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都知事選
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マートンが『社会理論と社会構造』を発表し,理論と調査との統一を提唱した時期は,社会調査の大きな転換期であった。シカゴ学派のルポルタージュふうの調査に加えて,量的調査が熱心におこなわれるようになった。量的調査が広がった背景として,マス・メディアと軍隊からの需要をあげておこう。 ジョージ・ギャラップ(George Gallup, 1901-1984)が設立したアメリカ輿論調査協会(American Institute of Public Opinion)がマス・メディアと提携して全国調査をし,はじめて大統領選挙の選挙予測をしたのは1935年である。その後もギャラップは多くの調査をし,ギャラップ調査は世論調査の代名詞のようになった。ギャラップの選挙予測はかなり正確だったが,1948年の選挙予測で大失敗した(大敗を予想したトルーマンが勝利した)。これをきっかけに世論調査の標本抽出の方法が改善され,
ルソーに代表される理想主義的な社会思想は,フランス革命による社会進歩に貢献した反面,革命がもたらした混乱に対処できなかったり,ときには混乱を増幅する面もあった。そのため,フランス革命後の社会思想では,あるべき社会の姿をさぐる以前に,現実の社会のメカニズムを「科学」的・実証的に研究することが重視されるようになった。この時期に活躍したサン・シモン(Claude-Henri de Saint-Simon, 1760-1825),コント(Comte, Augste, 1798-1857),トクヴィル(Tocqueville, Alexis de, 1805-1859),らは,いずれもこうした志向をもっている。この授業では,トクヴィルとその代表作である『アメリカの民主政治(De la démocratiee en Amérique)を紹介する。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は,近代西欧社会にとって非常に重要な歴史現象であるといっても,あくまでひとつの「歴史的個体」についての研究であった。ウェーバーは1911年ころから,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の研究を拡張し,世界宗教(儒教,ヒンズー教,仏教,キリスト教,イスラム教/および,世界宗教とはいえないが,キリスト教,イスラム教誕生の母胎になったユダヤ教)のそれぞれの特質と経済活動との関連を系統的に論じる「世界宗教の経済倫理」の研究に着手した。また,社会学のすべての研究領域を網羅した観がある『経済と社会』の執筆も始めていた(前回の授業のプリントの冒頭に記した『宗教社会学論集』と『経済と社会』の目次を参照のこと)。 このような研究の広がりにともなってウェーバーの研究方法も変化する。特定の歴史的個体についての理念型をつくるだけでなく,さまざま歴史的個体を比
マックス・ウェーバー(Max Weber, 1864~1920)は19世紀末から20世紀初頭に活躍したドイツの社会学者である。宗教生活と経済活動のかかわりを論じた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(Die Protestantische Ethik und der "Geist" des Kapitalismus,初出:1904-05)や『宗教社会学論集』で名高い。かれは社会学方法論,政治社会学,都市社会学,法社会学などの研究でも大きな業績をあげ,その後の社会学の研究に大きな影響をあたえた。かれが生前に完成させることができなかった『経済と社会』はこれらの研究を網羅した大著である。『宗教社会学論集』と『経済と社会』の目次を記しておこう。日本では,これらの著作のそれぞれの章の翻訳が分厚い(ときには上下2巻に分けられた)単行本として発行されている。
デュルケームがフランスで社会学を制度的に確立したのと同じころ,アメリカでは1892年,石油王ロックフェラーの基金をもとにシカゴ大学が創設された。同時に世界で最初の社会学部がつくられた。1930年ごろまで,アメリカ社会学はシカゴ大学を拠点とした研究者によって推進された。これをシカゴ学派という。シカゴ学派の研究は多岐におよぶが,当時のアメリカの大都市の急速な発展とそのなかでの社会問題の噴出を背景に,とくに都市社会学の研究が活発であった。 1 シカゴの発展とシカゴ学派 世界のための豚屠殺者 機具製作者,小麦の積み上げ手, 鉄道の賭博師,全国の貨物取扱い人。 がみがみ呶鳴る,ガラガラ声の,喧嘩早い, でっかい肩の都市。 カール・サンドバーク 『シカゴ詩集』 1916 年
フランクフルト学派とは,1923年にフランクフルトに設立された社会研究所(Institute für Sozialforschung)に集まった研究者たちを指す。 社会研究所は 第一次世界大戦とロシア革命の後,ドイツでは,マルクス主義への関心は非常に高まった。ユダヤ人の大実業家の息子であるフェリクス・ワイル(Felix Weil, 1898-1975) はまだ学問の世界では冷遇されていたマルクス主義を研究する機関として,社会研究所を創設した。以後,かれは自分自身もメンバーであるこの研究所への援助を終生続けた。社会研究所には,今日まで名を残す多くの研究者が集まった。マルクス主義といっても,ソビエト連邦のマルクス・レーニン主義とは一線を画し,ヨーロッパの社会と学問に根ざした「西欧マルクス主義」の潮流をつくりあげたひとびとである。ここでは,
オーギュスト・コント (Comte, Augste, 1798-1857) は1798年に南フランスのモンペリエで生まれた。父は公務員だから中産階級の出身。子供のころから秀才で1814年(コント16歳)でエコール・ポリテクニク*という,ナポレオンが創設した超エリート校に入学した。ところが,1816年に,コントは退学処分になる。コントが入学したのはナポレオンが失脚し,第一次王政復古があった年である。その翌年に,ナポレオンがエルバ島から復帰,ルイ 18 世は再び亡命。けれども,ナポレオンはワーテルローの戦いに破れ,第二次王政復古となる。このとき,コントが第二次王政復古に反対する学生運動に加わったことが退学の理由とされる**。 * École polytechnique(理工科大学校):ナポレオンが軍事技師を養成するためにつくった学校。今日でも国防省に属し,学生は国から給費を受け,制服を支給され
私たちは,科学的,哲学的,あるいは,宗教的などなど,なんらかの「ものの見方」にしたがってものごとを見る。現象学とは,こういうなんらかの見方でものを見る以前に,私たちの意識はそのものをどう経験しているかを分析しようとする哲学である。ドイツの哲学者エドムント・フッサール(Edmund Husserl, 1859-1938)が提唱し,現代哲学に大きな影響をあたえている。 たとえば,かれはこの著作で次のように論じている。ガリレオの落体の法則によると,重さがちがう物体も同じ速度で落下する。ニュートンの慣性の法則によると,運動している物体は外部から力が加わらないと,同じ運動を続ける。現実の世界では,気圧や摩擦の影響で鉄は紙よりも速く落下するし,氷上で物体を滑らしてもいずれ停止する。自然科学の大きな成果を目にすると,私たちが現に住んでいる世界は雑音や不純物に満たされていて,自然科学の法則がそのままなりた
経済学による交換の分析については,以前にパレートの社会学を紹介したときに,述べた。人々の相互行為をこのような交換の発想から分析しようというのが,社会学の交換理論(exchange theory)である。その代表的な研究は,
コントやデュルケームが活躍し,いわば社会学の故国であるフランスでは,今日でも多くの「社会学者」が活躍している。ただし,アメリカの社会学が個別の専門科学として展開しているのに対して,フランス社会学は,前回の授業で述べたドイツと同様,哲学や文学,芸術学,言語学,歴史学などなど,多くの人文科学と相互浸透している。学問の専門化が進むと,社会学とは,社会学関係の学会に所属し,自己紹介に「専攻:社会学」と書く人(つまり,自分を社会学者とみなし,まわりもその人を社会学者とみなしている人)がリードする学問になる。しかし,これから紹介する人たちには「自分は社会学者ではない」という人が少なくない。現代のフランス社会学は,ふつう社会学とは呼ばない多くの思想や人文科学の影響下で展開しているのである。その主なものをあげておく。 戦後のフランスでは,主体(今日の授業でいう「主体」とは自由意志にもとづいて自覚的に行為す
前回の授業で紹介したパーソンズの理論は抽象的でつかみ所がないと感じた人も多かっただろう。そういう皆さんと同様の思いをした社会学者は,1960年代のパーソンズの全盛時代にもすくなくなかった。今日の授業で紹介するシンボリック相互行為論(symbolic interactionism)や,次回の授業で紹介する現象学的社会学,エスノメソドロジーなどはいずれもパーソンズの社会システム論に代わる見方を探求するなかで生まれた社会学の潮流である。 G.H. ミード(George Herbert Mead, 1863-1931)は,シカゴ学派の全盛時代,同じシカゴ大学の哲学部の教授だった。同僚のジョン・デューイ(Dewey, John, 1859-1952)らとともに,プラグマティズム*の立場から社会的場面での認識や自我(あるいは自己,原語はSelf)の形成について研究し,後のシンボリック相互行為論の源流と
授業や講演では、かなりくわしい資料をつくるのが習性になっています。 「はじめてのホームページ」ですが、少しずつ、その内容を公開していこうと 思っています。 最近、私は、学生の皆さんのレポートで、出典も記さずに、Wikipedia など の記事を《選択→コピー→張り付け》しただけのレポートがあるのに悩まされ ています。主なサイトはチェックし、丸写しが判明したレポートは不合格にし ていますが、私が気づかなかったサイトから盗用したレポートを見すごしてい ることも多いのではないかと思います。私のホームページも、テーマによって は、社会学関係の安直なレポート作成のために、無断引用されやすいもののひ とつになるのではないかと危惧しています。 というわけで、レポート等にコンテンツを引用をされるときは、 「沢田善太郎のホームページ」(http://www.hkg.ac.jp/~sawada/)で あること
前回の授業で述べたように,アメリカの社会学はさまざまな社会現象を調査することをつうじて発展した。しかし,発見された事実を,たんに断片的な事実の集積に終わらせず,それをもとに理論化をはかることも重要である。ロバート・マートン(Robert Merton, 1910~2003)は,次回の授業で紹介するタルコット・パーソンズ(Talcott Parsons, 1902~1979)とならんで,アメリカにおける社会学理論の発展にもっとも寄与した社会学者である(パーソンズはマートンより8歳年上。活躍をはじめる時期もパーソンズよりマートンのほうが早いが,授業を進めるうえでの都合から,マートンのほうを先にとりあげる)。 マートンの代表作は『社会理論と社会構造』(Social Theory and Social Structure)である。この本の初版は1946年だが,かれはこの本の改訂・増補版を何度か刊行
これまでに紹介したサン・シモン,コント,マルクスといった人たちの共通点はかれらが貧乏暮らしをしていたことだろう。かれらの時代,社会学やそのほかの社会科学の研究で生計を立てるのはむつかしかった。今日では,大学で社会学を教え,(金持ちになるのは不可能だが)社会学を研究して暮らしていく道が開かれている。ある学問が確立するとは,大学でその学問を教える教員が採用され,さらに,その講座や学部がつくられるということをも意味する。デュルケーム(Durkheim, Émile, 1858-1917)の生涯は,下の年表に記したように,学者として順調そのものの波乱のない人生である。ただし,史上初の社会学の教員,史上初の社会学講座,史上初の社会学の専門誌や社会学会の創立など,史上初という形容詞が何度も出てくる点が,並の学者とちがう点である。その意味でも,デュルケームは社会学が確立するうえで最も大きな役割を果たした
Ⅰ 講義の記録 (1)2006年度社会学史講義(広島国際学院大学現代社会学部) 1ヨーロッパ中世の大学 2ホッブズとロック ― 社会契約のモデル 3アダム・スミスと経済学の誕生 ― 『国富論』を読む 4フランス啓蒙期の社会理論 5トクヴィルと『アメリカの民主政治』 6サン・シモンと産業主義の思想 7オーギュスト・コントと社会学の誕生 8マルクスと『資本論』の世界 9デュルケームの社会学(1)―『自殺論』を読む 10デュルケームの社会学(2) 11ウェーバーの社会学(1)―『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と社会科学方法論 12ウェーバーの社会学(2)― 理解社会学の方法と「世界宗教の経済倫理」 13ジンメルの社会学 14経済学の革新とパレートの社会学 15無意識の発見 ― フロイトと新フロイト派の社会心理学 16イデオロギーの発見 ― カール・マンハイムの知識社会学 17シカゴ
冷戦時代,東西の両陣営は,社会主義と自由主義という,相手の陣営の社会思想をイデオロギーであると批判しあった。政治はイデオロギー(ideology)のぶつかり合いであってはならないと主張を聞いた人もいるだろう。それでは,イデオロギーとは何か。ある思想をイデオロギーであると主張する人の思想もまたイデオロギーではないのか。この授業では,思想のイデオロギー性の分析を知識社会学という社会学のひとつの分野にまで高めたカール・マンハイムの理論を,かれの代表作である『イデオロギーとユートピア』(独語版:Ideologie und Utopie, 1929, 英語版:Ideology and Utopia, 1936)をもとに紹介する。 イデオロギー(ideology)ということばは,空理空論くらいの意味でナポレオンの時代から使われていたらしい。20世紀になると,このことばの意味は変化し,一見したところ整然
1960年代の社会学にもっとも大きな影響力をもっていたのは,タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons, 1902-1979)である。かれの社会学はマートンとともに機能主義の社会学といわれる。けれども,二人の研究スタイルはずいぶんちがう。マートンは経験的な調査と理論とをむすびつけようとして中範囲の理論を提唱した。これと対照的に,社会現象を包括的に説明する一般理論をつくろうとしたパーソンズの理論は(皮肉を込めて)グランド・セオリーといわれる。かれの理論(社会システム理論)には次のような批判が多い。 ① 無意味なまでに難解である。② 社会が人間行動を統制する側面が過大評価し,人間が自由に社会を解釈し,社会を変えていく側面を過小評価している。― こうしたかれの理論に対する批判が,その後にさまざまな社会学理論を噴出させることになった。 1924~26年にヨーロッパに留学したパーソンズは
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