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アメリカ大統領選
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思考実験(1) 双子のクローン赤ちゃん 人間の脳は、ただの機械にすぎないのだろうか? 10分後、自分が何をするか、それはもう決定されていることなのだろうか? 人間は、自由意志を持っていないのだろうか? この疑問を解くため、こんな思考実験がよく引き合いにだされる。 クローンの双子の赤ちゃんを作り出し、 それぞれの赤ちゃんをまったく同じ環境の部屋にいれて、 まったく同じ刺激を与えたとする。 すると、どうなるだろうか? もし、脳が、単なる機械にすぎないのだとしたら、 物質構造として、まったく同じ脳を持つ2人の赤ちゃんは、 寸分たがわず、まったく同じ行動をするに違いない。 しかし、同じ脳のはずなのに、もし違う行動をしたとすれば、 2人の赤ちゃんには、それぞれ違う「意志、ココロ」があるということの 証明になるはずだ。 という思考実験である。 この実験を実際にやってみると、どうなるだろうか? 答えは簡
●なぜ、脳はクオリアを語ることができるのか たとえば、物理主義の科学者たちの主張どおり、 随伴現象説を採用し、 『クオリアと物質の間には、なんの物理的な関係もない』 という仮定をしてみる。 そうすると、クオリアは、脳という機械の動きに、 何の関わりも持たない、ということになるのだから、 クオリアがあろうと、なかろうと、 脳の動きには、何の変化も起きない、ということになる。 したがって、たとえば、仮に、『クオリア』という存在が、 ある日、突然、この世から消え去ったとしても、 脳は、外面的には何一つ変わることなく、正常に機能しつづけ、 今までどおりの日常生活を送ることができるだろう。 ちょっと、こんな思考実験を考えてみよう。 テーブルの上に、2つの脳がある。 脳Aは、クオリアが発生する「普通の脳」であり、 脳Bは、クオリアが発生しない「哲学的ゾンビの脳」だとする。 もし、ここで、この2つの脳の
この世界は、いったいなんなのだろう? どうやって自然は成り立っているのだろう? この世界に、絶対的な価値観はあるのだろうか? 最初の哲学者と言われるタレス以降、 人類は、ずっと答えを探し続けてきた。 あれから300年……。 ソクラテス⇒プラトン⇒アリストテレス といった偉大な三大哲学者を経て、 やっと人類は、 「物事を観察し、得られた知識を整理して体系化する」 という現代科学に通じる基礎を築くところまでたどり着いた。 さあ。その探求の旅の続きを話そう。 人類の探求は、その後、どうなっていったのだろう? 本来ならば、 アリストテレスの仕事に触発された後世の知識人たちが、 もっとより多くの知識を集めて、 どんどん学問の世界を発展させていく、 という展開が理想的なのだが……、 実際には、そうはならなかった。 なんと人類は、突然、急激に知識欲が冷めてしまい、 「科学的な知識」とか、「本当の善」とか
「悪法も法だ。 法によって死刑という判決がでたのなら、 自分は甘んじてそれを受け入れよう!」 そういって、自ら毒を飲んで死んだ哲学者ソクラテス。 自らの信念を貫き通すため、 命さえ投げ出したソクラテスという存在が、 後世の哲学者たちに与えた影響は計り知れない。 だが、実のところ、 ソクラテスは自分で一冊の本も書いていなかったりする。 したがって、ソクラテスが、 どんな人で、どんな考えを持っていたのか…… 本当のところはよくわかっていない。 だから、ソクラテスについては、 その弟子の著作から、想像するしかないのが現状である。 実は、弟子によっては、ソクラテスを「説教好きの退屈なおじさん」 として書き残している人もいたりと、 弟子それぞれで、ソクラテスの印象がまったく違っている。 だから、ソクラテスが、本当はどういう人で、 どんな思想を持っていたのか、というのは謎だったりする。 では、現在のよ
神話という迷信が崩壊し、 「じゃあ、一体、この世界(自然)ってなんなんだぁ〜?」という 疑問から始まったのが「自然哲学」である。 その自然への探求の成果として、デモクリトスは、 自らの思考だけで「原子論」という、当時としては、究極に近い理論を作り上げた。 しかし、結局のところ、 「ふ〜ん、で、それって本当なの?」という疑問しか残らなかった。 実際のところ、科学技術も発展していないほどの大昔なのだから、 実験による理論の確認もできなかったわけで、 自然哲学については、もうこれ以上の発展は望めなかったと言ってもいい。 こういうことに気づき始めた哲学者たちは、自然哲学に対して、急激に冷めていく。 さて、このデモクリトスとほぼ同時代、 ギリシャでは、都市国家(ポリス)を形成し、民主主義の黄金時代を築き上げる。 この民主主義社会……はっきり言って、本当に天国である。 なにせ、働くのは異民族の奴隷なの
B.C.600年、タレスが「万物の根源は水」と述べることで始まった哲学史。 それから、100年もの間、色々な哲学者が、 「万物の根源って何なんだぁ〜?」と 問いかけ続けてきた。 そして、B.C.500年。 ついに、哲学史において、偉大な巨人が現れる。 ヘラクレイトスである。 「万物は流れ去る」 とヘラクレイトスは高らかに宣言した。 彼の洞察は、本質をついている。 国がある、人間がある、木がある、石がある…… が、そんなものは、何百年も経てば、消え去ってしまう。 「すべては変化し続ける。 永遠に不変の存在なんてありはしない」 諸行無常…。 それこそが、「万物の絶対の法則」であると、 ヘラクレイトスは考えたのだ。 ヘラクレイトスによれば、 「人間が、見ているものは、変化しているうちの一瞬にすぎない」のに、 「人間は、その一瞬を固定的で不変的なものと見なしている」として、 人間は愚かだと厳しく指
宗教と哲学には、決定的に違うところがひとつある。 それは、 宗教は『信じること』を前提としているが、 哲学は『疑うこと』を前提としている、というところだ。 つまり、 宗教とは、基本的に『信の道』であり、 哲学とは、基本的に『疑の道』である。 たとえば、宗教では、 教祖が作った教義を『疑う』ということはありえない。 宗教において、 「なんか教祖様の教義のこの部分って、おかしくね? 俺は、ここはこうした方が良いと思うんだけど……」 なんてことを弟子が言い出すことはありえない。 教祖の教義は完璧であり、弟子たちは、ただただそれを信じる。 「教祖を信じること」「教祖の教えを守り続けること」、 それが弟子の役目である。 一方、哲学では、 師匠が作った哲学体系を『信じる』ということはありえない。 もちろん、志(こころざし)なかばで倒れた師匠の哲学を受け継ぎ、 哲学体系を完成させるのは、弟子の役目ではあ
そもそも、2重スリット実験で、 科学者たちを悩ませてきた不可思議な現象とは、 「1個1個、粒子を発射しているのに、 粒子が観測される場所の分布が、なぜか波の形になっているぞ」 ということであった。 この不可思議な現象のツジツマを合わせて説明するため、科学者たちは、 「1個の粒子が、観測していないときは『波』のようになって、 2つのスリットを同時に通ったのさ」 というヘンテコな解釈(コペンハーゲン解釈)をせざるを得なかった。 だが、しかし! そんなヘンテコな解釈をしなくても、パイロット解釈のように、 「パイロットウェーブという『未知の波』があって、 それが粒子の行き先に影響を与えている」 という考え方をすれば、2重スリット実験を合理的に説明できてしまうのである。 しかも、このパイロット解釈の説明は、 ワレワレの日常的な世界観と、とてもよく一致する。 パイロット解釈では、電子や原子や分子は、カ
●実験C 電子1個を少しづつ発射した場合 では……。 電子銃から、「電子1個」の発射を何度も繰り返したらどうなるだろう? つまり、最初の「電子1個」がスクリーンに当たって、 「点」が映し出されたら、次の「電子1個」を発射するということを 何度も繰り返す実験だ。 (ようは、実験Bを連続してやるだけの話だ) 結論を言うと、スクリーンには、「電子1個」が発射されるたびに、 ポツン、ポツンと、少しづつ小さな「点」が増えていく。 ここまでは、ぜんぜん不思議じゃない。 実験Cとは、実験Bの繰り返しなのだから、この結果は、当たり前である。 だが、不思議なのは……。 「電子1個の発射」を何度も繰り返して、「点」の数が増えていくと、 その「点」の集まりが、実験Aの干渉縞と同じ模様になるのである。 一見すると、ナニが不思議なのかよくわからないかもしれないが、 これは、既存の世界観を打ち砕く不思議な現象である。
観測される前の物質は、 「観測されるであろう可能性」が重なり合った状態のまま存在しており、 観測したときに初めて、その可能性のうちのひとつが選択される。 一見、常識ハズレだが、 2重スリット実験などの不可思議な実験結果を説明するためには、 このような新しい考え方が必要だった。 で、「シュレディンガーの猫」の思考実験とは、 「その新しい考え方が正しいとしたら、こんなふうになっちゃうよ」 という問題提起である。 話を進めよう。もうひとつの「よくある疑問」だ。 ●よくある疑問B 「『観測』すると、電子の位置は決まるんでしょ? だったら、まず最初に箱の中のセンサが、電子の位置を『観測』するんだから、 人間が箱を開ける前に、電子の位置も、猫の生死も、 決まってしまうんじゃないの?」 この疑問はもっともだ。 そもそも、「シュレディンガーの猫」の思考実験では、 人間が箱を空けて、中を『観測』しないかぎり
多世界解釈には、3つの問題があった。 1)多世界なんて、日常的な感性では受け容れらない → 問題(1) 2)多世界があることを、観測によって証明できない → 問題(2) 3)たくさん世界があるのに、 「現に、今、この世界であること」を説明できない → 問題(3) これらの3つの問題は、一見、致命的な問題のように思えるが、 多世界解釈ファンに言わせれば、実のところ、まったく問題ではない。 というのは、量子力学で標準的な解釈とされている コペンハーゲン解釈も、まったく同じ問題を含むからだ。 1)多世界なんて、日常的な感性では受け容れらない そんなこといったら、コペンハーゲン解釈だって、同じである。 2重スリット実験において、観測していない1個の電子は、 「スリットAを通ったかもしれない電子」「スリットBを通ったかもしれない電子」 という2つの状態で、同時に存在している、 というコペンハーゲン解
さぁ。 実験Cをどう解釈すればいいのだろう? ところで、実験Cを調べるための方法として、 「電子が通ったかどうかを観察するセンサ」があるのだから、 「そのセンサを、実験装置のいたるところに配置する」というのはどうだろうか? そうすれば、電子1個が本当にどのように動いて、 スクリーンに到達したか、はっきりとわかるはずだ。 電子がスクリーンに到達するまでの、軌跡をみれば、何かわかるかもしれない。 しかし、その実験は、役に立たない。 というのは、 「観測するということは、観測する対象に影響を与えるということ」だからだ。 つまり、「電子を観測する」ということは、 「電子に、光などの他の物質をぶつけたり」して、 その位置を調べるということである。 したがって、当然、電子の軌道は、 「観測の影響」によって大きく変えられてしまう。 そうなると、この2重スリットの実験はぶち壊しになり、 干渉縞は消えてしま
脳分割患者への実験で、はっきりしたことは、 脳梁を切断して、左右の脳への情報伝達を物理的に断ったとき、 「左脳にだけ入力された情報は、左脳しか知らない」 「右脳にだけ入力された情報は、右脳しか知らない」 という科学的にはごく真っ当な結論だった。 ここでちょっと、脳分割手術を「他人に起きたこと」ではなく、 「自分に起きたこと」という視点で、実際に想像してみて欲しい。 つまり、もし、今、この瞬間、 『自分』が脳分割手術をされたら、どうなるか? を想像してみて欲しい。 まず、間違いなく、はっきりしているのは、 脳が分割された瞬間、 『ボク』は、右脳と左脳のうち、どちらかの脳として、世界を見ている ということだ。 この話をわかりやすくするため、もっと極端に分割した場合を考えてみよう。 ていうか、脳梁だけを分割なんてケチなことを言わずに、 せっかくだから、より盛大に、肉体全部をスパっと切断してしまお
科学者たちは、この実験Cをどのように解釈したのだろう? もちろん、この実験Cについて、 科学の世界における「標準的な解釈」というのは存在する。 それは「コペンハーゲン解釈」とも呼ばれている。 (コペンハーゲン大学の科学者(ボーアら)が提唱した解釈だから、そう呼ばれる) 一体、彼らは、この実験Cをどのように解釈したのだろう? そもそも。 実験Cは大きな「矛盾」をはらんでいる。 電子が「波」であっても「矛盾」するし、 電子が「粒子」であっても「矛盾」する。 「矛盾」があったときはどうするか? そんなときは、「矛盾」を素直に受け入れ、 実験結果を素直にそのまま受け入れてやればいい。 そうしてできた新しい理論こそが、量子力学である。 では、もう一度、実験Cを見直してみよう。 ひとつひとつの実験事実を 素直に解釈してみるのだ。 事実1)飛ばされた電子は、スクリーン上には、「点」として観測された。 →
フェルマーの最終定理(1) フェルマーの最終定理。 それは、 n≧3のとき、 Xn+Yn=Zn を満たす、自然数 X、Y、Zは存在しない という数学の定理である。 このフェルマーの最終定理の意味を理解するのは、 とても簡単だ。 結局のところ、フェルマーの最終定理とは―― Xn+Yn=Zn という数式について、 n = 2 の場合、つまり、 X2+Y2=Z2 の場合は、 32+42=52 (X=3,Y=4,Z=5)という解が見つかるけど、 n ≧ 3 (n が3以上)の場合、 つまり、 X3+Y3=Z3 や X4+Y4=Z4 や X5+Y5=Z5 の場合は、 その式を満たす自然数 X、Y、Zは、絶対に存在しないよ〜 ――と言っているだけの話である。 n≧3のとき、 Xn+Yn=Zn を満たす自然数 X、Y、Zは存在しない! これが、フェルマーの最終定理である。 そう、フェルマーの最終定理と
自閉症 自閉症の悲劇は、その症状そのものよりも、 周りの無知な人間たちから誤解されてきたことにある。 まず、「自閉症」という言葉が悪い。 たとえば、「自閉症の子供」という言葉を聞けば、どうしても、 「なにか精神的に辛いことがあって、ココロを閉ざしてしまった子供」 という印象を与えてしまう。 そして、実際、古くから、自閉症は「ココロの病気」とされ、 幼児期に母親から拒絶されるなどの「精神的ショック」から生じるもの だと言われてきた。 そのため、自閉症の子供をかかえる親は、 「自分の育て方は悪かったばっかりに……」 「私の配慮が足りないばっかり……」 と自分を責める傾向にあった。 また、周りの人たちも、 「親がロクな教育しなかったから、あんなふうに育ったんじゃないの?」 「虐待でもしてたんじゃねぇーの?」 とその親を非難の目でみる傾向にあった。 しかし、近年の研究によれば、自閉症とは、「生まれ
「俺は『納得』したいだけだッ! 『納得』はすべてに優先するッ!」 ジャイロ・ツェペリ 「JOJOの奇妙な冒険 第7部」 ぜんぜん ぜんまい まわる かぎり この世を うんと 楽しもう…… 一日一善で ぜんまい 巻き上がる これはぜいたくパラダイス…… ぜんまいざむらいの唄 ※ぜんまいざむらいとは 悪党「ぜんの助」は、泥棒の最中に、井戸に落ちて死んでしまう。 そこに神様が現れ、死体にぜんまいをつけて、 「ぜんの助」を「ぜんまいざむらい」として 生き返らせるのだった。 「ぜんまいざむらい」は、ぜんまいバネがほどけ切ってしまうと 再び死んでしまうが、善いことをするとバネが巻かれて、 しばらくの猶予を得る。 こうして、「からくり大江戸」を舞台に、 「ぜんまいざむらい」の 困っているヒトを助けて善行を積もうと奮闘する ドタバタの日々がはじまったのである。 「ぜんまいざむらい」とは、子供たちに、 善行
量子力学の通俗本を読むと、必ずと言っていいほど、 「波動関数の収縮」という言葉が出てくる。 今回は、この「波動関数の収縮」について、説明してみようと思う。 まず。 2重スリット実験をおさらいすると、その結論(コペンハーゲン解釈)は、 「観測していないモノについては、 ここにあるかも、あそこにあるかも、 という可能性としてしか論じることができない。 そして、その言葉どおり、観測していないモノは、 『ここにあるかもという可能性』という形で存在している」 というものであった。 もっと端的にいえば、 「観測される前の、電子や原子の位置は、確率的に存在している」 ということである。 さて。 この確率、―つまり、モノが「ここで見つかるかもしれないよ」という確率― の形は、波の形になっている、ということが実験的に確認されている。 (なぜ、そうなるかは、誰もわかっていない。 とにかく、実験すると、いつもそ
我思う、ゆえに我在り 誰でも知っているデカルトの有名な言葉だが、 これは「俺が考えているってことは、俺がいるんだなぁ」 という単純なものではない。 もう少し深い意味を持つ。 この世で、「最も確かなこと」は、何だろう? この世で、「全く疑う余地のないこと」は、何だろう? これをデカルトは考えた。 たとえば、目の前にある世界は、本物だろうか? いやいや、これは幻なのかもしれない。夢なのかもしれない。 だって、夢を見ているとき、これが夢だとは気がつかないではないか。 今、見ているものは、実際には存在しないのかもしれない。 これが夢、幻じゃないと、どうやって証明できるだろう。 そんなことは、原理的に、決してできない。 じゃあ、数学は?学問は?論理は? いやいや、それが正しいと思うのは、思い込みかもしれない。 だって、夢をみているとき、論理的におかしなことが起きても、 それをおかしいと感じないではな
●「ただいま〜!」 のび太は、元気良く、どこでもドアから出てきた。 ●「あ〜、のび太くん、おかえり〜」 ドラえもんは、部屋の中で、漫画の本を読みながら、 寝転んでいた。 (そういえば、こいつは、いったいなんのためにいるんだろう? ていうか、どこでもドアだけあれば、こいつはいらないんじゃ……) そんな疑問を感じながら、のび太は かばんを下ろした。 ●「で、のび太くん、どこでもドアはどうだった?」 ●「うん、大丈夫だった。 ドアをくぐり抜けたら、もう目の前が学校でさ、 ぜんぜん問題なかったよ♪」 ●「そうなんだ、それは良かったね」 ●「でもね、ひとつだけ気になることがあるんだ」 ●「ん、なーに?」 ●「あの……もしも、もしもだよ。 どこでもドアに入った僕が、分子破壊光線ですぐに消滅しないで、 体がドロドロに溶けるような毒ガスで、 阿鼻叫喚、筆舌に尽くしがたい生き地獄を味わうとしたら……」 ●「
イデア論 「線」って見たことありますか? あると答えた人…… 「ほぉ〜、そうかいそうかい、 じゃあ、今すぐオレに『線』をみせてみろ!」と 問い詰めさせてもらいます。 「線なんて、すぐ見せられるよ」と言って、 紙に、鉛筆で、線を描いた人…… 「もっとじっくり見てみろ!幅があんだろ! 幅があったら、線じゃねえじゃん!」 と、あなたの頭をつかんで紙に押し付けさせてもらいます。 そうなんです。「線」って見たこと無いんです。 ていうか、見れない。 視覚的には、幅がないと見れないけど、 そもそも幅があったら線じゃない。 同様に、「点」も「面」も見れない。 「三角形」も「四角形」も見れない。 世の中には、見えないものがたくさんあるんです。 三角形の石をみても、それはあくまで「三角形っぽい石」であって、 実際には三角形ではない。 仮に、一見すると、完璧な『三角形』にみえる石があったとしても、 顕微鏡を使っ
自由意志 自由意志とは何だろうか? もし、自由意志を 「自分で好き勝手に選択できることだよ」 という意味で捉えているならば、それは明らかに間違いである。 もし、それが自由意志だというならば、 「そんなものはない(^▽^)」と断言しても良い。 我々に、「自分で好きなように物事を選べる」という自由意志がないことは、 以下の実験で簡単にわかる。 ●自由意志を確認する実験 まず、目の前に、2つのコップ(鉛筆でも、消しゴムでも何でもいい)を置こう。 そして、右のコップ、左のコップ、どっちでも好きな方を選んで取ってほしい。 なお、2つのコップに違いはない。 自分からの距離も同じだ。どっちをとっても、何も違いはない。 さぁ、あなたはどっちを取るだろうか? (実際に、画面のコップを使ってやってみて欲しい。 好きな方のコップを選んで、指を置こう) 仮に、あなたは適当に、 なんとなく、右のコップ(もしくは左の
というわけで、紀元前450年頃、 ギリシャにおいて、相対主義が発生したわけだが。 さて。 哲学の歴史には、ある一定のパターンがあり、 だいたいの場合、以下の繰り返しである。 1)賢い人が出てきて 「その時代において、もっとも説得力のある哲学」を流行らせる。 2)その哲学が世間に浸透してしまうと、 行き詰ってしまい、ニッチもサッチもいかなくなる。 3)反逆者が出てきて 「既存の哲学を乗り越えようとする哲学」を打ち出し、革命を起こす。 今回もそのパターンだ。 相対主義が浸透したギリシャで、 反逆、革命を起こした人が、 哲学者の代名詞ともいえるソクラテスである。 そのソクラテスの紹介の前に、相対主義が浸透した結果、 ギリシャ国家がどう行き詰ったか説明しよう。 そもそも相対主義っていうのは、 「絶対的な真理・真実なんてあるわけないし、仮にあっても知りえないよ。 所詮、真理や真実なんて、それぞれの
1960年頃、てんかん患者の治療として、 左右の脳を繋ぐ脳梁(のうりょう)を切断する手術が行われた。 てんかんとは、 神経細胞の異常放電によって、脳全体に不当な信号が次々と伝播して、 「けいれん」などの発作を引き起こす脳の機能障害のことである。 このてんかんの信号は、左右の脳を繋ぐ脳梁(のうりょう)を 伝播することを好み、この脳梁を介して、 左右の脳に繰り返し伝播すること(共鳴現象)によって 発作を引き起こす。 そこで、当時の医者たちは、 「じゃあさ、左右の脳を繋いでる線を切っちゃえば、いいじゃん。 物理的に切ってしまえば、信号が伝播しなくなるから、 発作を軽減することができるかも♪」 と考えたのである。 そして、実際、その考えは正しく、 この脳梁切断手術(脳分割手術)によって、 多くのてんかん患者の発作がなくなった。 さて、この脳梁切断手術(脳分割手術)によって、 「左右の脳の連絡網を切
「反証可能なリスクを負うものが科学である」ポパー 論理実証主義が、本当に厳密に考えた結果、 どんな科学理論でも「根拠のない飛躍」が含まれていることが わかってしまった。 「人間はどうがんばっても、確実に正しい科学理論というものを作り出せない」 というショッキングな結論に、科学界は、再び、闇に閉ざされた。 だが! そこに、カール・ポパーが現れ、 「反証主義」という新しい科学思想を提示し、科学界に一筋の光を投げ込んだ。 さてさて。 反証とは、簡単に言うと、観察や実験を行って、「おら、間違っているじゃねえか!」と 「証拠」を突きつけることである。 この「反証」というのは非常に簡単である。 たとえば、がんばって苦労して、 「黒いカラス」をどんなにたくさん集めても、 「すべてのカラスは黒い」という理論を証明できないことは述べたが、 逆に、 「白いカラス」を1羽でも見つけてしまえば、 「すべてのカラス
ゾンビ問題 ●哲学的ゾンビとは あなたは、こんな想像をしたことがあるだろうか? 「もしかしたら、「痛さ」や「悲しみ」を感じているのは 自分独りだけであり、 自分以外の人間は、ただロボットのように、 何も感じずに、ただ状況に反応して自動的に動いているだけ ではないだろうか……?」 もしかしたら、僕の周りで、 「ありがとう、とっても嬉しい♪」「……好きです」 「痛いよ!もうやめてよ!」「おまえなんか死んじまえ」 とか言っている人々は、 実は、なんの主観的な体験も持たずに、 ただ機械的にそう言っているだけかもしれない……。 ―という、そんな想像である。 このように、 「外面的には、普通の人間とまったく同じように振舞いながら、 内面的には、意識を持たない……主観的体験を持っていない人間」 のことを「哲学的ゾンビ」と呼ぶ。 このゾンビは、物質的には普通の人間とまったく同じであるのだから、 もちろん脳
公理(1) 1830年頃 ユークリッド幾何学とは、 我々が、小学校や、中学校で学ぶ幾何学のことだ。 ようは、まっ平らな紙の上に描いた「点・直線・平面」などを 取り扱う図形の学問のことである。この幾何学の歴史は古く、 紀元前300年頃、エジプトの学者ユークリッドにより体系化された。 では、ユークリッドは、どうやって、この幾何学を作ったのだろうか。 彼は、まず最初に5つの公理を定義し、それらを組み合わせて 論理的に考えることで、色々な法則を発見していく、という手法を用いた。 ここで、公理とは、 「証明する必要のない、明らかに自明な法則」のことである。 たとえば、ユークリッド幾何学の5番目の公理は、平行線公理と呼ばれ、 まぁ、ようは、 「平面上に、絶対に交わらない2本の線(平行線)を引くことができますよ〜」 ということを述べたものである。 たとえば、下図を見たとき、この線Aと線Bをどれだけ無限に
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