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  • 坂のある非風景 メモへのメモ

    それが言いたいわけ - メモ こういうことです - メモ 言及されたものの、最初は何を言われているのかわからなかった。誤解などないという前提に立てば、私が書いた事柄が届いたのである。しかしそれが何か、私は何を書いたのか、書いたもの自身には届くことができない(確か「なぜ目標は遠ざかるのか」は、アッキーさんに誘われるがままに書いたような気がするが、今では定かではない)。 そんなことは普通のことだ。かつて、ジジェクの「厄介なる主体」という書物について、論の中心になっているデカルトは、もしこのを読んでも誰について書いているのか、さっぱりわからないだろうという話をした。そのとき、私たちが出会いたいデカルトはどちらのデカルトなのか、そういう問いが生まれる。 現実に生きていた生身のデカルト(という幻想)か、ジジェクの書物の中に解釈され君臨するデカルト以上のデカルト(という幻想)か。 それでこのaozo

    aozora21
    aozora21 2008/06/14
    『嘲笑や侮蔑』を読み取った覚えはないですが…私は競争しないことが平等に繋がると思ってないのに記事を送ってくださったので「そんなわかりきったことを」と書いたのでした。
  • 坂のある非風景 対立しないものとさえ重なること

    インド人たちを兵隊として集めて、彼らに銃を配る。するとそれまで槍しか持ったことのなかったインド人たちが、こんなに短くて重い槍は使えないと言う。そういうエピソードをどこかで読んだ。マルクスの『東インド会社』だろうか。それを引用した吉隆明だろうか。ヨーロッパというか植民地支配は、画期的な武器をもたらした。それを活用することによって、かつて槍によって手に入れていたのとは比較にならない快楽と苦痛がもたらされた。 ある支配(上部構造)がどうやって共同体を解体していくのか。そこに消え去るもの、それでも解体されずに、変質しながら残されてきたもの。それが歴史としての近代だった。支配から、過剰な快楽は、何かが消されたことによってやってきた。それは残されたものからやってくる過剰な苦悩とセットだった。 見捨てるものは、別の日には救うものとしての権力であること、あるいは、救うものは、別の日の見捨てる権力であるこ

  • 坂のある非風景 - FC2 BLOG パスワード認証

    aozora21
    aozora21 2008/05/20
    『作品は、私たちの狂気と正気を分ける社会学的な、心理学的な価値軸の届かない空間で成り立っている』
  • 坂のある非風景 地下鉄にて

    学問というか、知識もファッションと同じ「見かけ」に属するものなので、いつまでもそれにかかずらう【係う・拘う】ことができる。意味のあることをしていると思いこむことができるのは、周りのみんなもそうしているという単純な理由からというよりも、<人間の内部の空無は外見によってだけ満たされる>という普遍の公式によっている。 新しい学問は、たとえばとんでもない場所にするピアスとか、タトゥーみたいなものだろうか。それははやるときもある。 地下鉄の中で若い女性たちの会話に出会った。「あんたケンソンって知ってる?」「言ってくれたらわかる」「それって知らんということじゃないの?」。彼女はケンソンの意味を説明することになった。「”わたしそれほどでもないです”みたいなやつ」「ああそれね、知っとった」 こんなせりふ【台詞・科白】があった。「意味分からん、ぜんぜん意味分からんかった。もし意味作っとったら、顔に出とったわ

    aozora21
    aozora21 2008/05/11
    意味がないことはこの世に無いと思っている。
  • 坂のある非風景 否認は避妊か

    ヘルムート・コールは、遅れて生まれてきたためにホロコーストに関与できなかったドイツ人の苦境を簡潔に表現するために「遅れて生まれたことの恵み」という言葉を使った。そのとき、多くの評論家は、この表現は道徳的あいまいさと日和見主義を表しており、今日のドイツがホロコーストの責任を回避できるということをいわんとしているとして、それを拒絶した。しかし、コールの表現は、バーナード・ウィリアムズによって「道徳的運」と名付けられた、道徳の核にある逆説に触れている。 道徳的な態度が維持されるのは、けっきょく、運なのだという見方があるのは、道徳は、行為の偶発的な結果に依存するほかないということを歴史が明かしているからである。別にホロコーストを例にとる必要はない。私たち(の大多数)は過剰な快楽や誘惑に、あるいはとんでもない拷問や国家的な洗脳にさらされないという運に恵まれて、はじめて尊厳ある道徳家の姿勢を貫くことが

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    aozora21 2008/05/10
    『ましてや社会人の尊厳の意識は、脱落者に依存している。厳密には「感性的なもの一般」に対する否認に依存している。立派な人は、なぜそんな本質的なものを否認できるのか。』
  • 坂のある非風景 育ちかけの林檎の木

    隆明を介して出会う吉隆明 JAP on the blog(09/06) その亡霊、その模倣 miya blog(08/22) 中上健次は語る 南無の日記(08/11) ブランショを月明かりにして歩く 愛と苦悩の日記(01/21) 作品は過大評価を求めつづける 青藍山研鑽通信(12/01) 十一月の白さは、その白さに尋ねなければならない M’s Library(11/09) 十一月の白さは、その白さに尋ねなければならない 僕等は人生における幾つかの事柄において祈ることしかできない(11/07) 停滞すべき現在さえ 斜向かいの巣箱(10/22) 東京旅行記 #4 azul sangriento(09/23) 東京旅行記 #1 南無の日記(09/21)

  • 坂のある非風景 仕事の発見

    「行きたい方角とは違う方にすこしずつカーブしてゆく」道、だけが道である。決然とした選択によって出来上がるのは夢物語だけだった。過去にそんな夢を与えたくなるときは、未来がなくなったときで、多くの老境が、過去を夢とする作業に目覚めはじめる。つまり「SF」、未来の夢物語の背後には過去の夢物語が、「自伝」がはりついている。 ずるずると不可避的な流れに流されながら、そこで私自身と出会うこと、それが仕事を作り出す。 江戸川、荒川、中川、新中川といった大きな河や用水路をはじめ、いくつもの小さな川が流れる、東京・千葉・埼玉にまたがるこの低地帯を、西の武蔵野に対する「葛飾野」としてとらえて、いつかその精神史が書けたら、というのが私の願いなのだが、そのための第一歩が、自分とはなんの縁もなかった東京の西の郊外の町、下北沢ではじめたフィールドワークだ。 この仲俣暁生だけではなく、城戸朱里にも歴史や民俗学的な考究に

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    aozora21 2008/04/28
    『ずるずると流されながら抵抗し、抵抗しながらも当初思っていた道からずれてゆく、それを必然に変えること。それが書くこと』
  • 坂のある非風景 拒絶しながら流される

    今は生足は嫌かなやっぱり・・・でもジョンを誘惑(しているつもり。自分ではwww)するために今はスカートを履きます。 ということは何か、私はジョンにスカートで誘惑されるような(いわゆる男性的な)要素を求めているのか!?いや、なんだろう、でもジョンは女の子だと思います。 ジョンが男だったら嫌です…。 なんだ、レズか?私はレズなのか? 強いられた選択があって、そこを脱し、そこから自立するために、私は自分に、私だけの人生を与えようとする。でもけっきょく目の前にあるのは、既存の人生の選択でしかなく、ただ私はそれを、まるで自分が発見したかのように、選び直しているだけだった。 でもそれは悲劇ではない。意志を貫こうとする私と、妥協しながら、あきらめながら時に流されてゆく私があいまいに両立することは悲劇ではない。悲劇は、どこまでも純粋であろうとして、原則的な私が、怠惰で狡猾な私を許さなくなって、私の中から彼

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    aozora21 2008/04/18
    『しかし自嘲が混じっているような笑い話で自分の抑圧を引き受けている姿は、仲間を救う強さがあってとても美しい。』美しいことば。
  • 坂のある非風景 一連の「非モテ論議」を読んだ

    一連の「非モテ論議」を読んだが、でもそれほど精密には読んでいない。感想程度のものを置いておく。 非モテ論議が失敗するありがちなパターン - 電脳ポトラッチ 「非モテ論議」の傾向と対策 - 烏蛇ノート 「「非モテ論議」の傾向と対策」への疑問 - Ohnoblog 2 ナツさんの「恋愛至上主義的価値観を内面化している」という非モテの定義は、もう一歩踏み込んで、その自分の「恋愛至上主義的価値観」にしがみつくことを享楽としている人たち、と定義できるんじゃないかと思った。 であれば、「そこから自由になったら?」というアドバイスに彼らがキレるのは当然だと思う。井戸端で夫の悪口を言いつづける主婦に、じゃあ離婚したら、というアドバイスをするのと同じである。夫の悪口こそが彼女の存在根拠だった。 彼らにとっては成就するはずのない恋愛、不可能な恋愛の享楽を脅かすものとして、モテというものが存在している。非モテ

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    aozora21 2008/04/12
    『非モテは、恋愛はあるが相手がいないのだ。』すごく腑に落ちました。恋愛結婚した自分が言うのもなんですが、自分は非モテ属性だと感じるのはそのせいかもしれません<モテというものの捉え方だけで考えた場合
  • 坂のある非風景 ヴァーチャル効果

    現実で営んでいる生活がリアルで、インターネットの世界がヴァーチャルだなんていう考え方はしない。個人幻想と呼ばれるもの、それが逆立した共同幻想と呼ばれるもの、それと対幻想をファンタジーだと考えているだけだ。そして、ただの紙切れにすぎない紙幣によって生かされ、ただの条文、文字にすぎない法によって裁かれることが、私たちがリアルでないものによって守られ、リアルでないものによって滅ぶ可能性をあらわにしている。 ということは、ヴァーチャルが、現実以上に現実的なのは当然で、脳の中だけで生まれるファンタジーが、現実的な感覚を伴って外からやってくる。そこでは、自分の声を、エコーのかかった、観客もいる、他者の声として聴くカラオケ体験が引き起こされる。何かがリアル化されている。理想自我を表す「真の自分は自分以上である」という現実が、そこで現実化されているのだ。 実は、自分以上のものとして、私が自分から逃れ出て、

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    aozora21 2008/04/10
    『ファンタジーを片っぱしから奪い去り、すべてをリアルに置き換えること。硬直した世界の実現である。』/自らのバーチャル世界を守りたいなら他人のそれも保障しなければ破壊されるでしょう。
  • 坂のある非風景 ダメージを身に付けよう

    ダメージ加工による着込んだ感じとは、 社会とのインターフェースを形成する洋服を 自分の皮膚の延長としてとらえるものでもあり、 その意味では、自己の領域をわずかでも拡大しようという 疎外感の現れでもあるのだろう…… というか、ブログそのものを、自己領域の拡大と呼べる「賭け」みたいなものとして抱える人々も多い。表現の場を持って語ること、とくに書くことによる私の延長は果てしない夢を見せてくれる(カラオケのように?)。彼らがブログを手放せないのではなく、ブログの方が彼らを手放さない。そしてそういったブログは、自分と深く馴染むようにダメージ加工が施されている。 現在、現代詩批評の第一人者である城戸朱理は、ブログをただの日録として書いていて、旅行記やそこでしたべ物、骨董、送られてくる詩誌などの覚書程度のことしか書かない。あ、それと自分の著作の宣伝。そういったことが可能なのは、メジャーの位置に紙媒体

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    aozora21 2008/04/05
    『そういったことが可能なのは、メジャーの位置に紙媒体の表現の場を持っていること、表現行為の情熱の舳先が、正統な港をしっかりと指しているからだった。』
  • 坂のある非風景 いつでもどこでも物語

    <あらかじめ描いた物語>というのは、どんなときにもどんなものに対しても持っているもので、そこで多様なシナリオを持つことが、理解力とか、現実を受け入れる許容力を表すようにみえる。反対に、その物語をまったく持たない場合は、対象と出会うことはできなくなってしまう。好き嫌いを判断するだけの単純な物語から、複数の感情が入り混じったもの、ペーソスやアイロニーを感じ取ることのできる物語、もっと繊細で、比喩で語るほかない名前のない感慨を語る物語もある。 それがあまりに個人的な幻想に属する場合、人間関係(対幻想)では齟齬をきたすことになる。ふたりの関係は、つねに、自分の物語を相互に押し付け合っている。強弱のない対等な関係にあっても、許容力のある方が、より多く押し付けられて、それを受け入れる(あるいは反発する)、そういう関係が作り上げられる。私たちは、違いによって出会い、その違いを残したまま、違いの上に均衡を

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    aozora21 2008/04/03
    『ふたりの関係は、つねに、自分の物語を相互に押し付け合っている。』
  • 坂のある非風景 私だけのウソを求めて

    50パーセントの確信しかない場合でも、書いてしまうと100パーセントの確信が語られてしまうことがあるし、わざとそう書く場合もある。ウソを語っているのか、いや、誇張しているのである。そして読み手の中には、ちゃんと誇張を差し引いて読むことができる人もいる。そういう読者はかなり貴重な読者だといえる。 ここで問題になっているのは、「理解」ではなく「納得」だと思う。言葉に対する姿勢ではなく、良好な人間関係とは何か、ということだ。世界は「理解できるが納得できない」もので満ち溢れている。そのギャップを埋めようとして、相手に問う「何故」があり、「理解できない(正確には、納得できない)」という声があがる。しかしたとえそのギャップが埋められて、何が得られるというのだろう。いやそんな身も蓋もないことが言いたいわけじゃない。理解と納得の間にあるギャップが、人を人に接近させ、遠ざける、そういうことだろう。 しょせん

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    aozora21 2008/03/30
    『「納得」は違う。それは「理解」の先にあるように見えて、その理解を否定しなければならない。納得は欲望であり、倫理であり宗教であり、思想的なものだった。』
  • 坂のある非風景 言葉への抵抗感が映し出すもの

    この「おはよう」という題で書かれた短歌に、iruguさんが、「血色」はルビいらんような気がしたけど、と突っ込んだのに対して作者はこう返している。 「血色」は確かにルビ不要かと思います。 でも「けっしょく」と読まれるのは絶対に厭だったので、今も……そうコメントされると揺らぎますが、でも残しておきます。 「血(ち)」の発音がどうしてもここに欲しい。 血行に因する顔色なんてぼやけた韻は要らない。 それよりか、結句の「あけぼの」がワタクシ的にはポカでした。 推敲はTB以後は不可なのですが、自分のノートには「明け空」にしておきました。 たとえば当にだれかが「血色」を「けっしょく」と読むことを恐れたのだろうか。そう読まれることで何が損なわれるのだろうか。そうではない。ここにあるのは言葉に対して立つ「私」の位置の断固とした主張だった。「けっしょく」と読む奴は読めばいいだけだろう。ただし「私」はそれを許

  • 坂のある非風景 ジジェク・ノート #8

    ダリアン・リーダー『なぜ女は投函するよりも多くの手紙を書くのか』が主張するところによると、女が男に「愛しているわ」というとき、結局それはつねに次の三つの内容のいずれかを意味している。 1. 私には恋人がいるの 例:「そうよ、わたしはあのひとと関係をもったわ、でもそんなことはたいしたことじゃない、まだあなたを心から愛しているの」 2. あなたにはもうあきたわ 例:「ええ、そうよ、あなたのことを愛しているし、あなたには何も問題はないわ、でもお願いだからわたしのことはほっといて、安らぎがほしいの」 3. セックスがしたいの じつはこの三つの内容はちゃんと筋のとおったシナリオになる。「わたしには恋人ができたわ、それはあなたにあきたからよ、だからもしわたしに愛されたいのなら、もっといいセックスをして!」 ひとつの言説に複数の解釈の可能性があるとき、じつはその複数性は、その言説をめぐるたったひとつのシ

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    aozora21 2008/03/21
    『そうして中心を埋めようとして行動すること(意味を問い、意味を発見すること)が、かえって中心を空虚にしてゆくのである。』
  • 坂のある非風景 : 信頼できる読みは、届きえぬ正しさについて語る

    ブログ「しあわせのかたち」から、文学とは何か?と、そのコメント欄から発生した次の記事、「学問」、「科学」という名の信仰という二つの記事をあわせて読んだ。 「正解」は「読者の数だけある」としながら、なぜ「つまらない読み方」と「面白い読み方」があるのか。ダメな読みは、何が基準となってそう断言されるのかといった問いが問われている。コメント欄に横滑りや展開があるのは「開かれたテクスト」ゆえである。 たとえば、「つまらない読み方」と「面白い読み方」(大野さん)、といった分節化は、一種の、断絶を理解しようとする方法だろうし、そこではまだコミュニケーションが信じられているようにみえる。でも「莫迦な読み」と「知的な読み」(瀧澤さん)という分割は、同じように断絶について語りながら、そんなコミュニケーションなんてないのだ、と語っているように読める。これはそんな断絶を抱えないという倫理的な表明にきこえる。 そう

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    aozora21 2008/03/15
    『正しさとは何か、その問いは、ただその問いをそっとひっかけておくこと、答えに至らないことによって問い続ける/者の「読み」は、それを持たない者の読みよりははるかに深く、あいまいで、信頼できる読み』
  • 坂のある非風景 : 冷たい雨が降っている

    9月の海に雨が降る 波と雨とが入れ替わり 空と海とが溶けあって 9月の海に雨が降る ぼくがいまこのまま 荒れくるう海に抜き手きったら 君はこのボート小屋から「素敵よ」って 声をかけてよ 好きでも無いし嫌いでも無い フルだけフリなよ フラれてやるさ 吉田拓郎の名曲、この「冷たい雨が降っている」を聴く(動画)。誰もが、雨の海、ボート小屋があり、抜き手をきるぼくを見て、「すてきよ」ときみが言うシーンは、つげ義春の『海辺の叙景』だと気づく。ただ『海辺の叙景』では、ふたりは恋人同士ではなく、この海辺で偶然出会っただけだった。彼女は、傷心旅行でここを訪れたように見えるが、その理由はわからない。 「少し泳ごうかしら」 「寒いんじゃないかな」 「平気よ」 「明日は東京へ帰るから泳ぎおさめをしなくちゃ」 「あした?……」 「それに私、ものすごい勇気出して、……ビキニ着てきたの。」 「すごいや」 「これで一度

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    aozora21 2008/03/10
    『海岸線と平行に泳いでいるのがいい』
  • 坂のある非風景 むきだしの匿名性

    真の自分というのは、打ち砕かれた理想の先にある、もしかすると耐え難いものだった。そこから逃げてきたものたち、斉藤環がどこかで、引きこもりを「プライドは高いが自信はない」という状態だと語っているが、自信を放棄してプライドだけを選んだものたちがここに登場する。 彼らが興じる「自分探し」は、結局、自分を探さないですますための方便にすぎず、そこで探しているのは、どこまでも自分の理想像(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思う自分のイメージ)でしかない。それは恋人探しと同じだ。理想の相手が欲しいのではない。相手によって反射され、媒介されて生成する、理想的な自分自身を求めているだけだった。それが匿名世界の「自分探し」である。 その、理想的な自分自身への固執を、プライドと呼んでみたい。だから、ネット世界に、偽名で、贋の人格で登場する私とは何ものなのか。プライドによって守られ、

  • 坂のある非風景 無力による救済

    自分が世界と同一だったころ、私に世界はなかった。私は、目に見えるもの、触れることができるものについての言葉、具体的な言葉しか持たなかった。私の世界はそれだけでできていた。それは私自身がなかったというのと同じだった。 たとえば小学生だったころ、私は「客観的」という言葉も「権力」という言葉も意味がぜんぜんわからなかった。辞書をひいても、その意味がまったくわからなかった。なぜならその意味も、同じくらい抽象的な言葉で書かれていたからだった。でも中学校の途中で、「客観的」というものがぼんやりとわかるようになった。ある瞬間にわかった、ということでもない。気づくと知っていた、といった感じで。 これは、意識には抽象性の水準みたいなものがあって、その水準はかならず上昇することを意味した。しかも、一度かくとくした抽象性の水準は、脳に損傷でも受けない限り、けっして失うことができないという特徴をもっている。その抽

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    aozora21 2008/03/02
    『真の救済が、力のあるアドバイス、強硬な論理といったその場しのぎの救済にあったためしはない。まさに、こういった未完結と無力の彼方にしかないとしたらどうだろう。』
  • 坂のある非風景 私という名の作者

    作者を支配している超越的な作者というものがある。超越的な作者は、書くことによって登場する。それは書かれたものを支えるもうひとりの作者で、その超越者は、書く者が書く行為に際して、空白を導入してしまうため、その空白にやすやすと宿ってしまう。 「そんなことは言っていない」という弁明が生まれる時、書かれたものは作者の手を離れて、作者が言いたかったこととは違うことがらを語り始めている。書き手は、自分の言いたいことと言葉とのあいだの距離には意識的だった。ところが、公になった言語とそれを読む者とのあいだの距離、最終的に自分が書いたものが人々に何を伝えることになるかといった次元を空白のまま放置したのである。 いったいどういった機能が、最終的な意味を決定するのだろうか。言いたかったことと受け取られてしまうこととの間のズレは、いつ生じるのだろうか。そのズレが大きかったり小さかったりするのは、何が違うのだろうか

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    aozora21 2008/02/08
    『私は推敲し、書き直し、言い直し、弁明したり謝罪することによって、その空白を穢してゆく。言いたかったことは損なわれ、言ってしまうことが意識的に構成される。いったい誰が、そんなものを求めたのか。』