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2013年08月11日13:23 カテゴリ本 近衛文麿とポピュリズムの悲劇 安倍首相をみていると、近衛文麿を思い出すという人が多い。日米開戦を実行したのは東條英機だが、彼はその立場からして他の選択肢がなかったのだから、そこまで事態を行き詰まらせた近衛の責任は東條より重い。 彼が首相になった1937年には政党政治は崩壊し、近衛は「総動員体制」のヒーローとして国民の人気は高かった。参謀本部は不拡大方針だったが、近衛は「爾後国民政府を対手とせず」という近衛声明を出し、これによって日中戦争は収拾できなくなった。さらに対英米戦争に拡大しようとする勢力とそれを避けようとする勢力が閣内で対立し、第1次近衛内閣は倒れた。第2次近衛内閣では、すべての政党は大政翼賛会に合流した。日独伊三国同盟を結ぼうとする松岡洋右に対して、近衛は日米交渉を続けようとしたが、陸軍が南部仏印に進駐したため、アメリカは石油の対日禁
憲法論議が盛んになって来ているようであるが、今のようなレベルの議論でいいのか、それで本当に「国家百年の計」となり得るのか。現憲法を一つのマニュアル書として、その数条項の内容を変えるようなやり方でいいのだろうか。 現憲法は、元来、絶対王政の国王の権力を制限するところから生まれた所謂英米法に基づいており、その根本の思想は憲法によって国家権力を制限し、国民の自由を保障しようとする立憲主義とされているが、このような古色蒼然とした洋皿に日本の精神という料理が盛りきれるのだろうか。和の料理にはやはり和の器がふさわしいのではないか。 ここで考えられている国家とか国民とかは一体どのような概念なのか。この問に明確に答えることが出来るのか。単なる臆見(ドクサ)ではないのか。国家あるいは国民とはいかなるものか。国家あるいは国民という概念を規定する場合、少なくとも次のようなことが考えられなければならない。 日本の
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