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千葉県多古町は、空港周辺の自治体の中でも、原野商法的に販売された分譲地が特に多い自治体のひとつである。雑木1本切り落としていないような山林を、ただ分筆して切り売りしただけの分譲地もあれば、一応は道路の築造こそは行った形跡は見られるものの、舗装すら行われておらず、もちろん建物もないので、道路もろとも原野に還りつつある分譲地もみられる。だいぶ前になるが当ブログでは、そんな多古町の放棄分譲地を1件紹介している。(「疲労する不動産登記情報」) だが、そこが原野に還ろうと、あるいは足を踏み入れられないほどの荒廃竹林と化していようと、分譲された以上、図面上に描かれただけの各区画にもそれぞれ異なる所有者が存在する。しかし、そんな放棄分譲地を欲しがる者はまずいない。多古町の都市計画区域編入は2001年5月11日のため、町内に残されている放棄分譲地のすべては、分譲当時は建築確認もなく家屋の新築も可能であった
動画制作のために、昨年は群馬県の嬬恋村・長野原町に訪問することが多かった。知人が嬬恋村の別荘事情に非常に詳しいこともあり、僕の家からは遠いのだが、関東の別荘地事情の問題点が凝縮されているようなところなので、これは動画の素材や問題提起に適していると考え、繰り返し訪問して調査を進めていた。 それで、半年ほど調査を行ってようやく公開した紀州鉄道の動画が、まったく再生回数が伸びず、当初は4部作で計画していたシリーズ企画であったものの、おそらくいつまで経っても経費の回収も見込めないほど惨憺たる結果になってしまった。紀州鉄道本社に出向いて社長のも取材を行ったのだが、その点について、案件動画ではないかと疑う向きもあった。 あんな内容の動画を自社のプロモーションに使うような頭のおかしい会社があるはずもなく、非常に心外な言いがかりだったが、そんなことより重大だったのはやはり経費と題材の問題である。紀州鉄道に
自分が暮らす分譲地の整備の模様を、動画チャンネルの企画の一つとして開始した早々、この分譲地での生活の継続が困難な事態が起きてしまった。 我が家の近隣には、いわゆる「地域猫活動」を行う住民が数世帯居住しており、去勢済みの個体も含め、猫をよく見かける地域である。僕自身はその活動に直接参加していたわけではなかったが、ほかの地域猫と打ち解けることができない1匹の黒猫を、わが家で個人的に面倒を見ていた。 だが、こうした野良猫の世話が、動物の飼育方法として適切な行為ではないことはわかっていたので、この猫については特に公言もしなければSNSでその存在に触れることもなかったが、いつまで経っても懐かないので、捕獲の準備を行い始めた矢先に、毒餌らしきものを口にしたのか、その猫は突然変死してしまった。 毒餌というのも、根拠もなく語っているわけではなく変死の例は他にもあり、すでに不穏な事態は発生し始めていたので、
【2022年12月21日追記:原告の方の調査の結果、位置指定道路と宅地の位置関係について一部誤認があったので修正しています。(余計ひどい結果なのですが)】 動画チャンネルを開設して以来、取材依頼を受ける機会が増えてきた。興味深い案件も多いのだが、対象地があまりに遠方すぎたり、たまたま多忙なタイミングで依頼を受けてしまい、満足に調査できないまま次の仕事に取り掛かってしまったりで、期待に添えず立ち消えになってしまっているものも多い。 そんな中、埼玉県は白岡市の議会関係者の方より、市内のある古い住宅団地において非常に厄介な紛争が起きて収拾がつかなくなっているので、是非動画で取り上げてほしいとの要望を頂いた。依頼されたのは議会関係者の方であるが、団地の自治会関係者の中に僕のチャンネルの視聴者がいて、その方の推薦によるものとのことだった。 「限界ニュータウン」などという名称を冠するような僕のチャンネ
少し前の話になるが、富里市のとある限界分譲地に住む、僕のTwitterのフォロワーさんであるAさん(仮名)から、自宅の隣の空き区画(35坪ほど)を購入したいので、お手伝いをしてほしいとのお申し出を頂いた。おそらく70年代頃に開発されたと思われる、その限界分譲地の売家にAさんが転入したのは今からおよそ20年前。その時点ですでに隣の空き地はまったく管理もされておらず、竹も含めた雑木林と化していて、Aさん自身も、特に何もアクションを取ることもなくそのまま暮らし続けていた。 近隣にある別の空き地も、草刈り業者に依頼して管理を行う区画は多くなく、分譲地の住民の中には、空き地に勝手に物置小屋(未申請)を建てて利用している無法者もいるのだが、Aさん自身は、以前までは特にそうした無断利用も行っていなかった。この「勝手に小屋」系住民は、実は分譲地を巡っていると時々見かけるし、一番ひどいところでは、区画内では
先日、僕はサブブログにおいて「鉄クズ買取」と題した一本の記事を公開した(現在は非公開)。それは、僕の自宅の前にある、今は解散して存在しない法人名義のまま放置されている公園跡地を整備した際、不法投棄されていた金属ゴミを買取業者に持ち込んだら意外と高かった、というエピソードを切り口に、資源や原材料の高騰について語ったものだったが、公開後、コメント欄にて読者の方より、それは遺失物等横領罪に該当する犯罪行為なので記事を取り下げたほうが良い、とのご指摘をいただいた。 (【参考記事】「限界分譲地の使い道を模索する⑤」) 僕としては、ゴミが出てきてしまった以上仕方なく処分したものに過ぎず、いくら鉄クズが売れたと言っても、全体の作業量や、鉄クズ以外の粗大ゴミの処分などを考えれば到底割に合う額ではない。正直に言えばコメントを貰った当初は心外な思いではあった。のちにその読者の方よりTwitterでご連絡を頂い
このブログでも時折紹介はしているが、僕はこのブログを開設してから、現在までに合計で3つの分譲地を購入している。まず1つ目が、芝山町の「ハニワ台ニュータウン」にある36坪の宅地、2つ目が、現在暮らしている横芝光町の貸家の隣にある30坪の宅地(20万円)、そして3つ目が、茨城県鉾田市(大洋村)にある、未登記の古別荘付きの土地(20万円。諸費用込み41万円)である。 このうち、横芝光町と鉾田市の分譲地については、当ブログの過去記事でも購入に至るまでの過程を詳細に報告しているが、(参照「限界分譲地の使い道を模索する」「大洋村の別荘を41万円で購入する」)、最初に購入した芝山町の分譲地については、これまで当ブログ上でも、また僕の日常生活を語っているTwitterにおいても、その存在についてあまり詳しく触れることはなかった。と言うのも、この土地は元々僕が、妻と二人で暮らせる程度の小さな家を、ローンを組
新型コロナウイルスの蔓延がもたらした世情の変化によるものなのか、それとも元々そのような流れにあったのかは、僕にはわからないのだが、当ブログの開設当初と比較しても、北総の不動産市場はすっかり様相が変わってしまった。かつては常に物件サイトで見かけた100~300万円台程度の現状販売の物件は、今はほとんどなく、あったとしても1~2日、物によっては数時間程度でサイトから消えてしまう。 不動産というものは、広告が出される以前の段階で、各取扱業者の得意先の手に渡るものもあり、言ってしまえば情報サイトに掲載される物件というのは、ある意味ではその時点で売れ残りなので、今やおそらく相当数の格安戸建が、人知れず投資家あるいは賃貸経営を専門とする事業者の手に渡っているはずである。最近ではリフォーム物件再販業者の大手であるカチタスの影響か、地元業者の中にも積極的に古物件を買い取り、リフォームして再販する動きが加速
数日前に、YouTubeの「不動産投資の楽待」チャンネルに出演した際の動画が公開されてから、当ブログは過去に例のないほどのアクセスを頂いていました。当初は僕もその反響を喜び、動画の再生回数やコメント欄を頻繁に確認したのですが、再生回数はともかくそのコメントの内容を見るにつけ、次第に失望の方が大きくなり、動画の影響でアクセスが増えることへの拒絶反応が起きていました。ここしばらく、ブログ記事を非公開としていたのはその理由によるものです。 のちにTwitterのフォロワーさんよりご指摘を頂いてコメント欄を確認したところ、動画の内容とも無関係な、ほとんど人身攻撃としか言いようのないコメントに限っては、楽待側で削除している模様で現在は無くなっているのですが、正直なところ、書かれていたコメントを見る限り、そもそも僕がこのようなブログを続けてきた意図そのものがあまり正確に伝わっていないことが多いように見
(「序」からの続き) では、実際に鬼押出し園側の入り口からサンハイツ白樺の里に進入してみることにした。入口からしばらくの間は、木立の合間に切り開かれた直線路が続く気持ちの良い道だが、やがて頭上に「白樺の里 管理事務所」と書かれたアーチが見えてくる。このアーチの先に広がる別荘地が、白樺の里の中で最も規模が大きい第1期の区画だ。 前回もお伝えしたように、このアーチは磯村建設より管理業務を引き継いだエイワンサービス(以下「エイ社」)が設置したもので、エイ社の破綻から5年が経過した今では若干古びた模様は見られるものの、まだ状態は良好なほうと言える。印刷が不鮮明だが、このエイ社が発行していた別荘地の案内図の写しも、提供された資料の中に含まれていたので、こちらも併せて紹介しておきたい。 別荘地内の道路に関しては、エイ社が道路の維持管理や除雪を行うことを条件に、嬬恋村に譲渡したらしいのだが、エイ社破綻後
僕が横芝光町の旧分譲地の1区画を20万円で取得してから、まもなく2年が経過する。購入当初は足を踏み入れる余地もないほど雑草や雑木に覆われていた単なる荒れ地にすぎなかったが、草を刈ってみたり、砂利を敷いてコンテナを置いてみたり、薪棚を作ってみたりと、自分なりに少しずつ整備を進めてきたつもりではある。だが、普通の人であれば2年もあればセルフビルドで小屋の一つでも建ててしまうであろうところを、僕の場合は持ち前の怠惰さや忍耐力のなさが災いし、特筆すべき進展もないまま徒に時間ばかりが経過してしまった。 仕事柄、作業時間の確保が難しかったのは事実なのだが、そのくせ千葉の限界分譲地だけでは飽き足らず大洋村にまで進出して、身の丈に合わない範囲まで手を広げ過ぎたかと若干反省はしたものの、そんなことを言っていても始まらないので、時間を見つけては少しずつ雑木を切り倒し、有効面積を広げてきた。 その甲斐あって、取
表題の通り、不動産会社は早々に退職することになりました。 見習いながら何とか一つずつ仕事はこなしていたつもりでしたが、それとは関係なく、僕自身のTwitterの記載が問題となったためです。 Twitter自体は、僕は意見表明の場として使っているツールではないため、さしてその内容にこだわりがあるわけでもなく、別に書くなと言われればそれを守れば良いだけの話ですし、それで直ちに退職を迫られたわけではないのですが(そんなに厳しい口調で咎められたものでもないです)、僕自身が本名で活動している都合上、新たに求められたガイドラインはブログの内容にも影響を与えるものでした。 Twitterはともかくブログは、不動産業界に配慮して内容を曲げることなど到底認められるものではありません。今の時点では良くても、今後必ずその内容が問題となる日が来ると思います。会社は営利企業ですからその指示は至極当然であり、となれば
これまで公開した記事の中で、僕は何度か、分譲地の販売当時の新聞広告を紹介しているが、これらの広告はすべて図書館にある新聞の縮刷版を当てずっぽうに探して見つけたものを複写している。紙面広告には報道記事のような索引もなく、1か月ごとに刊行されている分厚い縮刷版の中から有用な広告が見つけられるかは、まさに運任せでしかない不毛な作業だ。 今でこそネット媒体にシェアを奪われ広告費の減少が著しい新聞広告だが、高度成長期やバブル期にかけては、新聞紙面広告の掲載料金はまだ高額で(今でも安くないとは思うが)、資金力の乏しい中小企業ではおいそれと出せるものではなかったはずである。そのため、新聞に掲載されている不動産広告は基本的に都心近くの分譲マンションや、郊外でも主要駅近くに展開された大手デベロッパーの開発団地がほとんどであり、当然のことながら、得体の知れない無名会社が適当に開発したような超郊外の限界分譲地の
人口増と地価高騰、そして都市の肥大化が急速に進んだ70年代以降の日本は、単純に郊外の開発が進んだというだけでなく、そこに住む人々の住まいのあり方も大きく変貌した。幾部屋もの続き間で構成された伝統的な日本家屋は、家族一人一人のプライベートな空間を確保しにくく、それは次第に西洋式の生活習慣の普及や進学率の上昇などとともに敬遠されるようになり、核家族の世帯では一部屋ごとに独立した間取りの家が主流になっていく。家屋に求められる条件は時代とともに変遷しているが、基本的には今日においても、居室が独立した構造の住宅が主流であることは変わらない。今なお日本家屋のイメージが強い農家の住宅も、近年はハウスメーカーによる現代的な建築のものもよく目にする。 1978年6月23日付の朝日新聞に掲載されていた、市原市・光風台団地の分譲広告。「パパ!勉強部屋をありがとう」のキャッチコピーにあるように、進学率の上昇ととも
1970年代に横行した、都市部から遠く離れた無価値の原野や山林を、あたかも未来の開発予定地であるかのごとく装って分譲・販売し、多くの被害者を出した原野商法。人跡未踏の原野に託した資産形成の期待は大きく裏切られ、今や所有地の訪問は言うに及ばず、地図上においてすら所在地の特定もほぼ不可能となり、ただ登記簿上にのみ、今なお購入者名義の所有権が残されている。 当然のことながら、そのような不動産の売却の見込みは全くなく、購入者の多くは、その所有権を自らの苦い経験の残骸として、広く語ることもなく記憶の底に封じ込めてきたのが現状であるが(世代的に既に亡くなられている方も少なくない)、そんな購入者を狙った悪質な業者に土地の転売や買取りを持ち掛けられ、結果的には手数料などの名目でさらに多額の現金を騙し取られてしまう二次被害が続出してきたことはよく知られている。 そんな悪質な原野商法と比較すれば、当ブログで紹
今から23年前の1998年8月7日、秋田地方裁判所において、あるひとつの住民集団訴訟が提起された。原告は、秋田県からは遠く離れた千葉県山武町(現・山武市)の住民24名。被告は、秋田県、秋田銀行、北都銀行、そして、秋田杉の需要拡大を目的に1982年に設立された第三セクター「秋田県木造住宅株式会社(以下「県木住」)」(93年に経営再建を目的に、事業を子会社の「株式会社秋住(以下「秋住」)」に移譲。)の取締役や監査役など元幹部15名に及ぶ非常に大掛かりな住民訴訟であった。 のちに「秋住事件」として長く語り継がれることになるこの住民訴訟は、提訴より遡ること8年、1990年より2年半ほどの間に、県木住が山武町に建築した建売住宅で、悉く地盤沈下や施工不良などの欠陥・不具合が発生し多大な損害を被ったとして、その購入者が共同で秋田県に対し総額7億円の損害賠償請求を行ったものである。 施工会社である県木住は
少し前の報道になるが、2020年9月21日付の『千葉日報』において、不動産ポータルサイト「LIFULL HOME’S」を運営する株式会社LIFULLが、首都圏一都三県の、物件問い合わせ数の増加率を駅ごとに集計したところ、なんと八街(駅)が賃貸物件の上昇率1位という結果が出たことが報じられた。2位は姉ヶ崎(市原市)、3位は大網(大網白里市)で、驚くべきことに上位3位とも千葉県の郊外部、それも都心からかなり遠く離れた地域の駅である。 もちろん、これはあくまで「上昇率」なので、極端な例を言えば、それまで1件しか問い合わせがなかった地域に、2件の問い合わせが来ればそれだけで上昇率は2倍になってしまうのだが(そんな単純な集計方法でもないとも思うが)、八街はそこまで物件の供給自体が希少な地域ではもちろんなく、恒常的に供給が続く地域であることを鑑みれば、実際に問い合わせの数自体は急増したことは疑いはない
前回の記事で僕は、本来は物置用地として取得した分譲地に、結局貸家を借りて住まいを確保したことをお伝えした。既に述べたように、これは当初はまったく想定していなかったことで、したがってこの物置用地は、元々は単なる売値の安さと、周辺の家屋の少なさのみを最優先して購入したものであり、住宅用地として適切であるかどうかは一切考慮していなかった。 しかし、たとえ貸家とは言えそこで暮らしていくとなれば、住環境や、分譲地が抱える問題点に否が応でも向き合っていかなくてはならない。結論から言うと、この分譲地は限界分譲地ならではの深刻な問題点を多く抱えており、これはおそらく北総の限界分譲地全般が共通して抱える普遍的な問題でもあると思うので、同様の指摘は既に他の分譲地の訪問記事でも繰り返してはいるが、今回は改めて、僕が暮らすことになったこの分譲地を例に、問題点を詳述していきたいと思う。 ①放棄される未管理区画 この
1970年代の後半より、バブル崩壊後の90年代初頭にかけて、全国に類例を見ないほどの無秩序な別荘地の乱開発が進められてきた茨城県旧鹿島郡大洋村。それは開発ブームのさなか、次々と村外業者の手に渡った山林が、折からの別荘ブームに乗じて首都圏近郊の別荘地として転用されたもので、最盛期には、10社以上もの開発業者がこの小さな村で我先にと開発競争を繰り広げる事態となった。1986年発行の「大野村・大洋村」のゼンリンの地図には、販売済み、あるいは開発中の別荘地のうち、開発業者名の判明しているものについてはその名称が記されているが、そこには「メイキング」「ユートピア」「オーシャンロッジ」「サニーランド」「大正恒産」「ジャパンランド」「サンリビング」「オレンジホーム」…などなど、幾社もの開発業者名を確認することが出来る。 だが、現在の大洋村において、当時の社名のまま今も開発事業を続ける業者はひとつもない。
当ブログにおいて紹介している、千葉県の限界分譲地の多くは1970年代の開発・分譲である。実際に造成工事が開始されたり、また宅地として一般の住宅取得者に利用されるまでには分譲地によって違いがあるが、事業の計画自体は、多くが開発ブームに沸いた1970年代初頭~中盤に集中している。 当時の不動産・建築業界は、開発においても、また販売手法においても今日とは比較にならないほど法規制が緩く、行政側も積極的に開発行為を推進していた面もあって、日本全国で住宅地や別荘地の野放図な開発ラッシュが沸き起こったわけであるが、周知の通りその中には誠意に欠ける販売業者も少なくなく、今日でもなお当初の購入者を狙い撃ちにした二次被害が取り沙汰される「原野商法」が問題となったのもこの時期だ。僕も当ブログの開設当初に、知人の方が購入してしまった千葉県八日市場市(現・匝瑳市)の原野商法による分譲地の模様をレポートしている。(参
成田空港の経済圏である北総台地上の限界分譲地と比較すると、九十九里平野にある分譲地は空地の比率が高い。九十九里平野に造成された分譲地は、名目としてはあくまで別荘地として販売されたものが、地価狂乱の時代に、定住用の一般住宅用地として利用されたところが多いのだが、空港業務の関連企業が多い北総台地と異なり九十九里方面は農業・漁業以外の産業に乏しく(一部の地域を除いて観光業はあまり盛んではない)、また交通事情も悪く、都心どころか千葉市付近への通勤も苦労が伴うことから、さすがのバブル期においても家屋の建築は僅かしか進まなかった。 そのため、九十九里平野の分譲地の多くは、大半の区画が今なお更地であり、不在地主の所有地を管理する草刈り業者の一大主戦場となっている。少し歩くだけでも、日栄不動産(日栄土木)、大里綜合管理、両総管理、千葉緑化管理、ログ平、ナンソウトレーディングなどの、幾社もの所有者名入りの立
当ブログではこれまで2度、茨城県の旧大洋村(現・鉾田市)に星の数ほど散らばるミニ開発の旧別荘地を訪問し、その模様をお伝えした。既に述べているようにその様相は、昨今取り沙汰されている「空き家問題」の一歩先を行くような極めて厳しい状況で、利用者の減少が続いているのはどこの別荘地も同じであるが、大洋村の置かれている局面は、全国的に見ても非常に特異なものであると思われる。 僕が改めて当ブログで記事にするまでもなく、大洋村の現状はインターネット上や一部メディアでも取り上げられており、その問題に対しての認知度も高いのだが、重要なこととして指摘しなくてはならないのは、多くのミニ開発地の別荘が、利用されることもなく朽ちていき廃屋と化す一方で、現在でも利用可能な現役の別荘住宅は、今もなお地元の不動産市場において、別荘、あるいは永住用の住宅として、価格こそ底値に近いとは言え取引されている、という事実である。す
以前「限界分譲地の使い道を模索する」の記事でお伝えしたように、僕は現在、分譲地の探索を続ける傍らで、横芝光町の海岸近くにある寂れた別荘地を1区画入手し、物置用地として利用すべく整備を進めており、その模様はTwitter上で断片的にお伝えしてきた。 土地整備の模様はあくまで僕個人の話であり、分譲地が抱える課題のケーススタディとして普遍的に共有できる話題ではないので、当ブログにおいては、当初は分譲地を取得したことのみを伝える予定だったのだが、実は前述した記事は、今のところ当ブログで最もアクセス数の多かった記事のひとつであり、二匹目のドジョウが釣れる可能性が期待できるうえ、そして当ブログの読者の方々が必ずしも皆Twitterを利用しているとも限らないので、今回は、その別荘地の区画を取得して以降、今日までの作業の模様を簡単にお伝えしていきたいと思う。 売主の方より郵送されてきた書類を千葉地方法務局
山武杉が立ち並ぶ森林地帯を抜けたあとは、九十九里平野に足を伸ばして被害状況の確認に回ったが、探索日にはすでに、平野部では停電の解消も進み、山間地で時折見られた給水所の施設もなく、一見すると平穏を取り戻しているかに思われた。 もちろん、山間部、平野部問わず、屋根や外壁などに損壊が見られた被災家屋は頻繁に目にしたが、当ブログは元々、居住中の特定の個人宅に焦点を当てて必要以上に言及することは原則として控えているので、そうした個人宅における個別の被害状況については、ここでは詳しく触れない。 そこで九十九里平野から再び山間部に戻り、多古方面の分譲地を訪問することにした。訪問時は、多古方面も広範囲で停電が続いていて、電柱の倒壊などの報告もTwitter上で相次いでおり、倒木によって、隣接する芝山から多古町への車道も寸断されている状況であった。 【多古町十余三 倒木が引き起こした宅地の崩壊】 訪問したの
【おことわり】現在、台風15号による停電の影響で、当ブログ管理者の自宅はスマートフォンのデータ通信、およびWi-Fi環境が事実上寸断されている状況のため、出先にてスマートフォンアプリを利用してブログ更新を行っております。そのため、本文を数篇に分けており、また誤字、誤記載も多々あるかと思いますが随時訂正いたしますのでご了承ください。 【山武市埴谷・杉林に覆われた分譲地におけるリスク】 山武市の旧山武町エリアは山林が多く、今回の大規模停電で、千葉県北部においてもっとも復旧の遅れている地域のひとつである。当記事の執筆時点(9月17日)で、旧町域における中心的な住宅団地である日向台も含め、未だほぼ町域全域にわたって停電が続いている。 下の画像は、9月17日時点で東京電力が発表している山武市の停電状況である。町名に「松尾町」が付かないものは、そのほとんどすべてが旧山武町に位置する町名であり、また旧松
2019年9月9日未明、房総半島南部より上陸した台風15号は、千葉市中央区で風速57mを観測するなど、県内観測史上最大の暴風雨をもたらし、千葉県のみならず、茨城県、神奈川県、そして伊豆諸島まで及ぶ甚大な被害を引き起こした。 その勢力は、地元出身者に「50年ここで暮らしてきたが、これほどの被害は過去に記憶がない」と言わせるほど激甚なもので、特に経年家屋を中心に家屋の損傷も広範囲で発生したのだが、市民生活にもっとも深刻な影響を及ぼしたのは停電で、電柱の損壊や、倒木による断線などで、千葉県内だけでも80万軒以上に及ぶ大規模停電に見舞われた。当記事の執筆時点(9月16日)で、なおも8万戸以上で停電が続いている。 僕の住む芝山町の自宅も、停電、断水に見舞われ、幸い団地専用の水道であったために断水は公営水道より早く当日に解消したが、停電は3日に及び、台風通過後は一転して無風の熱帯夜となり、築年数が古く
当ブログでは、これまで千葉県の郊外に散在する、ほとんど需要のなくなった「限界分譲地」に的を絞って探索してきた。それらの分譲地は、もちろん当初から住宅用地としての利用を想定して開発されたものもあるが、既に繰り返し述べてきたように、多くの場合、一般の住宅取得者ではなく、地価の上昇を見込んだ投資家に向けて分譲されたものであり、その思惑が大きく外れて今日もなお更地のまま多くが取り残されているものである。 つまり開発当初から、実際の宅地利用における利便性はあまり重視されていなかった「住宅地」であるがゆえに「住宅地」としての利用には元々不向きなのである。そんな宅地の活用を、僕は当ブログで度々呼びかけてはいるものの、僕自身、これらの限界分譲地が、それでなくとも人口減が進む今の時代に、郊外型ニュータウンとして再起する可能性があるなどとはこれっぽっちも考えていないし、それはスプロールを加速させるだけで、長い
私事になるが、僕たち夫婦が、東京の江東区から八街に引っ越してきて約2年。貸家の更新時期が近づいてきたところで、僕たちは先日購入した芝山町の土地の近くに改めて別の貸家を借りることになり、今回、これまで暮らしていた八街市朝日の貸家を引き払うことになった。 借りた貸家は、引越しのシーズンにあまり選択の余地もなく決めた物件で、ファミリータイプの戸建物件であったために、子供のいない僕たち夫婦の生活スタイルに適応せずやや使いづらい面は多々あったものの、八街での暮らしそのものは、僕も妻もさしたる不満があったわけでもなく、懸念していた砂嵐も限られた時期のみのものであった。 朝日区(八街は自治会を区単位で表記する)は戦時中には陸軍の飛行場が設置され、戦後も成田に先立って、国際空港の最初の建設候補地として挙げられたほどの平坦な地勢である。激しいスプロールに見舞われているのは八街の他の地域同様だが、徒歩圏内にス
僕がこのブログで紹介している分譲地は、首都圏の一般的な郊外型住宅団地と異なり、都心への通勤を想定して開発されたものではなく、北総に限って言えば、70年代に成田空港の開港を見込んで投機目的で開発されたものがほとんどだ。であるから、そもそも都心への通勤を想定した立地ではないし、バブル期にわずかに移入した居住者も、おそらくこれらの限界分譲地から都心まで通勤していた方は少数派であろう。限界分譲地の主な居住者は、地価狂乱の時代に、地元の不動産市場から取り残されてしまった、県内に勤務先を持つ方々である。
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