EM菌、親学、ナノ純銀などの疑似科学サポーターとして名高い下村文部科学大臣*1が、「学力一辺倒でない人間力を判断する入試のあり方について議論していきたい」と発言して話題になっている(NHK)。早速、インターネット界隈で議論が深まっているようだ。 皮肉に充ちた肯定的な意見として、「馬力が測れるんだから人間力も測れる」と言うものがある。ただし、「SI系で定義できる単位を用いて人間力の定義をしてもらった上で、それを得るための等式を示して欲しい」と言う要望もあり、漠然としたままでは困るようだ。 人間力は、SI単位系では無いと言う見解もある。「人間力というなら基礎はなんといっても体力だろう」と言う意見や、「女子力や妊娠力なども入試の判断基準になる」と言う意見がある。下村大臣の詳しい見解が待たれるところだ。 学力を人間力に変えて議論しても、受験のあり方は変わらないと言う議論もある。『「いいかあ、人間力
今から十数年前。東京都武蔵村山市の教育長、持田浩志さん(62)は、中学生だった長女の社会科の成績が悪いことに悩んでいた。特に歴史分野が弱かった。持田さんは中学・高校の社会科教員免許を持つ小学校教師だっただけに、忸怩(じくじ)たる思いで長女に尋ねると、一言「日本史は嫌い」と返ってきた。続けて「なぜ、嫌いなのか」と尋ねるとこう答えた。 「教科書には日本の悪口ばかり書いてあるし、先生も日本の悪口ばかり言う。小学校からずっとだよ…」 愕然(がくぜん)とした持田さんはそれ以降、日本の歴史に誇りを持たせるため、歴史的人物の裏話や心温まるエピソードなどを積極的に話すようにした。だが、長女の成績が伸びることはなかった。手遅れだったのだ。持田さんは、自国の歴史をことさらおとしめる自虐史観の歴史教科書が現在も大半を占めることに危機感を募らせる。 「確かに歴史的事実には過ちもあるが、今では想像できないような過去
歴史修正主義の存在も、それに加担・固執する歴代政府・官僚機構も、教科書の国家検定制度も、全て重大問題だけどね、連中の言う「自虐」というのが、戦後日本の左翼や進歩派の中にある贖罪気分や一種の事大主義を伴ったものの見方をもあげつらったレッテルだとすれば、その部分には幾ばくかの正当性が感じられるんだよね。 日本の良心派や韓国民の一部などには、朝鮮戦争が起こったのも、南北が分断されいまだにそれが固定化されてしまっているのも、「北」が拉致のような国家犯罪をひき起こすのも、いわゆる「領土」問題で紛糾するのも、こういうこと全て、かつての日本帝国主義の悪行とその未総括をひきずる戦後日本が究極の原因だとするような「何でも日本悪者」論があるようだけど、そういう部分が歴史修正主義者の扇動やプロパガンダに悪用されているんじゃない?たとえば、「当初、総連と一緒になって日本人拉致の事実を否定していた日本の左翼」とか・
先日、「学び合い学習」授業風景のTVを見た。 唖然とした。子どもを怒鳴り散らしている。 教卓の所に座っている先生に、子どもが一生懸命考えて算数の答えを見せにいったらいきなり言われた。 「何でこうなるのだ!」 「おまえは何を考えているのだ!!」 教室中とどろく大声で怒鳴り散らしていた。 この子がかわいそうだ。 この子に対して、子どもたちが教え合っている。 別の場面では、全校児童が体育館に集められて、学年のグループごとに固まって座っていた。教師が紙に書いた問題を見せて、「みんなで考えて解きなさい」とやっていた。しかも多くの教師がマスクをしていた。顔を隠しての授業なのか。これでは教師の表情がわからない。こんなことで、算数の力がつくわけがない。 算数を教師が教えないで、子どもたちに教え合わせている。塾等で先に学んできた子が先生役になって教えているようだ。算数が苦手な子は置いてきぼりである。算数の得
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く