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こんな記事が話題になっている。 自民の首相経験者に頼めず…ポーランド国葬に江田議長(朝日新聞)政府は16日、政府専用機の墜落事故で亡くなったポーランドのカチンスキ大統領の国葬に、江田五月参院議長を代表として送ることを決めた。外国首脳の葬儀には、首相経験者らを送るのが通例だが、「自民党の人に頼むわけにもいかない」(首相周辺)。政権交代の余波に悩んだ末の前例のない人選となった。 (中略)衆参両院の広報課によると、議長が外国首脳の葬儀に参列した例はないという。 ポイントは「前例のない人選」「議長が外国首脳の葬儀に参列した例はない」というところ。ここを根拠に現政権の非礼さ・国際的な常識の欠如を言い立てる人々がネット上に盛大に湧いて出て来ている。というわけで僕なりにこの記事を検証してみることにする。 まず第一に今回のように「外国の元首が任期中に亡くなり葬儀が行われる」というのがかなりのレアケース
天皇と中国政府の要人の会見の設定について各紙「天皇は政治的に中立であるべき」・「政治に巻き込むな」と猛反発をしている。それじゃ、天皇の政治利用の最たるものだった1992年の訪中時の社説を幾つか拾ってみよう。まずは読売新聞の社説。もちろん、天皇の政治的利用は憲法上も許されない。政治的権能のない象徴天皇の外国公式訪問は、国事行為に準じる公的行為として内閣の責任で行うべきものだが、国家間の“儀礼”と思ってよい。訪中も個々の政治問題を超越した友好親善訪問とすべきだ。結果として、日中の国民感情に一つの区切りがつき、アジアの安定につながるのは、望ましいことでこそあれ、政治利用ではない。招請に応じないことで日中関係を後退させてはなるまい。訪中での「お言葉」については、わが国は日中共同声明で「中国国民に重大な損害を与えた」責任を反省していることだし、国民感情を踏まえたお気持ちと平和な世界への願望を表明され
非常に興味深いEntryのご紹介。 〈酒井法子報道〉から考えるメディアの使命(1) この一連の裁判劇の発端となった職務質問について考えてみよう。8月2日の夜10時半頃、東京渋谷の繁華街を歩く高相祐一被告にうしろから駆け寄った警察官3人が声をかけたことが、今回の一連の覚せい剤逮捕劇の発端である。しかし、この職務質問から現行犯逮捕に至る場面で、大きな、そして素朴な疑問は無いだろうか。すなわち、渋谷の繁華街で、夜10時半ぐらいに歩く男性(高相被告)に、どうやって警察官3名は「当たり」をつけて職務質問をしたのか――という疑問である。…(中略)…実際には高相被告は、ズボンの下に用心深く覚せい剤の包み(0.817グラム)を隠し持っていたのであって、いくらワインのソムリエ級の嗅覚でも、繁華街の中をわずか1グラムに満たない粉末を誰かが隠し持っているのをかぎ分けることは到底無理だろう。もう一つの疑問は、単な
「裁判員制度」の広報サイトを見てみた。 「裁判員制度の導入理由」の部分は特に非常に興味深い。そこではその理由をこう述べている。 刑事裁判は近寄りがたいという印象を与えてきた 国民の司法への理解を深める 今までの刑事裁判に問題があったわけではない。それは単に「近寄りがたかった」だけで、「国民の理解が不足」なだけなのだ。要するにこのサイトでは裁判員制度とは。 「おまえたちもやってみればおれたちのやっていること(の正しさ)が分かるよ」 という代物だと主張しているわけだ。ちなみに刑法学者の中山研一教授も法務省も最高裁も、現在の「裁判官裁判」とそれを支える検察と警察の捜査活動を基本的に妥当なものであると評価した上で、これに市民が参加することで刑事司法に対する国民の信頼が得られるというのみで、現状への自己批判が全く見られないところにあります。最高裁は最初から「陪審制」には批判的であり、法務省も「
「時効殺人」賠償が確定=除斥期間適用せず-26年後自首の加害男に・最高裁のコメント欄に蔓延する殺人を犯した男への溢れんばかりの憎悪の「巨塊」は壮観ですらある。 曰く賠償以上に、一生苦しめてほしい殺人犯に魂の安息など与えてはならないはず時効で捜査が終了しても罪は消えない仕組みになればいいのに時効によって警察に追われなくなったからといってこいつの罪が消えたわけじゃないもちろん人の命はお金ではかえられないけど、遺族は生きていることに望みをつないで30年間、苦しみ続けたことを思うと安すぎるよなこの男以前テレビに顔を隠して出てきたのを見たけどその時も反省の言葉は出なかったな。人を殺して何が上告だ。賠償責任は当然の事だetc. 殺害されてから26年も経ってから「謝罪と賠償を!」と息巻く遺族に対して同情的なコメントが圧倒的多数なのがなんとも実に皮肉である。特に先の戦争で被害にあった人たちが民事訴訟を起こ
せっかくpavlushaさんに言及をして頂いたので前回のEntryについてもう少し続きを書いてみたい。 イラクで殺害された香田証生さんについて今一度考えてみる(僕はかつて彼についてEntryを書いたことがある)。彼は「単なる旅行者」だった(おそらく犯行グループにもそう主張したことだろう)。ところで、彼について言及した人たちはどうそれについてどう考えたのだろうか?ある人たちは「自分探しの旅にあんな危険なところに行くなんて愚かだ」と非難した。けれどもなぜそのような批判が成り立つのだろうか? ―日本はアメリカの肩を持ってイラクに軍隊を派遣している。とすればアメリカに反感をもつ人たちにとって見れば彼はイラクを攻撃する敵国の人間である。敵国の人間が無防備に戦地をうろつけば「ただの旅行者などと主張」しても通用するはずがない。本人が本気で「ただの旅行」という認識であったのならばただの愚か者である(また「
ここに一組の夫婦がいる。彼らは浮気をしてもいいということを暗黙の内に認め合っている。もしいきなり夫が、進行中の浮気について赤裸々に告白したら、当然ながら妻はパニックに陥るだろう。「もしただの浮気だったら、どうしてわざわざ私に話すの?ただの浮気じゃないんでしょ?」何かについて公に報告するという行為は、中立的ではありえない。(…中略…)秘密の情事についてたんに何も話さないことと、それについて何も話さないと公言することとの間には大きな違いがある(「いいかい、ぼくには人間関係すべてを洗いざらい君に話さない権利がある。ぼくの人生には、きみにはまったく関係のない部分があるんだから」)。後者の場合、暗黙の約束が明るみに出たとき、かならずやこの宣言そのものが更なる攻撃的なメッセージを発することになる。 学問の世界で、同僚の話がつまらなかったり退屈だったりしたときの、礼儀正しい反応の仕方は「面白かった」と言
田中秀臣先生のこのEntryは非常に興味深い。 僕はいまの景気の減速がかなり深刻だと思っている。これはあとで追加して書くが、日本銀行とFRBの政策の違いの究極的な理由にもなるのだが、日本の政府は事実上、日本銀行との政策協調に失敗している。もちろん当事者は失敗しているとは絶対に認めないだろう。しかし景気減速(しかも多くの政府関係者はお馴染みのレトリック「100年に一度」を使っているので相当深刻な意識をもっているのだろう。まあ、ただいってるだけ、という可能性もある)に対して、政府と日本銀行は協調しては本当に何もしていない。 例えば現状で、日本政府と日本銀行が政策について直接議論ができる場は、経済財政諮問会議しかない。久しぶりにこの会議の要旨をさきほどみて愕然とした。まったく日本銀行の取り組みについて言及はないのだ。メインテーマは毎回、財政再建だけ! 「100年に一度」の不況がメインテーマになる
これまでに一度でもコメントされたことがある方は御存知かと思いますが、当Blogではコメントの投稿ボタンを押すと「コメントを受け付けました」と「保留」の画面に切り替わり、さらに同画面上に「当サイトのコメントマナーについて」とコメントの公開基準が示されることになっています。今まではコメントを頂くこと自体少なかったですし、コメントを頂く方はたいてい僕も知っている方でしたので、この方式であまり気にしませんでしたが、リンクを通じて訪問し、勢いに任せてコメントを書いたはいいもののその後「保留画面」を見て愕然とする、という方もいらっしゃると思われますので、事前にもお知らせすることにしました。【当サイトのコメントマナーについて】 (1)明らかに嘘のメールアドレス、「長文のコピー&ペースト」を含むものについては「対話の意思なし」と判断し、削除します。ちなみにメールアドレスは管理人のみに見える設定になってい
インターネット上では「趣味・嗜好に少しでも支出する人間はその時点で支援を受ける資格がない」ということになっているらしい。 「派遣村 タバコ」・「派遣村・煙草」・「派遣村・酒」(Google ブログ検索より) さておそらくこの不況は、派遣社員のみならず、早晩正社員のクビきりという事態を生じさせるだろう。気をつけた方がいい。まさかとは思うが、いまあなたは煙草はもちろんのこと晩酌さえも当然控えていることだろう。そんなことをしていたら困った時に助けられる資格を失ってしまうのだから。 煙草や酒に費やす金と時間があったらいくらでも資格を取ることも住居を見つけることも貯金することも出来るらしい。ちなみに日本人が平均で吸うタバコの本数は約7本/日なので(派遣村の人がその平均だとして)それで節約できるお金は約100円/日。3000円/月である。…なるほど。 …議論を進めよう。まさかあなたは普段晩御飯に肉や刺
このEntryを御覧になる方は是非、以下もあわせて読んで頂きたい。 「被害者の人権」は普遍的か? 今朝のみのもんたの番組での下村健一のレポートのテーマは「被害者参加制度」だった。市井の人間が参加することになる裁判員制度が始まろうとする中で、さらに被害者遺族が当事者として加わるということの意味について問題提起するものだった。果たしてそこには某市で起きた母子殺害事件で有名になった被害者遺族のコメントが寄せられていた。その彼いわく「被害者が裁判に参加するのは当然」・「そもそも被害者を理解せずに刑を科すことなど出来る訳がない」。 彼は「裁判への被害者参加」が被害者にとって待ち望まれたものであって、被害者の癒しに繋がるものであることを露ほども疑っていないように見える。だが本当にそうだろうか?というわけでここでは、彼の理想とするような司法制度がどのような帰結を齎しうるのかを考えてみたい(従って実際の「
でも、イモも大事だよ。イモこそが、ここで擁護される権利そのもの 日本国憲法が体現するリベラルデモクラシーとはまず第一に「個人が尊重される」ことを基底とする。ところで尊重されるべき個人とはなんだろうか?言い換えれば「どういう個人」を尊重すべきなのだろうか?ざっくりと答えを言ってしまえば「そのような内実規定はない」ということになるだろう。 僕もあなたもそれぞれお互いに容易には理解されない嗜好・価値観を持ちそれに耽溺している。そしてそれは基本的にはどこまでも肯定されるべきだ。「親から受継いだ農地を守りたいという気持ち」、「みんなで楽しく芋掘りをしたい気持ち」全て、まず第一に考慮されなければならない大切な権利である。それを「取るに足らない」と切り捨てる社会は、結局「僕もあなたも取るに足らない」とすることに躊躇いを持たないだろう。 mojimojiさんが紹介されている「いしけりあそび」の2つのEnt
「文化庁のメディア芸術100選」のアニメーション部門・自由記入欄得票数第1位に選ばれたという同作品。話題にしている人も多い作品なので観てみた。 ライトノベルの谷川流原作「涼宮ハルヒシリーズ」のアニメ化なので、あらすじを知りたい人はwikipediaの「涼宮ハルヒシリーズ」を見てもらえばいいと思う。さて僕がこの作品を見て想起したのは「マンガ・嫌韓流」に関して東浩紀が語ったことだった。 手元に「論座」が見つからなかったのでとりあえずネット上から該当部分を拾って抜粋してみる。 …『マンガ嫌韓流』を一読して印象に残ったのは、表面の熱気とは裏腹の、冷笑的な空気である。…公平を期すために言えば、そこには説得力のある議論もある。しかし、それらの議論は、日韓関係の改善に繋がる積極的な提案に結びつくわけではない。結局残るのは、「歴史問題にしても竹島にしても、韓国人はどうしてこう話がわからないんだ、まあバカだ
某高裁での某事件に対する判決に関して、現時点で僕が得られた情報の範囲内での感想。 判決直後に接見した弁護士の「会見で伝えたいことはあるか」との問に被告人は「自分にとっての真実を述べた」と答えたという。 「真実」ではなく「自分にとっての真実」という謙抑的な言葉を彼が選んだという点にあえて注目してみたい(それは「真実を語れ」と彼に迫った側の方が、ややもすればその謙抑性を無自覚に踏み超えていたのとは対照的であった)。そもそも「真実」など本当は誰にも、本人にすらも分からないのではないだろうか。仮に今過去へ戻ることの出来る装置・或いは過去に生じた出来事を忠実に再現する装置が発明されたとしよう。しかしあらゆる出来事には複数の記述が存在する(哲学的にはかなり荒っぽい言い方であることはお断りしておく)。 ex.)以下の記述は全て同一の出来事を指示し得る 「スミスはスケートボードに乗っていた」 「スミス
mojimojiさんの一連のEntry周辺の議論。 排外主義者、あるいは日曜サヨク 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その4 論点は2つ。 ・ネット右翼がなぜ中国のチベット支配を批判できるのか? ・中国のチベットへの抑圧を批判する為に左翼・人権派とネット右翼・保守派は共闘すべきか? 前者について。左翼・人権派がチベット問題を「ネット右翼が満足するようなかたちでは」取り上げていないこととチベット問題に類する人権問題に関してネット右翼がどのような態度を取ってきたかということは同列に並べられるべきではない。 仮に左翼や人権派のチベット問題への関心が相対的に低かったとしよう。しかし人間が有限的存在であって、あらゆる問題へコミットすることはできない以上、それは矛盾とまでは言えない。もしチベット問題について左翼・人権派がどの
大阪府を始めとして、財政赤字に苦しむ地方自治体について「民間であれば破綻している」と言われることが多い。「一私企業ならばとっくに倒産しているはずのところを、行政機関ということで存続を許されている」、「公務員・公的行政機関はある種の特権を持っている」というわけだ。 もちろんそれは間違っている。 行政機関というのは要するに「誰かがやらなくてはならないこと」をしている機関のことである。仮にある自治体が消滅したとしても、その仕事自体は結局「誰かがやらなくてはならない」のである。市場原理の中で存在する民間企業はそうではない。民間企業が潰れるのは畢竟「その企業が提供するサービス(仕事)が不要とされたから」である。行政機関が潰れないのは誰かが与えた既得権でも特権でもない。民間と異なり、「誰かがやらなくてはならない」仕事だからなくならないだけの話である。 例えば夕張市では行政機関の提供するサービスが縮小す
「ホワイトカラーエグゼンプション」提案時の2ちゃんねらーの反応 →http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/892743.html →http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1029469.html 行政の長の「超過勤務」を正当化する言い草に反論する職員への2ちゃんねらーの反応 →http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1102983.html いや、興味深いです。かたや、「サービス残業に対する理解がまるでない」ことに非難が集中しているのに、かたや「サービス残業するのは能率が悪いから」ですか。もちろん同じ人が言っているわけではないのでしょうけど、同じ話なのに空気が「正反対」なのはどう理解したらいいのでしょうか。単に公務員が憎たらしい=叩ければ理屈は何でもいいとい
はてなブックマーク - ぼやきくっくり | なぜ大阪府民は橋下徹氏を選んだか はてなブックマーク - はてなブックマーク - ぼやきくっくり | なぜ大阪府民は橋下徹氏を選んだかあたりの議論に関して。 はてなブックマーク - 「ネガティブ・キャンペーンだ!」というネガティブ・キャンペーン - モジモジ君の日記。みたいな。 この中のD_Amonさんのコメントにあるように、橋下に投票するということは橋下の発言に見られる価値判断にコミットすることと事実上同等の意味を持つ。 「橋下氏の財政再建策に同意しただけで、核武装発言にはコミットしていない」とか、「買春は中国へのODA」という発言には同意していないとか、まあどのような意図で彼に投票したのか(支持を与えたのか)は人それぞれだろう。 が、ポイントは日本において憲法で定められている「自由委任の原則」の下ではそのような「意図」はあまり意味がないとい
僕は福士加代子は非難しないが、あれを「感動した」とか言っている人を見るとうんざりする。 「諦めずに最後まで走りきったことはこれからの糧になる(意味がある)」と主張しているコメンテーターがいるのだけど正気なのだろうか?「最後まで完走したこと」にあのレベルの選手として客観的な「意味」があるわけがない。だいたい、レース前「福士加代子は42.195kmを完走できるか」に関心を寄せていた人がどこにいるというのか。「完走など出来て当たり前で、どのくらいの記録を出せるか」を注目していたに決まっているのである。福士が「マラソンを完走できるかどうかのレベル」にないことなど誰もが知っていたはずじゃないか。何故シラをきろうとするのか? 逆に「諦めずに」完走したところで、平凡な記録に終われば「期待外れ」と言われるのがあのレベルの選手たちの宿命である。現に今回のレースで日本人トップでゴールした選手など、その「平凡な
少し前の話題の蒸し返しで申し訳ないのだけれども。 インターネット上で「死ぬ死ぬ詐欺」と呼ばれ、問題視された事例があった。重い心臓病で移植手術しか助かる見込みのない少女の親御さんたちやその友人らがその費用をまかなう為の寄附を募ったことに対して、彼らの公表する会計データに一部不透明なところがあるとして、それを「会計責任を果たしていない」、「詐欺同然」と糾弾する人たちが現れたのだ。 僕の興味を引いたのはこの問題の糾弾者たちが、「少女の命を救うなと主張したいのではなく、会計責任を果たしていないから批判するのだ」という論法を採っていたことだった。だがしかし一口に「会計責任」と言っても、お金を集める際の規模、目的等によって果たされるべき責任の程度は様々に異なる。仮に批判者達が言うような「厳格な会計責任」が求められるとするならば、それはどのような理由からなのか? 様々な理由らしきものが語られてはいたので
前回のEntryの補足。 それほど注意深く読んでもらわなくても分かると思うのだけれども、別に僕はジェイコブスの「2つのカテゴリー論」を前提にしていない。僕は単に「普遍的な倫理」、もっと分かりやすく言えば、「あらゆる局面において適用しうるモラル」など「存在しない」ということを前提にしているだけなのだ。 ところで僕は先日、俳優の吉田栄作が「R25」のインタビューで興味深い逸話を披露しているのを見た。彼はまずインタビュアーに「自衛隊員にとって最も重要なスキルはなんだと思うか」と問いかけ、最新作の映画の役作りの為に入隊した自衛隊の部隊の上官が教えてくれたことを得意げに披露したのだ。ちなみに彼が言うには、それは「使命感」なのだそうだ。まず指令があって、ターゲットに向かっていく以上、それだけに貪欲であらねばならないまず使命感。体力も頭脳も思いやりも、それを全うするために必要なだけ。「劇中で、3年間行動
東国原宮崎県知事が「若者に倫理を教え込む為に自衛隊に送り込め」と発言した件については、これまで多くのそして様々な観点から、「的確な」批判が為されてきたわけだが、遅ればせながら僕なりの意見を述べてみることにしたい。 以前僕はJ.ジェイコブスの主張する「市場の倫理」と「統治の倫理」を引用したことがある。すなわち、およそ「倫理」と呼ばれうるものには2つの型があり、1つは統治型(=領土に対する責任に関する)道徳であって、もう1つは商業型(=商業とそれに関する財やサービスの生産に関する)道徳であるというものだ。 統治型道徳とは(典型的には例えば自衛隊が備えているべき道徳)「取引を避けよ」/「勇敢であれ」/「規律遵守」/「伝統堅持」/「位階尊重」/「忠実たれ」/「復讐せよ」/「目的のためには欺け」/「余暇を豊かに使え」/「見栄を張れ」/「気前よく施せ」/「排他的であれ」/「剛毅たれ」/「運命甘受」/
沖縄の集団自決に関する教科書記述を巡る問題で、読売や産経などが「教科書は政治によって干渉されてはならない」などと主張している。 まさにお笑いである。先の教育基本法改正論議で時の文部科学省は「民主主義的な選抜プロセスを経た政治権力が教育に介入するのは不当な支配であるはずが無い(そうでない力が働くことこそ「不当な支配」だ)」と答弁してきたわけだ。当Blogではその点について批判してきた。ところで今回の「政治的干渉批判派」はその時それを痛烈に批判したのだろうか? 安倍晋三政権がこれだけ早く倒れ、その後にこれだけ方針転換がなされる事が予想できなかったのはお気の毒というより他は無い(もちろん僕も予想など出来なかったわけだけれども)。だが彼らは例えば教育基本法がなぜ「準憲法」とも呼ばれ「統治権力を制約する意味合いを持つ」とされてきたのか、その意味合いを全く理解していなかったことが、改めて暴露されたわけ
「忘れる」には2つの様態が存在する。 (A)対象についての確定記述の一部(或いはほぼ全部)を忘れるというもの。(B)何を忘れたのかすら忘れてしまっているという絶対的な忘却である。 さて「忘れる」という場合普通(A)を主に考えてしまうかもしれないのだけれども、僕の感覚では実際にありふれているのは(B)である。ここで「覚えている/忘れる」をよくある「倉庫モデル」で考えるとしよう。しかしあなたはいまその倉庫の中に何が入っているか分かるだろうか?あなたが必死に内省を行ったとしても、その「棚卸」は不可能であるように思われないだろうか?僕たちは「何を忘れたか」すら分からないのと同じように「何を覚えているか」すらおそらく分かっていないのではないだろうか(あなたが一夜漬けのあと試験場に向かう際ですら、自分が何を覚えているか正確に把握することは出来るだろうか?)。 「倉庫の棚卸」がおよそ出来ないということ
(1) (数ヶ月前)天下分け目の政治決戦の「争点」をもう一度確認しよう。それは、日本国総理大臣は安倍総理がいいのか、小沢代表がいいのか、である。中立はありえない。与党の敗北は即、抵抗勢力の勝利である。抵抗勢力の勝利で小沢政権となる。だから、あくまでも参議院選挙は安倍総理か、小沢代表かの「日本の総理選択選挙」なのである。なるほど。「中立はありえない」 (数ヵ月後) その意味で民意は、安倍総理の退陣を求めているのではなくその意味では、体制の一新、人心の一新、それからまた、与野党よく衆議院と参議院と多数派が異なるわけですから、話し合って、そうした問題についてきちんと国民の納得のいく答えを出しなさい。そういうことを民意が求めていることではないかと思います。今度の選挙前の国会運営は、全部強権的だとは思っておりません。しかしこれからはこの事態を受けまして、また違うやり方をしなければならないというの
前回のEntryでは、被害者が非の打ち所のない・何も責めを負うべきところのない人間であったとしても、彼らが共感・同情心を世間から調達し続けられる保証はない、従って「被害者の人権の保障」を巡る「ゲーム」は被害者にとって苛酷である、という主張をした。 今回はもう少し踏み込んでみる。 藤井誠二はこのようなことを言っている。「愛する家族が殺されたら、復讐したいと思うのは当たり前」であり、それは「ごく当たり前の人間の感情や情緒」であると。 ここで先に結論を言っておく。僕は「そうは思わない」。 なぜなら人間は「忘れてしまう」生き物だからである。激しく恋焦がれる「感情」も月日と共に消え去っていくのが普通だし、愛する人が目の前で死ぬ絶望感のそのありありとした生々しさでさえ時間が奪い去ってしまう。憎しみも感情である以上またそうである。藤井が「人間としてそれが当たり前」という論理で押し通そうとするのなら、僕
仮に妻子を惨殺された夫が、葬式で涙の一つも見せず、その翌日に女と遊びに行ってしまうような男だったとしよう。さらにもう一つ、彼の殺された妻もしばしば育児をほったらかしにしながら男と浮気をし、家庭内不和が表面化していたと仮定を置いてみよう。つまり彼らの家庭は世間的に見て眉をひそめられるようなものだったのである。 さてその被害者遺族=夫がいかにも美味そうにタバコの煙をくゆらせながら記者会見でこのように主張するのである。 「犯人を決して許すことが出来ない。彼は許されないことをした。命をもって償わなければならない。」 光市母子殺人事件の被害者遺族である本村氏はもちろん上記のような人間であるどころか、それとは正反対にあるような人である(ように少なくとも僕には「見える」)。彼は生真面目なサラリーマンであり、そして大恋愛の末結ばれた妻と待望の一人娘を一途に愛す良き家庭人でもあった。彼の家庭は現代の社会に
それから、これだけはいっておきたいが、アラブの自爆テロは絶対に我々の言う特攻隊ではない。特攻隊は決して無辜の人を狙ったのではない。特攻隊は狂信者じゃない。本当に悩み、悲しみ、迷いながら、自分の親、兄弟を守るために死んでいったんだ。それでなければ納得できない。(1)一体どの程度まで「信仰に狂えば」、自らの命を犠牲にして敵を攻撃することが出来るようになるのだろうか?本来ならば、そこが明らかになって初めて僕たちはその人を「狂信者」と名指すことが出来る(または逆に「狂信者ではない」と言及することが出来る)。けれども多くの場合人は、「自らの命を犠牲にして敵を攻撃する」人間を単に「狂信者」と呼んでいるだけである。自爆攻撃行うアラブ人も、特攻を行った日本人も、第三者(例えばアメリカ)からすれば「狂信者」だと等しく括られている。それが「狂信者」という語に関する一般的な語用論的事実である。 一見、石原慎太郎
「中韓は国定教科書だが日本は違う」という主張をインターネットの世界ではよく目にする。 はてなキーワードを見ると案の定 国定教科書国家が定めた教科書のこと。義務教育を含む普通教育の教科書の発行権限が政府にしかない国で発行されている。日本では第二次世界大戦が終わるまでは国定教科書を使用していた。現在でも中国や韓国、北朝鮮などでは国定教科書を使用している。 とある(2007/06/03現在→2007/8/29現在修正されています)。だが例えば中国に関しては以下を見て頂きたい。 財団法人教科書センター 「中国の教科書制度と歴史教科書について」 中国近現代史研究者の大沢武彦氏の解説 中国は1980年代後半から、日本の教科書制度を研究し・取り入れる改革を行ってきた。結果現在教科書は多様化しており、地方に採択する権限も委譲された。つまり中国の教科書制度が「国定」であるというのはデマだということ
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