[サッカー女子・アルビ新潟L]今季無敗のホーム!士気も高い!強敵倒しタイトル獲得に弾みを・3月10日、日テレ東京V戦
[サッカー女子・アルビ新潟L]今季無敗のホーム!士気も高い!強敵倒しタイトル獲得に弾みを・3月10日、日テレ東京V戦
熊本大で見つかった解剖名簿=熊本市中央区の同大臨床医学教育研究センターで2013年5月9日、澤本麻里子撮影 熊本大医学部は9日、前身の熊本医科大が1927〜29年、九州療養所=現・国立ハンセン病療養所菊池恵楓(けいふう)園、熊本県合志(こうし)市=の入所者の遺体から骨格標本を作製していたと発表した。標本は第二次世界大戦中の空襲で焼失したとみられ現存していない。専門家は「遺族の承諾を得ていない可能性があり重大な人権侵害」と指摘している。【澤本麻里子】 ハンセン病を巡っては2005年に胎児標本が療養所などで保管されていたことが判明、国が謝罪している。菊池恵楓園入所者自治会は9日、園に対し遺体提供を裏付ける資料などの調査を文書で要請した。 熊本大医学部によると4月下旬に学内資料を調査した際、一般の解剖者名簿とは別に、ハンセン病患者だけの解剖名簿が見つかった。 1927〜29年に43体を解剖
ハンセン病:患者監禁施設「重監房」、負の遺産として復元・展示へ 栗生楽泉園入所者、基本計画を了承−−厚労省 /群馬 厚生労働省は8日までに、国立ハンセン病療養所「栗生(くりう)楽泉(らくせん)園」(草津町草津)で半世紀以上前に患者を監禁した施設「重監房」を負の遺産として復元し展示する基本計画案を取りまとめ、同園の入所者代表らの了承を得た。今後、入所者らによる重監房の運営委員会を設置し、事業計画を決め、来年度完成を目指す。 同園などによると、重監房は8室の独房からなり、1938〜47年に「規律違反をおかした」などとしてハンセン病患者92人を監禁した。冬に気温が氷点下になっても暖房器具はなく、食事も満足に与えられなかったため、22人が凍傷などで死亡した。 同園の藤田三四郎自治会長(86)は終戦直後の47年、初めて重監房に足を踏み入れ、「この世にこんなひどい場所があるのか」と絶句したという。すで
印刷 新たに見つかった文書。「無らい県運動」に関するものとみられる=熊本県提供 ハンセン病患者の強制収容や隔離をするため、昭和初期から30年代まで官民一体で進められた「無らい県運動」に関するとみられる文書が熊本県庁の書庫で見つかった。蒲島郁夫知事が30日、発表した。隔離政策の検証に取り組む元患者らは当時の文書の開示を県に求めてきたが、県はこれまで「資料は残っていない」と説明していた。 県によると、見つかったのは県内の患者の氏名や自宅住所を記した文書、患者の家族に関する書類など10点。昭和20年代後半〜30年代に作られたとみられ、県が「無らい県運動」に関与したことを裏付ける資料である可能性が高いという。今月7、23の両日、県職員が書庫で見つけた。 県は「当時の文書は残っていないという思いこみがあった。今後も調査を続けていきたい」としている。 購読されている方は、続きをご覧いただけます
生産的労働を前提とする現代社会の人間観に、障害当事者はいかに立ち向かうか。排除と隔離の論理に対する批判と抵抗の原理を、これまでの日本やイギリスでの運動・研究をふまえ、「共生」というキーワードのもとに捉え直した、新しい障害学を呈示する。 まえがき 共生へのことば(1) 難病からの障害を持ち地域で共に生きる(木崎美千代) 第1章 自立生活の多様性を求めて――沖縄県宮古島市を事例にして(岩田直子) はじめに 1 沖縄県の歴史、文化、社会 2 宮古島市の概況 3 宮古島の障害者の暮らし 4 宮古島の障害者の暮らしからみえてきたこと おわりに――土地の力を信頼して創り出す宮古島流の自立生活 第2章 日本における障害学の源流としての青い芝の会の思想――「われら」の地平と障害学(頼尊恒信) はじめに 1 日本における障害者運動の原点――青い芝の会の生成と崩壊 2 われら――共なるいのち 3 「御同朋」と
◇「生きて辱め受けず」豪の収容所脱走 国立ハンセン病療養所「邑久(おく)光明園」(岡山県瀬戸内市)で暮らすハンセン病回復者の立花誠一郎さん(90)は、第二次世界大戦で豪州・カウラ収容所に収容された。集団脱走を図った捕虜多数が死亡した「カウラ事件」など、戦争体験を若い世代に伝えてきた。日米開戦から70年が過ぎたが、「戦争の真実やハンセン病患者が受けた差別の日々を、体が砕けるまで語りたい」と語る。 魚雷やオートバイの部品を作る名古屋市の工場に勤めていた立花さんは1941年12月8日、職場で同僚から開戦を聞いた。「やっぱり始まったか」という思いだったという。翌42年、通信兵として旧満州(現中国東北部)へ。各地を転戦し、パプアニューギニアでの戦闘中に敵に捕まり捕虜として豪州に送られた。 収容所でハンセン病を発病。他の日本兵から隔離された場所に天幕を張って暮らしていた44年8月5日未明、日本軍の突撃
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く