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アメリカ大統領選
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最近の若い人は、古い曲をどうやって知ってるんだろう。 増田聡さんがこんなtweetをしていたのを読んでふと気になった。 教養ゼミで1年生がゆず「夏色」(98年)を流した。出席してた1年生に「この曲知ってる人?」と尋ねたら全員が手を挙げる。これ君らが生まれた頃の曲やけどな。個人的な感触では90年代半ば以降のJポップは今と地続きの「現在」として捉えられているように感じる。それ以前は「違う文化」というか — 増田聡 (@smasuda) June 1, 2016 そこで、わたしの担当している講義でちょっとアンケートをとってみた。受講者数105人(大半は1回生)の講義で、彼らが生まれたころ、つまり1998年のヒット曲から以下のものをピックアップした(ただしLOVEマシーンは1999年)。もちろん、アーティストによってはもっと有名な曲もあるわけだが、ここでは古さをほぼ統一することを優先した。 ゆず(
ドラマ「glee/グリー」に、ディアナ・アグロン演じるクインという高校生が登場する。チア・リーダーのヘッドである彼女は、当初グリー部の主要メンバーであるフィンと付き合っているのだが、第四回で自分が妊娠していることを知る。しかし実はお腹の子供の父親は、フィンの親友パックだった。 その後クインは妊娠したことをフィンや周囲の者に隠しながら、子供を産むべきか、産むとしたら自分が母親になるべきかどうか煩悶し、あるときはフィンを、あるときはパックを、またあるときは第三者を頼りながら、さまざまな方法を画策する。自分の地位や生活を維持するための打算と産む事への怖れとの間で揺れ動きながら、クインはついには出産にいたるのだが、それはgleeのシーズン1を通じてドラマの一つの軸を為している。これは、gleeをある程度見た人なら、そしてディアナ・アグロンを好きな人なら知っていることである。 さて、HKT48(な
ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』には、きわめて見世物的なショットがいくつもある。その見世物性は、もっぱら、3D映画であることからやってくる。 たとえば、波止場でニコラ・ド・スタールの画集を見るダヴィドソン(クリスチャン・グレゴーリ)の手つき。その左手は、どうもきちん画集のページをめくっているようには見えない。むしろ、画集の硬く大きな表紙を何度も広げることで、観客席にその表紙を繰り返し突き出しているかのようだ。その動作は、どちらかといえば、3Dカメラのしくみを知った子どもが、繰り返し手を突き出したり足を蹴り上げて、画面の向こう側に自分の身体を割り入れようとする行為に近い。 あるいは「Usine gaz」の前の広場で、美しい巻き毛のマリ・リュシャが、ふとかがんで見せるショット。しばらくして起き上がると、彼女の手は血塗られているので、(別の場面で示されている浴槽で洗い流された)血をすくったのだろ
語りの速度で、北三陸の遠さが語られ続けたのだった。それを語りの速度で飛び越えたところで、すっかり信用して涙が出た。たぶん、どんなセットやCGも、鉄拳の線ほど信用させてはくれなかっただろう。 もう157回という数字だけで、十分だったけれど、頭がしびれるような15分だった。 ああ、もうすぐ2013年も終わりだ。よいお年を!
「春よ来い」(詞・松本隆 曲・大瀧詠一) はっぴいえんどはお正月から始まる。炬燵に雑煮。しかしこの曲で注目すべきは、これら判で押したような日本的アイテムの方ではなく、お正月「といえば」という言い回しであろう。この歌い出しによって、歌は、「思い出」というパッケージされた記憶ではなく、「といえば」という思い出しのパフォーマンスとなった。鈴木さんのファズ(お手製!)に乗って、何かを思い出そうとするとき特有の、粘りつくような時間が流れ出す。「ものです」ということばが大瀧さんの声によって引きちぎられるにいたって、このパフォーマンスは絶頂にいたる。 もやのようなオルガンの向こうで吐き出される青春残酷物語。都会/田舎という対比は、のちの松本さんの詞によく見られるもので、とりわけ、太田裕美に提供された詞には、この図式が男/女の対比と重なりながら多用されている。ただし、男女の交わす手紙によって明らかにされる
このブログで書き続けていた「今日の「あまちゃん」から」が12/25に河出書房新社から発売されます(実はもう店頭に並んでます)。ブログとどう違うの?と思われる方もおられると思うので、ちょっと内容を紹介させていただきますと… このブログで、あまちゃんについて書き始めたのが7月末、それから9月末の放映終了まで断続的に綴ったのが「今日の「あまちゃん」から」でした。webで公開したものについては全部収録されています(多少文章はいじりましたが)。 が、まさか本にするとは予想していなかったので、4月から7月までの分がごっそり抜けている。7月以降も、今思えばあれこれ書きたかった回が、仕事のためやむなくところどころ抜けている。 というわけで、みんなが「ごちそうさん」にシフトしてツーテンカクの高さに驚いたり川にはまるめ以子にあきれたり、話すぬか床の神秘に魅入られている頃(結局見てた)、わたしは毎日3〜4本の「
このページでは、細馬宏通「ミッキーはなぜ口笛を吹くか」(新潮選書)で扱われている主なアニメーション作品をリストアップしています。関連する動画や、本には掲載しきれなかった画像は、後日あらためて紹介します。 この本で扱う主なアニメーション作品 この本では、1900年代から1950年代までのアメリカのアニメーションいくつかの作品を選び、その作品の表現方法とその方法の持っていた時代背景について論じています。特に中盤から後半にかけては、スタジオ制作のいわゆる「アニメイティッド・カートゥーン」から選んでいます。 扱っている主なアニメーション作品は以下の通りです。それぞれ数分の作品なので、全部見たとしても二時間弱です。いくつかはオンラインで見ることができます。ただし、原作の作画の巧みさに触れたい方は少なくともDVDで見ることをお勧めします。もし運良く上映会でかかる機会を見つけたら(いまやフィルムでかかっ
・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ いるに決まっていると思った鈴鹿さんも春子も行ってしまったし、もう出て来はしないだろうと思った春子の語りも復活した。せっかくの運転再開の式典も正宗さんのおかげでぐだぐだに始まった。あ、吹奏楽のテーマ曲演奏だ。 以前、虫入りの琥珀に気づかず捨てていた水口は、今度は恐竜の指を箸置きにしていた。勉さんは、自分のラッキーに気づきもしないこのあまちゃんに、今度はいちから恐竜のことを教えねばならぬのか。残念だ。新聞記事を見てばっぱはネコのカツエとごろ寝。そういえば、このドラマが始まったころ、夏ばっぱの暮らしぶりは、そんなもんだった。 いよいよ今日最大のクライマックス、「潮騒のメモリーズ」復活かと思いきや、吉田副駅長の登場。そして、ニュース映像ごしの鑑賞。マスターの「熱いよね」もバイトの子には響かない。残念だ。忠兵衛さんはわざわざベーリング海から見て
・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ 鈴鹿さんが、何度もトレーニングした結果歌うのは、どんな歌だろう。たぶん多くの人がそうであるように、わたしも以前からあれこれ予想をたくましくしてきた。 わたしは薬師丸ひろ子の歌をすでにいくつも知っている。彼女が音痴どころか、むしろ安定した音程と透明感のある声の持ち主であることも知っている。彼女は、たとえば少し手加減して、あの透明感のある声をちょっと曲げて、うつろいやすい音程を込めるのだろうか。それとも、この前からずっと取られてきた、無声という演出を最後まで貫くのだろうか。はたまた、またしても春子が代わりに歌うのか。 *** すっかり改心したかに見えた太巻だったが、鈴鹿さんのうつろいやす過ぎる歌声を案じた彼は、もう一つのマイクを用意し、懲りもせず過去の行為をなぞろうとしていた。 そしてついに東京から春子が駆けつける。
・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ 今日の後半は魔法のようだった。演出も音楽も音響も小道具も、そして編集も、前後する時間と場所を一つの夢のように自在につないでいる。朝、二回見たけれど、あまりによくできていて、ちょっと呆然としてしまった。 最初は、竹で燗をする酒が旨そうだな、とそこに目がいっていた。忠兵衛がかつ枝さん夫婦と大吉を連れて帰ってきて、そこに鈴鹿さんに、アキ、夏も加わり、囲炉裏端は一気ににぎやかになる。大吉はついに安部ちゃんとの再婚を決意したという。半年しか持たなかった大吉の最初の結婚を「2クールだな!」とからかいながら、アキが囲炉裏端で竹に酒を注ぐ。あ、これから囲炉裏に刺してお燗をするのか。あれはウマイだろうな。 すると、会話の中途で、時間が「ー 翌日」になる。 翌日。 「車両点検、終了しました、試運転お願いします。」と言う吉
・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ 劇における座席の位置というのがいつも気になっているのだが、演出が井上剛さんのときには特に発見が多い。 アキが北三陸に戻るかどうか、という話がいつの間にか春子が東京に残るかどうかという話に逆転していたのだが、なぜそうなったのか、うまく思い出せなかった。それで、8:00からもう一度見て(一回目はBSだった)、ああそうかとようやく気づいた。 春子と正宗の座る位置が交代していた。 交代はごくさりげないやり方で行われている。まだやりとりが「始まったばかり」のとき、春子はアキの正面にいて、アキを怒鳴りつけている。そしてあきれて窓際に去るのだが、この隙に、正宗が、そそくさとアキの正面に腰をずらせる。それは、いかにもお父さんと娘の親密な会話を設えようとするようであり、空いたスペースに縦列駐車をするようにさりげないので、物語を左右するように
・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ 被災現場で、ストーブことヒロシがヘルメットをかぶっているのがまず目を引いた。大吉や吉田副駅長のようにいつも制服姿の人間がヘルメットをしてもさほど違和感はないが、きゃしゃな優男のヒロシには、ヘルメットがまるで似合わない。そのいちばん似合わなそうな彼がヘルメットをしていることで、事のただならなさが伝わってくる。 そこから車両を人力で動かし、かろうじて無事だった区間をいち早く整備し、なんと6日間で運行を再開する今日のエピソードは、本当は『潮騒のメモリー』以上に心動かされる場面として、もっと時間をかけて描かれてもよいはずだ。夏ばっぱの無事な姿が映るところも、ウニ丼を運ぶ姿がとらえられるところも、それまでの経緯だけで一週間分のエピソードになるはずだ。あのときかつ枝さん夫婦はどうしたのか。ネ
・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ 被災現場で、ストーブことヒロシがヘルメットをかぶっているのがまず目を引いた。大吉や吉田副駅長のようにいつも制服姿の人間がヘルメットをしてもさほど違和感はないが、きゃしゃな優男のヒロシには、ヘルメットがまるで似合わない。そのいちばん似合わなそうな彼がヘルメットをしていることで、事のただならなさが伝わってくる。 そこから車両を人力で動かし、かろうじて無事だった区間をいち早く整備し、なんと6日間で運行を再開する今日のエピソードは、本当は『潮騒のメモリー』以上に心動かされる場面として、もっと時間をかけて描かれてもよいはずだ。夏ばっぱの無事な姿が映るところも、ウニ丼を運ぶ姿がとらえられるところも、それまでの経緯だけで一週間分のエピソードになるはずだ。あのときかつ枝さん夫婦はどうしたのか。ネコはどうしたのか。家は無事だ
・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ おそらく、この物語を見続けてきた多くの人が、月曜日にあの日のことがどう描かれるか、ということを考えながら日曜日を過ごしたに違いない。わたしもまたそうだったのだが、それと同じくらい気になっていたのは、あの明るいテーマ音楽が、はたして月曜日にも奏でられるのか、ということだった。 2年と半年余り前のあの日を境に、歌の意味が大きく変わったのを覚えている。 たとえば、海、ということばは、もう以前のようには使えなくなった。海に行きたい、海が好き、ということばが歌に表れるとき、それは、ただ無邪気な願望を表すのではなくなった。歌を作った人が、どんな過去や未来に基づいてそのような歌を作ったかはわからない。しかし少なくともその歌を歌う人は、海ということばを口にし、それを好きということによって、あの日を経たその人の足跡を表して
・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ スタジオの中を「金魚鉢」と呼ぶことがある。 スタジオの中は孤独だ。ヘッドホンを通して、コンソールから送られる限られた音と、自分の声が混ざるのに聴き入っている。ガラスの向こうで誰かがなにごとか話していても、その内容は聞こえない。ディレクターがこちらに投げかけてくれる微笑みをともづなにして、ようやく歌い続けることができる。ガラスの向こうで起きている談笑や困惑や諍いを見ながら、その内容から隔てられ、しかし、ガラスの向こう側から投げかけられる微笑みによって歌い続ける。そこは、地上で交わされる声の聞こえない水の中であり、潜り始めたらもう、向こう側で交わされる会話のことは考えない。考えれば歌は止まってしまう。微笑みは、何も考えるなと告げている。 春子はそうやって会話から隔てられてきた。会話ではなく歌を選んだのに、夏が
震災以後、リスク・マネジメント、リスク・コミュニケーション、リスク・アセスメントといったことばがよく聞かれるようになってきたのだが、どうもそれぞれの関係がよく分からず、すっきりしないでいた。 そこで、最近出たリスク学の入門書Fischhoff & Kadvany「Risk: A very short introduction」(2011)を読んでみた。見通しのよい本で、リスク学の枠組みがおおよそつかめるので、ここで紹介しておこうと思う(ちなみに、これはオックスフォード大学出版から出ているシリーズの一つで、短いながらさまざまな分野の例を挙げてリスク学の全貌をわかりやすく紹介している。短くてさっさと訳せそうだから、どこかの出版社からハンディな邦訳で出ればよいと思う)。 まず、目次は以下の通り。 第一章:リスクの決定 第二章:リスクの定義 第三章:リスク・アセスメント 第四章:アセスメン
実は、「あまちゃん」についてまとまったことを書くのは最終回が終わってからにしようと思っていた。単に個人的な趣味なのだが、ドラマを見ながらあれこれ読みを掘り下げると、どうしても先を予想したくなるし、そうなると予想の当たり外れが気になってしまう方なので、できるだけ手をだらーんと下げて、パンチを受ける態勢で臨もうと思ってここまで我慢してきたのである。 しかし。 わーわー! おらもう耐えられねえ! というか、わたしのザルのような頭で思いついたすてきな(すてきな、てのは親バカですよ)考えがどんどんどんどん流れてしまって、じゃあ大事なことをやたら貯め込むのはどうなのよ、とも思うが、もう書かないとやっとれん。かといって、ツイッターに書いたりすると、お昼の放送や週末の放送を楽しみにしてる人の目にもふれるし、わーわーわー! というわけで、ここに書くことにしますよ。 いきなりこのページ見ちゃった人のために多少
(未見の方は見たあとでどうぞ) 飛ぶ場面は言うまでもない。見ながら圧倒されたのは、地面の場面だった。 宮崎駿作品では、平面の風景上にただ群衆を貼り付けるのではなく、カメラの移動とともに群衆を一人一人を動かし、景色から剥がれ落ちるように描く場面が、これまでもしばしばあった。一人一人の生活の営み、とことばで言うのはたやすい。しかし、それをアニメーションという形で達成するためには、携わる人びとの強いオブセッションがなければなしえない。 今回の上野の場面、そして名古屋行きの列車に群がる人びとの場面は、その動きの緻密さと量において、ぞっとするような迫力だった。それは、これらの場面が、ある事件や衝撃に対して驚くという、情動のすばやい反応場面ではなく、そのあとのこと、それぞれの来歴によってどこかから逃げ、どこかを目指すさまを描いているからだろう。 しかもこれらの場面は、物語に
昨日の音遊びの会は(も)、してやられた。 このところ、毎回「ミュージシャン」枠で出演しているけれど、実際のところは、ぼくのほうが考えさせられることばかりだ。みんな成長してる。翼くんが少し見ない間にすごく大きくなってて、しかもドラムの演奏が繊細になってて驚いた。大生くんの歌はほとんどノンストップだったな。高い通りのいい声で、しかもけっこう頭に残るリフをかましてくる。にんにく王子ってなんだ。 それにひきかえ、こちらの記憶力ときたら年を追うごとにザル度が増している。以前なら、前日にやった曲を一通り思い出せたのに、いまじゃもうあちこち歯抜けだらけ。だから、最初からこれがあってこれがあって、という風には書けない。 それでも、佑佳ちゃんと鎌田さんのすばらしいやりとりや、舞台の奥でつぐみちゃんがずうっと立って指揮を振っていたのにぐっときたのは覚えてる。永井くんと達磨くんのビートの出し合いを見て、こういう
合奏は跳ねる ―『あまちゃん オープニングテーマ』の独自性― 細馬宏通 『あまちゃん』の物語とともに毎回大きな楽しみとなっているのが、大友良英による音楽だ。メロトロン、サイン波、タブラ、ときにはギターのフィードバックまで使って、細かく編集された映像に対して、確かな緊張感を与えている。かと思えば、ぽっかりと抜けるようなメロディで泣かせたりもする。 中でも型破りなのが、オープニング・テーマだ。ここ十年の朝ドラのインストルメンタル曲を思い出してみよう。『てっぱん』『瞳』『ちりとてちん』『純情きらり』。いずれもバイオリン、トロンボーン、ピアノ、チェロのソロがたっぷりと情感のこもったメロディを奏でるものだった。最近では『おひさま』のテーマが、ゆっくりと息の長い一つのメロディを歌い上げる佳曲だった。 ところが『あまちゃん』のテーマはまったく違う。初めて聞いたときには、正直とまどった。アップテンポのに
古本屋で「暦の上ではディセンバー」発売当時の『ニュー・ミュージック・オン』誌(2009年)を見つけたので、クロス・レビューのページを一部アップします。
古本屋で「潮騒のメモリー」発売当時の『ミュージック・オン』誌を見つけたので、クロス・レビューのページを一部アップします。『ミュージック・オン』では珍しく、邦楽曲にあの人の「0点」がついてます。
(注意:この文章は内容に大いに触れています。これから見る予定の方は見たあとにどうぞ) 映画を見るまでは、タイトルの「桐島」ということばが強く感じられて、そのことがとにかく気になっていた。実際(なるべく見ないようにしていたが)、TwitterのTLで「桐島」という文字をみかけることが多かったし、この映画を見たという知人も「桐島」と略して呼んでいた。 そして、いざ映画が始まると、なるほど、映画では何度となく「桐島」ということばが繰り返され、誰もが桐島のことを噂する。途中まではいかにも「桐島」ということばが物語を牽引していくかに見えた。 けれど次第に、この物語を駆動し登場人物たちを動かしているのは、「桐島」ではないもう一つの単語のほうではないかという気がしてきた。 バレーでもバスケでもバドミントンでも野球でもなく、部活。「バレーやめるってよ」ではなく「部活やめるってよ」。この物語では、特定のス
8年前、レスリングで優勝した吉田沙保里さんが小学校六年生のときに書いた「二十年後の自分」というのがスポーツ報知(2004.8.25)に載っていた。あまりにいい作文で、そのとき思わず書き取っておいたのだけれど、いま読んでもすばらしかったので、ここにあらためて書き留めておきます。 二十年後の自分 私は、今スーパーで、レジをしている。いろいろなお客さんがくる。私の、しっている、お客さんもきたことがある。私が、お客さんに話しかけると、あんた今、レジしてるんだーという。 私は、そうなの私は、小学校の時から、レジがしたかったのといった。 これはなかなかおもしろいわよ。 お客さんが、いろいろな物をかうの。だから、なにを作るのかなーと思うの。 私も今日のご飯なににしようかなーとレジをしながら、考えている。 毎日、いそがしいけど、がんばろう。
『マームと誰かさん・ふたりめ 飴屋法水さん(演出家)とジプシー』 @ SNAC(清澄白河)2012.6.3 「えーと」が、第一声だった。 青柳いづみの声は、「ー」と書くのがふさわしいくらい、平たく、レーザービームのように、飴屋さんのとつとつとした語りをなぎ払った。 飴屋さんは、セミが鳴き止むように、語るのをやめた。 えーと。 その日、会場であるSNACに着くと、飴屋さんが入口のコンクリートに水を撒いていた。SNACの入口には扉も窓もなく広く開け放たれていて、そこに壊れた車が突き刺さっていて、表ではビールや飲み物が配られていて、午後7時の6月は明るくて、開演にはまだ一時間もあったけれど、あ、もう始まっているな、と思った。セミの声がした。セミが鳴いてもおかしくない陽気だった。でも6月はまだ始まったばかりで、それはどうやら飴屋さんが操作するサンプラーから流れているらしかった。会場の入口から放た
はじめに 学部生や院生のレポートや論文を添削していると、ある種の傾向があることに気づく。さまざまな語尾が使われる。一つの文にいくつもの要素が埋めこまれる。文の長さが伸び縮みし、文構造が変化する。その背後には「学術的な文章を書くためにはできるだけ多くの複雑な表現を組み合わせなければばならない」という思い込みが透けて見える。残念ながら、その思い込みとは逆に、多くの複雑な表現を組み合わせた文章はしばしば読みにくく、誤解されやすく、そして学術的ではない。 学術的な文章でよく使われるのが、対比と列挙である。以下では、対比や列挙を行うときにいくつもの表現を用いるといかなる混乱が起こるかを、例を挙げて説明する。その上で、どんな表現をとれば理解しやすくなるかを考えてみよう。 対比 対比表現では、いくつかのできごとを取り上げて、それぞれの違いがどこにあるのかを指摘する。多くの学生は、愚直な繰り返しを避け、さ
Sunday Morning (by Velvet Underground: Reed, Cale) あけまして にちようび ぐったり でもねむれないきもち 朝だが にちようだ いっちゃっただいなしの日々 そうさっきまで まいっちゃう振り返ると いつも扉叩くの誰 知らないよ にちようだ 落ちようか こんなきもち 知りたくもない あけまして にちようは ずっとまたいでまたいできた日付 まいっちゃう振り返ると いつも扉叩くの誰 知らないよ (訳:細馬宏通) てんてんこまちがしゅんかんそく。「ん」が4つある。どうでもいいことじゃない。歌の中に埋めこまれる「ん」は、尖ったことばが休む、休みの中で見逃され聞き逃される声、その隙にコマを進める声で、それが証拠に、ボールはてんてん外野を転がっていくとき、周到なシフトを組んだはずの野手の隙をぬっていく、そのボールの振る舞いがてんて
勤務先が自転車で15分の場所にあるおかげで、朝の連続テレビ小説を見て出勤するのが長年の習慣になっている。気の合う作品と出会えると、朝の仕事にもその作品に合った調子が出て、半年間がその作品の緩急にうっすら染まる一方、一、二ヶ月で見落とすようになってしまうこともあり、そんな場合は、ドラマもそこそこに出勤してしまう。これまで、最後まで見続けたものは『オードリー』『てるてる家族』『芋たこなんきん』『ちりとてちん』と大阪放送局制作のものが多い。 『カーネーション』を、3/31まで楽しみに見続けた。『カーネーション』を見ていると、作者や演出家、スタッフが、朝の生活をいかに丁寧に描いているかがよくわかった。早い朝、眠い朝、ミシンを踏みながら迎えてしまう朝、子どもを蒲団から追い出す朝の光が描かれ、時代ごとにかわる衣装や家のつくり、調度に配慮が行き届き、物語の朝が、見ているこちらの朝に染みてくる。 尾野真千
(2010.6.24の日記:http://12kai.com/201006.html より) 卒論ゼミ。ゼミ生の卒論テーマがなかなか決まらない。 すでに会話分析とジェスチャー分析の基礎はやったし、昨年までの卒論資料もざっと読んでもらった。それぞれ、なんとなくやりたいことはいくつかあるらしいのだが、「じゃ何にしよう?」と聞くと、はかばかしい答えが返ってこない。 今日kindle版で買った”Scientific papers and presentation. “(M. Davis)にこんなことが書いてあった。 手を付けるためにはどんな手段を使っても構いません。まずは手を付けなさい。いわゆる書くための準備運動なんぞに時間を使ってはいけません。書くこと。 あなたの考えのへりにひっかかっているいかなるバケモノどもにも、邪魔させてはいけません。気むずかしいであろう聴衆の考え、書く以外のことに向か
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