タグ

敗戦とコラムに関するsuzu_hiro_8823のブックマーク (3)

  • 【産経抄】〝偏向〟語り部を制止した校長の悲憤は…(1/2ページ)

    原爆投下から間もない長崎の街に、「75年は生息不可能」の流言が伝わった。爆心地でアリの群れが見つかったのは爆撃から3週間後、ミミズが姿を現したのは1カ月後だったという。かの地で被爆した永井隆博士が『長崎の鐘』に記している。 ▼生命の確かな強さを示す話は半面、人々の口を伝った話の危うさをも暗示している。語り手の記憶や感情、思想信条、ときには嘘という不純物も混じり合い、事実からかけ離れてゆく。いまの日に突きつけられている「歴史」は、必ずしも史実と同義とは言えまい。 ▼原爆の惨禍を伝える「語り部」にも、偏った思想の持ち主がいる。長崎県島原市の中学校長(59)は昨夏、生徒たちに根拠のない旧日軍の「蛮行」を聞かせる語り部(79)を、たまりかねて制止した。資料の不確かなまま、中国韓国の主張に沿う内容だったという。 ▼「被爆体験でもなんでもありませんでした」。校長の悲憤を、8日付の小紙九州・山口版

    【産経抄】〝偏向〟語り部を制止した校長の悲憤は…(1/2ページ)
    suzu_hiro_8823
    suzu_hiro_8823 2015/08/09
    (別口から)とにかく『災厄』が過ぎるまでひたすら低姿勢(悲惨さのみを強調せよ)という従来通り(´ω`)…ここで反省(省みること)をさせようとしないから3Kとかがいつまでもグダグダぼやくのかも解らんな(´ω`)
  • 【ニッポンの分岐点】日の丸半導体(3)失われた10年+(1/4ページ) - MSN産経ニュース

    □成功体験に酔い戦略描けず 日米半導体協定は日の丸半導体の競争力を徐々にそいでいった。日メーカーは危機感を抱きながらも世界を席巻したDRAMに安住、次の成長戦略を描けなかった。10年に及んだ日米半導体協定は平成8(1996)年に終結したが、そのとき日メーカーはすでに世界の時流から取り残されていた。 ■第2の“終戦” 日製半導体のダンピング輸出を防止するため、米国側が日メーカーに求めたのはコスト構造の開示だった。米商務省はそのデータに基づき、メーカーごとの最低価格をはじき出し、各メーカーの輸出価格を決めていった。 「価格決定権が自分の側になく、自由度が完全に奪われた」。日立製作所で半導体事業を担っていた牧次生(76)はこう振り返る。コスト構造の開示によって日メーカーの実力は競争相手に丸裸にされた。 日市場の開放についても、通産省(現経済産業省)は「政府にとって最重要事項」である

    suzu_hiro_8823
    suzu_hiro_8823 2013/08/24
    ツッコミ所はともかく、メモリを売りたいが為にほかのモノは捨てられたが、次の産業の芽までわざわざ捨てられたことを、なぜS刑は書かないのかねぇ。まぁ、それ書いちゃうと禿電総帥批判になるけどね( ̄▽ ̄)
  • 【産経抄】8月15日 - MSN産経ニュース

    何年か前、産経新聞が読者から「8月15日」の思い出を募った。すると昭和天皇のラジオによる「終戦の詔(みことのり)」いわゆる玉音放送の聞き取りにくさをあげた人が圧倒的に多かった。ラジオの雑音のせいだが、文語調だったこともあり「詔」をすぐに理解できた人は少なかった。 ▼それでも後半の「堪へ難きを堪へ忍び難きを忍び」のところで、大半の人は「敗戦」を悟ったのだそうだ。今CDでその部分を聞いてみると「堪へ難きを」と「堪へ」との間に少し「間」がある。昭和天皇がここで、万感胸に迫る思いを持たれたようにも聞こえる。 ▼一方で「終戦の詔」について「国民に対し忍耐を強いるだけで謝罪がない」という批判があった。だが近現代史家、古川隆久氏は著書『昭和天皇』で、これに反論する。「国民の犠牲に対する尋常ならぬ思いが表現されているのは明らかである」と言うのだ。 ▼それは戦争で亡くなった人やその遺族らに対し「五内(ごだい

    suzu_hiro_8823
    suzu_hiro_8823 2012/08/15
    自称保守(笑)は後ろ向いては「あの頃に戻せ」と訴えてばっかりなような気がするけどな(苦笑)>『将来への「前向き」な姿勢が多く表されていることにも驚く。』
  • 1