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自由に関するaozora21のブックマーク (10)

  • ショーウィンドー越しに「手の届かない自由」を眺める - シロクマの屑籠

    現代社会は個人の自由が尊重された社会、といわれている。実際その通りかもしれない。昭和時代に比べれば、私達はイエの事情や地域のしがらみに縛られることなく、自由に職を選択し、自由に住まいを選択できる。結婚相手も自由だし、そもそも結婚しない自由というものもある。そういえば、「恋愛するのが若者として当然」という、一時期の、あの陶しいほどの空気も大分希薄になった。結構なことだと思う。 こうした自由な社会のなかで、水を得た魚のように活躍している人達がいる。仕事を選び、住居を選び、パートナーや友人を選び、どこまでも伸びていく人達。あるいは困難なトライアルに挑みかかっていく人達。『ニートの歩き方』を書いたphaさんのように、ちょっと風変わりな生き方に自由を用いる人達もいる。これまた結構なことだと思う。 では、こうした自由は、私の、あなたの手のうちにどの程度あるだろうか。 “素晴らしき自由人達”から自分自

    ショーウィンドー越しに「手の届かない自由」を眺める - シロクマの屑籠
    aozora21
    aozora21 2012/10/15
    一人娘として進学も結婚も親の言うとおりにした人が、「親のための人生じゃない」と親から遠く離れた私が今頃になって親の老後を気にしているのを、それ見たことかとwわらいやがって。
  • 自由とリスクとベネフィット - rna fragments

    リスクのほうはわかるんだけど、ベネフィットの理屈がわからんのよ。 純粋に「蒟蒻畑が好き」っていう人もいるわけだよね。ゼリーより固くて、グミより柔らかい、あの感は独特だから。ベネフィットの第一は「好き」だと思うのですよ。「好き」というベネフィットをことさらに低く評価する理由はないのではないかなあ。好き嫌いというのは、大きな動機だから。 PSJ渋谷研究所X: こんにゃくゼリーは当に危険か:受益と危険の不均衡【追記あり】 コメント欄 亀@渋研Xさんの「リスクとベネフィットの対比で考えなきゃ」「(こんにゃく菓子は)ベネフィットがかなり小さそう」という論点について、きくちさんは「「好き」という利益の見積もりが低すぎると思う」と疑問を投げかけています。 自由主義の立場から見るとベネフィット/リスク比が低いから規制していい、というのは危ういと思います。そもそも他人が想定するベネフィットはせいぜい大勢

    自由とリスクとベネフィット - rna fragments
    aozora21
    aozora21 2008/10/10
    『蒟蒻畑の製造停止は残念ですが、そうすることでニュースになりこんにゃく菓子のリスクが周知のものになるなら、悪い話ではないかもしれません。いずれ条件が整って製造再開するなら』
  • 「フリーダム(freedom)」と「リバティ(liberty)」 - REV's blog

    「フリーダム(freedom)」と「リバティ(liberty)」は、ともに自由と訳される。現在、この二つの語はほぼ同じ意味で用いられるが、その意味合いは微妙に異なっている。フリーは古英語のfrēoに由来し、束縛や拘束がなく義務を免除された状態、すなわち自由の消極的側面 (しなくてよい)が強調される。一方リバティはラテン語のlibertasが語源であり、選択や行動・発言の権利が保障された状態、つまり積極的側面(してよろしい)に比重が置かれる。 自由 - Wikipedia http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20071119/p1 無政府状態のソマリア、警察権力の及ばないヨハネスブルグなんかがフリーダム、合衆国(が目指す、自称する)ところがリバティー、という解釈でいいのかな。権力には抑圧がつきもの、というところから敷衍して、目指すところはフリーダムっぽい人を散

    「フリーダム(freedom)」と「リバティ(liberty)」 - REV's blog
  • サルトル哲学における自由とは - 猿゛虎゛日記

    やねごんさんの、「自由」にかんするたいへんわかりやすい記事 http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20080706#p1 に かんれんする かしょを『図解雑学サルトル』(ナツメ社) 図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ) 作者: 永野潤出版社/メーカー: ナツメ社発売日: 2003/08メディア: 単行購入: 6人 クリック: 145回この商品を含むブログ (44件) を見るから いんようしてみる。 ちょしゃの りょうかいのもとに漢字をへらして かきなおした。 ■(90ページ)自由と不安(1) ●がけの上のわたしには、「がけからおちる可能性(かのうせい)」がある サルトルは、にんげんの自由(じゆう)と不安(ふあん)のかんけいについて、つぎのような せつめいをする。 わたしが、たかい断崖絶壁(だんがいぜっぺき)に そった道をひとりで あるいているとしよ

    サルトル哲学における自由とは - 猿゛虎゛日記
    aozora21
    aozora21 2008/07/13
    『くそまじめの精神(せいしん)』
  • 表現/言論の自由とか、そんな大げさなことではなくてさ。 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は

    これを読みました。→子供の泣き声が、別人の俺を突き動かすんだ… 俺は俺以外の誰かの衝動を止める事は出来ない - heartbreaking. あと、そのブクマページ。→http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/hashigotan/20071217/p1 ま、なんと言うか、fromdusktildawnさんのコメントの通りで、「この程度のものすら表現する自由がないとするとネットの魅力は半減だな」ということですね。 少なくとも、通報する云々のレベルじゃないでしょう、と。gooブログではどう(だった)か分かりませんが。 たぶん僕自身は、どちらかと言うとhashigotanさんから殺意を向けられる側の人間なんだろうと思うのですね。そういう自覚もあって、hashigotanさんの件にはこれまで触れてきませんでした。これからも取り立てて何かを

    表現/言論の自由とか、そんな大げさなことではなくてさ。 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は
    aozora21
    aozora21 2007/12/19
    『殺意を抱くということと、実際に傷つけてしまう/殺してしまうことには、大きな隔たりがあります。』
  • http://d.hatena.ne.jp/kusamisusa/20071219/p1

    aozora21
    aozora21 2007/12/19
    『人間を告解室にぶち込んで言い訳させて上手い事やると、権力を内面化した近代的自律的主体が出来上がる』そうでつね。
  • 坂のある非風景 列車は始発駅を目指した

    私は、他者によって所有される。他者のまなざしは、私の身体をその裸形においてとらえ、それを生まれさせ、それを彫刻し、それをあるがままに提出し、私には決して見えないであろう姿のままにそれを見る。他者は、一つの秘密を握っている。それは、私が何であるか[私がそれであるところのもの]についての秘密である。他者は、私を存在させ、まさにそのことによって、私を所有する。 <ひとはいつ愛し始めるのか、それは相手に愛されたいと望んだ瞬間である>とか<愛撫とは加工である>といった、けっこう知られた命題のある『存在と無』は、ハイデガーの『存在と時間』に対抗しながらまったく違う書物になった。キルケゴールの『あれかこれか』がモーツァルト論であり婚約者との奇妙な恋愛日記でありといった混在物なのと同じで、『存在と無』は現象学入門であり、それまで自分が考えてきたものの集大成としての存在論であり、かつ小説であり、なぜ恋愛論と

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    aozora21 2007/12/16
    『「人は自分から自由になるために自分を貫いてゆかねばならない』
  • 「ウェブの自由」の範囲について - novtan別館

    先のエントリ、ウェブは公共空間(断言) - novtan別館は例によって携帯から書いたため、上手くかけていないところがありますね…。で、今回はその続き的なエントリ。 いわゆる自由ってのは留保の無い行動の肯定ではなくて、コメントでも指摘していただいたけれど、ウェブって現実よりも質的に遥かに公共性が強い空間なんですよね。前、こう書きました。 Webでは機能的に住み分けることは現状不可能。なんたって参照言及引用を楽にするためのシステムですから。 Webでの住み分けは可能か - novtan別館 こうも書いた。 果たしてウェブの表現の自由とは。テキストすなわち言論であると言うところに立脚すれば、ウェブで何かを書く場合、すべからく言論行為として受けての便宜を心がけるべし、となるのでしょうが、説明可能な言論のみがウェブに発表されるべきである、と言うことはないと僕は考えます。それだけだと、例えば「これ

    「ウェブの自由」の範囲について - novtan別館
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    aozora21 2007/12/08
    『ウェブにこそ強固な建前合戦が必要…って、そんなの嫌ですね。ストレートな罵倒合戦なんかも存在しうるべきだし。ここの折り合いをどうつけるか、についてはもう少し考えて見たいと思います。』
  • 人生について - 雑種路線でいこう

    最近ちょっと悩んでいる。自分のやりたいこととか、よく分からない。やってて楽しいことはある。やるべきこともある。いまの自分にできていないことも見えている。けれども、やってて楽しいことを追っかけて、やるべきことをやって、できていないことを埋めていくのが人生か? どこか人生というと何か目的的だが、一生は人間だけではなくアメーバにも狸にも同じようにあるのだ。きっと人間だって他の生き物と同じで、人生に理由なんかいらない。理由を求めるのは単なる自己満足だ。それはそれでコギト・エルゴ・スムか。 僕はシガラミや子があるから先が見えなくても闇雲に走り続けざるを得ないと思い込んでいる。壇一雄よろしく「親があっても子は育つ」と思っていたが逃げ損ねた。負け惜しみのようだが、僕は自由に生きていたら、もっと自堕落な人生を送っていただろう。どちらが幸せかは分からないけれども。 正直なところ自由な社会が人間の望む何かな

    人生について - 雑種路線でいこう
    aozora21
    aozora21 2007/12/03
    『人は何より自分の考えや大切にしているものから不自由なのだから。』
  • 大屋雄裕著 『自由とは何か』 - 犯罪被害者の法哲学

    犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。 優れた思想家は、従来の単語では物足りず、「それ」を表現するために独自の用語を生み出すものである。大屋氏にとっては、「近代法の逆説」がそれであるが(p.95)、これはかなりの傑作である。近代法の逆説に気が付くか否かで、私的なルサンチマンを高貴な思想と勘違いする過ちを防ぐことができるだろう。人権に対する危険が政府の存在に先行していなければ、そもそも人間は社会契約など結ぶ必要もない。国家とは、個人の自由を侵害すると同時に、個人の自由の守り手でもある。従って、国家権力に抵抗するという単純な人権論だけでは、他の暴力的な市民からの侵害を排除できないことになる。自由を確保するには、過剰と過小という二重の危険の間の隘路を探すしかない(p.96)。 人権論のパラダイムにおいては、事前規制

    大屋雄裕著 『自由とは何か』 - 犯罪被害者の法哲学
    aozora21
    aozora21 2007/11/25
    『責任を負うことによって人間は自由な個人となる』
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