池田信夫氏の「『学校社会主義』を卒業して教育の自由化を」や、井上晃宏氏の「こどもの教育が一条校である必要はない」は、抜本的な改革としてはまったく賛同できるが、いち教員である私は、既存の学校教育の枠内での議論をもう少しだけつづけたい。 分数ができない大学生は、ゆとり教育の問題ではない。分数はゆとり教育でも教えていた。問題は、「問題を解くことができる」という学習内容の「習熟」を否定した「新学力観」である。この「新学力観」は、「習熟」よりも「興味・感心・意欲」に重きをおく、つまり「姿勢が大事」という価値観である。語彙や計算等の習熟は「つめこみ」だから問題だ、という風潮を学校に蔓延させた。 問題は「新学力観」である 新学力観とは、1989年改訂の学習指導要領で採用された学力観である。知識や技能を子どもたちにひとしく身につけさせるのではなく、子どもたち自らがものを考え、社会の変化に対応できる能力の育
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