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アメリカ大統領選
merubook.hatenablog.jp
◆古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』文春文庫、2008年5月 正直、ぜんぜん面白くない。 語り手の語り方に、まったく合わない。イヌに呼びかける語り方は、気持ちが悪い。そもそも、この語り手はいったい何なのか? イヌの内面に入り込んだり、20世紀の表と裏の歴史をすべて知っているかのような立ち位置といい、何様のつもりなのか。 文庫本には、「あとがき」がついているのだが、この「あとがき」の語り方が、小説の語り手と同じになっている。つまり、語り手の語りが、作者に憑依してしまっている。「冒頭の献辞は、脱稿してから書かれた。そして、わたしがこの本を捧げた人物は二〇〇七年の四月に逝った。これもまた現代史だ。/なあボリス、お前のことだよ。」(p.393) これは、かなり気持ちが悪い。冒頭の献辞とは「ボリス・エリツィンに捧げる。/おれはあんたの秘密を知っている。」というものだ。これだけでも十分に気持ちが悪い
◆東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年3月 従来の純文学を中心として文学史観を相対化するという本書の目的は、達成されていると思う。たしかに、私自身、これまでライトノベルなんて類型的で平板な物語でしかないと見ていたが、そうした見方自体が偏ったものでしかなかったのだ。本書はその偏見が何に由来しているのかと問うている。そこで、「ゲーム的リアリズム」とか「環境分析」など新しい概念や方法論が提示される。 それに、日本の近現代文学の研究で一番弱いところが、いわゆる大衆文学の分析で、たしか何かの本のなかで石原千秋が、構造主義がもっとも力を発揮できる大衆文学の分析があまり行われなかったことを指摘していた。なので、文芸批評に限らず、近現代文学研究でも大衆文学やエンターテイメント系の文学をうまく分析する方法がなかった。本書の登場によって、ようやく大衆文学やエン
許せる? 許せない? 新入社員のあきれた言動 新入社員のあきれた行動が紹介されていて、これはおもしろい記事。将来日系企業に就職する学生もいるから、学生にこういう行動は嫌われるのだよと教えておきたい内容。 それにしても、個人的にはこの調査結果に大きなショックを受けた。というのも、私も節目節目で就職活動をしてきたけれど、どの企業からも内定をもらったことがないのだ。しかし、この調査結果を読むと、たとえば「上司に対しては社内のことで済むのですが、来社されたお客様に対してのものすごいタメぐちには驚きあきれ果てました」といったあきれた行動が紹介されている。こういう人でも就職ができているにも関わらず、どの会社にも就職できなかった私は…と考えるとかなり落ち込む。つまり、私はこのような「あきれた行動」の人たちよりもダメだったということなのか…。面接のときには、けっこうがんばって敬語を使って話したり、挨拶や身
◆斎藤英喜『読み替えられた日本神話』講談社現代新書、2006年12月 日本神話が、各時代の人々がどのように神話を読み、そこから神話をどのように読み替えてきたのかをたどる。 いわゆる「国民国家」批判の類の論文にありがちなタイトルなので、あまり期待せずに読み始めたが、これがかなり面白い。本書は、バカでもできる「国民国家」批判*1の本ではない。むしろ、神話をそうした近代国家批判の中でしか捉えてこなかったことへの批判がある。 神話は各時代にいろいろな読まれ方をしてきた。そして、神話を読み替えたのは、何も近代に限ったことではない。神話を読み、そこから自分たちの手で新たな神話を生みだす。そうした人々の豊饒な想像力に驚かされる。著者は、あとがきのなかで触れているように、中世に生みだされた自由奔放な神話に注目している。しかも、中世の人々は単に荒唐無稽な神話を生みだしていたわけではないことにも注目している。
◆池田晶子『14歳の君へ どう考えどう生きるか』毎日新聞社、2006年12月 基本的にネガティヴ思考で、自分自身を悲観的に見る傾向があるので、たとえば「プラス思考で生きよう」とか「自分を信じよう」という言葉に違和感を覚える。 もちろん、マイナス思考よりプラス思考のほうが人生にとって良いのだろうなあと思う。ああ、こうした考えが嫌なのではなくて、こうした自己啓発的な言葉を臆面もなく公衆に吐く行為が嫌なのかもしれない。 こんな私が、池田晶子『14歳の君へ』を読むと当然、「何か違うなあ」と感じてしまう。この本で説かれている内容に文句はないが、たとえば「もし君が今自分は不幸だと思うなら、今すぐに幸福になることができる。自分は不幸だと思うのをやめることで、今ここで幸福になることができるんだ」(p.177)という文章を読んで、「その通りだけど、なんだかなあ」と思ってしまう私は天の邪鬼なんだろう。 ところ
◆中島らも『ますます明るい悩み相談』朝日文芸文庫、1996年8月 ストレス発散になるような本が読みたいと思って日本から持ってきた本だが、やっぱりこれは面白い。どうして、くすっと笑えるような面白い解答ができるのだろうなあ、なんて悩んでしまう。 本書のなかに、「幻想=夢をうちこわした後にこそ、我々は本当の夢をみつけることができるのです」(p.186)という言葉があるが、これはその通りだと思う。メタ的思考のおかげで、フィクションが約束事であること、そしてその約束事を暴露してフィクションをいかに壊していくのかということが、一部のアカデミズムにおける潮流だ。それに対し、再びフィクションの擁護という動きもあって、私もフィクションを擁護していきたい考えである。フィクションを壊すのは、それはそれで良いのかもしれないが、問題は壊した後はどうするのかということだろう。 「明るい悩み相談」というのは、世の中にあ
◆綿矢りさ『夢を与える』河出書房新社、2007年2月 前2作とすっかり雰囲気が変わっていたのに驚いた。いかにも「小説」らしくなっていて、それは作者の技術が良くなったのかもしれないが、逆に言えば「小説」という枠の中にきれいに収まってしまって、『インストール』や『蹴りたい背中』のときのようなふてぶてしさが無くなってしまっているように思う。 主人公が芸能人ということで、『蹴りたい背中』に登場していたモデルの女性を発展させた小説なのだろう。他者にどのように自分が見られるのかという自意識は、『インストール』以来、綿矢作品の主題になっていて、だから人に見られることが仕事である芸能人が主人公になったのか。 それはそれとして、主人公の「夕子」に、前2作の主人公の女の子に見られた「本能」というものを感じることができなかった。たとえば、思考よりも先に男の子の背中を蹴ってしまうような本能が見られない。 たしかに
大正時代の有島武郎とか、その周辺の文学者、すこしあとだと太宰治のような文学者たちの苦悩は、現代でもすこしも解決されていないのだなあと思う。 たとえば、幸か不幸か「恵まれた」*1環境にいる人がいるとする。そして、彼らがいくらプロレタリアの階層のために、社会変革を求めても、貧しい人たちから「なんだよ、お前ら恵まれてんだろ」といわれて相手にされない。「お前らに、貧乏人の生活がわかるか」と言われるのが落ちだ。そういわれると、たまたま「恵まれて」しまっている層の人間は、何も言えなくなる。真面目な人は、自分が恵まれていることに「罪」の意識なんか感じてしまったりするだろう。たまに、「恵まれた」生活を一切捨てて、ホームレスになってしまうという選択する人もいて、それはそれですばらしい決断だと思う。が、しかし、「恵まれた」環境を捨てなければ、理想社会を追い求められないというのはどうなのか。 問題は、「恵まれた
◆柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年4月 本書では、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」という10の言葉を取り出し、これらが近代になって、翻訳のためにつくられた新造語であったり、もともと日本語の歴史のなかにあったが翻訳語として新たな意味を与えられたものであることを論じる。 いいか悪いかは別の問題として、ともかく私たちは「翻訳語」のおかげで学問や思想を学ぶことができた。だが、一方では日常生活と遊離した言葉であるのも事実で、それゆえに言葉の意味に混乱が生じている。著者は、しばしば翻訳語の「カセット(=宝石箱)効果」ということを指摘する。つまり、翻訳語は、なんだかよくわからないが、きらびやかでありがたそうな言葉に思えてしまう。翻訳語はなるほどたしかに翻訳を効果的に進めてきたかもしれないが、一方で一つの言葉を巡って混乱を生じさせてしまった。
昨日から、「素人」というレトリックについて考えている。「オレは素人だけど…、なのに専門家は×××」といったレトリックのことだ。自分を低い位置に置いて、そこから上位の者をおとしめるテクニック。こういうのが伝統的なレトリックのなかにあるのかどうか知らないが、おそらく多くの人がこのレトリックをブログ上で見かけていると思う。 日本語には謙譲語というものがあって、それは自分を低い位置に位置づけて、相手をうやまうものであるが、上記のレトリックはその反対になるわけだ。 こうした用法とはべつに、もう一つ「素人」という自意識も気になる。誰かを、特にいわゆる知識人や専門家を批判する際に、多くの人は、自分は「素人」であることを強調する。自分は「素人」であるという自意識を、ネットでよく見かけるようになった。いわば「素人」の氾濫だ。氾濫の理由として、「素人」という立ち位置がけっこう便利だからだというのはすぐに想像が
きょうと明日の二日間、北京大学で「北京大学日本学研究国際研討会」という学会が開かれている。週末は家でのんびりしたいので、はじめは行く気がしなかったが、中国の学会がどのようなものなのか興味が出てきて、散歩がてら学会を覗いてきた。 分科会のほとんどが日本語学あるいは日本語教育関連で、日本文学は二つだけだった。日本文学を研究している人があんまりいないのかなと少し残念に思った。 きょうは8つの研究発表を聞いた。正直に言うと、レベルの低い発表ばかりだった。中国人だけではなく、中国や台湾で日本語教師をしている日本人も発表していたのだが、この日本人の研究発表が良くない。自分の経験したこと、こんな授業をやっていますよ、といった話で終わっていた。発表時間がわずか15分と短かったからかもしれないが、研究発表というには中身がない。自分の教授法を発表してもいいが、きちんとそれを分析しないとだめだろう。私の目から見
正直に言うと、中国生活は私に合わないなと思う今日この頃。別に中国が嫌いとか好きとか、そういう問題ではなくて(実際、現時点で私は中国が嫌いではない)、ただ肌が合いそうもないと直感的に思う。生活に慣れたら、この第一印象も修正されることになるかもしれないが。中国語は全く話せないし、理解できないし、中国についてもあまり関心がなかったので、中国に関する知識もそれほどない。おまけに、仕事もうまくいかないとなると、日々ストレスがたまっていく。もしかすると、いわゆる五月病というやつかもしれない。少々鬱気味。―― そんな自分と中国の関係を見つめ直してみて思ったのは、いかに日本では自分がルールに守られてきたのかということだ。ルールはなんでもいい。たとえば、電車に乗るときは、降りる人が優先で、乗る人はあとからとか。そのような日常生活のルールだ。こうした些細なルールでも、それを守って生きていけば、けっこう楽に生き
NHKのサイトで採用情報を見ていたら、「大学院後期博士課程は社会人としての勤務経験と同等とみなします。」という一文を見つけた。たぶん研究職だからだろうけれど。しかし、これは大学院生にとってはうれしいことだと思う。こうやって、一般社会において、博士課程の経験を一種の「社会人経験」と認めていく傾向が生まれることを望む。
いわゆる新人類世代というのは、結局のところ、他人に何かを教えたがる世代なんじゃないかと思う。(もしかすると、世代の問題ではないかもしれないが、とりあえず世代でくくってみる。) 下の世代から見ると、彼らの教えたがり的なところが、非常に厄介というか目障りというか、そんな印象を持つことがある。厄介というのは、彼らは他人にとって良かれと思って、他人に対して教育的に振る舞うからだ。ある意味、彼らの行為は、善意の押しつけなのではと思う。 論争に勝って動機付けに失敗することが多い彼らは、自分たちの行為が、他人に対し自分の考えに押しつけになっていることに気が付いていないからではないか。 いくら正しい考えでも、押しつけられると、カチンとくるというか、不愉快になることがある。相手が非常に正しいことを言っている場合ほど、かつ自分が支離滅裂なときほど、相手の教育的な振る舞いに不愉快になる。なぜなのか。 正しさとか
値段が8万9250円だが、松岡正剛の『千夜千冊』は欲しい。『千夜千冊』の各文章は、どれも少々長いので、パソコンの画面で読むのがつらかった。なので、本で読めるようになるのはうれしい。北京にある図書館でも、この本を購入してくれれば、私も借りて読むことができるのになあ。働いてお金を貯めて、日本に帰ったら購入することにしよう。
『明暗』に登場する一風変わった人物である「小林」の言葉を、このまえの日記で引用した。というのも、小林の状況と今の自分自身の状況が似ているではないか、と思ったからだ。このまえ引用した部分のつづきをみてみよう。 小林は、《「僕は君の腹の中をちゃんと知つてる。君は僕が是程下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい服なんか拵へたので、それを矛盾だと云つて笑ふ気だらう」》と津田に絡みつづける。いい加減面倒になった津田は、《「さうか、そりや悪かつた」》と適当な返答をする。すると小林はちょっと態度を変えて、《「いや僕も悪い。悪かつた。僕にも洒落気はあるよ。そりや僕も充分認める。認めるには認めるが、僕が何故今度この洋服を作つたか、その訳を君は知るまい」》という。 その理由はとは何か。小林は、「朝鮮」に行くからだと答える。小林は、それまで雑誌の編集をやったり、校正をしたり、その合間に自分の原稿を書
漱石の『明暗』に、貧乏で社会主義的な思想を持つ「小林」という不気味な男がいる。今風に言うなら「負け組」にあたる人物とでも言おうか。ともかく、漱石の作品に似合わないキャラクターで、研究者にはウケがいいというか割と注目されている登場人物だ。その「小林」が主人公の「津田」に向かって吐く言葉は、現代の視点から読んでみても鋭い。 「君は僕が汚い服装をすると、汚いと云つて軽蔑するだらう。又会(*たま)に綺麗な着物を着ると、今度は綺麗だと云つて軽蔑するだらう。ぢや僕は何うすれば可いんだ。何うすれば君から尊敬されるんだ。後生だから教へて呉れ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
よくよく自分の心に照らし合わせて考えてみると、私自身の不安は、たとえば宮台真司氏が唱えるような「過剰流動性による不安」にあるのではない。むしろ、流動性と言われているのに流動的ではないところに不安がある*1。つまり「硬直性」の不安だ*2。 これに対し、「歩行と記憶*3」ではもっと「過剰流動性」を進めるべきと述べていて、それはおそらく正しい。しかし、kuriyamakouji氏は「過剰流動性」のために、「自営」か「自営と変わらない働き」をしたほうがいいという。これは物事の半面しか見ていないのではないか*4。 「過剰流動性」よりも「硬直性」に不安を抱く私にとって、自営をしても不安は解消されない。自営に失敗して、別の道に進もうとしても「硬直性」のある社会では、その変化が難しい。過剰に流動的であるのなら、おそらく自営から会社員、さらに自営へと次々に移動できるはずだが、おそらく事はそう簡単にいかないの
「内田樹の研究室: 第一回ヨンヨン学会」のエントリーが興味深い。正確には、ここで語られている「冬ソナ」論が面白いのではなく、その分析に「能」を引き合いに出して比較していることが興味深いのである。 きちんと調べたわけではないので、単なる勘違いかもしれないが、内田氏は物語を論じるときにしばしば「能」を引き合いにだすことが多くないか。このエントリーでは、「あまり知られていないことだが(私が昨日思いついたのだから)、『冬ソナ』は複式夢幻能と同一の劇的構成を持っている」と主張する。そして、以下「冬ソナ」を能に見立てて読み解いている。―― 内田氏に限らず、文芸評論を読んでいると、「〜〜は能と同じ構成である」といった分析を見かけることがある。「死者」とか「夢」が主題になる物語では、能の形式と比較すると案外うまく分析できるのかもしれない*1。内田氏の分析が面白いのは、能の形式が何も日本の文芸のみならず、外
「小説読者の質は果たして落ちたのだろうか*1」について、少し考えることがあったのでメモしてみる。 佐藤亜紀の「この世からは小説を読むための最低限のリテラシーさえ失われてしまったらしい」という意見に対し、筆者は違和感を覚えるという*2。その理由として、「「昔」とか「かつて」が「上等」で、「現在」や「いま」が「劣等」であるという議論は、気をつけたほうがいい」からだとする。そして、メルヴィルは『白鯨』以降の作品で、同時代人に評価されなかったことや、ホーソンも当時の「センチメンタル・ノベル」に対し、うらみつらみを日記を書いているなど例に挙げ、昔から「エモい人」はいたのだと主張する。そして、いつの時代も「小説の質」は低いのだという。 これは、はなはだまずい書き方だと思う。これだと、あらかじめ「小説の質」なるものが存在しているかのような印象受けてしまう。だが、筆者はすぐ近くで、こうも言っている。すなわ
自分は他人のブログを正しく評価できると思い込んでいて、あれはくだらない、あれはすばらしいとか書く。 自分は正しく他人のブログを読んでいると思い込んでいる理由が実際は精読によるのではなく、個々のインフォメーションの集積によっている(気が付いていない)。 つまらないエントリーを書いてしまった自分に恥じてこっそりエントリーを削除(修正)し、これはよいと思ったエントリーを自らブックマークするが、それは単なるコレクションだと言われるとむっとする。 ブログを読んで感動できる自分がとっても好き。その割に他人が感動しているのが大嫌いでいろいろなんくせをつける。 ブログを書くことによって得られるものはといった議論が好きでやたらと難解にする。 $梅田望夫のブログとか読んでみる……なお、$梅田望夫は変数で、近藤淳也とかいろいろ代入可能(自分をそれらと同一視したいファンちうことやね、結局)。 2ちゃんねるとかはて
朝日新聞に「フリーター 「氷河期」の若者を救え」という社説があった。そこでは、「今後は、とくに「就職氷河期」と呼ばれた時期の波をかぶったフリーターに対する手厚い支援が求められる」という。そして、こう提言する。 民間企業も積極的に取り組んでほしい。企業の業績が回復したのも、正社員の給与を抑える一方で、新卒の採用を抑制し、派遣社員やアルバイト、パートを雇うことで人件費を削ってきたからだ。業績回復の陰で割を食った若者に、再挑戦する機会を設けるのは、企業の社会的責任ではないか*1。 そこで、朝日新聞社の「採用情報」を見ると、2006年の春の社会人採用募集があった。その条件を見てみよう。 いずれも、企業、官庁、各種団体などで勤務経験がある方が対象です。 「隗より始めよ」というわけで、もしかしたらと期待したが…、現実社会はこんなものだろう。強いていえば、年齢制限がないのは良心的かも。 *1:http:
本屋で今週の『読売ウィークリー』(2006年6月18日号)を立ち読みする。「バブル再来!06「就活」」という記事がある一方で、このあいだ起きた「海洋学者」一家の事件の記事もあり、その二つの記事が気になったのだ。 「就活」の記事は、大手企業だけではなく、業界2番手、3番手あたりの企業に行く人には、楽々内定が出ているという内容。この前の『Newsweek』の記事の内容と同様に、大手企業や職種にこだわってしまう人は、苦戦してしまうらしい。そんなわけで、楽に内定を取れる人と、なかなか内定が出ない人の二極化が起きている。バブル期の反省から、企業が採用にあたって学歴や出身校よりも人物重視になっているといわれるが、とはいえ入社してから学歴で差別化されているともあって興味深い。 結局、今年の就活は売り手市場なのだから、「数打ちゃ当たる」ということではないだろうか。エントリーの時に会社を選択するのではなく、
◆原広之『バブル文化論 <ポスト戦後>としての一九八〇年代』慶應義塾大学出版会、2006年6月 私にとって常々、80年代やバブル期のカルチャーは憎悪の対象であり、それゆえに80年代論に強い関心を持っている。特にバブル期の現象など、私にとっては揶揄の対象でしかない。本書で取り上げられ分析されているモノや人を読みながら、本当に愚かな時代だったのだなとあらためて思う。 こんな思いがあるので、私は80年代やバブル期をいまだに冷静に見ることができないのだが、本書は郷愁でもなく揶揄でもなく80年代を捉えている。本書では80年代を、戦後との混沌期である80年代前半、それから戦後との断絶期にあたる84年から86年、バブル期への移行期間である86年から88年、そして88年から93年のバブル文化期に細かく分節化して分析しているのも興味深いし、なにより「歴史」をいかに描くのかという、ある意味坪内祐三の本と同じ問
『Newsweek(日本版)』(2006年6月7日)に「学歴難民クライシス」という特集があると知ったので、さっそく本屋に行って買ってきた。 記事によれば、一流大学を卒業しても、あるいは大学院を修了しても仕事にありつけないのは、日本に限らず今や他の先進国によく見られることだという。 高学歴者の就職難民化は、先進国共通の問題だ。韓国では大卒以上の失業者が33万人超に達し、ドイツでは年間の新卒者数に匹敵する23万人の大卒者が失業している。ブレア政権が大学進学率の向上を推進したイギリスでは、単純労働の仕事しか見つけられない高学歴者が社会問題化している。進学率の上昇で高学歴人口が増え、高学歴者同士の生存競争が激しくなっているのだ。(p.26) この記事のなかに出てくる事例は、私自身の状況とまったく同じなので、他人事ではない。この記事の内容は、結局学生側の意識に問題があるような流れとなっていて、当事者
◆橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』集英社新書、2005年11月 冒頭の「はじめに」で書かれていることは、けっこう共感できることが多い。 たとえば、今の日本社会でおかしいと思うのは、「勝ち組・負け組」という二分法の考え方が現れたこととか、勝ち組とか負け組とか本当はどうでもいいことなんだけど、社会に向かって何か物を言おうとするなら、たちまち「負け組の欲求不満」と位置づけられてしまい、一旦「負け組のひがみ」と位置づけられると、「なにを言っても"負け組のお前の言うことには意味がない"とジャッジされかねないところ」からスタートしなければならないこととか、「勝ち組・負け組」という考え方は「思考の平等」を侵しているといった点などだ。 しかしながら、本文はやや期待外れだった。要するに、「勝ち組・負け組」といった考え方の登場は、バブルがはじけて、人々が頼るべき指針を失い不安になったために、結
『論座』2006年6月号に、「国立大学、3年目の回答」という特集がある。そこに広田照幸氏が「危機に瀕する研究者養成の場 人文・社会科学系大学院の現在」という論文を書いている。ここで、現在の大学院生の置かれた状況が論じられていた。 広田氏は、自身の経験から、現在の大学院がかつてのようは研究者の養成の場から「教育」の強化へと進んでいると指摘する。そして、その動きが、はたしてすぐれた研究者を育てることになるのかどうか疑問を呈している。 「教育」といえば、先のニュースでも、文科省が「徒弟制」の一掃を目指す大学院の改革を行うというものがあった。これによって、大学院がますます研究者の養成から「教育」の場として強化されていくのだろう。しかし、いくら学生を教育したところで、根本的な問題すなわち大学院生・若手研究者の供給過剰という問題を、文科省はどうするつもりなのだろう? 91年に大学審議会の出した「大学設
博士課程修了および中退者が、アカポス以外の道に進む際に、それを支援する組織があると良いのになあと最近考えている。こんなことを言うと、世間からは「自己責任だ」「甘えるな」とか言われそうだけど。しかし、博士課程を数年過ごした人が何らかの事情で進路を変えなければならなくなったときに、別の道に進むのがかなり困難なのが実状である。理系とちがって、文系は民間に研究所があるわけでもないので、文系の博士卒(中退者)はとりわけ厳しい。だから、すき間産業ではないが、こうした悩める人を支援する組織があってもよさそうなのにと思う。 どうも、民間の就職・転職サイトでも、もちろんハローワークを中心としたところでも、こうした人たちの対応には弱いのではないかと感じている。というのも、就職斡旋に従事する人の多くは、大学院の博士課程の事情に疎いのではないか。これからは、第2新卒、既卒、のほかに博士卒のようなカテゴリーがあって
今、必死に就職活動している。早く仕事にありつきたいからだ。その際、就職サイトを利用している。使ってみると、これがけっこう便利だったりする。とはいえ、さっぱり成果があがらない。応募しても、翌日には「残念ながら貴意に添えません」という例のテンプレメールが届く日々。活動を始めた当初は、このテンプレが届くたびに、存在価値を否定されたような気分に陥ってかなりショックを受けていたが、最近は落ちるのが当然と思っているので、あまりショックは受けなくなった。こんなことに慣れてしまって良いのだろうかと疑問に思うけれど。 しかし、就職活動をやってみるといろいろと考えることがあって、苦しいけれどおもしろい。これまで未知であった世界の仕組みが見えてくると言ったら、ややオーバーかもしれないが、そんな印象がある。 たとえば、就職サイトを使って、求人情報を見ているが、たいていの会社は、「人間性を重視します」とか「コミュニ
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