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アメリカ大統領選
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沖縄の遺骨収集現場にて フィリピンや沖縄での遺骨収集活動に加わり約5年目。遺骨収集活動を始めた動機などはこのブログや著書にも散々書いていますのでここでは省略しますが、先の大戦での海外戦没者数は約240万人、その内の約125万柱が日本へと送還されている。つまり未帰還のご遺骨は約115万柱。日本政府は敗戦から30年が経過した1975年度を遺骨収集における一つの区切りとし、その後は主に民間団体等から情報があった場合に収集してきた。つまり民間任せの状態が続いている。 確か尾辻厚生大臣の時代だっただろうか。厚生省は「おおむね3年間を目処に南方地域で集中的な遺骨収集を行う」と発表したが、なぜ3年間なのか、また、06年度からの「集中的な情報収集」に関しても民間団体に任せきりだったのではないか。そもそもこの3年間の間に民間団体抜きに国がどれだけ具体的なアクションを起こしてきたのだろうか。この事を厚労省に何
毎年、8月15日になるとマスコミ各社は「終戦記念日」「終戦日」と報じる。今日は66回目となる。その度に感じる事がある。1つには「終戦」という表現。語弊があるかもしれないが、「終戦日」という言葉に首を傾げてしまう。あの戦争は負けるべきして負けた。遺骨収集を通し戦争を知れば知るほど何と戦略なき無謀な戦争だったのかと驚く事が多い。詳細は私の著書「自然と国家と人間と」「それでも僕は現場に行く」に書かせて頂いたが、祖父が関わったインパール作戦、そして遺骨収集を行ってきたフィリピン・レイテ島など完全に制空、制海圏を失い、先に上陸していた部隊の多くは戦う前に餓死していった。海軍と陸軍との対立構造の中、互いの情報は隠ぺいされそのおかげでどれだけ多くの兵士が死ななければならなかった事か。 作家の半藤一利氏によれば太平洋戦争の戦闘員の戦死者は陸軍165万人、海軍47万人(1964年厚生省調査)。このうち、餓死
防護服に身を包む。 6月20日、早朝、私は高邑勉議員(民主党・衆院議員)と福島原発20キロ圏内(警戒区域)に向かった。高邑議員とは以前から遺骨収集活動でご縁があり、エベレストから帰国後に再会した際に「野口さん、20キロ圏内に取り残されている家畜が政府の方針により殺処分されている。私は何度も現場に通っていますが、あの動物達の鳴き声が耳から離れないんです。何とか助けたい。殺さずに生かしていく方法があるはずです」と訴えていた。 震災後、何度か被災地入りしたものの、私が訪れたのは三陸地域(陸前高田市、気仙沼市、山田町など)であり、福島ではない。同じ被災地でも三陸地域と福島とでは被害の内容が大きく異なる。震災後(4月10日から)、エベレスト登山のためにしばらく日本を離れたが、エベレストにいながらも気持ちは日本にあった。私が訪れた被災地は今どうなっているのだろうか?そして原発事故が起きた福島県は?エベ
5月4日、午前9時半(ネパール時間)、キャンプ1からキャンプ2に向かっている最中の出来事。一カ所、ヌプツェ峰の真下を通る場所があり、我が一行がクレパスに架けられた梯子を渡った直後、上部の方から何か爆発音のような音が聞こえ、サーダー(シェルパ頭)のダワ・タシに「雪崩か?」と聞けば「落石じゃないか」との返事。その方向を見上げたが何しろ真上。何も見えない。とっ、次の瞬間に巨大雪崩が爆音と共に真っ直ぐに我が方に向かって一直線に突っ込んでくる。とっさに「おい!平賀!雪崩だ!」「逃げろ!」 この梯子を渡った直後に雪崩が発生。左奥がエベレスト 急いで口の周りに腕でスペースを作り、生き埋めになっても呼吸できるようにしたが、まもなく直撃するであろう巨大雪崩相手にこれしか手段がないのか。今まで様々な事を経験してきたが、その度に「死んでたまるか」「なんとかなる」と死の世界に抵抗してきたが、今回ばかりはこの巨大雪
エベレスト・ベースキャンプまでの約10日間のキャラバン。カメラを構えながら今回はどの世界を表現とテーマにしいようかと色々と考えていました。僕のツイッターには「光」、「風」、「音、「命」、などまだまだ沢山ありましたが、色々とリクエストを頂きました。そしてふと気がついたのが色のない世界。そもそもヒマラヤはコントラストの世界。氷河の白、そして岩の黒。特に氷河地帯まで標高を上げると生き物が周りから姿を消していく。生き物がいなくなれば色も臭いもなくなっていく。無の世界。それがヒマラヤなのです。今回はそこにポイントをあて白黒の世界で撮影してみました。中学生、高校生時代、写真部に所属していましたが、あの頃は基本的に白黒フィルム。色があるとその色で誤魔化せるのでまずは白黒からスタート。土日は薄暗い暗室にこもり現像に写真焼き。現像液の中につけている印画紙に徐々に浮かび上がってくる作品にドキドキしながら見てい
多くの皆さまに、野口健・寝袋支援プロジェクトにご支援・ご協力いただき、本当にありがとうございます。 今週末に、被災地に届ける予定で、準備しております。 また、嗜好品に関してもお問い合わせいただいております。 こちらに関しましては、以下にて受け入れ態勢を整えました。 おもに、オセロ・トランプ・将棋・麻雀などのゲーム類、絵本やおもちゃなど、被災地の方々が少しでも気が紛れ、楽しめるものを募集しております。送付前に一度メールにてご連絡いただけますよう、宜しくお願い致します。 送り先:有限会社鼓動館 〒569-0016高槻市五領町12-12 TEL072-660-5080 担当:藤岡誉司 問い合わせ先:hd@kodohkan.com 締切:2011年3月31日必着にてお願いします。 野口健事務所
3月23日、被災地の1つである陸前高田市の広田小学校に救援物資(寝袋440個・寝袋インナー100枚・マット100枚・テント50張り・食糧ダンボール4箱・下着ダンボール2箱・タバコ2カートン)を届けた。3月22日、まず東京から長野県小諸市へ。東北道は救援車両以外は通行不可ということで小諸市が手配した救援車両(10トントラック1台・4トントラック1台)に我々の救援物資を積み込み現地へと向かった。10トラックは小諸市民の方々が寄付した衣服・日用雑貨など。4トントラックは我々が集めた寝袋など。 テレビ映像で何度も見てきた被災地の様子ですが、実際に現場に訪れてみると・・・言葉が見つからなかった。被災地を覆っていたのが腐敗臭。海から打ち上げられた魚の臭いもあるだろし、瓦礫の下に埋もれたままの被害者も含まれているのだろう。実際に我々が訪れた時も瓦礫の下から遺体が発見されていた。白黒写真で見てきた東京大空
1月30日、講演のために地方出張中に家から「昨日からリリが家に戻らない」との連絡が入る。我が屋には二匹の猫がいる。ナナとリリ。ナナは僕が学生の頃に近所の畑で出会ったノラ。そしてリリは5年前にふらりと入った新宿のペットショップで目が合い、一目惚れし我が家の一員となった。偶然にもリリさんはエジプト産の猫だった。グレーというかシルバーに近いような綺麗なトラガラ。大きな目がクリクリし、そしてどこかツンとお澄まししたような表情に一目ぼれしたのかな。 お気に入りのソファで リリが我が家の一員になった頃は、ナナがリリを嫌がり、リリが近づくと「ハァー」と威嚇していた。ナナからすればいきなりの姉妹誕生で戸惑っていたのかな。しかし、その不中も半年ほどで気がついたらいつも二人でベッタリ。動物病院に預けた時も病院の方から「ナナちゃんとリリちゃんはとっても仲がいいですね。いつも一緒に寝ていましたよ」と声をかけられる
正論8月号に野口健の手記が掲載されました。以下、全文です。 「英霊に愧じぬ遺骨収集の道を求めて」 アルピニスト野口健 なぜ、遺骨収集を始めたのか 「生きていて申し訳ない」―。 かつて祖父が、幼かった私に繰り返し語った言葉だ。祖父は職業軍人であり、ビルマ作戦に参謀として加わっていた。終戦により捕虜となり生還を果たしたが、その心は、ビルマに眠る兵士のもとに残しているかのようだった。 「おじいちゃんは生きて帰ってきたけれど、部下の大半が死んでしまった。ほとんどが餓死か病死だった。イギリス軍に追われてね。ジャングルの中を食料もなくひたすら逃げるんだ。まともに食べていないから体力のない兵士は歩けなくなる。最後は自決用の手榴弾を渡さなければならなくて…。自分の兵士を死なさなければならない。それが一番辛かった」 「洞窟の中に潜んでいた時、兵士の一人がシクシクと泣いているんだ。『どうしたんだ』と聞くと、彼
6月19日、朝、家を出る時はいつも違った緊張感を味わっていた。その日は長野市で「メルトダウン イン チベット」の上映会と私のチベット問題に対する講演会が予定されていたからだ。 私の第一歩 2008年3月14日、チベットのラサで起きた血の抗議事件から2年。中国の人権侵害に苦しむチベット人が北京オリンピック前に世界に訴えようとラサで抗議を行った。その結果、多くのチベット人が逮捕され、獄中で拷問を受け200人以上のチベット人が犠牲となった。 あの暴動が起きた時、私は日本でその様子をテレビで眺めながら、あの温厚なチベット人がついに行動に移したと、まさに知覧から飛び立っていく特攻隊員の心境と同じなのだろうと心が苦しくなった。もし私がその場にチベット人として居たのならば、間違いなく私も手に石を持ち参加しただろう。その行動をどうして批判出来ようか。 1946年にチベットは中国共産党の軍事戦略を受け、19
ヒマラヤでのキャラバン開始直後、私の元に私の事務所経由で空援隊から週刊文春で報じられた疑惑に対する空援隊の対応に関する公式見解が届きました。「これは間違いなく公式見解か」と事務所スタッフに尋ねたら「公式見解として送られてきたものです。間違いありません」との返答にしばし呆然。確かに「空援隊公式見解」というタイトルから文章が始まっていた。空援隊の小西理事長も「あの統一見解の通りにいく」と断言されました。 理事の一人である私が事前に把握していなかった公式見解(後に統一見解と訂正された)。 私が空援隊の理事として取り組んできた事、また今後の最大の課題、テーマとして捉えていたのは、1にも2にもまずは疑惑に対する説明責任。一部の週刊誌、一部の遺族関係者、一部の戦友関係者であろうが、ご遺骨基金による寄付金、また税金が含まれている以上は、疑惑に対し1つ1つ誠実に事実関係を説明するべき。 私の元にもご寄付を
3月11日、三日間の活動を終えマニラに戻ってきました。 今回の調査結果は 3月8日 エモルゲ島にて約80体のご遺骨を発見 カドラオ島では四か所にて合計12〜13体のご遺骨を発見 3月10日 サンガット島では四か所にて合計40〜50体のご遺骨を発見 サンガット島にて 合計約150体のご遺骨を発見しましたが、先日のブログでお伝えしました通り現地の状況により一体も収集叶わず。今回は残念ながら一緒に帰国を果たせません。 残念過ぎて言葉になりませんが、年内には必ずご遺骨の奪還を果たしたいと心に決めマニラに戻ってきました。 そこでなんとも悲しく空しい知らせは週刊文春の記事でした。事務所から記事のファックスが送られてきましたが、あの記事に怒りと言うよりも虚脱感に近いのでしょうか、情けなくて、情けなくて心の中で泣きました。 なんだかなぁ〜 日本人同士で何をやっているのでしょう・・・
日本ではほとんど報道されませんでしたが、フィリピンで足止めされていたご遺骨4370体が12月9日に空援隊の倉田宇山さんと共に帰国を果たした。これで2009年の空援隊(フィリピンにて遺骨収集を行っているNPO団体)によるご遺骨収集は合計8670体。近年、国家事業として行われてきたご遺骨収集は年平均すれば600〜800体であったわけですから空援隊による収集数がいかに多かったが分かる。 旧日本兵のご遺骨の焼骨式 フィリピンにて 昨年までは我々のような民間団体には認められていなかったフィリピンでのご遺骨収集活動。今年になり厚生労働省からご遺骨収集の許可を頂きこれだけのご遺骨を収集してきましたが、 1つにはご遺骨の焼骨を行うのだが、ホテルの許可を頂きながら敷地内で行ってきたのだが、後になって「聞いていなかった。遺骨の焼却行為が話題となり客のキャンセルが相次いだ。賠償してもらう」と訴訟にまで発展。しか
12月18日、富士山登山を行っていた片山さんら3名が遭難しましたが、その知らせに驚きまた他人事とは思えなかった。何故ならば同じ日に富士山登山を予定していたからだ。しかし、一緒に登ろうとしていた平賀カメラマン(山岳カメラマン)が海外ロケに出かけており延期。右京さんの遭難前日、奥多摩登山を行っていましたが、この日からグッと冷え込んでいた。天気予報は「雪が降るかもしれない」と伝えていたので、ダウンジャケットなどの防寒具に身を包んでいたが、それでも寒かった。奥多摩でこれだけ寒かったのだから富士山は大変だっただろうと、延期になった事を安堵していた矢先の右京さん遭難。 右京さん遭難の一報の直後からテレビ、新聞などの報道陣から話を聞きたいと連絡が相次いだ。そして何人かの記者から「片山さんが登山仲間を残したまま下山しましたが、どう思いますか!」と、最初から右京さんの判断に問題があったのでは、といったニアン
先日、このブログ内にて「小沢一郎発言に耐えがたい嫌悪感」と題した記事を書きましたが、その反響は予想以上にとても大きかった。賛否両論、様々な意見が寄せられました。また必ずしも真意が十分に伝わっていなかった、説明不足がありましたので、ここで改めて自身の捉え方を述べさせて頂きたい。私が小沢氏の言動に対し疑問を感じたのは天皇陛下の政治利用問題が取りただされる前からです。 例えば小沢氏が総勢600人を超える大訪中団のさいに胡錦濤氏との会談でのやり取りの中で小沢氏は自身を中国人民解放軍の野戦軍司令官にたとえ「解放の戦いはまだ済んでいない。来年7月に最終決戦がある」と来年の参議院選挙で勝利しなければならないと発言。220万人に及ぶ中国人民解放軍が今まで何を行ってきたのか? 例えば、第二次天安門事件が発生した時のこと。建前上、国家の軍隊ではない共産党の党軍である人民解放軍が民主化運動の弾圧を行った。中国人
600人率いた中国訪問含め一連の小沢一郎氏の言動に対し違和感を覚えていましたが、羽毛田宮内庁長官に対し辞表を要求した一報に違和感などといった程度のものではなく、絶望的な、そして耐えがたい嫌悪感に包まれています。羽毛田長官は小沢氏の辞任要求に対し「辞表をだすつもりはありません」と断言されましたが当然でしょうに。 それに羽毛田長官に対し辞任要求するのならば、それこそ身内であるはずの渡辺総務副大臣の「天皇陛下の政治利用は遺憾。今からでも中止を」発言に対しまず先にコメントを発するべき。 国民からの陳情も小沢氏に一極集中させ、議員立法も一部例外を除き提出させないとする小沢氏。本性が露わになってきましたが、彼は一体全体どちらのお国の政治家? それこそ、そのままご帰国されることなくあちらに移住されればもっと分かりやすかったのかもしれない。 永年の野党生活。権力を持っていなかった人たちがいざ権力を握った時
八ヶ岳大縦走を予定していた本日(11月1日)でありましたが、夕方から天候は崩れ八ヶ岳では雪にあっていただろう。あれだけトレーニングを積んで来ての中止は誠に残念でありますが、自然を相手にしているわけで仕方がない。ただ、前回と今回と2週連続して予定していた日ばかりが悪天候でその前後は晴天と来るので、まあ〜これは「止めとけ」との天の声を思うよりか仕方があるまい。八ヶ岳は逃げませんから。ただ懸念するは可能性があるとすれば八ヶ岳は逃げなくても私の気持ちが逃げたりして。それもまた人生。次に繋げるべく頑張ってトレーニングに励みます。 そして本日、 麻生政権では、戸井田厚生労働政務官(当時)は「国として当然責任がある。議員立法を提出し遺骨収集を国家の義務にするべきだ。たとえ財務省が反対しても「我々が予算をしっかりつけよ」と声を出せばいい。今までの3億円の予算では少なすぎる。アメリカは遺骨収集事業に年55億
環境仲間 小池百合子さんの取り組み 2006年3月下旬、私の携帯電話が鳴った。 「富士山での清掃活動ですが、私も環境大臣として参加します」 小池百合子さんからの突然の電話だった。それまで毎年のようにコロコロと変わっていく環境大臣にお会いしては「日本の象徴である富士山がごみだらけになっています。一度現場にいらしてください」とお願いしてきたが、一度たりとも実現しなかった。それだけに小池さんからの返事には驚いた。 その夏には私たちと一緒に二時間以上も樹海で不法投棄されたゴミを拾い続けた。 「ひどいゴミでした。これから環境省は本気で取り組みます」と記者団に向かって力強く話す小池さんの姿に胸が熱くなった。 一部の環境保護団体からは「何もしてこなかった行政や政治家と接触することに抵抗がある」「政治利用されるだけだ」などと批判された。確かに、樹海の土壌汚染につながる医療廃棄物などの不法投棄の深刻さを環境
伊豆の伊東市にて断食生活をおくってきました。ヒマラヤ・マナスル峰から戻ってきたからというものの、今まで経験したことのないような疲労感。それは2年前のエベレスト登頂時よりも酷く激しい。今回は6600メートルほどしか標高を稼いでいないのに。それほど年でもないと思うんですが、少なくとも自分ではエベレストに初登頂した25歳の時と心身ともになんら衰えていないと思っていたんですが・・・。いやはや、なんなんだろ、この抜けないだるさ。 「健康な肉体にこそ健全な精神が宿る」とはよく言ったものでまったくもってその通りだと最近になってつくづく痛感させられます。過酷な現場からメッセージを発信するのが私の役割だとするのならば、健康管理も仕事のうち、この際、思いっきり休んでやろうと断食してきました。 断食生活も初体験からかれこれ6年目。何度も繰り返してきましたが、特にヒマラヤ帰りには効果てき面。なにしろ長期間にわたり
ネパール・カトマンズ入り。ネパールは二ヵ月ぶり。年末年始も清掃キャラバンに氷河湖の調査を行っていましたが、今回もその続きです。先月はツバル、そしてフィリピンでの遺骨調査、そしてこのチベット動乱によるコメントによる騒ぎ、色々とありました。 「チベット動乱〜北京五輪参加への条件〜」(野口健ブログ)にて私が個人的に感じていたチベットに対する思いを述べさせて頂きましたが、あくまでも私の心情であり、人様に対して押しつけたりするものではありません。あくまでも一登山家の意見として受け取って頂ければと思います。 チベット問題は極めてデリケートであるわけで、寄稿すれば賛否両論、物議を交わす事は分かっていました。寄稿してから200件を超える様々なメッセージが私に届けられました。正直、メッセージを拝読しながら「大丈夫かなぁ〜」と心配になることもないわけではなかったですが、特に慣れてない日本語でありながらも、おそ
私がネパールなどで行っているトレッキングなどの山旅は「エコツアー」と呼ばれることが多くなった。自然に触れてさえいれば、なんでもエコツアーだと勘違いしてしまいそうだが、実はしっかりとした意味がある。日本エコツーリズム協会は、エコツアーを「旅行者に魅力的な地域資とのふれあいの機会が永続的に提供され、地域の暮らしが安定し、資源が守られていくことを目的とする」と語る。現代の観光名所は、このエコツアーの考えを基準に、開発が進められている。国内においても、白神山地、京都、原爆ドーム、屋久島などの世界産地を中心に、現地の自然と文化を尊重した、ルール作りが進められている。 だが、それとはまったく逆行する流れで、チベットの観光化が進んでいる。2006年7月、北京とラサをつなぐ青蔵鉄道が開通した。全長1956kmに及ぶその路線が開通する前、チベットへは、空路か未舗装道路を使って入るかしかなかった。この鉄道建設
3月14日、チベット自治区の区都ラサ中心部で僧侶やチベット一般市民による大規模な暴動が発生。連日、その暴動の様子が日本のテレビ、新聞等の報道で大きく取り扱われている。中国人の店舗や公安当局の本部に投石し車をひっくり返しているチベット人の姿をテレビの画面で眺めながら、「日ごろ温厚なチベット人がついに爆発したな」と、もし私がチベット人でその場にいたら間違いなく行動を共にしていただろう。永年に渡り中国に支配されチベットの文化が葬り去られようとしている時に命をなげうってでも中国による侵略を国際社会に訴え、そして救いを求めようとしている彼らの行為を一体誰が責められようか。まさに知覧から飛び発つ思いであったに違いない。 このブログまた野口健ホームページにも、北京オリンピック開幕式の芸術顧問をいったんは引き受けていたスティーブン・スピルバーグ監督がスーダンのダルフール問題を理由に顧問就任を辞退したその経
先程、二泊三日(高知・滋賀・岡山)の講演の旅を終えて東京に戻ってきました。昨日は滋賀県の大津市民会館にて聖パウロ学園・光泉中学・高等学校(1・150名)の文化講演会にて「あきらめないこと、それが冒険だ」をテーマに講演。 光泉中学校・高等学校にて講演 2年前から聖パウロ学園の馬場校長先生から文化祭での講演会のご依頼を頂いていましたが文化祭の時期である秋の日程がすでに埋っており実現しなかった。それならばと「文化祭での文化講演会の時期をずらして二月でも構わない」と馬場校長先生からご連絡を頂き、その誠意に感謝し喜んで講演させて頂きました。講演中も生徒達が身を乗り出すように真剣に聞いてくださり話していて気持ちよかった。ありがとう!そして講演後はバレンタインデェーとあり、花束の代わりに生徒会長の久間百合さんからチョコレートを頂きこれは素直に嬉しかった。記念写真ではちょっとにやけてしまいましたが・・・。
2月12日は植村直己さんの誕生日。そして今日(12日)、植村直己冒険賞の受賞についての記者会見が都内で行なわれました。落ちこぼれた高校時代。暴力事件で高校を停学。その停学中に植村直己さんの著書「青春を山に賭けて」と出会いそれがきっかけで登山の世界に飛び込みました。植村直己さんの存在が私の人生を大きく変えました。私にとって人生の恩師。その植村直己さんの冒険賞に選ばれた事は私にとってなによりも大きな大きな意味があります。先週、受賞のお知らせを頂きましたが驚きと喜びと感謝でしばらく声が出なかった。 7大陸最高峰登頂、そしてエベレスト清掃登山、この18年間、植村直己さんのトレースを追うかのごとく、とりつかれたように必死に前へ前へと進んできました。エベレストではいつも僕の胸のポケットの中には、奥さんの植村公子さんから頂いた直己さんのアーミナイフがお守りとして入っていました。こうして活動を継続してこれ
本日、野口健公式ウェブサイト がリニューアルしました。 いままでの当ブログのすべての記事や これまでの野口健からのメッセージを 「ブログ」にまとめカテゴライズしなおしています。 新着の記事はもちろん、過去の記事もぜひ、ご閲覧いただければと思います。 野口健事務所
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