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最近、体力の取材が多いんですよ。「結局、成功を決めるのは活動量じゃないか」「すごい人はみんな体力がある」みたいな話ですね。確かに活躍している人は元気な人が多い印象はあります。 体力はかなり広い概念で、あまり定義もはっきりしていません。スポーツの世界と社会でも違いますし。一応、ここでは「長く元気に集中して活動し続けられる力」ぐらいにしておきます。それで体力の背景に何があるのだろうと考えたんですけれど「身体を元気に保っている」「身体内部の状態がわかる」「余計な考えを止められる」の三点じゃないかと思ったんですね。 私は子供の頃から体が元気でした。オリンピック出るぐらいなので普通よりは体力もあったんだろうと思います。それで引退して本当に全く運動をしなくなったのですが、引退して10年ぐらい経った頃に「あれ、本を読む時に深く集中できない」と思うようになったんですね。頭の問題かと思って酒を抜いたり、いろ
Noteにはたくさんのクリエイターの方がいらっしゃると思いますので、ナレッジのシェアのためにこちらにことの顛末を書き記しておきます。たぶん、みなさんにも関係する話です。 凍結の時系列 2024年5月21日10:55凍結判明津田大介さんからあんた凍結されてますよとの一報が入る。さすが津田さん、早い!そしてメールを見ると。 2024年5月21日11:30最初の異議申し立てその後2024年5月24日昼まで合計10回の異議申し立て。メールの返信はなし。 5月24日の19:19ごろ解凍。 そしてこちらがメディアの方から来たメールです。凍結が解除されたのはこの日の19時19分でした。まあ、これはあんまり関係なさそうですが 凍結理由多分これが引っ掛かったんじゃないのと言われてはいますが、本当にこれなのかはわかっていません。 私の友人関係が結構広めで上は84歳から下は19歳までいて、同世代より年齢差がある
長文ファンの皆様おはようございます。 トップアスリートは努力するだけではなることができません。「勝負強さ」と「ぶれない執着心」が必要です。しかし、これには裏の側面もあります。 勝負の時、アスリートは多くの期待を背負っています。観客がたくさんいる中で、自分のプレーでチームの勝敗が決まる。さらには観客もそれで一喜一憂するわけです。 よくアスリートは優しすぎるとダメだと言われますが、もう少し正確に言えば「共感を遮断できなければならない」だと思います。社会的重圧の正体は他者への想像力です。他者の気持ちがわからなければプレッシャーも感じにくい。 リスクへ許容度があります。四年間の成果が決まる、または数億円が動くという時に、興奮したり、力を発揮するのはリスクの感じ方が普通ではありません。引退して社会に出て抜け殻のようになるアスリートもいますが、それは日常社会はグラウンドと比べると、リスクが小さいからだ
長文ファンの皆様おはようございます。年末ですから本当に長文です。今年一番気になったことは「社会の配分システム」でした。 スポーツには根性論というものがありますが、これを定義すると「リソースの制限を考えない思考体系」だと言えます。 典型例は「365日限界までやれば絶対勝てる。根性を出せ」のようなものです。 根性論の特徴には二つあります。 ①必要な要素の積み上げから限界を考える。限界からリソース配分を考えるのではない。 ②限界は思い込みである。限界を突破することで人は成長する。 ②に関してはあながち間違えていません。確かに限界だと思っているところまでやると人は成長することが多いです。だから根性論はやる気のある人もない人も一定の段階まで成長させる力を持っています。 しかし、根性論の問題点は限界が曖昧になることです。「必要なものは必要」と、大事そうなものを際限なくどんどん積み上げていってしまうので
私は幼少期から少し癇癪を起こす癖があります。幼少期から何度か爆発するうちに、だんだんそ癇癪を起こしている自分を観察するようになりました。それである時から、癇癪を起こす瞬間とアイデアが浮かぶ瞬間の感覚は似ているのではないかと考えるようになりました。衝動がうちから湧き出てきてそれに自分がハックされる感じです。 自分の体験を説明すると、自分の中にすでにあった何かと何かが無意識下で偶然結びつき、その結びついたものが意識に上がってきてそれに気づいた自分が興奮し、その興奮に全身が覆われる感じです。癇癪の時は怒りの感情が主なのですが、面白いことに今この瞬間に何かが起きて怒ったというよりは自分の中ですでにあったものが結ぶ付き合ってたまたま今感情が爆発したというのが近い感覚です。アイデアが浮かぶときはそれが好奇心に変わります。でも感覚はそれほど違いません。どちらも「すでに自らの内にあったものが表に出てきた」
戦争に例えて最近の空気を説明されることがよくありますが、実際には戦時中はどんな空気だったのでしょうか。一般に言われるように、軍部主導で嫌がる国民を無理やり戦争に引きずっていき、戦争が苦しくなると軍部や政府が言論統制を行い言論を封殺したと言われますがそれは本当だったのでしょうか。 朝、目覚めると、戦争が始まっていましたという本があります。太平洋戦争が始まった翌日の知識人の文章をまとめたものです。意外なことに、多くの言論人が肯定的に捉えています。いくつかご紹介します。 「宣戦の詔書が渙発された。0時、明治製菓の二階で黙然として聞いていた。今日みたいに嬉しい日はまたとない。うれしいというか何というかとにかく胸の清々しい気持ちだ」黒田三郎(詩人) 「いよいよ来るべきものは来たのだ。みたわれとして一死報国の時がきたのだ。飽まで落ち着いて、この時を生き抜かん」青野季吉(文芸評論家) 「宣戦のみことのり
10年ほど前でしょうか。「努力は報われるとは限らない」ということをつぶやいて炎上をしました。アスリートであるあなたが努力が報われないと言ってしまえば努力する人がいなくなるではないかという声をいただき、私なりには思うところもあったもののそういう意見もごもっともだと納得もしました。当時、私の肌感覚では人々の一定数は努力は報われることを信じていたように思います。 「努力は絶対裏切らない」という池江選手の言葉にたくさんの反応がありました。コメントを見ていて驚いたのは、想像以上に多数の「努力しても報われない人は多数いる」「努力しても報われないのがほとんどだ」という声の存在でした。このような意見は10年前には多数派ではありませんでした。きちんと統計を取ったわけではないですが、今この国では、急激に努力に対しての信用が薄れていき、努力しても報われないという感覚を人々が持ち始めているように思います。 努力と
「なにかあったらどうするんだ症候群」にたくさんのご意見をいただきました。その中に「とは言えなんでもかんでもやってみようでは、安全管理の点で問題がある」というものがありました。確かに医療や安全保障の分野などでは常に「何か起きないように」想定しています。 ではこの症候群から抜け出ることは、安全を犠牲にすることを意味するのでしょうか。私はそうではないと思っていますが、これを説明するには「リスク」とは何かについて考えてみなければなりません。 まず物事全てにはリスクがあります。リスクは危険ではなく不確実性という意味です。例えば家を買うという行為にはリスクが伴います。近隣の住民がどんな人かわからない。金利が今後どうなるかわからない。今後の不動産価値がどうなるかわからない。自分のこれからの仕事がどうなるかわからない。いくら調べてもこれらの不確実さは残ります。ですから、リスクは「ある、ない」で表現するゼロ
私たちの国は「なにかあったらどうするんだ症候群」にかかっています。この症候群は社会に安定と秩序をもたらしますが、その副作用として社会の停滞を招き個人の可能性を制限します。この症候群には「未来は予測できるものであり、物事はコントロールできるものである」という前提があります。 「なにかあったらどうするんだ症候群」に罹った社会では未来は予測できることを前提としているために、何か起きた時にはどうしてきちんと予測しておかなかったのかと批判されることになります。だから何が起きるかを事前に予測して対処しなければなりません。この症候群に罹った人は、暗黙の前提として物事を未来からの逆算で考えています。 しかし、実際のところいくら調べても未来がどうなるかはわかりませんし、何が起きるかもわかりません。考えれば未来はわかる、ちゃんとやればコントロールできると人類は何度も勘違いしてきましたが、毎回覆されてきました。
長文ファンの皆様おはようございます。 私はハラスメントの背景に「他人を物的に扱う癖」があるのではないかと考えています。 物的に扱う癖があると、人がどのような気持ちになるかを配慮しなくてよくなります。人の心は柔らかく、同じ言葉でも、状況によって、相手によって、感じ方も変わります。 「人は物である」とすれば、物事を単純化し、仕事をする上でやりやすくなります。全員が人間ではなく物であるとするなら、感情による不確実性は減少します。 人間の心に対しても物的に扱うことが可能です。 「お金で釣る。力で認めさせる。断れない状況を作ってから交渉する。」 これは相手から何かを引き出したり、思うように動かすための手法です。相手が心から納得するかどうかは考慮に入れない点で、物的なアプローチです。ビジネスでは有効なのだと思いますが、友人に対してこれをやればまず関係は破綻すると思います。 「物的に扱っている」側はその
引退してスポーツを離れて良かったのは、スポーツを嫌っている人や、憎んでいる人、やっていたけど傷ついている人がこんなにいたのかと気付かされた事です。おそらくスポーツの世界だけにいたら、スポーツが好きな人と、スポーツによって成功体験を持つ人との接触が極端に多かったと思います。 そもそも私の人生は少し特殊でした。特殊だということに気がついたのも、引退して違う競技の方と話したからなのですが。小学生時代は読書部というところにいて週に一回図書館で本を読んで読書感想文を出すということをやっていました。足が速かったので社交的でクラスのリーダーっぽくはあったのですが、母親はいつも性格の第一番目を「繊細な子」と言っていたので、内向的だったんだと思います。運が良かったのは陸上部の先生が最初に「陸上競技と運動力学」という本を貸してくれたことです。「スポーツは科学であり、合理性を追求すれば強くなる」という考えがまず
全柔連が小学生の全国大会を廃止するという決定をしました。私は素晴らしい決断だと思います。なぜ若年層での全国大会を行わない方がいいのか三つの理由で説明します。 ①そのスポーツが弱くなるから ②全ての子供がスポーツを楽しめないから ③競技を超えた学びが得られないから まず若年層の全国大会が成人になってからの競技力向上に役に立っているかというとマイナス面の方が多いと考えられます。その理由の一つには早すぎる最適化があります。子供は大人のミニチュア版ではありません。例えば、子供は身体に対し頭が大きく、胴体も細いです。また体が小さいのになぜか子供は字を大きく書きます。それは筋の調整と連動がうまくいかないので細かい作業が苦手からです。その一方で立位のバランス自体は大人とそれほど変わらないぐらいうまくできます。 ということは子供の世代の柔道は勝利のためには大人時代とは違う戦略が求められるということです。早
衆議院の予算委員会での大竹先生の意見に賛同します。私なりにご意見をまとめると ・まんえん防止の継続には反対 ・新型コロナ対策はバランスを取る必要がある ・コロナ危機による自殺は4900人 ・既婚女性の就業率の低下 ・恵まれない家庭の子供の影響が大きい ・婚姻数が11万件減った為、将来埋め合わせがなければ21万の出産減 端的にいうと一番影響を受けているのは ・若い世代 ・生活が苦しい家庭 だと思います。日本は少子高齢化でただでさえ若い世代に負担がかかる中、婚姻も出産もさらに減少しました。ようするに、日本はものすごく大きな負担が今の子供たちとこれから生まれてくる子供たちにかかるようになっています。 大竹先生がおっしゃっているのは、とても真っ当なことだと思います。新型コロナウイルスは危険ではないということをおっしゃっているわけではありません。その危険性もよく理解した上で「全体を見ながら失うものと
ここ数日で最もよくあるご質問が「今回の冬季五輪の判定が疑わしいと感じる。判定が恣意的に歪められているのではないか」です。これについて回答していきたいと思います。 まず、どのようにスポーツのルールが決まっているかをお話しします。その競技全体のルールは、最上位団体である国際スポーツ団体が決定します。各競技団体によって決め方には違いがありますが、ボードメンバーがいてそこにルール改正であれば改正案が上程され、審議され決定又は棄却されるというプロセスをたどります。そのボードメンバーは選挙や推薦によって各国から選ばれています。 よく勘違いされますが、IOCは競技のルールには関わっていません。IOCが直接運営する競技は一つもなく、あくまでそれぞれの競技団体が参加するオリンピックの運営をおこなっているのがIOCになります。もちろん五輪のレギュレーションや五輪に入る種目などは決定することができますが、陸上の
世の中には様々な意見がありますが、その背景には個人と社会の関係の捉え方が影響していると感じます。大きく二つに分けると、「今この人生を生きているのは自分のおかげだし、自分のせい」か「今この人生を生きているのは社会のおかげだし、社会のせい」か、です。つまり自己責任か、社会責任かの違いになります。 当然、グラデーションになっています。自己責任の考え方の人も、社会の責任を認めていますし、社会責任の考え方の人も社会の条件が揃えば自己責任の考えを持っていたりします。文化圏でも違います。ある殺人を犯した青年が幼少期に大変な虐待を受け厳しい環境で育っていたとして、罪の重さをどの程度軽減するかを調べたことがあります。西洋国は罪を軽くせず、東アジア圏は罪を軽くする傾向にあるそうです。その人がそうならざるを得なかった社会の影響をどの程度大きく見積もるか、です。 自己責任の立場をとる人は、自ら厳しい環境にいながら
我慢しないということを以前書きましたが、そこで「我慢は大事じゃないか」というご意見をいただきました。我慢しない利点は書きましたが、おっしゃる通り、何かを成し遂げようとすると耐えなければならない局面もあります。 我慢した方がいいのかしない方がいいのか。どういう時にした方がいいのか。これらを紐解くには我慢というものを、大きく二つに分けて考えなければならないと思います。受動の我慢と能動の我慢です。 受動の我慢は理不尽耐性と言ってもいいと思います。例えば「靴下は白く」などの学校のルールは合理的な理由はおそらくありません。けれどもそのように決まっているから守りましょうということを受け入れて守る事が受動の我慢です。 自然災害は人知を越えた如何ともし難い不条理なものですから、このような受動の我慢の性質が効いてきます。日本在住の外国人の方に日本語で印象的な言葉を聞くと今までで一番多かったのは「しょうがない
「リスクを取って好きなことをしても構わないが、自己負担で行うべきだし、自己責任で行うべきだ」という考え方があります。主にアスリートやアーティスト、また自営業者、起業家など、組織に属さない人に言われる事が多い印象です。確かに好きなことをやるのは自分の負担でというのは納得しやすいですが、一方で本当にそれは社会にとって良い形なのでしょうか。 ゴッホ美術館がオランダにあります。ゴッホにはテオという兄弟がいました。二人とも画家を目指していたのですが、生活は困窮していてどちらも画家になることはできないと、テオは画家を諦め仕事を始めます。経済的にゴッホを支えゴッホは絵を描く事を続ける事ができました。生前には大きく評価されることはありませんでしたが、現在では世界的に有名な画家となり、作品は美術館に飾られ観光客を呼んでいます。またゴッホが生まれた国ということでオランダのプレゼンス向上に少なからず寄与していま
私は日本社会が良くなるためには ・我慢しない ・リスクを取る ・好奇心を伸ばす の三つが重要だと考えています。逆に言えば今の日本の生きづらさの背景には、我慢しすぎて、リスクを取れなくて、好奇心がない、からだと考えています。 我慢しすぎがなぜ良くないのでしょうか。幼少期「将来困るから」「人の迷惑になるから」という理由で我慢を強いられることが多くあります。このようなモデルで育てられそれを自分に取り込むと、我慢していない人を見て「将来困る」「人の迷惑になる」と考えるようになりますし、そのように指摘するようにもなります。過去には誰かが自分を抑圧したのかもしれませんが、いつしか自分の内側に取り込み、自らを自らで抑圧するようになり、他者を抑圧するようにもなっています。我慢してきた人は「本当はこう生きたかったのに生きられなかった」という抑圧感を抱えています。 ただ我慢しなければいいという話ではありません
40代に入り、これから必要なスキルの一つが嫉妬のマネジメントだと直感しています。日本社会に生きている場合は特にですが、他者の嫉妬から免れることはできませんし、また自分自身の嫉妬の感情をうまく扱えなければ身を滅ぼします。 振り返れば私の人生で初めて強く嫉妬を覚えたのは高校生の時でした。自分より優れた才能を持った後輩が同じ学校の陸上部に入ってきて、追い抜かされました。この時のなんともいえない感情は今でも覚えています。他人が彼を褒めるときに例えば「確かにすごいね。でも、実はこんな問題点があって、、」と、一見同調しているようでいながら問題点を指摘するその言葉は、自らの嫉妬からきていることに気がついてもいました。あの時が人間の嫉妬について考える出発点でした。 嫉妬自体を悪いものだと捉える傾向にあると思いますが、実際には少なくとも競争の現場においては良くも悪くもありませんでした。全ては扱い方次第です。
個人の成長を眺めていて、人生の前半は努力の影響が大きいと感じますが、人生の後半はリスクが取ることの影響が大きいと感じます。努力できることとリスクが取れることは違う能力です。旅に例えてみると、努力とはゴールが見え地図も見えている中で辿り着くために必死で歩を進めることです。一方でリスクを取るとはゴールは見えていても地図がない中で陸路か海路かを選ぶということです。いくら速く長時間移動できるようになっても海路か陸路かを選択する度胸とセンスは身につきません。 リスクを取る能力を高めるには、リスクを取る機会を増やすしかありません。驚くほど忍耐強くて努力家の人が、決断ができないということは十分に起こり得ます。 リスクを取るとは、突き詰めれば決めることです。だから決める経験をしないとリスクはいつまで経っても取れるようになりません。一方で生きていれば人は何かを決めてはいます。ではどのような状態で決めることが
私の人生で大事なことの多くは部活動で学びました。とても部活動というものに感謝をしています。一方で、今までの部活動の仕組みは今後成立しないでしょう。新しい形を見出せなければ部活動は消滅すると思います。 まず教員の長時間労働の原因の大部分は部活動にあります。教育の一環という位置づけでありながら教員の自発的な取り組みという、業務の一環なのかそうではないのか、という微妙な立ち位置に部活動はありました。それは昭和の時代、どこをみてもみんな大変な働き方をしている時であり、また教員の事務負担も今ほど大きくない時代には成立しましたが、現在では成立しません。教員の自発的な活動と言いながら実際には断れない例は多いです。もし業務として強制すれば労基法違反になるでしょう。 ではなぜ教員が部活動の顧問をしなければならないのか。一つは中体連、高体連のいくつかの競技、および高野連は学校名以外の出場を認めていないからです
オリンピックを終えた選手の皆さんお疲れ様でした。結果が良かった方も思わしくなかった方もいると思いますが、どの選手もここまで努力してきたことは素晴らしいことだと思います。 このようなタイミングでお話しするのは憚られますが、お伝えしたいことがあります。それはオリンピックに出たりメダルを取っても幸せになるとは限らない、ということです。 東京五輪の残像という本があります。 1964年に東京五輪に出場した選手を追跡取材しているものです。オリンピックの光があまりにも強いために、呪縛から逃れられず苦しむ様子が描かれています。オリンピックに出る方法、勝つ方法はたくさん語られていますが、出てしまった後どのように生きていくかは実はあまり語られていません。 大きな大会の後や目標を達成してしまった後に、燃え尽き症候群と言われる症状が出ることがあります。アスリートは極度の重圧にさらされているために一般の方よりも精神
4×100リレーで1,2走者での受け渡しに失敗し日本は失格しました。予選で厳しかったのでリスクをとって攻めたのだろうと思います。上位3チームのタイムを見ると、確かにギリギリを攻めないとメダルは難しかったのだろうと思います。 選手が攻めるとよく言いますが、一体攻めるとはどういうことなのでしょうか。リレーは選手同士がバトンパスをしていく競技ですが、その場に立っていてバトンをもらうわけではありません。折角前の走者が加速してきた勢いを無駄にしないように、次の走者が走り出して勢いに乗ったところでバトンをパスします。要するにリレーのうまさとはバトンそのものがスタートからゴールまでいかに無駄な減速をしないでいられるかという技術です。選手を一度意識から消してバトンだけをイメージしてみてください。リレーに関しては主役はバトンで選手は運び屋です。 選手は飛び出す際にマークを見ています。スタート前に選手がちょこ
重量挙げで五輪史上初のトランスジェンダーアスリートであるローレルハバード選手が出場しました。結果は記録なしに終わりましたが、歴史的な瞬間になりました。 選手はルールをクリアした上で出場しているので批判されるべきではありません。一方で、生物学的な男女差があるトランスジェンダーアスリートの出場に関しては議論が必要です。 トランスジェンダーアスリートが出場するかどうかがなぜ議論されているかというと、そもそも男女というカテゴリー分けがあるからです。カテゴリーがないなら誰もが参加すればいいだけです。 スポーツでは男女、体重、障害の程度の三つがカテゴリー分けの基準になっています。もし性別カテゴリーを無くして仕舞えば、例えば男性の130kgと女性の50kgの柔道家が試合をすることになります。また、視覚障害がある選手と、晴眼者がサッカーをすることにもなります。 しかし、それでは差がつき過ぎて競争にならない
意思決定ができない人、または意思決定の質が低い人(ハズレが多い人)はいったい何が頭の中で起きているのでしょうか。私はその背景に優先順位が決められないことがあるのではないかと思っています。 優先順位を決めるとはどういうことでしょうか。例えば、100mの選手が来期の目標を立てています。今年は少しレースの前半でついていけなかったから筋力をつけて最初の加速を強化しよう、と考えます。いざそれを決めてコーチの元に持っていくと、こう言われます。 「いや、筋力も大事だけれどスタミナも大事だぞ」 なるほどと思い、走り込みを行なってスタミナをつけることも増やしました。またコーチの元に行くとこう言われます。 「いや、筋力もスタミナも大事だけれど技術も大事だぞ」 このように優先順位を付けない議論や思考は、結局全部をテーブルに乗せるだけの作業になることが多いです。結論も長文が書いてあり網羅的ですが、全部やろうという
2000年のシドニーが私の初めてのオリンピックでした。 まず空港に着くとIDを作りそれから選手村に直送し選手村の中に入るときにウェルカムバックを受け取ります。 そのウェルカムバックの中には、お土産品とか、地元の子供達が作ってくれたものとかいろんなものが入っているのですが、そこにコンドームが入っていて驚いたことがあります。 選手同士で顔を見合わせて、無言で下を向いている女子選手や、または「おいおいこれってそういうことしていいってこと?」とはしゃぐ私のようなふざけた選手などいろいろでした。 あまり記憶が定かではありませんが、冊子が付いていて、「HIVに対しての啓蒙の機会でもあるし何より実用的だよね」ということが配布の理由だったと記憶しています。 一方でそこに居合わせた確か中南米の方の選手だったと思いますが、ガシッとコンドームをつかんで持ち帰っていました。まるでコインを扱うかのように、親指でぴー
「命を最優先に」という言葉には確かにそうだとしか言えない説得力があります。しかし、命というのはとても抽象的な言葉ですから、よくその意味を考えてみなければなりません。私たちが本当に最優先しているものはなんなのでしょうか。 例えば90歳のおじいちゃんが半年の余命宣告をされているとします。延命治療を行えば余命があと一年延びます。一年半です。しかし延命治療を行えば家族と会話をすることは難しくなります。生物学的な命が命の定義だとするならば、延命することが命を最優先することになります。しかしそんな選択を皆がするとは限りません。人は命と同じぐらい生き方も大切にしているからです。短い時間でいいから最後は家族と話をしながら過ごしたいと考えおじいちゃんも家族も延命を避け、それを医療機関も社会も許容するのならば少なくとも「生物学的な命は優先されず別の何かが優先された」ということになります。私はその別の何かとは「
言わないけれども思っていることで、率直なフィードバックを受け取れるかどうかが勝つためには大事だと書きました。その中で、プライドが高い人は率直なフィードバックを受けられないということを書きましたが、これはいったいどのようなメカニズムなのか考察してみたいと思います。 もちろん個人差も当てはまらない人も一定数いるという前提で大雑把にまとめてご説明します。プライドが高い人は環境に適応しプライドが高くならざるを得なかった背景を持っています。ではどのような環境に適応したのか。それは能力と自分の存在価値が一致した環境に適応したのだと思います。適応した結果、能力が高ければ高いほど自分には価値があり、低ければ低いほど価値がないという外からの評価と自分の価値が一致するという思考モデルが出来上がったのだと思います。 能力と自分の存在価値が一致した環境とは、親も周囲の大人もそう思っている環境のことです。親もまた能
私が社会に出て最初に抱いた印象は、とにかく「思っているけれども本当のことは言わない」「遠回しに言うことが大事」ということでした。率直に思ったことを言ってしまうと角が立つので、やんわりと自然に察することを促すように言葉を置いておくイメージで相手には伝えるのだということを学びました。けれども面白いことに夜飲んでみると驚くほど率直な言い回しで人を評価したりしています。みんないろいろ思ってはいるのだけれども、作法としてそれは直接言わないということなんだなと理解しました。 競技の世界で特にトップに近づいてからは、とてもわかりやすい世界でした。勝てば良くて、負ければダメという世界です。努力することも皆当たり前になっていますから、そうなるとあとは努力の精度を高めるしかありません。精度は適切な戦略と適切なトレーニングで決まります。自分にとって適切な戦略と適切なトレーニングは何かというと、正確な自分の姿を知
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