや、もっと率直にいえば幻惑的な言葉遣いに辟易しさえした。しかし、この本でまとめられた論文を読むと、マンガ表現論が招来するはずだったろう原理的な問題が真摯に語られていて、まことに興奮させられた。 まず鈴木雅雄「瞬間は存在しないー
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