サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
www.meijigakuin.ac.jp/~inaba
4月13日 4月1日付(出勤は2日から)で明治学院大学社会学部社会学科助教授に転じました。が、依然として岡山大学経済学部のサーバからお届けしています。引っ越しはもう少しお待ち下さい。 予告では大庭健・村上春樹・香山リカの共著という触れ込みだったはずが結局大庭単著で村上、香山のコメントという体裁になってしまった『私という迷宮』(専修大学出版局)である。「自分探しはやばいぞあぶないぞ」という趣旨自体は大変に分かりやすいしほぼ賛成なのだが、相変わらず永井均へのちょっかいというか、永井独我論への批判というより文句、因縁、繰り言が目立つ。これって本当に必要なのか? 今回も注意深くというかいいわけがましく、大庭は「永井独我論自体というよりそれが誤読されて「自分探し」のツールにされていることを問題にしたいのだ」という趣旨のことを書いている。これに対しておそらく永井はまたしても「それなら俺に文句を言う筋合
浅羽通明『野望としての教養』(時事通信社) 稲葉振一郎 『論座』2000年11月号 浅羽氏の前著『大学で何を学ぶか』(幻冬舎)は、大学生及びその予備軍のための真摯なノウハウ本にして、政策論にも資するところ大の卓抜な大学論として、既にその評価が確立しており、もちろん筆者も多大な教示を得た。その続編ともいうべき本書は大学での「社会史」なるタイトルの下での講義を基にしており、同一のテーマがより歴史的な展望の下で展開されている。 さて、浅羽氏の指摘を待つまでもなく、現代日本の(ことに人文社会科学系の)大学教育は大いなる虚妄の上に成り立っている。大学インサイダーの視点から、やや勝手にまとめさせてもらおう。 90年代前半には多くの大学で教養教育がリストラされ、専門教育重視のカリキュラムへの移行が行われた。しかしこの「改革」によって「一般教養」というお荷物を切り捨てた大学が、専門化した学術研究・教育機関
新古典派経済学の底力 書評:大瀧雅之『景気循環の理論 現代日本経済の構造』(東京大学出版会) 稲葉振一郎 『季刊窓』21号(1994年秋) 敷居の高い本である。大学院レベルのマクロ経済学の素養なしにはきちんと読みこなせない。しかも今日では理論経済学研究の先端と大学学部レベルの経済学教育、ビジネスマン・読書人レベルの経済学常識との乖離がはなはだしい。研究の前線では伝統的なミクロとマクロの二分法さえ無意味となりつつあるのに、そうした現状を正しく踏まえた入門的教科書もろくにない(スティグリッツの三部作『入門経済学』『ミクロ経済学』『マクロ経済学』東洋経済新報社、にはこの意味で期待したい。)この二重の障害のおかげで、本書のごとき本格的な数理経済学の研究所には、たとえ大学で経済学をまじめに勉強し、日頃経済ジャーナリズムに親しんでいたとしても、アカデミックな訓練を受けていない一般読者は歯が立たない。わ
2003年7月 7月11日 amazonでスペルベル&ウィルソン『関連性理論』(研究社出版)[bk1、amazon] の関連書として紹介されていた石崎雅人・伝康晴『言語と計算 3 談話と対話』(東京大学 出版会)[bk1、amazon] を図書館から借りて読み、驚倒。主たるテーマは語用論への計算論的接近だが、ブラットマン『意図と行為 合理性、 計画、実践的推論』(産業図書)[bk1、amazon] の行為の意図理論、更にその後のFaces of Intention: Selected Essays on Intention and Agency, Cambridge U. P.[amazon] 収録の論文における共同行為・共有意図理論までもがきっちりフォーマライズされて取り込まれている。あわてて「人工知能」「マルチエージェント」関連の文 献をいくつか借り込んでくる。 しかし前々から思ってた
2月25日 『「おたく」の精神史』とりあえず読了。なんつーかあちこちが強烈に痛い。「新人類は努力を欠いていた。」その通りだと思う。そして努力を欠いていた新 人類に勝利したのはオタクだけではなく、アカデミズムにおいては「素朴」にクソ真面目に主流の学問を継承していた連中もまた勝利者であると言えよう。 (ただ、大塚にそれ自体のサブカル化ないしオタク(おたく?)化を疑われている社会学の場合は違うかもしれない。仄聞する限りでは、バブル期の東大社会学 大学院には妙な雰囲気があった。たとえば、「家族・地域・労働はできないこのやること」といった韜晦交じりのフレーズを聞いたことがある。あるいはある教 員が若い院生の発表を聞いて「社会学の王道!」と茶化したという逸話もある。そういう雰囲気の瀰漫したその果てが、いまや茶化す対象としての「王道」さえ 喪失した今の日本社会学だとしたら、笑えない。) だがそこまで見る
思想の現在形 自由の条件③ ユートピアは葬られたか 『京都新聞』1998年1月7日文化欄 稲葉振一郎 ユートピアという言葉は、もともと16世紀のイギリス人トマス・モアが書いた本の題名で、その物語中に登場する架空の国の名前です。モアはその虚構の理想国家に照らして同時代の国家、社会の現実を批判し、そこから転じて「ユートピア」という言葉は現実の社会よりも優れた、理想的な社会のことを指すようになりました。 しかしその後「ユートピア」なる言葉の評判は芳しくありません。ありもしない理想の異世界のイメージを頼りに現状を批判するより、実際に現状を改革していくことこそ大切だ、という考え方が有力になったのです。19世紀以降多大な影響力を持った社会変革思想としての社会主義の中で、更にもっとも有力となり、20世紀にはその思想のもとに数億の人々が暮らす国々を作り上げたマルクス主義は、自分たち以前の社会主義を批判の意
「新書だけで学び直す一般教養(パンキョー)15冊+α 政治哲学・政治思想」 『論座』2002年7月号 稲葉振一郎 新書で「政治哲学・政治思想」を学ぼうというなら、まずは橋爪大三郎『政治の教室』(PHP新書)がよい。題名からして「政治学の教室」ではなく「政治の教室」だというあたりに、すでに覚悟の程がうかがえる。実際第三部「改革編」はきわめて実践的な提言、それも学者がよくやる政策提言などではなく、普通の市民が実際に政治に参加するためのハウツー、草の根民主主義の実践マニュアルなのだ。内容としては伝統的な政治学入門書と重なる第一部「原理編」と第二部「現実編」も、あくまでもその準備段階として書かれている。 しかしこの本の民主主義観は極めてハードである。一言でいうと、泣き言を許さない。欠点だらけではあっても、言論の自由と多数決に立脚する議会制民主主義は最高の政治制度なのであり、そこからの逃げ場所、より
4月14日追記 火曜日には私、普段あんまり連ドラとか見ないんだけど、ついフジテレビの新番組の『ショカツ』とか見てしまったのですよ。ほら、例の「Real Police Story」とか銘打った奴。同時に原作小説も角川から出ていて、それをちょっと立ち読みしたから気になってたんですが。原作者の佐竹一彦氏はもと警視庁の警部補だったという触れ込みだし。で、新聞の番組案内を見るとなんかちょっと違うぞ、と。だってどっちも新米の3ヶ月研修の話だけど、原作の方の主人公は、巡査として数年勤め上げたノンキャリアの普通の警官なのに対して、テレビの方は東大法学部出の新人キャリアじゃないの! 何ですかこれ? で、テレビの方見てみました。まず、いったい何がどう「Real Police Story」なのかがよーわからん。いや、クサしているわけではないです。警官だったこともサツ回りの記者だったことも刑事警察や法務関連の研究
フェミニスト社会科学の到来 書評:大沢真理『企業中心社会を越えて』(時事通信社) 『季刊窓』18号(1993年冬) 稲葉振一郎 まず第一に、本書は日本で初めての、本格的なフェミニスト社会科学の著作である。ではこれまでのフェミニストによる達成は何であったのか、と読者は問われるであろう。もちろん専門的なレベルでいくつかの貴重な業績は蓄積されてきたが、フェミニスト論客の多くは理論的、ないしは批評的論争の領野に過剰に勢力を注ぎ、実証的研究を怠ってきた、といわざるをえない。そうした状況の中で、これほど地道な実証性と、明解な論争性とを合わせ持った仕事が、一般読者に利用可能な形で市場に供されたことの意義はどれほど強調しても足りない。 しかし本書は、単にこれまで日本のフェミニズム論壇に欠けていた実証科学をそこに付け加えた、というだけのものではない。本書の達成は、これまでの日本のフェミニスト社会理論に対する
緊急アンケート:14歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないの? 」と聞かれたらあなたは何と答えますか 『文藝』37巻 2号 (1998年夏) 稲葉振一郎 「なぜ人を殺してはいけないの?」と君は聞くけれど、なぜそんなことを聞くんだい? そもそも君は「人を殺したい」って本当に思っているんだろうか? ここでケースを3つに分けよう。(1)君が誰か特定の人を殺したい場合。(2)誰でもいいから、とにかく殺人ということをやってみたい場合。(3)別に自分では誰かを殺したいわけじゃないし、殺人をしてみたいわけでもなく、ただ、なぜ世の中のルールとして「人を殺してはいけない」となっているのかがわからない場合。 (2)の場合、誰にも、つまりは私にも、君に殺される危険があるということになる! となれば、私は君の邪魔をした方がいい、ということだし、実際邪魔をするだろうね。極端なことを言えば、君はほとんど全人類を敵に回
ナウシカあるいは旅するユートピア ――ロバート・ノージック、笠井潔、そして宮崎駿―― 稲葉振一郎 『季刊窓』22号(1994年12月) はじめに このほど完結したマンガ『風の谷のナウシカ』(徳間書店、以下マンガ『ナウシカ』と略記)を通読してみれば、この10余年を通しての宮崎駿という一人の表現者の凄まじい思想的苦闘をそこにみて取ることができる。 雑誌『アニメージュ』(徳間書店)でのマンガ『ナウシカ』連載開始が1982年であるから、完結までに要した時間は単純計算で12年間ということになる。しかもこのマンガ『ナウシカ』のアニメーション化であり、「宮崎駿」という名前を世間一般で通用するブランドとすることともなった劇場用アニメーション『風の谷のナウシカ』(徳間書店=博報堂、以下アニメ『ナウシカ』と略記)の興行が1984年であったから、本来マンガ家ではなくアニメーター、単独の芸術家的職人ではなくチーム
ユートピアを読み解く10冊 『論座』1998年10月号 稲葉振一郎 「ユートピア」という言葉は、もともと16世紀のイギリス人トマス・モアが書いた本の題名で、その物語中に登場する架空の国の名前である。それはラテン語で「どこにもない場所」というほどの意味になる造語である。モアはその国を理想の国家として描き、それに照らして同時代の国家、社会の現実を批判した。そこから転じて「ユートピア」という言葉は現実の社会よりも優れた、理想的な社会、ないしそのような社会の構想のことを指すようになった。 幸福な楽園についてのファンタジーは、その舞台が創世直後の黄金時代(エデン)であれ、未来における救世主の到来(メシア信仰、弥勒信仰)であれ、死者を迎える天国(『エッダ』ヴァルハラ)であれ、また海の彼方(「アーサー王伝説」アヴァロン、蓬莱伝説)や深山幽谷(陶淵明『桃花源記』)、あるいは別の惑星(ルキアノス『本当の話』
中西 洋著 『〈自由・平等〉と《友愛》-市民社会;その超克の試みと挫折-』 ミネルヴァ書房、一九九四年五月 四一八頁、五〇〇〇円 中西洋氏のほぼ十年振りの単独著作である本書は、氏のこれまでの著書と比べると広い読者層を念頭に置いたものになっているが、残念ながら読書界の反応は芳しくない(例外として、『週刊読書人』九四年十二月二十三日の座談会「リベラリズムをめぐって 一九九四年の思想界をふりかえる」における川本隆史氏の発言を参照のこと)。ふりかえって、社会政策・労働問題研究という「業界」レベルでの反応も、菅見の限りでは鈍い。 本書が敬遠される理由は確実にある。経済学者・労働問題研究者としての中西氏を知らない一般読書人にとっては、現代の社会哲学の主流からややずれた問題意識や用語法にのっとる本書はひどくとっつきにくいものであろう。いや、もっと単純に考えてみれば、そもそも中西氏の名前は例えば小池和男氏
7月24日 転職を機に新規まき直しというか、必要に駆られてと言うか、教育に今までよりは真面目に取り組んでいる。このようなことをいけしゃあしゃあと書くのは気が引けるのだが、前の職場では正直かなり教育へのモチベーションは低かった。 と言って、岡山大学経済学部が教育に真面目に取り組んでいないというわけではない。どちらかというと個人的な問題であって、「俺が悪かった」と一言言えばすむところだが、少し整理しておこう。 92年に着任した頃はちょうど岡山大学経済学部にとっても、また全国の似たようなポジションにある地方国立大学文系学部にとっても過渡期だったと言える。かつてはこうした大学では、まず教員個人のレベルでは、「教育より研究を優先する」と公言して、学生のレベルや興味を斟酌せず勝手に講義をしても別に誰も問題にはしなかったし、学部レベルでも、教養と専門の二部門制に安住して、カリキュラムの体系性について真面
メタ・ユートピアの構図 ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』再読 稲葉 振一郎 『情況』1996年8・9月号 1 ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』*1を今日読み返してみると、ともすればやや古くさいという印象を受ける。著者であるノージック自身、本書で提示されたリバタリアニズムの政治思想を今日では放棄しているというが *2 、その理由自体は私のあずかり知らぬところである。ここではもちろん、私自身におけるそうした感想の根拠を提示せねばならない。 本書で展開された社会モデルは一見してわかるとおり、新古典派経済学のそれに大いにインスパイアされている。出発点としてのロック的自然状態は、道徳規範の確立された無政府状態であり、そこにおける道徳の根幹は個人の権利の不可侵性にある。ここで権利は実現されるべき状態として、あるいは行為の積極的領導原理として導入されるのではない
(1908-1963) スペイン(カタロニア)出身の画家。女性。シュルレアリスム運動に参加。第2次世界大戦中にメキシコに亡命、そこで生涯を終える。 ギャラリー オリノコ河水源の探検 (1959) 再び生まれて (1960) 星のピュレー (1958) 啓示あるいは時計師 (部分)(1955) 鳥たちの創造 (1957) 塔に向かう (1960) 大地のマントを刺繍する (部分)(1961) 逃走 (1961) 無用の科学あるいは錬金術 (1958) 無重力現象 (1963) フルート奏者 (1955) 星の女猟人 (1956) 精神分析医のところから出てきた女 (1960) 魔術的飛翔 (1956) 菜食主義の吸血鬼たち (1962) 予感 (1953) 太陽音楽 (1955) キャラヴァン (1955) 決裂 (1955) 御婦人方の幸福 (1956) ハーモニー (1956) 三つの
リーディングリスト 稲葉振一郎 2000年11月15日 ver.0 2000年11月21日 ver.01 2000年11月29日 ver.02 2000年12月6日 ver.03 2000年12月8日 ver.04 2000年12月11日 ver.05 2001年1月25日 ver.101 2001年2月14日 ver.102 2001年4月8日 ver.1021 2001年5月16日 ver.1022 2001年8月3日 ver.201 2001年8月8日 ver.2011 2002年9月27日 ver.301 *明治学院大学社会学部講義「社会倫理学」と演習を念頭に置いて作成。 「野望としての教養」(浅羽通明)「新教養主義」(山形浩生)に多少とも資することをも念じて。 とりあえずは「教養」であるが、最後の倫理学の項目だけはやや専門的であるかもしれない。 古典はさしあたり除外する。 *全点
自然状態・自然権・国家 ホッブズ、ロック再読 『環』第5号(2001年4月) 稲葉振一郎 近代的な意味での「国家論」は17世紀、市民革命期イギリスの論者たちのいわゆる「社会契約論」からはじまる、というのが普通の理解である。厳密に歴史学的に言えばこのような理解はもちろん雑駁にすぎる――契約説的国家論は古代や中世に遡れるし、契約説を過度に重視すると国家のもうひとつの面、集権的権力体としての国家の理論の歴史を見落としてしまう――が、それでもこれが通説となっていることにはもちろんそれなりの理由がある。第一に、これらの近代社会契約理論は近代民主主義の正当化のロジックの原型を提供してくれており、それは今なお説得力を持って通用している。そして第二に、これらの理論は「自然状態」の概念をその基礎に置いている。この概念を持つがゆえに、近代社会契約理論は従来の契約的国家論やその他の政治理論とは異なり、近代社会「
2月23日 忙しいので代用原稿。 明治学院大学社会学部社会学科編『社会学とはどのような学問か』2001年度版用原稿 稲葉振一郎 助教授 (1)社会学とはどのような学問とお考えですか。 高校時代、「「社会学」と名が付いているからには人間と社会の総体を問題にする気宇壮大な学問に違いない」と勝手に思いこんで某大学社会学部(ここではない)に入学したらば「社会学部」という名とは裏腹に実は社会学者が全然いないという事実(いまでは事情は根本的に変化したそうだが)にまず打ちのめされ、更に勝手に勉強している内に「名が身体を表すとは限らない」という当たり前のことに気が付いた。つまり「社会学は人間と社会の総体を問題にするべきである」とはよく言われるが、現実につねに「社会学は人間と社会の総体を問題にする」ことができているわけではない。それに政治学や経済学や法学だって「政治」や「経済」や「法」にしか目がいかないとい
サイエンス・フィクションの終焉 ──ある歴史哲学についてのノート── 西村豁通・竹中恵美子・中西洋編著『個人と共同体の社会科学』ミネルヴァ書房、1996年3月、所収 稲葉 振一郎 1 サイエンス・フィクションの死 歴史哲学としてのサイエンス・フィクション サイエンス・フィクションが死に瀕している。 ここではサブカルチャー、ポップカルチャーとしてのサイエンス・フィクション、つまりミステリーなどと並んで、20世紀の通俗文学、エンターテインメントの一ジャンルを構成しているそれのことのみをいっているのではない。そのようなジャンルとしてのサイエンス・フィクションはまた同時に、我々のより普遍的な世界イメージの根底にあるものを分かりやすくデフォルメした形で表現してくれているものであるが、そうしたイメージのプロトタイプ、いわばサイエンス・フィクション的なるもの自体が、今や根腐れて、解体しつつある。 原イメ
労使関係史から労使関係論へ 論評: 東條由紀彦『製糸同盟の女工登録制度-日本近代と女工の「人格」-』(東京大学出版会、1990年) 佐口和郎『日本における産業民主主義の前提-労使懇談制度から産業報国会へ』(東京大学出版会、1991年) 稲葉 振一郎 『経済評論』 第41巻第10号(1992年10月) はじめに 本稿の主題は、近年立て続けに出版された、新世代の労働問題研究者による日本労使関係史の本格的研究書二冊の検討を通じて、現時点における日本労使関係史研究の到達点から、一体何が見えてくるのか、を確認しておくことにある。近年の日本の労働問題研究にとって、歴史研究はいわば理論研究を代位する役割、すなわち日々変貌しつつある現場を分析する際に、方向感覚を失わないための羅針盤を提供する役割を担ってきた。本稿で論評される二つの業績は、このことを意識しつつも、再び理論構築への思考を明示的に打ち出したとい
稲葉振一郎 Shin-ichiro INABA 明治学院大学社会学部社会学科教授 メールアドレスinaba@soc.meijigakuin.ac.jp(@を半角変換して用いてください。) *2006年度講義スケジュール *通年 水曜2限(10:50~) 演習1(白金) テーマ:政治哲学 テキスト:ウィル・キムリッカ『新版現代政治理論』 備考:大学院と合同(選択制) 木曜7限(19:45~) 社会倫理学研究(大学院)(白金) テーマ:リベラリズム テキスト:追って指示する ゼミ・大 学院のページ *春学期 水曜6限(18:05~) 社会倫理学A(白金) 2年生以上向け講義。講義用ホームペー ジ。 木曜3限(13:25~) 基礎演習(横浜) 木曜4限(15:05~) 基礎演習(横浜) *秋学期 水曜6限 社会倫理学B(白金) 2年生以上向け講義。 木曜3限(13:05~) 専門書購
(更新は月2回以上……を目指しています。) こちらはインタラクティヴ読書ノートの別館です。伝言版形式の本館に対して、こちらはすべて稲葉振一郎が作成しており、文責も当然稲葉振一郎個人が全面的に負っています。 読者のみなさんからの情報提供は、インタラク ティヴ読書ノート・本館で受け付けています。どしどし書き込んで下さい! 注記(2004年11月11日) インタラクティヴ読書ノート・別館の別館を設けました。 *過去のノート一覧 *本の検索サイト NACSIS-WEBCAT Library of Congress Home Page COPAC(イギリス主要図書館案内) TRC(図書館流通センター)ホーム ページ インター ネット古書店案内 日本の古本屋 amazon.com Amazon.co.jp bk-1 2006年2月 2月10日 特別編だよ。 真剣中年しゃべり場 *第1部(at「別館の別
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『www.meijigakuin.ac.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く